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    弁護士の「負の多様性」と責任転嫁

     司法改革がもたらした弁護士の「多様性」について、皮肉めいた言い方を今でも異口同音に聞くことがあります。実は、利用者市民にとって、有り難くない「多様性」が実現したのではないか、と。

     あえて説明するまでもないかもしれませんが、弁護士が増員されたことで市民のニーズにこたえ得る様々な弁護士が誕生している、という人はいるが、一方で質や能力のレベルについても、多様な弁護士が生まれてしまったのではないか、と。さらにいえば、弁護士の中にかつてないような経済的な格差に生まれ、そのバラツキという意味でも「多様」という言葉を使う人がいます(「弁護士の多様性を支えるもの」)。

     ただ、「改革」を推進した側が、このいわば「負の多様性」について、どう評価しているかは、今もって明確になっているといえません。前記いわば「正の多様性」のメリットばかりが強調され、「負」については、あたかも利用者市民に影響がないことのようにスルーしている観もあります。

     「想定外」であったという部分を認める人は、もちろんいます。「改革」が弁護士にとってここまでの経済的な打撃になることも、質・能力レベルという意味では、当初の司法試験合格者年間3000人方針を断念しなければならないほど、新法曹養成制度が実績を示し切れないことも、「改革」当初に予定していたことではありません。

     ただ、「想定外」とは言い切れないものもあったといわなければなりません。つまり、端的に言えば、この「負の多様性」の部分について、「改革」はそもそも利用者に責任を転嫁する立場だったともいえるからです。弁護士が増えて、その放出された人材が、競争と淘汰によって質が確保されるというのであれば、適正な選択が利用者によって実施されることが前提となり、当然、その選択の責任は利用者自身が負う、ということになるからです。

     「改革」が弁護士の自由競争を前提とした以上、その自己責任は利用者が受け止めなければならない、とか、受け止めるしかない、ということが今でも時々言われます。だとすれば、「負の多様性」は望ましいことではなくても、少なくともその実害に関しては、利用者の努力で回避できる(回避すべき)ことなので、「正の多様性」こそ、より「改革」の価値として評価すべきということにもなります。

     しかし、こうした捉え方には、二つの意味で大きな違和感を覚えざるを得ません。一つは、この「改革」に当たって、そのことに利用者が自覚的であったのか、さらにいうとそのことに「改革」がこだわっていたようにみえないこと。そして、もう一つは、この弁護士の適正な選択にかかる責任の、利用者への転嫁は、現実的に彼らにとって酷なものであること、です。

     これまでも書いてきたことですが、弁護士と利用者市民の関係性には、情報の非対称性という問題が立ちはだかります。いわばそれを乗り越えなければ、その先の競争も淘汰も、適正には招来しない。少なくとも利用者市民にとって有り難いとごろか、実害を伴いかねないものとなります。

     その解消のために、つとに言われてきたのが、「情報公開」です。市民が正しく選択される材料が与えられればよいのだと。さらには、それがあたかも利用者側の経験や意識、あるいは慣れのようなもので、なんとかなるのであって、そこまでは、利用者市民が、それこそ自己責任としてやるべき、という話がくっついています。

     しかし、実際はそれこそホームページ上で公開されるプロフィールや実績的な情報、会った時の印象などをもってして、弁護士主導で進められる専門的な説明や手続きの適正さの比較と選別が、利用者市民に成し得るなどとは、当の弁護士をして心から思っている人はほとんどいないはずです。

     また、ほとんどといっていい依頼者市民と弁護士との一回性の関係にあって、弁護士の選別の経験や慣れが活かされるという場面は、少なくとも一般市民については極めて限定的というべきです。しかも、前記情報公開といっても、第三者的な評価機関によるものでは一切なく、あくまでこれまた弁護士主導の自己申告といっていいものです。何をどこまで頼りにしていいかも分からない代物と言えます。

     こういう関係性であればこそ、利用者市民にとって一番有り難いのは、限りなく信用できる資格による質や能力保証の担保です。逆にいえば、選択の困難性が高いからこそ、資格による質の担保に意味があるといえます。おそらく司法試験や修習という、厳格な選抜過程を経ているということで、資格に対して一定の質を社会が期待し、信頼してきたのは当然、と考えれば、「改革」による「負の多様性」と自己責任が回って来るのは、相当に利用者市民の認識とはずれていても当然というべきです。

