「採算度外視」の無理と価値
かつて弁護士の仕事に対する、「手弁当で」とか「採算度外視で」でといった言葉は、それに助けられた市民の感謝の弁や、その功績をたたえる同業者の話のなかで、聞かれるものと相場は決まっていました。経済的な犠牲を覚悟の上で、いわば人権や正義のために、筋を通した弁護士の姿と結びつくものです。
だから、これはほとんどの場合、他者の評価によるもので、弁護士自身がこれを自分の活動について口にすることは、自賛の響きを持つので、なかったわけではないけれど少なかったように思います。ところが、それらの言葉が今、弁護士自身の口から自らの活動について聞かれるようになっています。ただし、「できない」という文脈のなかで。つまりは、弁護士に対して、「手弁当で」とか、「採算度外視で」などということは、くれぐれもできると思わないでほしい、求めてくれるな、という意味でです。
以前、ある弁護士の会合に出席した「改革」推進派の大新聞の元論説委員が、かつて人権活動などで、そうした言葉があてはめられる弁護士を沢山取材したのを明らかにして、彼らに敬意を表したのに対し、すかさず「あなた方の推進しようとしている『改革』はまさに、そうした弁護士たちを成り立たせていた環境を壊そうとしているのではないか」と突っ込まれ、言葉に窮する場面がありました。「それはそうなのですが・・・・」。
この元論説委員は、すべて分かっていると、感じました。この「改革」によって、何が失われるのか、さらに「失われない」形でなんとかなる描き方の無理、さらにいえば、弁護士の増員や競争や淘汰が、もたらす結果が、まるで良いことづくめで、そのツケがこの市民社会に回って来ないかのようにいうことの嘘についてです。
最低限度の経済的「余裕」と、弁護士自身の「心意気」につながっていたような問題意識、あるいは自覚が、こうした言葉が当てはめられる活動を成立させていたことを、この世界を見てきた人ならば分かっているはずです。だが、なぜか今、それは、「余裕」はあるはずという前提のもとに、あたかも意識の欠落だけを言うような、「できない」とすることを問題視する意見に弁護士はさらされています。「採算度外視」が「できない」ことを弁護士が口にすることは、「余裕」を失いたくないために、本来、市民のためになる「改革」に反対する弁護士のエゴである、というような。
結果、弁護士としては、他のサービス業と同じというのならば、採算度外視などあり得ない、それができるようなイメージは勘弁してほしい、という主張になるのは当然といえば当然です。坂野真一弁護士が、法曹養成制度改革顧問会議での出席顧問の発言を連続して取り上げている、最近のブログエントリーのなかで、こう書いています。
「法テラス案件の弁護士報酬は、基本的に経営者弁護士にとっては、赤字です。そうなれば、法テラスを利用してどんどん解決しようというインセンティブを弁護士に求めるのは難しいことになります」
「このようなことを述べるとすぐに、『ふざけるな、弁護士は法テラスに協力しろ、金のことを考えずに人を救え、仕事しろ。まだ弁護士過疎地もあるだろう』とマスコミはいいたがる傾向にあります。弁護士になれば国が金のなる木をプレゼントしてくれて、弁護士の生活が完全に守られているのであれば、そのようにいわれても仕方ないかもしれません。しかし、弁護士も一民間事業者です。弁護士だって職業です。その仕事で生活をし、家族を養わなければなりません。ですから、採算度外視の活動を弁護士に要求することは、基本的には誤っているのです」
「医師会だって、過疎地への医師派遣は財源を確保してから、と述べています。お医者さんだって生活できないのであれば誰も過疎地に行きません。当たり前のことです。どうしてこの当たり前のことが弁護士に関しては無視され続けているのか、私には不思議でなりません」
これまた、当然の主張です。坂野弁護士が首を傾げているように、弁護士だけに「無理」を押し付けているおかしさ、どれだけ弁護士にその「無理」がまかりとおる経済的可能性と「心得違い」のイメージが被せられているのか、という気にもなります。保険制度で支えられている医師との違いを含めて、坂野弁護士が言っている道理は、決して国民に伝わりにくいことだとも思えません。
ただ、そのこともさることながら、やはり気になるのは「失われる」もののことです。結局、「採算度外視」ができる環境はなくなり、弁護士も「採算」で割り切らざるを得なくなり、一方で、弁護士の生活を安定させたり、保障することで、「採算性」がとれないニーズに応える弁護士をこの国に残す議論に進む気配は一向にありません。それでも「改革」の今の方向は、それにも増した利を市民社会にもたらすのかといえば、それもまた見えているわけではない(「『経済的自立論』の本当の意味」)。
「やってくる」ことを期待させる話ばかりが聞こえてきますが、決定的に「失われる」こと、そしてもう戻ってこないかもしれないことの方が、果たしてフェアに社会に伝えられているのかが、気になります。
ただいま、「今、必要とされる弁護士」「弁護士の競争による『淘汰』」についてもご意見募集中!
