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    守るべき「国」と「犠牲的精神」への懸念

     「国」という言葉の二義性とあいまいさゆえに、国家権力が戦争とファシズムの渕に国民を誘惑する危険がある――。かつて国家秘密法案の危険性に絡めて、故・後藤昌次郎弁護士はこう語っています。私たちの「ふるさと」、習俗や文化、コミュニティとそれを取り巻く自然としての「くに」。そして、そのコミュニティとしての上に君臨し、これを支配・統治・管理する国家権力としての「くに」。

     この同じ音を持ちながら、質的に違う「くに」を私たちは、ともすれば取り違えたり、すり替えられたりしてごまかされるのだ、と。そして1987年当時、国会再上程が懸念されていた国家秘密法案が守る「国」とは、何か、国を愛し、守る対象とは、前者の「くに」を守り、愛することなのかを、後藤弁護士は講演で問いかけました。

     そして、彼はこの問いかけに戦前の治安維持法、軍機保護法、国防保安法が、国民の目と耳をふさぎ、戦争の実態を知らされないまま、「シナ」の暴虐を膺懲する「聖戦」と吹き込まれ、軍・政府・マスコミが騒ぎたてた「勝利」に歓呼することになった時代を被せます。やがて、「聖戦」で家族を失い、国民のなかに厭戦気分は確かに広がりながらも、それを国民は表に出せず、逆に賛美と熱狂的支持の声を送った。その本当の原因は、正確な情報を十分に入手できず、自由に発言して討論する自由を奪った、前記治安維持法体制にあったのだ、と(「国家秘密法の秘密――権力の欺瞞について」)。

     後藤弁護士が、恐れたのはそうしたことの再現でした。「くに」の二義性が国家権力に利用され、気が付けば、国民が「戦争」に巻き込まれる状況を、国家秘密法案の先に見ていたのです。そして、それは国民の「くに」を愛する気持ちの先に、犠牲的な「戦争」があったのでは決してない、国家権力によって国民が犠牲になる「戦争」の現実でした。

     産経新聞大阪本社が8月15日、公式サイトに阿含宗・桐山靖雄管長と、作家・百田尚樹氏の「特別対談」を掲載しています。タイトルは「平和にかけた命」。そこで、こんなやりとりがなされています。

     桐山氏「人生を完全燃焼させるということは、ただ長生きをするということではありません。戦時中に青春を送った私は、赤紙(召集令状)が来れば、すぐ飛んでいく。突撃と命令されれば突撃する。そういう覚悟を持って生きていました。これは今日的価値観からすれば、なんとバカらしいと感じられるかもしれないが、当時の若者にとって『国を護る』という思いは当たり前だった。自分の命はもちろん大事だけれども、同時に誰かのために、何かのために命を懸けることがあり得るということを自覚していました」
     百田氏「そうですね。それがなかったら人間の生きる意味は、ただ自分の利益だけになってしまいます。戦後は個人の幸福追求が第一で、国家に奉仕や献身を求められることがあってはならないと見なされている。しかし、個人の幸福追求も、まず自分の属する国家社会が安定していればこそです。この他者とのつながりのなかで自分は生かされているという感覚がないと、管長が常々おっしゃっている『英霊にとっては全ての日本人が遺族』ということが分からないし、ご先祖があって今の自分がある、先祖からつながっている命を子孫に引き継ぐために何をなすべきかという垂直の意識も希薄になります」
    (中略)
     桐山氏「(著書・「永遠の0」で)百田さんは『他者のために自分の人生を捧げる』日本人の姿を描かれたことになる」
     百田氏「私は、日本人はそういう生き方をずっとしてきた民族だと思っています。そしてそれは今も全ての日本人の心の底に眠っている。そういう生き方を思い起こしてほしいと願って書いています」

     このやりとりに、あの日の後藤弁護士の言葉を思い出しました。桐山氏が当時は当たり前だったという「国を護る」という思い。「誰かのために、何かのために命を懸けること」。そして、そういう生き方が失われた戦後を個人の幸福追求第一とくくり、「国家社会の安定」をその前提して掲げながら、他者のために人背をささげる犠牲的精神こそ日本人の生き方であり、全国民に眠っているそれを思い起こせ、という百田氏の言葉。

