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    「安く使いたい」という欲求と弁護士が抱えたもの

     弁護士が格段に必要になる時代が到来する。それを考えた時、この国の弁護士の数は決定的に不足している――。20年以上前、司法改革が「事後救済社会」のイメージとしてつなげた弁護士必要論の描き方は、その結果としての激増政策を受け容れた当時の弁護士たちの意識に強く影響したといえます。

     そして、今にしてみれば、この甚だ漠とした見通しに対する、当然呼び起こされてもよかった、当時の弁護士たちの疑念、つまりは経済的な実現可能性について、彼らの目を逸らさせ、楽観的捉え方に誘導したのが、潜在需要論でありました。

     この国には、既にその段階で、弁護士がもっと活用されていい「眠れる鉱脈」のごとき需要が、存在している。それは、それこそ「鉱夫」たる弁護士が増えるほどに開拓され、顕在化するのだ、と。当時の多くの弁護士たちが、この発想が飲んだ時点で、彼らの、希少性にあぐらをかいてきたかのようにいう怠慢論への反論や、増員必要論に対する懸念論、慎重論の腰は砕けてしまっていたようにとれました。

     その先の大外れの結果は、いまさら繰り返すまでもないでしょう。もちろん、この増員政策にあくまで反対した弁護士たちからすれば、想定内のことですが、前記発想の中で受け容れた多くの弁護士たちからは、ここまで弁護士の需要が顕在化せず、資格の価値に影響するほどの経済的打撃を受けるとは想定出来なかったという、本音を聞くことにもなったのです。

     ここには、一種奇妙な気持ちにさせるような、自らの職業防衛に対する弁護士の、脇の甘さ、無防備さといいたくなるものを感じてしまいます。そして、それを考えたとき、もう一つ、20年以上たった今、弁護士の間で、この「改革」に秘められた真の目的のごとく、しきりと語られるようになっている、あることに突き当たります。

     「弁護士を安く使えるようにする」。そういう弁護士を、そういう環境を実現する欲求と期待感が、実は前記さまざまな「改革」の描き方の向こうに、あるいはその他のものが、たとえそぎ落ちたとしても、「改革」の実としてつかもうとする、そんな発想があったのではないか、というイメージです。

     しかし、現実的には、このイメージには、「改革」がはらんだ二つの異なる発想あるいは欲求・期待が混在していました。有り体にいえば、「おカネを投入する用意がある利用者が、より使いやすく、廉価で使いたい、使い勝手をよくしたい」というものと、「基本的におカネを投入する用意がない、これまでの利用不可能者(敬遠者)が、利用できるようになる(のではないか)」というものです。

     要するに、「改革」、とりわけ弁護士増員政策は、結局、この二つの異なる社会の欲求と期待感を背負う(あるいは背負おうとした)ものだったのではないか、ということです。この「改革」でいわれているところの同床異夢性。経済界が求めた新自由主義的性格や企業ニーズへの対応と、弁護士会が対峙させた「市民のための改革」にもつながってみえます(「同床異夢的『改革』の結末」)。

     弁護士会は、この同床異夢性を飲み込む、というか、分かった上で「改革」の駒を進める決断をした時、その後の弁護士業の運命を左右する二つの決定的な発想(あるいはミス)を選択したといえます。一つは、前記二つの「安く使いたい」という、弁護士にとっての採算性にかかわる異なる社会のニーズを、「ニーズはある」と一括りに捉えたこと。そして、もう一つは、前記必要論の外部からの「圧」に加え、内部からの「圧」になったともいっていい、より弁護士は公的なものに犠牲的に対応すべきとする、発想に背中を押されてしまったこと、です。

     今にしてみれば、弁護士は、むしろ増員政策によって逆効果が生まれる、現実的な業務に影響する、二つの「無理」を抱えてしまったようにみえます。前者についていえば、弁護士が増えること、その競争効果でも事業者として実現し得ない、大量の無償ニーズを抱えること、そして後者についていえば、弁護士の使命感に紐付けられた「べき論」によって、事業者としての現実的な実現可能性への危機感が、「できる」「やればできる」の声に薄められる結果になってしまったことです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「『合格3000人』に突き進ませたもの」 「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。

