fc2ブログ

    「あぐらをかいていた」という批判と自覚

     「あぐら(胡坐)をかく」という言葉が、こんなに被せられてきた職業は他にあるだろうか――。1990年代からの、「平成の司法改革」をめぐる議論以降、今日に至るまで、弁護士という仕事に被せられてきたこの言葉を考えると、そんな印象を持ってしまいます。弁護士批判の文脈で登場する、この表現は、「参入障壁」「既得権益」といったネガティブな言葉を伴い、それまでの弁護士を取り巻いてきた環境と、その中にいた彼らの姿勢に強い反省を迫るものとして提示されてきたのでした(「弁護士資格『あぐら』論の中身と効果」)。

     当時から今日まで、この言葉をどう受けとめるのかについて、いろいろな弁護士たちに聞いてきました。もちろん、この表現が意味するだろうところの細部については、違和感を覚えるとする意見も多く耳にしてきました。「参入障壁」といっても、それは厳正・適正な資格審査によるものであって、それ自体、弁護士が批判される筋合いではないというものや、必ずしもその状況を「既得権益」とまで言われるような、弁護士の数を利用した経済的有利性としてとらえていない、というものもありました。

     しかし、ある意味、不思議に思えることではありますが、当時の多くの弁護士たちの反応は、この言葉に対して、総じて自省的自嘲的でありました。それは、弁護士増員をはらんだ「改革」ムードの中で、むしろ社会からこの切り口で指摘されたならば、反論は難しい、というどこか諦めのようにもとれましたし、何よりもこの「改革」に主体的に取り組もうとしていた弁護士会主導層が、既に率先して,自省的自戒的にこの表現を使っていたからのようにもとれました。

     つまり、有り体にいえば、数が少数で経済的にも一定の安定を確保されていた弁護士を、いわば自覚の問題として、言い換えれば、その姿勢を改める努力でなんとかできる問題として批判的に指摘する言葉を、自ら謙虚に受け止める姿勢を、弁護士会側から率先して示した、というのが、この「改革」でもあったのでした。

     当時、日弁連・弁護士会の主導層は、増員を導き出す弁護士の「改革」を、当初、「一丁目一番地」「登山口」と称し、自省的に受けとめて前進を呼びかけましたが、それを会員に自覚させ、飲み込ませることに一役買ったのが、この言葉だったのです(「弁護士の『改革』選択に対する疑問」)。

     しかし、結果からすると、「改革」は、というか、弁護士は、この表現の前に、いろいろなものを置き去りにしてしまったようにとれるのです。前記したように、あたかもこれまでの意識が元凶とするかのようなこの表現に紐付けられた、有償の潜在需要の見込みの甘さと、開拓精神やそれによる増員弁護士による需要顕在化への過剰期待。つまりは、「改革」に当たって、もっと慎重に捉えるべきだった前提的条件を、すっ飛ばしてしまったことが、まさにその後の「改革」の失敗につながっていたからです。

     この自省的な表現は、潜在需要論や必要論と増員される数をめぐる疑問を排除し、増員政策に、まさに弁護士たちを動員するために使われたといってもいいものです。しかし、その増員政策の結果として現出した、当初、必要論の前に強調されていなかった競争・淘汰という状況は、一方で「改革」が目指していたとされる公益性の推進とは、全く矛盾する状況を社会に現出させました。

     つまり、競争によって生き残りをかけ、いわば稼げない弁護士たちの退場を当然のルールのように提示されることになった「改革」にあって、およそ弁護士は、これまでのように公益性や無償性を追求することはできなくなったからです。

     皮肉な言い方をすれば、「あぐらをかいていた」と弁護士たちが自覚し、実際に「あぐらをかけない」状況になる「改革」が行われたとき、「改革」や、あるいはこの言葉で弁護士を批判した人たちが期待したような、公益性や無償性に対し、弁護士はより目を向けられなくなったということなのです。

     最近、ネットなどでは、前記増員政策とは別に、この表現を弁護士自治に被せる論調がしばしば見られます。「自治にあぐらをかいている」というのは、弁護士会の懲戒制度の甘さの指摘であり、同時に不祥事弁護士に対する会の責任への自覚の甘さをいうようにとれます。逆にいえば、監督官庁がないから、こうなっているという批判です。

