fc2ブログ

    「質」に対する責任を負うもの

     法曹の質と量の大幅拡充が不可欠とした司法改革。その論議がまだ続いていたころから、司法制度改革審議会意見書によって一定の方向性が示されるまでの間、取材した最高裁関係者からは、異口同音にこんな言葉を聞きました。

     「質は絶対に落とせない」

     当時、この言葉からは二つの意味が感じとれました。一つは、それまでの法曹養成を担ってきた側としての責任、もう一つは、新法曹養成の中核となる法科大学院に対するけん制です。

     質を落とさない、どころか、さらに充実しながら、量を拡大するという「改革」の謳い文句を現実化することが、法曹養成の実績のない大学に果たして可能なのか。あくまで当時の印象で語れば、本音の部分で、懐疑的だった人は、当時の法曹の中にも少なくなかったはずでした。

     「改革」の旗を振る側に回った最高裁も、その例外ではなく、せいぜい「お手並み拝見」くらいの受けとめ方であり、そもそも彼らが新法曹養成を受け入れた、最大の根拠は、年間司法試験合格者3000人の大規模増員政策を現実的に支えることが、司法研修所では困難という事実によるものとみることができました。

     つまり、激増政策ありき、法曹の養成の中核としての法科大学院ありきが既定路線化する「改革」に対し、多分に前記最高裁関係者のセリフは、「量だけでなく、本当に質は確保できるのだろうな」「落とすことは認めない」と言っているに等しい警告ともいえる強い言葉にとれたのです。

     ここで問題にしたいのは、前記の責任ということです。前記最高裁関係者の思いに対し、新制度を支える法科大学院関係者は、量を増やすという「改革」既定路線、さらにいえば、新制度を支えることに直接影響するそのテーマに対して、ある種、「当然内容も」という断り書きのように持ち出す意味以上に、「質」について、どのくらい絶対条件として意識していたのか、あるいは意識してきたのか、ということです。

     衝撃的だったのは、その法科大学院関係者の中から、その質に関して「入り口で絞るんじゃなく、チャンスは与えて、後は自由競争に任せればいい」、要は質に関しては、(仮に法科大学院が責任を負いきれなくても)、「改革」が予定している自由競争、弁護士の競争・淘汰に任せれば問題ないではないか、という本音が、早々に飛び出した時です。新制度が掲げた、修了者の「7、8割」の司法試験合格の触れこみが、さらったハズレたことよりも、ある意味、その言葉は、より衝撃的なものでした。法曹養成機関でありながら、とにかく数を社会に放出し、質は自由競争の効果に、と、その養成を担う側が真剣に思っている、ということだったのですから。(「『資格者』を輩出する側の自覚と責任」)

     法科大学院出身法曹の「質」に関しては、現実にはさまざまな見方があり、「低下」に当たる実例が報告されれば、「そんな人材ばかりではない」「優秀な人材も活躍している」といった反論がすぐさま繰り出されるのが現実です。ただ、旧司法試験を「一発試験」と批判し、新たに「プロセス」の教育として、あえて構築された制度である以上、社会的評価においても、明らかに「質」として旧制度輩出法曹を凌駕するまでの人材を輩出する使命が背負わされている、という自覚があるのかまでは、疑問といわなければなりません(「法科大学院制度の『勝利条件』」 「法科大学院の『メリット』というテーマ」)

     最近も、「岐路に立つロースクール」というタイトルのもと、次のような現実を伝える経済誌の記事がありました。

     「ロースクールの教授や弁護士からは『かつては合格できないレベルの人が受かるようになり、下位合格者の中にはひどい準備書面を提出する人も』という声が聞かれる」(週刊東洋経済9月9日特大号)

     かつて合格率3%の超難関だったのが、45.5%(2022年)ともはや半数近くが合格するものになろうとしている司法試験。「合格しやすくなった」ということを、新制度のメリットのように強調し、法科大学院制度者の側から、あたかも旧制度で合格できなかったところを合格できたことの「有り難味」を、新法曹に説くかのごとき(恩恵を被った者に新制度批判の資格なしを言うものも含め)、前記「質」への自覚へますます疑いの目を向けたくなってきてしまうのです。