     「改革」推進論者は、あくまで「負の多様性手」が生まれていたとしても、「正の多様性」のメリットが上回っていると、強弁し続けるのかもしれません。しかし、市民も覚悟すべき、自覚すべきと聞える、弁護士選択をめぐる論調には、想定外ともいえる「負の多様性」を生んでしまっている「改革」の、市民にとっての唐突さと責任転嫁の響きをどうしても感じとってしまうのです。


     弁護士の質の低下についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4784

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    弁護士業への期待感と「クギ」

     もはや宿命的というべきかもしれませんが、弁護士の仕事は、依頼者市民からの非常に大きな期待を背負うことなるものです。紛争関係の中で、多くの人は弁護士の登場させることで、大きな局面の打開を期待しますし、さらにその先の自らの利を被せます。

     どのようなサービスでも、商品でも、顧客がそれを得た先の結果に期待するのは当然のことではありますが、弁護士業が背負う期待は、時にその顧客のその後の人生に影響する利にかかわるものにもなるだけに、極めて重大であることは間違いありません。

     ただ、多くの依頼者市民は、法律や裁判の専門家でもなければ、弁護の仕事に熟知しているわけではありません。そのために、その期待感とは、ともすれば現実を脇において、強い武器を手にしたという気持ちからの、過剰な有効性への確信につながりやすい傾向にあります。

     その意味で、弁護士は依頼者市民の過剰な期待に対して、クギを刺すことが重要な仕事といえます。「対裁判官と対依頼者で説得するのが仕事」と括った弁護士がいましたが、そのような自覚は、弁護士としては本来、特別なひととはいえません。

     しかし、ここは依頼者市民にとっては、弁護士を選択するうえでも、弁護士との関係性を考えるうえでも、非常に注意が必要な点と言えます。情報の非対称性がある関係にあって、その主導権が彼ら側にあるからです。どこまで誠実に、こちらに伝わる形で、その弁護士は依頼者市民に、クギを刺しているのか――。

     有り体にいえば、「出来ること」と「出来ないこと」、利をどこまで獲得できない可能性があるのか、を正直に伝えているのか、ということです。ここに一面、非常な危うさがあります。有効な武器を手にした、あるいはしたいと思う依頼者市民からすれば、より有効性に胸を張る弁護士を選びたいと考え、むしろいろいろと注釈や条件やらの注釈を入れてくる弁護士の評価を下げてしまうかもしれない。

     半面、弁護士が少しでも顧客を獲得したいと思えば、虚偽や後々問題化しない範囲で、できるだけ有効感を強調したいと思うかもしれない。つまり、両者の思惑が、危ない形でつながってしまう。そう形に陥るリスクが、おそらく多くの依頼者市民が想像する以上に、弁護士との関係には存在しているということです。

     それは、ある意味、一般の商業活動がつなぐ関係のイメージがあればなおさらだというべきです。広告・宣伝を含め、サービスや商品の提供者は、顧客を獲得するために、できるだけメリットを強調するし、市民側はそれを当然のこととして選択の材料にしています。もちろんサービスや商品に対する注釈は、常に重要ですが、弁護士のそれは内容の重大性と、顧客側が真実性の確認がしにくいという際立った特徴があります。

     弁護士に厳しい広告の規制があるのは、この現実を踏まえているといえますが、そもそも依頼者市民の多くが同規制の存在やその主旨を含め、この現実をよく把握しているわけではなく、前記選択の基準も、普通のサービス業と同一視されがちです。より対価を払った分の、より確定的なリターンを約束してくれる相手が、有効性を期待すべき最良の対象である、であるかのように。

     最近の、いわゆる「国際ロマンス詐欺」案件を扱う弁護士の広告問題は、まさに弁護士の仕事と自由競争あるいは市場原理がはらむ危うさを、改めて浮き彫りにしているようにとれます。依頼者市民に対して、東京弁護士会がこの件で刺した「クギ」が業界内でも話題になっています(「国際ロマンス詐欺案件を取り扱う弁護士業務広告の注意点」 「同注意点2」)