     そして、その結果はどうなったかといえば、弁護士の全体の経済的状況は大きな打撃を受け、その中で、経済界が求めた前者の弁護士を「安く使いたい(使い勝手をよくしたい)」というニーズについてだけ、要求者が着実に「改革」の実を得たのではないか――。この結果こそが、前記今、弁護士の中で聞かれる言葉につながっているようにとれるのです。

     こうした結果につながった当時の弁護士(会)の姿勢について、かつてある反対派の弁護士は「弁護士は『改革』という言葉に弱い」と語りました。この言葉が、この弁護士の自らの業務に対する無防備さのすべてを語り切っているのかは分かりませんが、体質的ともいっていいこのことに、弁護士はもっと自覚的であっていいと思えます。


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    報酬と弁護士会をめぐる欠落感

     弁護士報酬と社会の距離感、さらにはそれをめぐる弁護士と社会の意識格差は、大きく変化してきたといえるのでしょうか。弁護士増員とともに、弁護士自身が競争を意識しはじめ、ネット空間でかつてよりもはるかに自ら情報発信するようになっても、根本のところで変わっていないようにとれるのはなぜでしょうか。

     むしろ意識というのであれば、弁護士は、増員政策によって、結果的に生み出されている報酬をめぐる、自らが置かれている状況に、かつてより危機感を抱き、それを社会が十分理解していない現実が存在しているようにもとれます。

     振り返れば、司法改革における弁護士報酬についての、弁護士会主導層の受けとめ方は、大きく自由化と透明化・明確化というものでした。会が報酬規定を定めず、個々の弁護士が顧客との信頼関係に基づき、自主的に報酬額を定める。その一方で利用者市民のために、分かりにくいとされる報酬について、より透明化と明確化を進めなければならない――。

     改革論調のなかでは、それこそが増員政策とも矛盾ない、むしろ弁護士の進出につながる、それにマッチした発想とされた観がありました。しかし、ここには冒頭に書いたような社会との距離感や意識格差を埋めきれないことにつながる、ある観点の抜け落ちがあったようにとれます。

     一つは、弁護士の活用や報酬に対する弁護士会の問題意識が、常に利用者市民の無理解や不安解消に偏り過ぎ、あるいは期待しすぎるということです。どういうことかといえば、市民からみた弁護士の活用可能性や報酬に対する認識を、弁護士側が積極的に解消する努力をすれば、すべてはうまくいくという考え方に偏るということです。

     確かに弁護士報酬への不安や不透明感が、利用者市民の弁護士へのアクセスへの阻害要因になっている現実はあるとされています(LIBRA「特集 弁護士報酬を考える」)。ただ、すべてが利用者市民側の認識や無知の問題にはできず、そもそも利用者の経済的負担感そのものをどうするか、という点があります。つまりは、誤解さえ取り除けば、弁護士を利用したい市民は、果たして弁護士が想定するような報酬額を弁護士に投入するのか、その用意があるのか、という問題です。

     そして、もう一つの観点は、司法改革の増員政策そのものが、報酬の低廉化への期待をはらんでいることを、弁護士会側がどれだけ意識して、前提的に向き合ったのかという点です。そもそも弁護士業が置かれる多くの局面で、弁護士費用は利用者にとって、よりマイナスになることを防ぐための仕方のない出費であり、積極的な投資と位置づけられない。それだけにより低廉化のインセンティブは働きやすい面があります(ペンたろー@Return_to_Asia)。

     そのうえで弁護士が増やされるという状況は、当然、競争の結果いう意味でも、単に増員弁護士の中には、どこかに安く引き受ける人もいるのではないかという捉え方でも、より低廉化への期待を背負ってしまう。そのこと自体を弁護士会がとらえきれていたのか、という話です。

     あえて別の言い方をしてしまえば、増員政策の結果によっても、その期待にはこたえきれない、という社会の「誤解」について、(あるいは同政策にそもそも低廉化への意図が内包されていることを認識していながら)、それを解消する積極的な働きかけを、「改革」推進論調のなかではしていないということなのです(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」「弁護士業務への無理解という前提」)。

     つまり、この観点の抜け落ちたことが、結局、多くの弁護士が今、より持続可能性ということがら、報酬の現実に対して、危機感を持たなければならない状況を生み出しているようにみえるのです。