     言うまでもないことですが、あくまで一定の「質」を保証する目的が資格制度にあるとすれば、その責任は、当然、養成と選抜する側にあります。しかし、その役割を市場、競争に委ねるというのであれば、競争当事者の弁護士だけでなく、その競争・淘汰を健全に成り立たせる選択当事者の利用者市民にその責任が転嫁されていることにもなります。これは、こと弁護士との関係において、市民にとって決して容易ではない、酷なものであることはこれまでも書いてきたところです(「弁護士の『負の多様性』と責任転嫁」 「『情報の非対称性』への向き合い方という問題」)。

     「改革」路線が取り入れている形になった、市場原理、競争・淘汰の「効果」に、まるで渡りに船のこどく、乗っかり、質の保証の責任を、資格を支える側がどこまでも負おうとしているようにはとれない新法曹養成制度の現実――。結局、健全な競争・淘汰を支えることが、専門性を持たなず、一回性の関係になる弁護士利用者にとって困難である現実を直視すれば、限りなく質を保証する資格制度を目指す「改革」、法曹養成こそ、利用者にとっての最大かつ最低限のニーズに合致していることに、まず気付く必要があるというべきです。


     弁護士の質の低下についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4784

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    スポンサーサイト



    テーマ : 資格試験
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    本来語られるべき「メリット」

     法科大学院に行くメリットとして、第一に「司法試験の受験資格が得られる」ということが、志望者向けのサイトなどで掲げられています。業界外の人の話を聞いてみても、どうももはや当たり前に、それが最大のメリットとして、社会が受け止め出している印象すらあります。

     「法科大学院に進学するメリットの第一にあげられるのは、修了もしくは修了見込みとなれば司法試験の受験資格が確実に得られることです。(中略)予備試験の合格率は約4%になっており、非常な狭き門だといえます。それに対して、法科大学院なら、大学を選ばなければ比較的容易に入学することができます」(MSAgent)

    ある士業転職サービスのサイトでは、こんな風に書かれていました。内容が間違っているとはいえません。しかし、「確実」ということを強調していますが、あくまで司法試験の受験資格取得についてであり、後段に至っては、「大学を選ばなければ比較的容易」というのも、あくまで法科大学院の入学についてですから、修了・修了見込み受験資格が得られるところに、比較的簡単に入れる点が、法科大学院に行く一番のメリットだ、と言っていることになります。

     ちなみに、このサイトでは、これに続くメリットとして、「社会人でも通える」「教員と学生の距離が近い」という点を挙げています。「夜間」があるといっても、どこまで社会人が利用しやすい現実があるのかという疑問、さらにソクラテスメソッドの効果や人脈作りへの可能性につなげたい文脈にもとれますが、現実的には評価は分かれると思います。いずれもメリットとして、正直どこまで強調していい材料なのか、と言いたくなります。

     こうしたメリットの扱いは、志望者に対するミスリードになるのではないか、という声が、業界内にはずっとあります。ただ、それもさることながら、改めてむしろ、法科大学院関係者の方に、本当にこれでよしとするのか、ということを問いたくなってしまうのです。

     以前も書いたことがありますが、「受験資格が取得できる」ということについては、あくまでそういう制度にした、あるいは現状そうなっている、ことによるだけに過ぎません。予備試験を通過するよりも、「大学を選ばなければ比較的容易」に入れる機関で「確実」に受験資格を取得できるメリットとは、合格を視野に入れようとしている志望者にとっては、果たしてメリットといえるのかも疑わしいように思えます(「法科大学院の『メリット』というテーマ」)。

     いうまでもなく、本来は、法科大学院に受験資格付与を独占させているメリットが語られなくてはならず、さらにいえば、法科大学院関係者こそ、そう受けとめるべきではないか、と思えることが、まさに彼らへの問いかけにつながっているのです。