     「注意点2」の中に、弁護士会が業務広告規制によって、防止しようとしている依頼者市民の被害と今回の案件について、次のように述べている下りがあります。

     「弁護士の業務はその性質上、結果を保証するものではありませんし、むしろ結果を保証してはならないものです。従って、成果が無かったからといって、必ずしもその受任が不適切であったことにはなりませんし、その弁護士が不誠実であったことにもなりません」
     「しかし、金銭を獲得することが目的の案件において、依頼者が弁護士に(着手金等で)支払った金額と依頼者が結果的に得る金額を比較すると、前者が後者より大きい、つまり『ペイしない』可能性が極めて大きい案件で、それを説明せずに受任するのは不適切であり不誠実です」
     「そのような『ペイしない』可能性が極めて大きい案件を依頼してしまい、高額の着手金を支払って、成果が無い。これが被害です。国際ロマンス詐欺案件は、まさにそのような案件なのです」

     あるいはこんなトンデモないことが弁護士との関係性で生じることと、こんな当たり前のことに弁護士会が「クギ」を刺さなければならない弁護士の現実に驚く依頼者市民もいるかもしれません。「ペイしない」可能性のものを、依頼してしまうなど考えられないという人もいるかもしれませんが、むしろそこまでのことが、弁護士のさじ加減でそれが起こり得るというのが、まさに現実でなのです。

     そして、このことを考えると、もう一つ付け加えたくなることがあります。前記市場原理の先に、弁護士との関係性で起こり得る、市民の現実的なリスクは伝えず、「クギ」を刺さないまま、とにかく弁護士を増やして、競争・淘汰をさせれば、低廉化や良質化の利を市民が享受できるかのように伝えた司法改革は、「不適切」でも「不誠実」でもなかったのか、ということです。


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    「情報の非対称性」への向き合い方という問題

     弁護士の増員とその先に競争・淘汰の効果を、この司法改革に期待する側が、もし、本当にそれを一般の利用者市民の目線で考えているのであれば、最大の課題は、弁護士と依頼者市民の間に立ちはだかる情報の非対称性の問題であるはずです。

     言うまでもなく、明らかな専門家・非専門家の関係のなかで、利用者市民が的確・公正にその専門性を評価・選択することには困難が伴い、これを度外視してはそもそも利用者メリットにつながるような、良質化などが生み出される競争・淘汰は起きません。そればかりか、そのリスクは完全に利用者に回って来る。必ずしも依頼者の利になるサービスを提供できる弁護士が選択されるわけでもなければ、仮にそれに反する対応をされたとしても、依頼者はそれに気付くことすらなく、不利益を被ってしまうかもしれません。

     これまで見てきた「改革」推進論者が、この問題に言及する場合、多くはその克服策として、まず、弁護士側の情報開示効果を挙げるか、資格認定のような、第三者的な評価制度の必要性を挙げるかで、そうでなければ言及しない、つまりか克服すべき対象としてことさらに取り上げない、のいずれかであったように見えました。

     だが、皮肉めいた言い方をすれば、そのいずれもこの問題を、ある意味、軽視している点では同じといってもいいかもしれないという気がしてしまうのです。なぜならば、弁護士側の情報開示といっても、利用者市民間での個別具体的な法的対応の評価に至るまでの材料となる情報開示とはいかなるもので、いかなる手段でできるのか、その答えにたどりつくことが、およそ容易でないことは、この仕事を理解している人ならば、当然分かっているはずだからです。

     今のようにネット空間で、弁護士が自らの略歴や仕事への信条・スタイルをかつてより格段にオープンにすることになっても、せいぜいそうしたことが利用者に開示されたところで、弁護士選びの参考情報の一つくらいの役割しか果たし切れず、この問題を根本的に解消し得ているわけではないことを見ても、逆に前記難しさは実証されているというべきです。

     評価制度にしても同様で、それが前記情報の非対称性を根本的に緩和・解消する存在として、現実的に誰がどのようにすればいいのか、の答えには、たどりついていないし、それもまた困難であることも多くの関係者のなかでは周知の事実とってもいいと思います。

     何がここで言いたいかと言えば、要するに結局、この問題の所在を認識しながら、その頭越しに、弁護士の増員とその競争と淘汰によって、キレイに現実化するわけでもない良質化や低廉化のメリットを強調して進められたのが、この「改革」の現実ではなかったか、ということなのです(「弁護士競争『選抜』実現への『改革』の不透明感」)。