     いま、3月に開催される日弁連臨時総会で上程される決議案をめぐり、法テラスでの扶助給付化と弁護士報酬の適正化の行方に、会員の注目が集まり始めています。しかし、弁護士の経済的疲弊や、報酬への不満からの法テラス離れの現実がありながら、給付化実現の前に、報酬増額はどこまで強調されるのか、という不安も会内には広がっています。

     むしろ「改革」がはらんでいた、弁護士会が十分直視したとはいえない低廉化の要求や期待とは、まさに増額とは逆のベクトルの「適正化」であったことを考えれば、やはり弁護士会がそこを余程意識しなければ、大きな流れを変える方向は生み出せないように思えます。


    弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046

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    「改革」論調の中で生まれた弁護士の「自省」

     弁護士界外の人間と話すと、予想以上にそうはとられていないのですが、弁護士という資格を大きく変えることになった司法改革にあって、当時の多くの弁護士は極めて自省的にこれを受けとめた現実がありました。

     例えば、弁護士の体質批判のように言われた「敷居が高い」という話(そもそもこの言葉の本来の意味からは誤用の嫌いはありましたが)に対し、当時、話した多くの弁護士たちの反応は、「確かにこれまで不遜であった」とでもいうように、依頼者に対する態度や対応を変えるべき、といったものでした。

     弁護士増員政策を受け容れた発想にも、同様のものが見られました。当初、潜在需要が強調され、増員弁護士によって、それが開拓される、顕在化するかもしれない、という期待感は界内にあり、その後に現れた非顕在化の現実化からすれば、相当の楽観論もあったことは確かです。

     しかし、その一方で、弁護士の量産が、これまでにこの資格が体験したことがないサービス業としての競争や、そのための努力を求められるかもしれないことについても、大方の反応は、「確かにこれまではあぐらをかいてきた」とでもいうような、自省的な反応がありました。

     そして、これらの受けとめ方は、この「改革」に当たって弁護士の意識改革を声高に唱えた会内の「改革」推進論者の発想とも一致していたようにみえました。増員政策を遂行するに当たって、強い抵抗が予想された弁護士会内に対し、自らの意識改革の必要性への自覚こそ、その実現性を高めると、おそらく彼らは考えていたのです。

     その意味では、「改革」推進にとっての、最も有効な弁護士会(員)攻略法を、当時の会内推進論者は、分かっていて繰り出したともいえます。外部からの攻撃となれば、一致団結して抵抗するかもしれない体質を考えれば、あくまで主体的にそれを受け止めさせ、積極的に協力する形が得策である、という風に。

     しかし、これらについては、今にしてみれば、疑問があります。過去に対する「反省」がすべて悪いわけではないにしても、その結果として導き出されたサービス業化や競争、増員という現実とのバランスは果たしてとれているのか、ということについてです。

     とりわけ、気になるのは、これらの自省を迫る論法には、「市民」目線や感情が対峙されていたことです。利用者市民に大きな不満や不安があり、これらを解消しようとするベクトルの「改革」に背を向けることは、「市民」に背を向けることになるのだ、というように。弁護士界内外の推進論者の中には、ともに、それを当時の弁護士たちに突き付けるような論調が見られました(「弁護士の『改革』選択に対する疑問」 「弁護士会に対する『保身的参入規制』批判の先に登場したもの」)。

     しかし、「改革」の蓋をあけてみて、前記したような弁護士の意識改革を伴った結果は、本当に市民に評価されているのでしょうか。よく見れば疑問がある「改革」を多くの弁護士にのませるための、いわば「方便」として繰り出された面をどうしても疑いたくなるのです。

     もう一つ、奇妙な気持ちにさせる意識改革論調があります。弁護士増員政策が、前記したような当初の思惑通りの結果にならず、潜在需要が顕在化しないまま、資格の経済価値が下落した段階で、繰り出された「資格は一生の生活保証ではない」といった類の論調。

     何を言っているのかは、もちろん分かります。「資格」を取ったからといって、そこから先、努力をしなくていいわけではない、ということ。それ自体は、理屈として正しいかもしれませんが、この時点で弁護士に向けられたこの論調は、有り体にいえば、「だから『改革』が失敗して、かつてのような経済環境でなくなっても、資格の経済価値が下落しても、弁護士は文句を言うな、文句を言わず努力しろ」という意味になったのです。