     つまり、本来は、司法試験合格やその先の法曹として在り方に、法科大学院で学ぶことがこれだけプラスになるということこそが、メリットとして語られるべきなのに、それがない。「受験資格取得」とは、その中身がない、外の皮だけの、スカスカのメリット。それがまず第一に掲げられている現実です。

     もっとも前記本来語られるべきメリットは、もはや法科大学院関係者の主張よりも、教育を体験した志望者と、その輩出法曹への社会の評価によるというべきかもしれません。つまり、法科大学院はおカネと時間をかけても行くだけの価値がある、のちのちこのプロセスを経てなければ差がついてしまう、違いが表れるという評価こそが、メリットでなければならないはずなのです。

     前記サイトの記事を見ても、そういうものではないメリットが、さらっと語られている。それ自体、法科大学院の社会的評価の現実と言うべきかもしれませんが、肝心の法科大学院関係者自体、本当に前記のような違い示すことで、勝負する気はもはやあるといえるのでしょうか。

     本来、それで勝負するのであれば、受験要件付与という特権にしがみつかず、それを手放しても、選ばれる機関となる自信があっていいように思えます。制度創設当初の、実績を示しようがない時点ならばともかく、今の段階で「これ手放したらば選ばれなくなる」という弁明は有効と見るべきなのでしょうか(「法科大学院制度の『勝利条件』」)。

     志望者へのミスリードという声について書きましたが、むしろ強調材料にできないような法科大学院へ行くメリットの列挙に、彼らは制度の現実を見抜く、あるいは見抜いていると考えれば、それはもはや懸念材料とはいえないかもしれません。

     むしろ懸念しなければいけないのは、強調できないメリットの上で、本来語るべきメリットを実績としてアピールできない機関を、「中核」に位置付け続けている法曹養成の現実というべきです。


    「予備試験」のあり方をめぐる議論についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/5852

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。https://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 資格試験
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    「人」を強調したはずの「改革」への根本的な疑問

     司法改革の「バイブル」ともいえる扱いとなった、2001年の司法制度改革審議会意見書の冒頭、今回の「改革」の基本理念と方向について述べられた部分の「法曹の役割」に触れた下りは、こんな印象的な一文で始まっています。

     「制度を活かすもの、それは疑いもなく人である」

     ある意味、真理をついているといえるこの言葉ですが、こと今回の司法改革とその結果を知る業界関係者から、この箇所に対し、皮肉めいた疑問の言葉が投げかけられるのを、これまでたびたび耳にしてきました。いうまでもなく、この「改革」が司法制度を支え、活かすはずの人材を、この言葉が意味するように、果たして本当に重視したものだったのか、という率直な疑問が頭をもたげでてしまうからです。

     例えば、その「人」の処遇は、この「改革」で、どこまで前提とされたのかへの疑問。法曹の数を増やす、確保する必要論で突き進んだ「改革」は、それを支える需要論において有償・無償を区別することもなく、結果として増員弁護士を支え切れる潜在需要の顕在化は起きませんでした。一部で言われた、増やせば増やすほどという話が、どんどん実現性の怪しいものになっていたのが現実です。

     また、良質化や低廉化の期待を背負った競争・淘汰の効果にしても、あるいは都市部の弁護士がコップの水が溢れるように地方に流れるかのように見積もられた、司法過疎対策の効果にしても、実際に生存していかなければならない弁護士(人)の立場で、実現可能性を深く考察したのかも怪しいものでした(「『低廉化』期待への裏切りを生んでいるもの」 「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」「弁護士の現実に向き合わない発想と感性」)

     要するに、制度を支える人材を現実的持続的に支えることを可能にするための前提や配慮よりも、ある種の「べき論」が強調されることで、結果的に無理が推し進められた印象になります。しかも、おそらくこの無理を理解できる立場にいたはずの、当時の弁護士会主導層が、さらに犠牲的に公益性のために個々の弁護士の事業者性を犠牲にすることを「べき論」として掲げたのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     さらに言えば処遇の度外視に加え、こと増員政策そのものについても、制度を活かすのが「人」というのであれば、なぜ、その中身が当初の「法曹三者」ではなく、極端に弁護士に偏重した激増政策であったのか、という点でも、いささかご都合主義的な矛盾したものも感じざるを得ません。制度を活かす人材の確保という視点は、フェフなものだったのでしょうか。