     後藤弁護士の警鐘とは、真逆でありながら、どういう発想が、国家権力の「誘惑」を後押しし、彼の恐れた「再現」を現実のものとしていくのか、そのことをはっきり私たちに伝えていると思えます。私たちの国の公共放送の経営委員に、こうした発想の人物が就任している現実を、私たちはどう受けとめるべきでしょうか。

     既に安倍政権は「国民の生命と財産を守るため」、「テロリストへの秘密漏えい」の恐れを掲げ、「今ある秘密の範囲は広がらない」と強弁して、国家安全保障会議設置、特定秘密保護法成立を実現しています(2013年12月9日記者会見)。集団的自衛権行使閣議決定に際して、国民の「覚悟」について記者から質問された安倍晋三首相は、「我が国の平和と安全を一層確かなものにしていく」「私は彼ら(自衛隊)に感謝をし、そして彼らのこの勇気ある活動に敬意を表したい、彼らは私の誇り」と答え、肝心の「覚悟」については明言しませんでした。しかし、読み方を換えれば、それは、国を守るために命を張る、日本国民を誇りとすべし、という強いメッセージでもありました(2014年7月1日記者会見)。

     彼らが「国民の生命・財産」と結び付けて語る、守るべき「国」とは、果たして本当に多くの国民のなかにあるものなのか。私たちは、国家権力に対して、目や耳を奪われようとしていないのだろうか。そして、そのことに今、私たちはどのくらい自覚的であるのか――。後藤弁護士が恐れた未来に、私たちは既に立っているのではないかという気持ちがしてきます。


     「司法ウオッチ」では、現在、以下のようなテーマで、ご意見を募集しています。よろしくお願い致します。
     【法テラス】弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。
     【弁護士業】いわゆる「ブラック事務所(法律事務所)」の実態ついて情報を求めます。
     【刑事司法】全弁協の保釈保証書発行事業について利用した感想、ご意見をお寄せ下さい。
     【民事司法改革】民事司法改革のあり方について、意見を求めます。
     【法曹養成】「予備試験」のあり方をめぐる議論について意見を求めます。
     【弁護士の質】ベテラン弁護士による不祥事をどうご覧になりますか。
     【裁判員制度】裁判員制度は本当に必要だと思いますか

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    BC級戦犯裁判に向き合った弁護士会

     1945年12月から1949年10月までの足掛け4年、総事件数331件、起訴された延べ人数1319人に及んだBC級戦犯横浜裁判。今から8年前、この裁判の実像に迫る意欲的な報告書が、横浜弁護士会の手でまとめられ、出版されました。タイトルは「法廷の星条旗――BC級戦犯横浜裁判の記録」(日本評論社)。同弁護士会が設置したBC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会の6年にわたる活動の成果をまとめたものです。A級戦犯裁判については、さまざまな著作があるなかで、現代の法律家の視点で、BC級裁判に関し、ここまで詳細記録分析に取り組んだものは見当たりません。

     調査はいくつかの具体的事件に法的な検討を加えています。中でも興味深いのは、軍隊の中の法律家の存在に光を当てていることです。撃墜した米軍B29爆撃機の搭乗員らを無差別爆撃の罪で軍律会議判決で処刑した「俘虜飛行士処刑事件」では、BC級戦犯裁判の被告席に法律家である法務官が立たされていました。

     この被告席に座った法務官の一人が、たまたま前にいた新聞社の役員を務めていたことがあり、その関係で度々、お目にかかり、当時のことなども直接聞く機会がありました。また、彼の弁護人となっていた飛鳥田一雄弁護士に生前取材したときは、「お宅の役員は、俺とオヤジ(飛鳥田喜一弁護士)が首の皮一枚で命を救ったんだよ」と語っていたのを覚えています。

     無差別爆撃という国際法違反を犯した搭乗員でも、ジュネーブ条約の俘虜としての処遇を受ける権利を有するのか。有するならば、弁護人選任、公開裁判を定める同条約に合致しない軍律処罰は違法となり、逆に搭乗員らを国際法違反の戦争犯罪人として、その権利がないとみれば、起訴・処罰自体は違法でないことになる――。

     実際には、こうした争点がかみ合わないまま、このBC級裁判は進むことになりますが、いわばこの「裁判の裁判」で何が争われ、何が争われなかったかを問うことは、まさしくこの法廷の実像を浮かび上がらせる現代法律家による光の照射といえるものです。

     横浜弁護士会が、会として、この調査を行ったのには理由がありました。それは、この裁判が、日本で唯一、弁護士会が臨時総会を開いて、弁護の義務化を決議して、総力を挙げてと組んだものだったからです。当時の会員数百十数人のうち、43人がこの弁護を引き受けました。

     調査は、横浜弁護士会の現在の弁護士たちが、先輩弁護士の活動を現代に伝えようとするのが出発点でした。しかし、同じ法律家である法務官の事件は、「自分がその立場ならばどうしたのか」という問いかけにつながっていきます。「他人事ではない根源的な問いにたどりついてしまった」(同書「はじめに」)と。結局、この作業は、戦争に直面する法律家の姿そのものがテーマにならざるを得ないものだったといえます。横浜弁護士会の弁護士は、当時と今日、時代を超えてこのテーマに向き合う「宿命」にあったようにも思えます。

     その作業は、最後に「法の支配」という観点から、裁判の今日的意味を探るところにたどりついています。だが、そこに唯一、同書のなかで違和感を持った記述がありました。それは、最後に同書は司法制度改革審議会の最終意見書を引用し、戦争指導者の「無責任の体系」が支配する時代との決別との重要性を、シビリアンコントロールという意味から、「国民の司法参加」をうたう今回の司法改革と結び付けている点です。

     果たして、この「改革」は戦争というテーマの前に、そう位置付けられるものなのか。その疑問から、当時書いたコラムのなかで、私は同書を好意的に取り上げながらも、自ら被告席に立つ当事者意識を共有するならば、むしろ、日本とその国民が再び戦争の共犯者になることへの危機感のなかで、戦犯裁判の意味をとらえるべきではないだろうか、と書きました。

     今にしてみれば、やはり「改革」の季節の真っ只中に出された同書は、当時、弁護士会のなかにあった「期待」を背負う「宿命」にもあったというべきなのかもしれません。


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    旧弁護士会館の奇跡

     太平洋戦争末期の東京・霞が関の司法関連施設集中地区、いわゆる「司法街区」と呼ばれる地区の様子を紹介する資料はあまりありません。各弁護士会史も、当時の戦時体制に組み込まれていった会の様子については、それなりに触れていますが、司法街区について記録しているのは、第一東京弁護士会の「われらの弁護士会史」だけです。

     そこに、こんなエピソードが紹介されています。1945年3月9日の深夜から10日未明にかけてのB29による、いわゆる東京大空襲で、東京の市街地の4割は灰になり、さらに4、5月と続いた空襲は、東京を見渡す限り、焼け野原にしましたが、霞が関の司法街区は3月の空襲で、既にそのほとんどが廃墟と化していました。ドイツ人ハルトングの設計になる明治の文化財、旧最高裁判所庁舎となる大審院(現・東京高裁庁舎所在地)も、青銅の屋根をやられて、無残にも内部が焼け抜けた状態になっていました。

     しかし、不思議なことに、東京の三つの弁護士会館だけは、異状がなく、取り残されたように無事な姿でした。何発かの焼夷弾を受けたらしいのですが、大事に至らなかったのです。同年4月25日に空襲でのびのびになっていた第一東弁の総会が開かれた時には、敵機来襲のない午前中が選ばれ、その焼け残った会館に、防空頭巾に胸には氏名と血液型を書いた白布、足にはゲートル巻きの会員が参集した、と「会史」は伝えています。

     この東京三弁護士会館の「奇跡」に目をつけたのが、司法省でした。大被害を受けた裁判所はあちこちを物色し、焼け残った跡見女学校を大審院にするなどの応急の仮庁舎を設けましたが、それでも間に合わず、三弁護士会に焼け残った会館の一部提供を申し入れてきたのでした。

     第一東弁ではこれに応じ、3階を東京民事地方裁判所と区裁判所超低事務所に提供。のちに終戦をはさみ、東京民事家事審判所調停部がこれに変わり、昭和24年6月まで、この同居生活は続いたのでした。また、被災会員のために臨時に会館を事務所として提供する方針もとられた、としています。

     それから67年。戦火を免れた三つの弁護士会館は、今は影も形もなく、その跡地のすぐそばに、地上17階インテリジェントビルに生まれ変わった弁護士会館がそびえたっています。1995年の完成時には、折から弁護士会には自由競争を排除した独占体質があるとして、それを中世のギルドになぞらえた「ギルド批判」を展開した大新聞が、この建物をその象徴として「ギルドの塔」などと皮肉たっぷりに銘打ったこともありました(「『ギルドの塔』と呼ばれた弁護士会館」)。

     今、この建物に対して、そんな言い方をする人はいませんが、依然、その豪華さは、残念ながら庶民の味方というよりも、リッチな資格業・儲けているエリートをイメージさせるものではあるようです。

     不思議なことですが、旧会館が姿を消し、新会館になって16年が経過したにもかかわらず、時々、あの古めかしい弁護士会館がまだ、あの辺りに存在しているような気持ちなることがあります。法改正反対の垂れ幕がかかる、砦のような、あの会館が今も使われていたならば、どうかなどということも頭を過ります。利便を無視した単なるアナクロ、今の弁護士にはふさわしくない、という声も聞こえてきそうですが、あの地で歴史を刻み、「奇跡」を生んだ、あるいは戦火を越えたこの国の司法の記念碑ともいうべき旧会館は、少なくとも今とは違う弁護士像を大衆にイメージさせていたかもしれない、などと、つい思ってしまうのです。


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    弁護士会会長が守った胸像 

     東京・霞が関の弁護士会館12階にある第一東京弁護士会の会議室の中に、5つの銅製の胸像が、整然と置かれています。花井卓蔵、岸清一、原嘉道、岩田宙造、有馬忠三郎。いずれも同弁護士会ゆかりの著名法曹たちです。

     「弁護士界の三傑」といわれた原、花井、岸各像は、戦前、同弁護士会と帝国弁護士会が、その功績を称え、会の事業として2体を製作、一体を本人・遺族に、1体を会館に置いたものといいます。有馬像については、戦後、初代・二代連続して日弁連会長を務めたことから、日弁連が2体製作したうちの1体。岩田像は第一東京弁護士会会長だった江川六兵衛弁護士が岩田弁護士のもとを訪れ、その事務所にあったものをもらい受けたものだそうです。

     いずれも旧第一東京弁護士会館にあったものを、1995年の新会館移転の際、磨洗を施したうえ、台座を新しくしたうえで、現在のところに移されました。

     このうち昭和6年(1931年)完成の原嘉道像には、こんなエピソードが残っています。昭和18年(1943年)の戦時体制下、兵器材料の不足から金属回収が行われていた中、枢密院議長だった原自身から弁護士会に、胸像献納の提案がありました。

     第一東京弁護士会は常議員会で協議し、同会にあった像については、理事者一任を決めますが、当時の名川侃市会長は、頑として、供出を拒否しました。名川侃市弁護士は、ご都合主義を嫌った人物とされ、戦時中、軍部に対して甚だしく悪感情を持ち、ことごとに反発していたと言います。供出提案に対し、彼が言い放ったとされる言葉が残っています。

     「軍に差し出したところで、何をするか分かったものではない。それより依然として、ここに置いて後進の指導の用に供した方が、はるかに国家のために有効である」(「私の見た名川君」豊原清作)

     時代は戦争一色、弁護士会までが右旋回に戦争支持に傾いていた時です。その中で、名川会長がみせた勇断がなければ、今日、私たちはあの像を見るこしはできなかったことになります。この勇断の翌年、原、名川両弁護士とも、相次いでこの世を去りました。名川弁護士については、初の現職会長の死でした。

     名川会長の示した姿勢には、意地やプライドを超えた、法曹としての強い気概と自信を感じます。そして、胸像として残こされた会員の生きざまを、後進の指導に供する意義を「国家として有効」とまでみる意志のなかに、当時の弁護士会指導者が後進に範として伝えるべきと考える、確固たる弁護士の精神を持ち合わせていたようにも思えるのです。