     このことに対して、弁護士会は十分に弁明的ではないようにとれますが、実際は「自治にあぐらをかいている」のではなく、現在、起きている不祥事は、弁護士自治が責任を背負う姿勢を示すことができても、それによってすべて解消できるようなものではない。むしろ根本にあるのは、前記「改革」が生み出した構造的な問題といわなければなりません。

     増員政策の失敗による、経済的ダメージに起因する不祥事を、弁護士自治が全部背負うというのは、現実的には、より「あぐら」批判を浴びる状況に、弁護士会を追い込むことになる可能性すらあるのです(「弁護士横領事案と弁護士会の姿勢の問題」)。

    「あぐらをかいていた」と受け止めた「改革」当初の弁護士たちの中には、そのことについて弁護士は社会から拍手をもって迎えられると捉えた向きもあったようにとれました。しかし、自省・自戒の姿勢として、ただそれを受け止めるだけでなく、直視するべき現実を直視し、それを前提とし、あるいはそれを社会に伝えなければ、結局、誰も得をしない結果が待っている、といわなければなりません。


     弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    スポンサーサイト



    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    求められていない弁護士「依存社会」

     「社会の隅々」とか「全国津々浦々」といった表現を伴って、弁護士が登場し、これまで以上に、「どんなことでも」市民が彼らのお世話になる社会。「平成の司法改革」が、望ましいものとしてイメージさせたそんな社会を、果たして国民は求めていたのだろうか、あるいは今も求めているのだろうか、ということが、問い直されないまま、現在に至っています。

     結論から言ってしまえば、司法制度改革審議会最終意見書を見れば明らかなように、これはあくまで「改革」を実行しようとする側が規定した、「べき論」ともいうべきものに基づいたもの、といえます。「下から」の「改革」ではなかったことを象徴するように、どんなに「市民」を謳っても、そういう社会を求める声に押し上げら、それに応えるために、そうした社会が志向されたわけではないのです。

     本来、市民はさまざまな社会生活の事象に、弁護士が介入してくる社会を望んでいないし、できればそれを回避したいでしょう。「改革」を推進する側は、決してこういう表現をとりませんが、そこまでの「弁護士依存社会」を求めていないはずなのです。

     そして、「改革」が弁護士の役割が増大する未来、必要とされる未来の到来をどんなに強調しても、同改革がスタートして20年以上が経過した今も、その市民の中の「依存」に対する感覚は大きく変化していない。有り体にいえば、多くの市民とっての、それまでのように一生に一度ご厄介になるかどうかくらいの関係性は大きく変わっておらず、また、そのことに強い問題意識、変えて欲しいという意識を持っているようにもみえないのです(「弁護士『津々浦々』論の了解度」)。

     ただ問題は、冒頭に書いたように、そのこと自体が、依然として問い直されず、「改革」を唱えた側に一顧だにされていないというところにあります。「改革」当初のまま、弁護士を増やし、多方面に進出する、いや逆に多方面に進出するために増員を止めてはいけない、という一辺倒の発想が存在しているようにみえます。それが望ましい社会であり、あたかもその進出した「社会の隅々」で、弁護士は市民から拍手をもって迎えられるかのような。

     市民の目線に、この状況は、おそらくそうした「改革」当初からの発想の弁護士たちに見えているものとは、たいぶ違うイメージのものとして映っていると感じるときがあります。端的に言ってしまえば、市民側にとっての弁護士利用の最も基本的な条件であり、かつ前提であるといっていい経済的な問題を、この「改革」側が当然に織り込み済みだろうと考えるからです。

     前記のような弁護士活用論をいう以上、その点への十分な配慮のうえに、市民側のこれまでにない活用拡大を想定しているだろう、と考えておかしくないということなのです。逆にいえば、弁護士を増やしさえすれば、あるいはその弁護士に価格競争をさせる程度で、市民が弁護士におカネを投入する用意がある、などという見通しは、ゆめゆめ立てていないだろう、と。

     多くの市民が弁護士に求めているのは無償性であり、結局、大量に存在しているのは、限りなく無償であれば、「利用してもいい」というニーズなのではないかーー。いまさらながら、「改革」の結果が出た今、こうした率直な感想が、業界関係者の中で、異口同音にささやかれています。法テラスへの「期待」も言われますか、一方でその法テラスそのものが、この弁護士の現実を直視して、弁護士を活用しようとしているようにはとれないし、それゆえにその活動から離れる弁護士も出始めているのが現実です。