     また、処遇の度外視は、新法曹養成においても疑問視されてきました。志望者にとってコストがかかる法科大学院を中核とした新法曹養成制度を登場させた「改革」は、志望者にとって大きな経済的支えになってきた修習生への給費制まで廃止するという、処遇という意味では全く逆の政策をとりました。

     コストを志望者に転嫁する理屈は、受益者負担的な自弁の論理に支えられていましたが、結果、法曹三者を平等に国が養成するという枠組みと、それに対する弁護士の意識を破壊しました。そして、現実的には前記増員政策の失敗で、投下コストの就職後の回収困難が見えたなかで、業界そのものから人材が離れるという結果を生みました。

     これらのどこに、司法制度支える人材への配慮や重要視を読みとることができるのでしょうか。業界内から、まるでこうした現実の「改革」路線への助け船のように出された「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、合格者増員が必要」という、開き直りとも取れる論が出せされましたが、誰が合格という不確定要素を抱えた養成課程へのコストを負って、年収300万円の世界を志すのか、という声も出ました。「改革」の無理と、当事者が抱える現実の度外視という、「改革」の体質を象徴しているようにもとれます(「『年収300万円』論が引きずる疑問」)。

     改めて冒頭の司法審意見書の一文がどういう文脈につなげて登場しているかをみると、そこにあるのは、ひたすら大きく見積もった、将来にわたる法曹の役割増大の強調でした。法曹のあるべき姿・役割をたとえた、あの有名な「社会生活上の医師」という言葉も、ここで登場しています。

     「法的ルールの下で適正・迅速かつ実効的な解決・救済を図ってその役割を果たすことへの期待は飛躍的に増大する」未来に、「法曹が、法の支配の理念を共有しながら、今まで以上に厚い層をなして社会に存在し、相互の信頼と一体感を基礎としつつ、それぞれの固有の役割に対する自覚をもって、国家社会の様々な分野で幅広く活躍することが、強く求められる」のだ、と。

     でも、ここにそれを支える「人」への配慮は、やはり見つけられません。「期待」は本当に「飛躍的に増大」したのかもさることながら、それがどう経済的に「人」を支えられるのか、支えられる形で期待が増大するのかは、あくまで未知数。そして「厚い層をなして社会に存在し」「様々な分野で幅広く活躍する」ことを支えるものとして、「相互の信頼と一体感」や「固有の役割に対する自覚」だけが挙げられています。

     冒頭の言葉への根本的な疑問へとつながる、意識だけではどうにもならなかった「改革」の現実を、まさにここに見る思いがします。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    利用された「儲けている」イメージ

     今にして素朴にとらえると、法曹養成に関連する司法改革が実現する(できる)という発想には、大前提として弁護士は「儲けている」という捉え方が張り付いていたといえます。それは、時に「不当に」「過剰に」というニュアンスを込めて推進する側から社会に訴えられ、政策の正当性への賛同を求めた観もありました。

     司法試験合格者3000人にしても、志望者に新たな負担を課す法科大学院制度というプロセスの導入しても、司法修習生への「給費制」を廃止しても成立する、もしくはこれに対する疑義や懸念をむしろ不当として排除しようとする理屈の中で、それは確かに存在していました。

     弁護士を急激に激増させてもなんとかなる、しまいには弁護士の現実を分かっているはずの弁護士会主導層の人間までが「大丈夫」と太鼓判を押してしまった背景には、これまでも書いてきたように有償性・無償性を区別しない需要論の決定的な誤りがありました。しかし、ここの詳密な検証を省かせた発想には、弁護士の経済的能力への幻想と過信があったようにとれるのです。