     もちろん、それが何を意味するかは明確で、自己責任という利用者市民への丸投げです。嫌な見方をすれば、この状況を弁護士は、そのペースで悪用できてしまう。この世界への縁も知識もない、多くの一般の利用者市民に、あとできることといえば、「弁護士に限ってそんなことはしないはず」と信じることしかありません。非常に酷な自己責任論を、利用者市民に被せるものというべきです。

     一方、弁護士側にも言い分があるようにとれます。この情報の非対称性を理解している弁護士は、その「高度な倫理感」への自覚によって、それをなんとか克服しようとするかもしれません。ただ、「改革」は、無理な増員政策によって、これまでの弁護士の経済環境を一変させたうえで、生存をかけた競争をしろ、という、これまた彼らへの自己責任による丸投げをしています。つまり、これは利用者によりツケが回って来る危険がある、無理を彼らに迫っているともとれるのです。

     結局、彼らに残されているのは、根本的な効果が極めて充てにならない、情報開示をできるだけ実践するという姿勢を示すくらいしかありません。
     
     では、こういう現実を踏まえて、利用者市民にとって、より有り難い「改革」とは何なのか――。この利用者にとっての決定的なリスクになる、いかんともしがたい情報の非対称性の現実を前提にすれば、本来、一も二もなく、それが資格制度の厳格化による、質の均一化。限りなくそれを目指すしかない、ということに、たどりつくはずです。つまり、どの弁護士に利用者が遭遇しても、最低限の質は確保され、リスク回避が想定出来る状態を作る、いわば資格制度の意義の根本に忠実になること以外ないはずなのです。

     もちろん、完全にこれを作ることもまた、困難である、といわれそうです。しかし、この関係者が分かったうえでの、利用者市民の丸投げ状態よりも、どちらが社会に評価される、「改革」の努力といえるでしょうか。しかも、翻って考えれば、増員政策にしても、取りあえず多数の弁護士を社会に放出しようとした新法曹養成制度にしても、「改革」は、その利用者丸投げのリスクを減らしているのではなく、より増やしているのです(「無責任な法科大学院関係者の『擁護論』」 「刷り込まれる『弁護士大増員』という前提」)。

     前記弁護士の経済環境にしても、高度な倫理の自覚と並べるのであれば、生存が保障されている経済環境が維持されている方が、むしろ利用者には安心ではないでしょうか。少なくとも、経済的に彼らを追い詰めた先に、利用者にとっての、より良質なサービスを期待することよりは。

     しかし、全くこういう方向の話になっていないのが、今の「改革」の現実です。「市民のため」と言いながら、一番市民に有り難くないところが、そのままである「改革」の現実といわなければなりません。


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    「利用しやすい弁護士」の行方

      「利用しやすい司法」を目指したはずの、司法改革の結果として、「弁護士が利用しやすくなった」という話があまり聞こえてきません。確かに弁護士は増え、広告でもネットでも、かつてより格段に弁護士は露出し、市民の目に触れるようにはなった。それだけ彼らが発信する情報にも、市民は接しやすくなったかもしれません。しかし、それが「利用しやすい」という評判に必ずしも繋がっていない。

     身も蓋もないかもしれませんが、結論からいえば、これは当然の結果というべきです。なぜなら、情報の非対称性から利用者による選択がただでも困難な、弁護士という資格業にあって、さらに増員政策によって高まる利用者側のリスクを、前記資格業の情報開示と利用者の自己責任論で、「なんとかなる」ものと、この「改革」が見積もっていたからです。

     論者はこう言っていたのです。弁護士が増え、アクセスが容易になる。そうなれば、利用者の選択がより重要になる。その結果は自己責任で――。情報公開によって、どこまで現実的に利用者が適正な選択が可能になるのか、逆にそれが現実化する情報公開が、弁護士という資格業にあって、具体的にどのようなもので、どこまで利用者の利便性や安全性を担保てきるのか、という話はすべて素っ飛ばした話たったのです。