     そして、これが問い直されないと、どういうことになるかと言えば、当然、市民側の弁護士業務の有償性に対する誤解は固定化します。しかし、それと同時に、さらに問題なのは、本当に無償もしくは限りなく無償にしても、弁護士に社会が求めているものがあるとすれば、逆に言えば、本当に市民のための「べき論」として、弁護士が関わらなければならないところがあるとすれば、そこに弁護士が、これからどうすれば関わっていけるのか、という議論に一歩も進まないことです。

     つまり有り体に言えば、姿勢として、このままの状況で、「弁護士がやるんだ」、努力すれば、弁護士を増やせば、あるいは一定限度事業者性を犠牲にすれば「できるんだ」と言い続ける限り、その部分を国の責任として、国費を投入してでもカバーすべき、という議論にはならない。これまでのように、一事業者として稼ぎながら、前記市民が当然視している経済的前提と、そのニーズに応えて、なんとかしろ、という話のままである、ということなのです。

     仮に多くの市民の意識が、相変わらず弁護士の活用を拡大する方向でとらえていない、その一方で、経済的な条件付きで活用を期待したい層への拡大は、むしろ進まないし、逆に後退もしかねない、ということになるのです。

     「改革」が破壊してしまったといっていい、かつて「経済的自立論」が言われた時代のような、一定限度の弁護士の経済的余裕の中で、市民が前記前提をともなって弁護士に期待する状況よりも、弁護士が経済的に追い詰められながら「なんとかしろ」と言われている状況が固定化している現在の方が、肝心の市民にとって本当に有り難い話なのか――。それも問われているように思えてなりません。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    変わらない「魅力発信」必要論の現実

     「弁護士の魅力発信」の必要性を、志望者減や「有意な人材」確保の対策としていう声が、いまだに弁護士会の中で聞かれます。最近は、法教育の必要性とつなげて、どうもその中で、その「魅力」を早くから志望者予備軍に周知させるべき、とする形を描いている方もいるようです。

     この話をする度に、毎回、同じ前置きをすることになりますが、弁護士・会が自らの仕事の魅力を発信したり、その努力をすること自体は、やるに越したことはないで終わる話かもしれません。しかし、問題は前記したように、それが志望者減や有意な人材確保の「対策」という文脈で、その軸として語られているところです。

     こんな言い方をしたならば、お叱りを受けるかもしれませんが、ある意味、志望者減や「有意な人材」確保という現実的な課題に対して、少なくとも弁護士会主流派の側から聞こえて来る「魅力発信」の必要性は、「対策」としての、むしろ手詰まり感を晒しているようにすらとられてもおかしくありません。

     弁護士の志望者減の原因も、現状での有意な人材確保にも、「改革」がもたらした弁護士の経済的環境の悪化を抜きに語ることができないのは、誰の目にも明らかです。一方、「魅力発信」の効果に期待する発想とは、志望者の認識不足解消の「効果」を前提としています。志望者予備軍や「有為な人材」とされる人たちが、弁護士の隠れた「魅力」、活躍の場ややりがいの存在を知れば、必ずやこの世界の門をたたく「はず」というものです。

     もちろんそういう部分も無いわけではないと思いますが、これでなんとかなる、なんとかしていく、という見通しは、本当に現状を直視し、状況を現実的に大きく変える効果があるものととれるのでしょうか。つまり、有り体にいえば、肝心の志望者を遠ざける最大要因であるはずの経済的実情を脇において、なんとかしようとしている発想の限界が、むしろ明白というべきではないでしょうか。

     もちろん、弁護士にはこんな経済的な魅力、妙味がある、ということであれば、話は別かもしれません。しかし、あえていえば、それは「こんな仕事もある」とか「こんな仕事で生活している弁護士もいる」という紹介では、足りないのもまた明らかです。もとより他の仕事の選択肢かある志望者予備軍や「有意な人材」が、かつての弁護士に求めたような、ふさわしく処遇される現実感がもてるものでなければ意味がありません。