     弁護士の経済的能力が担保されていればこそ、養成プロセスでの志望者の先行投資が成立するイメージが当然強まります。そして、さらにある意味、罪深いと思えるのは、「自弁」という理屈の正当化を、これが後押ししたことです。

     修習終了生の圧倒的多数がなるのは、裁判官や検察官ではなく、自ら「儲ける」民間事業者である弁護士であり、彼らについての修習については、前者と異なる、単なる「職業訓練」同様の、受益者負担としての「自弁」が正当化されるという理屈。そして、ここには、たとえこの理屈に立っても、弁護士は経済的に困らない、という描き方が張り付いていました(「弁護士資格『あぐら』論の中身と効果」)。

     つまりは、養成課程での新たな志望者への負担は、現状の弁護士の経済状況、ましてや事業としての成立を脅かすものにはならない、というイメージになります。そして、とりわけ「給費制」廃止において、罪深いといえるのは、長年法曹界が大事にしてきたはずの、統一修習の理念につながる、法曹三者が等しく国費で養成されるという精神そのものを破壊したこと。というよりも、新制度導入と引き換えに、それを差し出したようにとれるところです。

     ある弁護士は、これが「裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだ、という弁護士の矜持を打ち砕いた」としました。弁護士が公益そっちのけで儲けている仕事である、という描き方をするほどに、この三者を同一視させない理屈が現実的に後押しされてしまうのです。

     「改革」論議にあって、こうした描き方に抵抗した弁護士たちもいましたが、当時の弁護士会主導層の多くの人の中には、その抵抗そのものが社会に「通用しない」とする論調が根強くあり、逆にそれが内向きに、会員弁護士たちに政策をのませるために利用された面も否定できません。しかも、会内の「改革」推進論者の中からも、弁護士の業者性を犠牲にした公益性追求を、「改革」後のあるべき弁護士像として掲げるに至っては、競争激化による影響など思いもよらない、まるっきり弁護士の経済的体力幻想にのっかっていた、というしかありません(「『給費制』から遠ざかる日弁連」「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     しかし、以前も書いたことですが、社会に「通用しない」という見立てが本当に正しかったのかは疑問です。志望者にとって「給費制」は不当な優遇政策では決してなく、むしろ不可欠なものであったことは、この「改革」がむしろはっきりさせたというべきです(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。

    そして、さらに言ってしまえば、この「改革」との関係で、弁護士の経済的体力を過剰に見積もった「改革」のツケが最終的に回って来るのは、弁護士利用者であるという現実があります。それは弁護士と利用者の経済的な関係だけでなく、前記した弁護士の意識の問題としても影響したというべきです(「Schulze BLOG」)。

     弁護士が経済的に恵まれているとか、「儲けている」という社会的イメージは、もちろんイメージ化の努力が必要ないくらい、かつてから存在していたとはいえます。しかし、その一方で、この「改革」のツケが回ってくる危険性や現実を「改革」の旗を振る側は、「通用しない」論のもとに全く伝ようともしなかったのです。

     そして、「改革」の結果として、その見立て違いがはっきりした現在においても、それがどうその失敗につながったのかについての、正しい評価がされていない現実があるといわなければならないのです。


    弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    大学の運営に委ねた法曹養成という観点

     法科大学院制度を中核とする新法曹養成制度を考える時、「改革」論議の当初から現在に至るまで拭い去れない、ある基本的な観点の欠落感があります。それは、一言で言えば、法曹養成を学校運営というテーマを抱えることになる大学に委ねる是非ということです。別の言い方をすれば、あるべき法曹養成から純粋に逆算されることなく、大学運営を優先させなければならないことを事実上、許すことになる影響です。

     なぜ、法科大学院制度に法曹養成を委ねなくてはならなくなったのかについては、これまでも書いてきました(「法科大学院の『高い理想』と『改革』の現実」)。司法試験・司法修習、さらには予備校の存在感も加わった、いわゆる旧試体制への批判、あたかもそれが達成できない領域を新制度は実現するかのような触れこみ。そして、この新制度と一体となった、年間3000人の司法試験合格目標という当時の規定路線による旧制度の対応能力の限界――。