     有り体にいえば、弁護士に向かっては、その職業上の責任で「なんとかしろ」、その結果については利用者の自己責任で「なんとかしろ」という発想が、はじめからはっきりしていたのが、この「改革」だったのです。そして、この発想を押し通すために、以前も書いたように、当然に弁護士という資格業の特殊性を極力軽視し、他のサービス業同様に前記手段によって、「なんとかなる」はずという見方が、安易に強調されることになったのです(「資格の価値と『改革』の描き方」)。

     利用者にとっての「利用しやすい」は、即ち価格である、という意見もあります。ただ、この面でも「改革」の発想は、少なくとも利用者にとって、利となる結果に結び付いているとはいえません。一つは、増員政策が直ちに低額化競争につながらないからです。そもそも薄利多売化がこんな弁護士という資格業にあって、多くの仕事を安くこなすという形には限界があります(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     しかも、「改革」が想定したような潜在的ニーズの顕在化、つまりは弁護士の数が増えるほど、(あたかもそれを支え切れるほどの)ニーズが生まれるという見通しも完全に外れた以上、当然に数ではなく弁護士はより利益率のいい案件をこなさなければならない。むしろ低価格化とは逆のベクトルに動かさざるを得ない。つまりは、「価格」による「利用しやすい」は、そう簡単には生まれようがなかったのです。

     「無料」とか「低価格」というアピールは、当然に利用者にとっては「利用しやすい」イメージとして伝わります。しかし、弁護士の間では、今、法テラスや行政サービスによって広がった、弁護士業務の「無料」イメージを「迷惑」とする声が広がっています。いうまでもなく、弁護士のサービスは「有料」でなければ成り立たないという現実が伝わりにくくなり、依頼者の「なんとかできるはず」という誤解と、「なんとかしろ」という実現不可能な要求につながっているという見方があるからです。

     しかも、「改革」が基本的に想定しているようにとれる、低額化を生み出すはずの、増員政策による弁護士の競争・淘汰は、前記した通り、依頼者にとって酷ともいえる、適正に実現すると見込んだ「選択」を前提にしていた。つまり、依頼者にとってメリットになる良質化を伴う保証がない、競争・淘汰を前提にしていたのです。

     そもそも淘汰そのものにしても、あたかも経済的に追い詰められた弁護士が、すごすごと退場し、それに耐えた弁護士だけが残るような描き方でした。しかし、実際には彼らは生き残りをかけて、より経済的にシビアになるかもしれないし、生存をかけてあがくかもしれない。その結果、依頼者のカネに手をつけるような不祥事に手を染めるような弁護士も出てくるわけで、現にそうなっている。仮に経済的に残ったとしても、適正な「選択」が担保されていない以上、残った弁護士が、利用者にとって「有り難い」存在とは限らない。(「弁護士の競争と広告が生み出している危険」)。

     そして、いつ果てるかわからない淘汰の過程で、ずっと依頼者は酷な自己責任を課せられ、良質化や低額化を期待することになっている――。これが「改革」が生んだ現実と言わなければなりません。

    今、「改革」の失敗が明らかになった地点で、このことを考えるとき、最も嫌な気持ちにさせるのは、この結果は本当に初めから分からなかったことなのか、もっと言ってしまえば、分かっていて駒を進めた結果が今ではないのか、ということです。あくまで「改革」は「市民のため」に「善意」から進めたものだとか、いまだ最終結果は出ておらず、「過程」である、と強弁される弁護士界内の方からは怒られそうですが、なぜか「責任」ということが取り上げられない、この「改革」の現実も被せたくなります。

     そして、なによりもそこまで立ち返って「改革」の発想を見直さないで、質を危険にさらさず、酷な自己責任のツケが利用者に回らない、本当の意味でメリットになる、「利用しやすい司法」や「利用しやすい弁護士」が、どうしてこれから現実化するのか、そのことに疑問を持ってしまうのです。


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    弁護士ニュービジネスをめぐる限界と理解

     LINE(㈱が、同社運営の「LINE」上で無料で弁護士に法律相談できるサービス(「LINE弁護士相談」)の提供を開始したことが、ネット上で話題になっています。

     弁護士会員を持つ「弁護士ドットコム」と、専門家とのマッチングサービスを提供している「日本法規情報」をパートナーに、全国1000人の弁護士が参加。無料の弁護士相談に加え、有料サービスとしては、25万件超のさまざまな相談事例を閲覧できるプラン(300円/30日)も提供するとしています。さらに2020年春には、弁護士にLINE上で直接やりとりできる別の機能(「1to1機能」〈仮〉)も設置する方針を明らかにしています。