     これも結果として、自省的に受けとめた人が沢山いるはずですし、もちろんそう受けとめて努力している人を批判するつもりは毛頭ありません。しかし、この論調をもってして、資格の経済的価値を下落させてしまった「改革」への評価に影響させられるのでしょうか。

     そもそもかつての弁護士という資格の、経済的安定は、確かにこの資格の魅力であったことは、当時の現役法曹こそ分かっていてはずですし、社会にはいまだそれを期待する人もいます。いや、そういう期待があればこそ、新法曹養成への高い先行投資を強いられる現状で、そのリターンを期待できなくなっている弁護士業へ、見切りをつける志望者が現れたのではなかったのでしょうか。

     もっと一般目線でいってしまえば、資格者が自らの経済的安定を主張することが責められるような話なのかも疑問です。しかし、どういうわけか弁護士の話となると、「努力もしないで」「あぐらをかいて」「ツケを利用者に回して」というような、すぐさま経済的保身と結び付け、批判的に捉えられるようにとれます。そして、思えば、これらも冒頭に書いた「改革」推進の中で、意識改革を迫る論調と、それを結果的にのむ形になった構図そのままのようにみえるのです。

     かつて自省的な発想を伴って「改革」を受け容れた弁護士会に対して、推進派のある経済人は、「大人になった」と表現しました。それは抵抗勢力にならなかった、当時の弁護士会に対する、皮肉めいた賛辞でした。一理ある論調と、反省すべき過去に対する謙虚さによって、弁護士は本当は何を獲得し、何を失ったのか――。その現実を直視しなければ、本当の「改革」の評価にも辿りつかないはずです。


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    弁護士の業務広告観

     弁護士の業務広告が全面的に解禁されて、既に20年以上が経過(1987年の「原則禁止・一部解禁」まで全面的禁止、2000年に「原則解禁」)していますが、実は現在に至るまで、個々の弁護士の中からは、ずっと「広告」そのものについて否定的な声を沢山聞いてきた感があります。

     「解禁」「自由化」というイメージから、弁護士界外の人たちの中には、さぞかし弁護士は商売がしやくなっただろうと捉えている人も少なくありませんが、そうした見方からすれば、意外な現実があるというべきかもしれません。

     かつての弁護士の広告禁止の理念には、「品位の保持」と弁護士の「公共的奉仕者」観が強く反映し、広告そのものを「客引きのための宣伝行為」と否定的にとらえ、そもそも弁護士の仕事の本質になじまない(結果、利用者の信用を失う)、という強い忌避感がありました。

     その現実が情報化時代の要請に反し、むしろ弁護士個人の情報不足が、利用者利便を阻害しているという見方が強まり、その反省から解禁の方向に動き出したという経緯があります。しかし、弁護士の意識からすると、当初、必ずしも多くの弁護士が広告の利用を待望し、制度に頭を抑えられていた、というわけではなかったようにとれました。解禁が打ち出されても、多くはその効果に懐疑的で、その動きは緩慢でした。前記「なじまない」論は、相当に根強かった印象もあります(「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)。

     「現在に至るまで」と書きましたが、こうした「品位」や「公共的奉仕者」観、いわば弁護士のあるべき論とつなげた捉え方は、現在の否定論の中では、もはや影をひそめ、全面解禁後に聞かれるようになったのは、主に次の二つです。

     一つは、広告効果への失望。一時期はそれまでの「紹介」「法律相談」が顧客獲得の主流だった形から、新たな集客の柱として、広告、さらにはインターネットの活用に期待が広がった感がありましたが、個々の、とりわけ中小の法律事務所では、費用対効果から疑問あるいは限界を言う声が出始めました。

     費用の明確化や弁護士個人の発信に触れることができるということによる、利用者の不安解消のメリットがあるとして、解禁後の成果を強調する見方は、もちろん業界内にもありますが、過払いなどの定型事案を大量に取り扱うようなものはともかく、必ずしも適正なマッチングや収益が生まれるという見通しにも立てない。むしろ、不特定多数に訴える広告宣伝という手段によって、「紹介」主流時代には聞かれなかった顧客の質とリスクについての声まで聞くことになりました(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」)。