     これら法曹人たちの像は、いまやその古めかしい姿とは、あまりにも不釣り合いなインテリジェンスビルの片隅にたたずんでいます。いまは会の許可なしでは、目にすることができない部屋に置かれ、旧会館よりもさらに人目につく機会が減ったのではないかと思います。ただ、それらは動かされることもなく、会員のそばで、じっと弁護士会の歴史を見てきたことになります。

     そもそも先進会員の胸像から、その生き方に思いを致すといった、名川弁護士が言ったような後進の指導も、それを受け止める若手弁護士も、いまやどこにもないのかもしれません。時代が求める弁護士の姿もまた、彼らが想像していた未来とは違うものになっているのであれば、それもまた仕方のないいうべきとも思えます。

     しかし、この胸像から、私たちは、彼ら5人の存在とともに、名川弁護士が示した、当時の弁護士が持っていた精神の一端を知ることができるように思えます。


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    ある弁護士に刻まれた「法廷」の記憶

     「なにとぞ、この法廷が『沈黙の犯罪』を防止できるように」

     かつて平和と人道と正義を求める一人の勇気ある哲学者の、この願いが、世界を震撼させる「法廷」を生み出しました。ベトナム戦争中の1967年、同戦争における米国と同盟国の戦争犯罪を、「人類の良心」の下に民衆が裁いた、この「法廷」は、やがて米、欧州での反戦運動に大きな影響を与えただけでなく、その後の国内国際民衆法廷のモデルとなりました。

     この「法廷」はその哲学者、バートランド・ラッセルの名から、「ラッセル法廷」として、歴史にその名を刻むことになります。

     この「法廷」に日本からただ一人、ベトナム戦犯日本委員会事務局長として、設立会議から法廷メンバーに参加したのが、森川金壽弁護士でした。人権派弁護士として活躍され、横浜事件再審弁護団長も務められた同弁護士には、生前、何回も取材させて頂いたり、座談会を企画させて頂いたりして、度々お話しを聞く機会がありましたが、「ラッセル法廷」の模様も、鮮明に記憶されており、貴重な歴史的証言者でもありました。

     この設立会議席上、あいさつを冒頭の言葉で締めくくり、退場していく93歳の老ラッセルの姿を森川弁護士は、著書「権力に対する抵抗の記録」で紹介したうえで、こう感動的につづっています。

     「この孤高の老哲学者の名声と威望がなかったら、この前代未聞の戦争犯罪法廷の試みは成功しなかったであろう。世界は好機に最適の人物に恵まれた」

     当時、超大国アメリカ合衆国を裁くということが、どれほどドラスチックで困難なことであったのかを、森川弁護士はここで回想する形で、現代に伝えています。各国政府のみならず、それまでの多くのラッセルの支持者・支援者が、大国の影に脅え、彼の試みに尻込みしてしまいます。

     しかし、四面楚歌の中、ラッセルはたじろぎませんでした。1966年7月、北爆で撃墜された米パイロット捕虜について、北ベトナムが戦犯として裁くという態度を示したのに対し、米政府が憂慮の念を示した時も、彼はこう断言しました。

     「米パイロットは兵器で何千人もの人命を奪う野蛮な犯罪を犯している。彼らを裁判にかけ、責める権利をベトナムは十分持っている」

     ラッセルとは、そういう人物でした。そして、思想家ジャン・ポール・サルトルらフランス勢の応援を得て、彼の勇気ある挑戦は実現していきます。

     実は、この「法廷」で、日本は「共犯者」として裁かれました。結果は8対3の評決で「有罪」。この共犯をめぐる論議についても、森川弁護士は貴重な記録を残しています。共犯成立の一つの焦点は、「派兵」でした。

     「日本は一兵も派兵していないではないか」

     共犯性を否定する、こんな意見もメンバーから出されたといいます。しかし、判決理由の結論は、次のようなものでした。

     「日本政府が用い得たはずの、さまざまな抵抗の方法を考えるならば、特別の責任を強調してよい」

     「派兵」即共犯、かつ米軍の戦争犯罪行為への無批判、抑止回避といった不作為も共犯。これが「ラッセル法廷」という人道的民衆法廷の判断基準であったこと、その基準に照らして、わが国には「有罪」とされた「前科」があったこと、そしてその「前科」に照らして、その後の日本は、どう裁かれてもおかしくないのか――。

     森川弁護士がわれわれに伝え残し、突きつけているテーマです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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