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

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だから、これはほとんどの場合、他者の評価によるもので、弁護士自身がこれを自分の活動について口にすることは、自賛の響きを持つので、なかったわけではないけれど少なかったように思います。ところが、それらの言葉が今、弁護士自身の口から自らの活動について聞かれるようになっています。ただし、「できない」という文脈のなかで。つまりは、弁護士に対して、「手弁当で」とか、「採算度外視で」などということは、くれぐれもできると思わないでほしい、求めてくれるな、という意味でです。
以前、ある弁護士の会合に出席した「改革」推進派の大新聞の元論説委員が、かつて人権活動などで、そうした言葉があてはめられる弁護士を沢山取材したのを明らかにして、彼らに敬意を表したのに対し、すかさず「あなた方の推進しようとしている『改革』はまさに、そうした弁護士たちを成り立たせていた環境を壊そうとしているのではないか」と突っ込まれ、言葉に窮する場面がありました。「それはそうなのですが・・・・」。
この元論説委員は、すべて分かっていると、感じました。この「改革」によって、何が失われるのか、さらに「失われない」形でなんとかなる描き方の無理、さらにいえば、弁護士の増員や競争や淘汰が、もたらす結果が、まるで良いことづくめで、そのツケがこの市民社会に回って来ないかのようにいうことの嘘についてです。
最低限度の経済的「余裕」と、弁護士自身の「心意気」につながっていたような問題意識、あるいは自覚が、こうした言葉が当てはめられる活動を成立させていたことを、この世界を見てきた人ならば分かっているはずです。だが、なぜか今、それは、「余裕」はあるはずという前提のもとに、あたかも意識の欠落だけを言うような、「できない」とすることを問題視する意見に弁護士はさらされています。「採算度外視」が「できない」ことを弁護士が口にすることは、「余裕」を失いたくないために、本来、市民のためになる「改革」に反対する弁護士のエゴである、というような。
結果、弁護士としては、他のサービス業と同じというのならば、採算度外視などあり得ない、それができるようなイメージは勘弁してほしい、という主張になるのは当然といえば当然です。坂野真一弁護士が、法曹養成制度改革顧問会議での出席顧問の発言を連続して取り上げている、最近のブログエントリーのなかで、こう書いています。
「法テラス案件の弁護士報酬は、基本的に経営者弁護士にとっては、赤字です。そうなれば、法テラスを利用してどんどん解決しようというインセンティブを弁護士に求めるのは難しいことになります」
「このようなことを述べるとすぐに、『ふざけるな、弁護士は法テラスに協力しろ、金のことを考えずに人を救え、仕事しろ。まだ弁護士過疎地もあるだろう』とマスコミはいいたがる傾向にあります。弁護士になれば国が金のなる木をプレゼントしてくれて、弁護士の生活が完全に守られているのであれば、そのようにいわれても仕方ないかもしれません。しかし、弁護士も一民間事業者です。弁護士だって職業です。その仕事で生活をし、家族を養わなければなりません。ですから、採算度外視の活動を弁護士に要求することは、基本的には誤っているのです」
「医師会だって、過疎地への医師派遣は財源を確保してから、と述べています。お医者さんだって生活できないのであれば誰も過疎地に行きません。当たり前のことです。どうしてこの当たり前のことが弁護士に関しては無視され続けているのか、私には不思議でなりません」
これまた、当然の主張です。坂野弁護士が首を傾げているように、弁護士だけに「無理」を押し付けているおかしさ、どれだけ弁護士にその「無理」がまかりとおる経済的可能性と「心得違い」のイメージが被せられているのか、という気にもなります。保険制度で支えられている医師との違いを含めて、坂野弁護士が言っている道理は、決して国民に伝わりにくいことだとも思えません。
ただ、そのこともさることながら、やはり気になるのは「失われる」もののことです。結局、「採算度外視」ができる環境はなくなり、弁護士も「採算」で割り切らざるを得なくなり、一方で、弁護士の生活を安定させたり、保障することで、「採算性」がとれないニーズに応える弁護士をこの国に残す議論に進む気配は一向にありません。それでも「改革」の今の方向は、それにも増した利を市民社会にもたらすのかといえば、それもまた見えているわけではない(「『経済的自立論』の本当の意味」)。
「やってくる」ことを期待させる話ばかりが聞こえてきますが、決定的に「失われる」こと、そしてもう戻ってこないかもしれないことの方が、果たしてフェアに社会に伝えられているのかが、気になります。
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