     もう一つは、広告が利用者への間違った誘導につながり、結果的に健全な選択も阻害している、という見方。広告である以上、費用が投下できる弁護士ほど露出するのは当然ですが、そもそも情報の非対称性が存在する関係にあって、広告に多く接する利用者が必ずしも健全で、最良の選択(少なく他の商行為同様の、その結果を利用者の自己責任にすべて被せられる程度)につながらない、危険性があるという指摘です。

     「広告を沢山打つ弁護士がいい弁護士とは限らない」という言葉が、弁護士界内ではよく聞かれてきましたし、そうした「広告」によって顧客が誘導される現実は、個々の弁護士の事務所運営では、「あるいは増員政策の弊害よりも深刻」という町弁の声も耳にしました。

     このいずれもが、ある意味、「広告」そのものへのリテラシーも含め、司法改革の発想、あるいはそれを支持した弁護士会主導層の見通しから、外れた結果であるようにもとれます(「弁護士の競争と広告が生み出している危険」)

     ところが、こうした中、ある弁護士の次のようなツイートがネット上で業界関係者に注目されました。

     「広告によって同種事件を集める結果、業務効率と専門性が高まる。業務効率が高まることにより、多数の事件を処理できるため、その分報酬を下げられる。専門性の高いリーガルサービスを安価に提供できる。弁護士給与を高くできるのは、業務効率の向上により通常の弁護士より多数の事件を処理してるから」(酒井将弁護士のツイート)

     これまで書いてきたことと、ある意味、対照的ともいえる肯定的な弁護士業務広告観です。とりわけ、弁護士自身の専門性の向上や、サービスの安価提供、さらには事務所所属弁護士の給与向上まで、導き出せるという、理想的な「果実」が描かれています。これが現実化しているということであれば、司法改革の成果という評価もされそうですし、推進派の中には、「これぞ」とばかり膝をたたく方もいるかもしれません。新興系事務所の旗手の一人とされる人物の発言とみれば、彼ら新興系こそが、この「改革」の理想を体現しているという見方まで出てきそうです。

     ただ、問題は、彼(彼ら)の発想と、多くの弁護士たちの状況との現実的距離感をどう考えるのか、です。誰でも彼のような発想で、「果実」を得ることができるのか。彼の話の中の、いわばスケールメリットに関わる部分、同種・多数案件の中身も前記した「定型」処理が可能なものと、そうでないもので一律、このような話はできるのか。いわば、条件抜きに、多くの法律事務所が彼に続けるのか、という極めて現実的な問題です。

     正直、こうした発信で、直ちに「やればできるじゃないか」「やれるはずだろう」といった、またぞろあたかも弁護士のヤル気一つで「改革」の「果実」は得られるととられることを不安視する弁護士もいると思います。さまざまな弁護士の状況を度外視して、発想を一括りにすることそのものも、結果的に利用者にとってプラスの結果を生まないはずです。

     広告を挟んだ利用者と弁護士の関係は、やはり今後も慎重に見ていく必要があるように思えます。


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    「政治的」なるものへのタブー視と弁護士

     明けましておめでとうございます。
     今年もよろしくお願い致します。

     1月8日付けの朝日新聞別刷り折り込み紙「GLOBE」が、「ROCK IS BACK」という特集を組んでいました。文字通り、ロックミュージックの「復活」という切り口で、ジェンダーや人種差別など社会的メッセージを、かつてのようにロックに込める世代の登場と、そうした観点で見たロックの存在感や可能性にスポットを当てたものでした。

     そのなかで、日本のギタリストであるSUGIZO氏(53)を取り上げた記事の中に、音楽と政治的・社会的主張が結びつくことにアレルギーがある日本の事情が登場します。記事も言及していますが、1960~70年代には、ロックやフォークに政治的・社会的メッセージが込められるのは当たり前でしたが、学生運動や新左翼運動の衰退など、記事のいう「政治の季節」の終わりとともに、タブー視が始まった、と。

     それに違和感を持ち続けたという同氏も、そのタブ―視による編集者からの「政治的」表現の拒絶や、脅迫のようなメッセージを受けた体験を取り上げています。記事は結論として、「多様性の象徴であるロックの表現」が政治的・社会的メッセージ性が含まれてよいはず、とし、表現の抑圧が民主主義の否定であり、それに臆せず発信するという、彼の言葉で締めくくっています。