     しかし、逆に言えば、「改革」がそうした掲げられた主張に傾斜するなかで、結果的にすぽっと抜け落ちてしまったしまったのが、冒頭の観点であったようにみえるのです。「改革」論議は、それがどういうことを生み出し、法曹養成にとってどういうカセになるのかについて、徹底的にこだわることなく、制度導入ありきに進んでしまったのではなかったか――。

     いま、制度創設から19年たった時点で、なぜ、そのことに触れるかと言えば、それは取りも直さす、案の定、この制度がはらみ、ずっと消えない疑問点に、この観点が、それこそカセのように、深くかかわっているようにとれるからにほかなりません。

     例えば、実務を司法試験合格前に学ぶという新法曹養成制度の設計。「理論と実務の架橋」は法科大学院制度の基本的なスローガンとして掲げられたものですが、司法試験合格が最大の目的であり、その合格が未定の学生にとっても(教育内容がより身に入るのはいつか)、また、教育の効率化を考えても、司法試験合格後に施されるのが合理的という見方が言われてきました。合格目的の彼らに受験指導をしてはならないという建て前の制度のおかしさにもつながります。

     このタイミングの教育を前提に、前記問題を解消しようとするならば、当然、現実的に法科大学院修了者のほとんどが司法試験に合格するという、前提が必要となりますが、そのためには法科大学院入学でのより厳しい選抜が必要になります。予備試験ルートの志望者の実績をみても分かるように、事前の厳しい関門の「洗礼」を受けることで圧倒的に最終的な司法試験合格率は高くなり、前記合格前教育がはらむ問題も解消します。

     ところが、それをやっては、今度は多くの学生を獲得することを前提とする大学側の運営事情に反する。要するに妙味がなくなる。法曹養成として、あるいは学生にとって、どちらがいいかではない、制度にとっての優先事情を抱えているということになります。司法試験合格予定人数に合わせて、法科大学院入学者総定員数を調整することも、法科大学院敬遠を加速させる厳格な修了認定も、当然、不可能という話です。

     その結果として、取りあえず入学させ、表向き受験指導をしない建て前で、2ないし3年で司法試験に合格させるという無理を抱える、というか、自ら制度効果のハードルを上げる結果になっているともいえるのです。

     さらにもっと基本的なことというべきかもしれませんが、制度批判として言われ続けている、修了の司法試験受験資格要件化への疑問。制度の掲げる理念が正しく、それを実証する自信があるならば、要件化を外し、自由な受験を認めたうえで、「なるほど法科大学院制度は必要」という社会的了解のもとに、志望者が集まる形を目指すべき、と考えるのは合理的で、多くの志望者の受験機会や人材の多様性の確保の面でも、より有効です。

     ところが、法科大学院関係者からはつとに、この受験資格要件にしがみつく声ばかりが聞かれてきました。この要件化こそ法科大学院制度の「生命線」であり、これを「手放せば、制度は実質的に終わる」と考えている関係者が沢山いるのが現実です。なぜそう考えているかといえば、取りも直さず、この制度「特権」を手放した瞬間に、この制度は選択されなくなると考えているからです。

     法科大学院は廃校・募集停止が進み、既に当初の半数以下になっていることに、より有力校が残り、それらが制度を支えるのだから問題ない、とするような見方もあるようですが、一面、どんな素晴らしい理想的教育を掲げても、経営が成り立たなければ撤退を余儀なくされる、この制度の宿命を物語っているともいえます。

     最近も、法科大学院というプロセスが法曹にとって不可欠であるとするような擁護派の弁護士のツイートに、他の弁護士から異論が噴出するということがありました(Schulze BLOG 弁護士猪野亨のブログ) 。大学運営の上に乗っかっている制度の存続を前提に逆算するのか、それとも純粋にあるべき法曹養成から逆算するのか――。この「改革」によって、わが国の法曹養成は、おかしなところにはまってしまったように思えてなりません。


    「予備試験」のあり方をめぐる議論についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/5852

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。https://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 資格試験
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR