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    弁護士に対する利用者市民の「警戒感」

     インターネット空間をはじめ社会の中で、弁護士に対する警戒を呼び掛ける言説を、もはや当たり前のように目や耳にします。ネットが存在していなかった時代とは、もちろん単純比較できませんし、昔から、そうしたものは存在していたという意見もありそうですが、印象としては以前より社会に浸透している感もあります。少なくとも逆にインターネットの普及で以前よりも拡散しているということはいえそうですし、また司法改革によって新たな要素も加わっているようにもとれるのです。

     すこし以前のことになりますが、利用者市民の弁護士への警戒感を強めることになった、ある大手コンサルティング会社の法律事務所向け広告がありました。

     「離婚分野を伸ばしたい弁護士必見!! 離婚案件を増やす方法 離婚弁護士4人で130件超を実現した手法大公開!」

     趣旨としては、早期介入のメリットをいうものでしたが、ネット上での一般の反応は、概ね批判的な、弁護士に対し警戒すべき、という目線を送るものでした。

     「弁護士の倫理観はバグっている」
     「弁護士が増えすぎて、仕事がないから増やすために」
     「これって反社会的ですよね」

     中には、弁護士は話し合いによる関係修復を目指すよりも離婚調停に持ち込む方が多額の報酬を獲得できる、などといった見方を提示するものもありました。あたかも弁護士が誘導や焚きつけによって、紛争の解決よりも、自らの利益を優先させかねないといった警戒感を訴えるものといえます。

     弁護士側の反応としては、この表現そのものの不適切さをいうものが目立ちましたが、一方で士業努力ということに重ね合わせ、どこまで批判されなければならないのかといったあたりで、複雑な反応を示す見方もありました。

     ただ問題は、一般の利用者市民側の目線として、こうした警戒感の「健全さ」をどう評価すべきなのか、という点にあります。「健全さ」などと書くと、弁護士の中からは、利用者との関係性において、こんな警戒感が存在することが健全なわけがないではないか、といったお叱りも受けそうです。

     しかし、それを承知のうえで、あえて「健全さ」という言葉を使っているのは、利用者市民側の自己防衛の姿勢をどうとらえるかということであり、さらにいえば、司法改革によって生み出された環境は、自己責任として、より彼らにこういう姿勢を求めたようにもとれるからです。

     ここでは二つの要素に触れたいと思います。一つは、こうした「改革」後に必然的に際立ち始めた、ビジネス的発想や士業努力と、市民の「警戒感」にみる弁護士の倫理について、どう考えるのか。別の言い方をすれば、市民の中の「不安」の正当性と不当性を、どうとらえるべきなのか、ということについてです。

     つまりは、弁護士として、生存のために必要な、正当なビジネス化へ利用者市民の理解を深めるという方向と、その過程で利用者の前記のような懸念、いわば、現実に「バグっている」弁護士の存在への警戒を強めるべきとする方向が、今のところ、区別なく混在しているととれることです。

     もう一つの要素は、この状況そのものが、利用者市民による弁護士の選択、選別が、容易ではないということを示しているという点についてです。司法改革が弁護士に突き付けた競争・淘汰と、その先に描き込まれた弁護士の良質化や低廉化への期待。しかし、前記警戒の中で示されているように、情報の非対称性をはらんだ弁護士主導の、時に誘導・焚きつけの可能性があるなかで、前記「改革」の期待が前提にしているような「健全な」選択が、実は利用者には困難であるということです(「『情報の非対称性』への向き合い方という問題」)。

     少なくとも、必ずいわれるような弁護士側の自己申告といえる情報公開などが、その「健全」な選択の実現性を担保するというなどという見方は、およそ現実離れしているというべきなのです。

     あえて「改革」の発想に立てば、こうした懸念が的中した形で、利用者側が被害を受けるのは、競争・淘汰によって、問題弁護士が消え、良質が残るということであれば、その過程において折り込み済みであり、「自己責任」として片付けられるだけ、ということです。だとすれば、当然に社会はこうした利用者市民の「警戒感」は「健全」なものとしなければならなくなります。

     こうしてみれば、少なくともこの点で、「改革」が生み出している弁護士との関係性は、利用者市民にとって、以前より有り難いものになっているとは、言えない気持ちになってくるのです。


     弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

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    弁護士会的「市民」像

     弁護士会が描く「市民」像というテーマが、これまでも弁護士会会員の間で、取り沙汰されてきました。そして、この文脈で取り上げられる多くの場合、それは、批判的な意味を持っています。要は、そこには現実の、いわば等身大の市民との間に乖離がある、というニュアンスです。

     どういうことかといえば、弁護士会が掲げる政策方針や提案の基本に、自らのそれに都合がいい「市民」像が設定され、あたかもその要求に忖度するような形にしているが、現実の市民とは乖離しているため、いわば当然にズレ、誤算が生じているのではないか、逆にズレ、誤算の根本的原因が、まさにそこにあるのではないか、という指摘になります。

     その中身は、あえて大きく分類すれば、二つに分けられます。一つは市民の意識や志向を弁護士会側に都合良く、「高く」(高い、低いで表現するのは若干語弊がありますが)、彼らにとっての理想的なものとして、描く傾向。市民は自立的で、常に行動は主体的であって、弁護士会が掲げる問題提起や司法の現実に対し、強い関心を抱き得る存在である、と。死刑廃止や人権侵害問題、法曹一元などにも、必ずや目を向け、賛同し得る「市民」ということになります。

     もう一つは、前記と被る部分もありますが、必ずや弁護士・会を必要とする存在、もしくは弁護士会の活動に必ずやエールを送ってくれる存在として、「市民」をとらえる傾向。市民のなかに(条件を満たせば)、基本的に弁護士・会を必要とする欲求が存在し、場合によっては、おカネを投入する用意も、意識も十分に存在しているととらえたり、弁護士自治もその存在意義を理解して、必ずや賛同してくれる存在とみているようにとれます(「『市民の理解』がはらむ問題」)。

     「し得る」とか「必ずや」とか「条件を満たせば」といった、可能性に期待するような言葉を敢えて挟んでいるのは、弁護士会のスタンスの特徴として、もし、現実的な乖離がそこに現在、存在しているとしても、それそのものを「課題」として、「なんとかしなければならないもの」、あるいは弁護士側の「努力次第で現実化するもの」ととらえがちである、ということがまた、弁護士会的なスタンスととれるからです。

     結局は、「市民のため」「市民の理解」ということを掲げながら、等身大の市民ではなく、あくまで彼らにとっての、在るべき論が介在しているような「理想像」から、逆算されているようにみえてしまう、ということになります。

     実は、「平成の司法改革」そのものにも、そういうニュアンスが読みとれます。司法制度改革審議会意見書の中で、「国民」が次のように描かれている箇所があります。

     「国民は、司法の運営に主体的・有意的に参加し、プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていくことが求められる。21世紀のこの国の発展を支える基盤は、究極において、統治主体・権利主体である我々国民一人ひとりの創造的な活力と自由な個性の展開、そして他者への共感に深く根ざした責任感をおいて他にないのであり、そのことは司法との関係でも妥当することを銘記すべきであろう」

     「司法の運営に主体的・有意的に参加」したり、「プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていく」国民は、もちろん現実の国民の意志から逆算されたものではなく、あくまで「改革」者側の、在るべき論に基づく願望といってもいいものです。「統治主体・権利主体である」国民という括りは正しくても、司法の信頼のうえに税金を投入して委託している側が、脱却すべき「統治客体意識」の持ち主とされることには、納得いかない国民がいてもおかしくありません。

     「改革」が理想を前提に語って何が悪いという人もいるかもしれません。仮に理想としてそれを提示されても、等身大の国民から捉えなければ、その理想を現実化するには本当は何が必要なのかも見誤ります。まさに、弁護士の需要と弁護士激増政策にしても、裁判員制度にしても「改革」の失敗の根っこには、そのことが横たわっているというべきです。

     弁護士会の掲げる「市民」像と現実の市民との隔たりにしても、そのしわ寄せは、結局、等身大の市民と向き合う個々の弁護士が被ることになります。そして、「市民のため」の「改革」と言いながら、それは、弁護士会が理想とした「市民」ではない市民にとっては有り難みを実感できない、よそよそしいものになることを、弁護士会や「改革」の主導者は、もっと理解しておくべきだったと言わなければなりません。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    「公益性」から遠ざかる弁護士たち

     いわゆる「平成の司法改革」の結果に関して、この旗を振った人を含む弁護士会主導層が、おそらく今後も認めない、認められないととれることが、一つあります。それは、この「改革」によって、結果として、弁護士は「公益性」から後退している、ということです。別の言い方をすれば、「改革」は結果として、それ以前よりも、弁護士を「公益性」から遠ざけるものになったのではないか、ということになります。

     これまでも書いてきたことですが、この「改革」にあって、弁護士会主導者は、事業者性の一定の制約のうえに公益性を追求する弁護士が、市民や社会の求める姿であるという見方に立ち、それが弁護士を激増させるこの「改革」の結果としても、実現可能であると見立てました。

     これは司法が膨大な機能不全に陥っているとみた、いわゆる「二割司法」論とともに、結果として増員政策の根拠・必要論につなげられて理解されることになったと同時に、いわば弁護士自らがそれを打ち出すことで、自己改革をもって、この「改革」に臨む弁護士の主体性を強くアピールするものになったようにとれました。

     もちろん、今となってみれば、社会がこれをどこまで額面通り受け取ったのかははっきり分かりませんが、もし、これを真正面から受け止めた市民がいたとすれば、この「改革」後には、それ以前よりも、自ら採算性よりも公益性を優先し、追求する弁護士たちが、多数登場する社会を想像していてもおかしくありません(「『改革』運動が描いた弁護士像」 「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     しかし、いまさらいうまでもなく、結果はそうはなっていません。有償・無償の区別なく括られた「需要はある」という「改革」の見立てによって、弁護士が増えても、その数を支えるだけの有償需要は顕在化せず、弁護士は逆にかつてのような経済的余裕を失い、同時にかつてよりも「公益性」を持つ非採算案件にコミットする余裕もまた失った。

     むしろ、「改革」は一方で、弁護士の自由競争と、その先の淘汰を良質化や低廉化をイメージさせながら強調するものであったことから、およそ前記弁護士会主導層が「改革」に臨む覚悟のようにアピールしたものとは真逆の、弁護士がより一サービス業(あるいはビジネス)の自覚として、当然に生き残りのために公益性よりも採算性に強い関心を持たざるを得ない方に導いたといえます。いまや勝手よりも、多くの弁護士たちが、胸を張って、異口同音にこういうのを耳にします。

     「私たちは当然に採算性追求を優先させます。正当な対価を払って貰える顧客を当然に相手にしますし、弁護士会もそれをきちっと利用者市民に伝えるべきです。私たちは歴とした事業者なのだから」と。

     こういう話をすると、必ず非採算部門の受け皿として期待された法テラスの存在を挙げる人がいます。ただ、社会も多くの弁護士も、前記「改革」が描いた弁護士と公益性の関係の結実がこの組織である、と評価してかは疑わしいし、さらにいえば、むしろ前記した「改革」が突き付けた経済的環境によって弁護士の中に生まれた、強固なった自覚によって、法テラスから距離をおく弁護士が生まれ始めているのが現実です。

     この問題は、実は、弁護士と「公益性」をめぐる、最も根本的な点から延々と目が背けられてきた結果ともいえます。つまり、弁護士が「公共性」を担う役割を与えられながら、税金によって経営や生活が保障される環境にはない職業であるということです。

     逆にこの極めて明確な構造が、ほとんど注目されず、弁護士会自らも、そんなことはなんの関係もないことのように振る舞い、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士法にある使命にひたすら忠実であろうとする姿勢だけをとり、個々の弁護士がそれでも今日のようにはならずに、前記矛盾を気にしなくても、それなりに取り組めてこられたのは、ひとえに前記「改革」が破壊してしまった弁護士の経済的余裕があったから、ということになるのです。

     奇妙な気持ちになることを付け加えると、前記事業者性の犠牲の上に、より公益性を追求することを目指したはずの「改革」が、その後、どのくらいその目的を達成したのか、とか、それこそ「二割司法」は現在「何割司法」にまで回復したのか(もっとも「二割」はいまや単なる感覚的数値だった、というのが定説になりつつありますが)といった、あれほど強くアピールしたことの結果が、弁護士会主導層から全く語られないし、具体的に検証したという話も聞かれないことです。

     弁護士と「公益性」の現実を考える時、結果として、想定に反して、かつてよりも採算性に拘らざるを得ない弁護士を大量に生み出してしまった、彼らにとっての「改革」の不都合な真実が、そこにあるように思えてなりません。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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