     やや脈絡のない展開といわれるかもしれませんが、この記事を読んで、この日本の大衆の中にある政治的メッセージ、もっと言ってしまえば「政治的」なるものへのタブー視と、しばしば同じような目線を向けられる弁護士という存在について、取り上げてみたくなりました。

     もちろん言うまでなく、メッセージの発信が問題とされる音楽と、法律家としての立場が問われる弁護士とは、根本的な前提が違います。しかし、一方で「政治的」というレッテルを貼り、タブー視をする、この国の社会的時代的風潮の中でとらえると、時として共通する、忌避感の対象になっているようにとらえられるのです。

     タブー視につながる弁護士の「政治的」批判は、二つの観点で考えるべきだと思います。一つは、弁護士という職業的立場への根本的な誤解。以前も取り上げていますが、弁護士は特定の階層の側に立つ職業ではありません。労使、資本家・有産階級側と社会的弱者の双方をはじめ、あらゆる階層につく弁護士が存在し、またそこに弁護士という仕事の本質的ともいえる特徴があります。

     弁護士の側からすれば、弁護士法1条が「人権の擁護」や「社会正義の実現」という使命からすれば、ある意味、それは当然のことです。ただ、その結果として、社会のさまざまな「正義」の主張を背負い、敵対することも宿命づけられている弁護士にあっては、使命である「正義」は、現実的な場面では、その侵害・阻害者を絶対的な社会の「共通の敵」としにくい。

     つまり、どういうことになるかといえば、「政治的」と括られる場面でも、「人権」「社会正義」につながる解釈は違っておかしくないし、逆にそれらで括られ、その観点で筋を通す活動が、仮に社会から「政治的」という批判的な目線を向けられても、おかしくない。

     むしろ、その局面で言えば、弁護士にしても弁護士会にしても、その意味で筋を通した活動が、「政治的」という烙印を社会から押されるものであったり、たとえ既成政党・政治勢力と同じ方向を向いたものであったとしても、それが批判にさらされる度に沈黙していたならば、果たしてその使命は全うできるという話なのです(「弁護士の『本質的性格』と現実」 「『戦争』と沈黙する弁護士会という未来」 「日弁連『偏向』批判記事が伝えた、もうひとつの現実」)。

     もう一つの観点は、そもそも「政治的」意味を含めた「活動家」であることを自身が否定しない、あるいは社会的には文字通りそれを優先させているととれる弁護士への評価です。もっとも前者の立場とこれをどこまで区別すべきなのかは、疑問もあります。つまり、前者のような職業的性格であればこそ、個人の政治信条としての立場としても、それは役立つという発想は当然あるからです(「『超人』弁護士たちへの目線」)。

     冒頭の社会的な政治的なタブー視は、もちろんこの両者に注がれますが、より後者に強く反応するものとなるのは当然です。しかし、あたかも弁護士に法律家としての「公正さ」「中立性」を求めるような社会的なタブー視は、弁護士という職業への本質的無理解に止まらす、「非公正さ」「非中立性」批判の中身とは無縁の、冒頭の記事にあるような対「政治的」忌避感に引きずられたものではないか、という気がしてくるのです。つまり、言葉を換えれば、「弁護士としてあるまじき」には、果たして本当の中身はあるのかどうか、ということなのです。

     「宗教(的)」ということについても、とりわけオウム事件以降、同様のタブー視の風潮がいれます。しかし、今回の統一教会問題をみても分かりますが、社会的な評価につながる、その当不当の線は、「政治的」タブーよりも引きやすいようにとれます。

     もっとも、あえていえば、多くの弁護士の現実的なテーマが、もはやここにあるのか、ということもまた疑問といわなければならない現実があります。弁護士としての妥当性よりも、もはやそういう目線が向けられそうなことに関心がない、あるいは近付かない、近付く余裕もない弁護士は沢山いるはずだからです。

     「政治的」とか左傾化を心配するより、むしろ、そういう批判を受けることを覚悟で、政治的社会的少数者の側に立ったり、「臆せず」筋を通す弁護士が、この国に存在しなくなる方を心配しなければならない状況にあるように思えてならないのです。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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