     ここは一般の人の感覚と違うと思いますが、こうしたビジネスが話題になるとき、多くの弁護士の関心は、(あるいは儲かるか否か以前に)まず、そのスキームが弁護士法に違反しないかどうかにいきます。弁護士に対する対価性をはらむ紹介に当たらないか、それによってアウトではないか、といった問題に目が向くのです。

     今回のサービスについては、現在のところ、同社発表以上のことは分かりませんが、顧客から料金を取らないで、弁護士側に成果を保証せず、また成果報酬を発生させない、一律の「広告料」に当たるものだけでつながる、という、基本的な形で問題をクリアするようです。

     また、既に独自に弁護士関連でサービスを提供している「弁護士ドットコム」や「日本法規情報」の協力を得ていることや、「弁護士1000人参加」というのを、適法なサービスの信用につなげたいところなのでしょう。ちなみに「日本法規情報」は過去に、同社運営のサポートサービスが弁護士法第72条、「弁護士の業務広告に関する規程」、「弁護士及び弁護士法人並びに外国特別会員の業務広告に関する指針」に抵触していないとする「見解」を発表しています。

     さて、こうした弁護士絡みのニュービジネスが登場する度に、弁護士側が当然のように繰り出し、こだわりどころとなる弁護士法との関係ですが、結論からいえば、その主張がいまだ不思議なくらい、多くのサービス発案者側には理解されていない、理解されない現実が存在しています。今回のLINEのサービスについては、先行業者を味方につけ、はじめからそうしたことを重々配慮はしている、というスタンスになりますが、弁護士法の内容を知らないだけではなく、知っても、なぜ、そんなルールがあるのかが分からない、という声は少なからず存在するのです。

     実は民間には、弁護士を「活用」するビジネスのアイデア自体は沢山存在しているといえます。以前にも書きましたが、こうしたアイデアへの協力や意見を求められることが沢山ありましたが、そのほとんどが前記対価性などの問題で「難しい」と答えざるを得ないものでしたし、そのうえで、弁護士法の存在を説明しても、納得が得られないケースも多々ありました(「弁護士『紹介業』という領域」 「横浜弁護士会『顧問弁護士紹介制』白紙撤回の現実」)。

     例えば、成果によって弁護士側が報酬を得る形、それこそ業者と弁護士が「公正」に「WINWIN」になる形がなぜ、いけないのか。普通の商行為で通用しているものが、なぜ、弁護士にだけ通用しないのか。弁護士が厳格な資格要件を設けられていることから、弁護士外の人間が法律事件にみだりに介入することによる、当事者のリスクがあるというのは理解できる。しかし、弁護士自身が主体的に顧客とつながる手段を選択をし、あるいは拒否できるという前提に立つならば、いかなる場合でも、業者に対する従属的関係になることを危険視して、一律禁止する形はどう解釈すればいいのか。弁護士自身の「公正さ」が担保されていれば(あるいはそれが信じられるならば)、問題ないのではないか――等々。

     弁護士が関与する形であれば、一定の弁護士紹介業務、事件紹介業を解禁してもよいのではないか、という意見自体は、以前から弁護士会内にもあります(花水木法律事務所のブログ)。「広告料」という形に収める、というのは、確かに対価に比べて、従属性を排除するものかもしれませんが、これをある意味、弁護士法が存在するがゆえの、建て前ととらえている業界関係者も少なからず存在します。有り体にいえば、紹介が業として存在したとしても、それによって少なくとも自分は当事者に不利益を与えるような結論にはならない、しかし弁護士法があるから仕方がない、と思っている弁護士もいる、ということです。

     直ちに解禁の議論をしない弁護士・会がおかしい、ということが言いたいのではありません。趣旨が理解されていないことが、事実上、放置され、「決まりは決まり」という形での理解しかされていないことが問題なのです。そして、そのことは改めて弁護士自身が、どこかで整理して、このテーマを考える必要がある、ということを意味しているように思うのです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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