     しかも、法科大学院制度の導入による先行投資を考えれば、よりリターンを期待できる処遇を念頭におくのも当然です。手詰まり感といったのは、そうした志望者側がこの資格に抱く、あるいは抱いてきた期待感を考えたとき、弁護士側から出される有効策は、果たして彼らの認識不足を前提としたような、「こんな仕事もある」的な魅力発信なのか、ということを率直に感じてしまうからなのです。

     こういう話をすると、必ず「やりがい」ということの価値を強調する人がいます。しかし、前記した状況を考えれば、それが志望者に伝わる「効果」をどのくらい見積もるのか、という話になります。また、経済的に成り立っているというイメージで伝えられるものもありますが、多分に生存者バイアス的にとられることを考えれば、それもまた、その「効果」を相当差し引く必要も出てきます。

     つまり、何が言いたいかと言えば、根本的な問題は、志望者や有意な人材を遠ざける最大の原因を作った「改革」の増員と法科大学院を中核とする新法曹養成制度の失敗を直視せず、それに手を付けずに、なんとかするという、ある種、無理な考えが、この「魅力発信」の必要性の強調には、今もってべったりと張り付いているようにとれることなのです(「弁護士『魅力発信』必要論の本音と『効果』」)。

     弁護士会のとりわけ主導層側から、このことが強調されはじめたのは、まさに「改革」の失敗と、その影響が出始めてからです。既にそれからも随分時間が経過しましたが、これまでにその「魅力発信」の効果は、どのくらいあったといえるのでしょうか。

     少なくともそれが、志望者と、さらに「有為な人材」の、この世界に対する経済的不安や期待を超えて、彼らを再びこの世界に引き付けるものになり得るのか。そして、何よりもなぜ弁護士は、自ら魅力を発信しなければならなくなってしまったのか――。それを、まずは冷静にとらえる必要があるはずです。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    「本人サポート」への懸念

     現在行われている日弁連会長選とも絡んで、弁護士間で話題になっている、、いわゆる「本人サポート」。既に日弁連が発表している「基本方針」によれば、地裁における民事裁判手続のIT化導入に向け、IT技術の利用困難な本人訴訟当事者の支援を行うものとされています。

     IT技術の利用困難な当事者の支援といわれれば、まず、多くの人は何も弁護士でなくてもかまわないと思うはずのところですが、前記構想は、IT機器の提供や利用方法の教示といった純粋な電子化支援サービス(ITリテラシー支援策)という「形式サポート」に加え、法的助言などを伴う法律サービスとセットになる「実質サポート」を挙げ、後者は「弁護士のみがなし得る」として、ここを弁護士・会が「担う必要がある」という認識を明確に示しています。

     しかし、冒頭に弁護士間で「話題となっている」と書きましたが、聞えて来る多くの弁護士たちの声は、残念ながら、この構想への期待や賛同よりも、不安を訴えるものです。要は日弁連が会員の業務にプラスにならない、むしろ有り難くない制度を推進するのではないか、という不安です。

     指摘されている基本的な問題は、前記法的助言などを伴う「実質サポート」と弁護士の本来的業務との境目が不明確になることで、価格設定などによるしわ寄せが、結局個々の弁護士に来るのではないか、ということが挙げられています。受任ではなく、本人訴訟へのサポートという形が、本来的な有償の弁護士の法的サービスの価値を、利用者市民から見て、またぞろ分かりづらいものにさせるということです。

     それは、価格の問題であると同時に、依頼者の誤解や結果責任の問題としても懸念されています。弁護士の法的サポートを受けたと理解する依頼者市民は、弁護士側があくまで限定的なサポートと位置付けたところで、訴訟の結果に対して、その責任を弁護士に被せようとするかもしれない。また、それが操作ミスやシステムエラーが原因のものまで及んで来るという懸念もあります。

     より安く簡易にという発想に流れがちな依頼者市民の本音が被せられれば、それこそ「実質」を依頼した効果を、このサポートに過大に期待しても当然ですし、また、その誤解のツケもまた、弁護士が負う恐れがあるという話です。

     弁護士にとっての採算性ともに、弁護士の業務価値への影響という論点もはらみます。あくまでサポートという境目を弁護士側の認識で進めて、それを依頼者市民が理解し得ないことも考えられますが、同時にあくまでより安く弁護士を活用し、「お得な」法的サービスを引き出せるものと理解されてしまう危険性も十分あります。弁護士の中からは、早くも「本来的業務の安売り」といった声も出ています。

     そして、さらにこの構想には、根本的に弁護士たちの不安のツポを刺激しているものがあるようにとれます。前記「基本方針」の提案理由の中には、次のような表現が出てきます。

     「連絡会議の下に設けられている幹事会における有識者ヒアリングにおいても、本人訴訟のサポート体制の整備として官民の既存の基盤(地方公共団体、法テラス、弁護士会、司法書士会等)の活用と必要な予算の投入の必要性等が指摘され、当連合会の態度決定が迫られている」
     「他方で、民事裁判手続のIT化に伴う懸念として、IT面のサポートに便乗するなどした非弁活動の増加が指摘されている」
     「したがって、当連合会は、非弁活動による国民の不利益を防止しつつ,民事裁判手続のIT化が導入されても、年齢、職業、地域などの当事者の置かれた立場を踏まえ、本人訴訟でIT技術の利用が困難な当事者本人の裁判を受ける権利が十分に保障されるよう積極的な取組をする必要がある」
     「形式サポート及び実質サポートのいずれについても、資力の乏しい本人には、法テラスによる十分な情報提供と相談対応が不可欠である。また、本人サポートに限っては、代理援助を基本とする法テラスの既存の枠を超えて、法テラスが本人に対してより幅広いIT支援を可能とする枠組みやIT機器の整備等が十分に検討されるべきである」

     弁護士会の意見書を見慣れている人間からすれば、何の違和感もない、おなじみの調子ともいえますが、「迫られている」「指摘されている」から導き出される必要論と「べき論」が先行する中で、前記したような会員の不安が顧みられないパターンもまた、ある意味、弁護士会の見慣れた景色。さらにもっと言ってしまえば、司法改革の失敗のパターンを彷彿させるものです。

     かつて本人訴訟に挑戦する家族を企画として取り上げ、その苦悩を身近で見て来た経験あるものとして、本人訴訟への専門家のサポートが当事者にとって、どれほど有り難いものであるかということも、一応理解はしているつもりです。本人訴訟への動機や経緯そのものは、司法や弁護士の役割への誤解も含めて様々ですが、私が取り上げた家族のように、味方だと思っていた弁護士に去られ、その後、様々な事情から、どうしても弁護士に辿りつけない結果、本人訴訟に至るケースもあります。

     彼らは弁護士に依頼する価値を理解していないわけでは毛頭なく、本人訴訟を通して繰り返し思うのは、「今、弁護士がそばにいてくれたら、どうサゼッションしてくれるのだろう」というものでした。だからこそ、前記した弁護士たちの「実質サポート」と本来業務との境目への不安・懸念は、弁護士のみならず、当事者にとっても避けられない極めて現実的な問題であるという気がするのです。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    弁護士の中にあった「自負」と今

     かつての弁護士界では、「弁護士が増えれば社会がよくなる」とか、「弁護士の数が、その国の人権のレベルを決める」といった趣旨のことを言う弁護士に、普通に出会う時代がありました。以前、ここでも取り上げたことがありますが、こうした弁護士の自負あるいは自覚は、確かに相当多くの弁護士の中にあった印象があります(「弁護士の数が国の人権レベル?」)。

     それは例えば、対権力にあって、弁護士が大衆の側に立って、この国の人権状況を下支えするのだ、という意識、「正義」の立場から弱者・少数者の最終的な味方になる「最後の砦」であるといったイメージや、この社会に発生する市民間の紛争を適正に解決に導くには、自分たちが必要不可欠(社会が絶対に必要とする)といったものでもありました。

     その意味で、前記のような表現をするかどうかは別に、こうした弁護士の自負のようにとれる意識は、それこそ特別なものではなかったし、それは、それで「正論」といえる面もあったと思います。しかし、このことを思い出すと、やはり今の多くの弁護士は、基本的に変わったという気持ちになるのです。

     もちろん、当時も、いわゆる人権派といわれる弁護士と、そうではない弁護士の間には意識に格差も、前記のような発想での濃淡もありましたし、今もそうかもしれません。しかし、やはり「平成の司法改革」といわれる「改革」は、多くの弁護士の意識を否応なく変えたといえます。というか正確には、この世界に来る、現実にいる人の意識が、かつてとは違うものになったようにとれるのです(「弁護士増員で『社会がよくなる』という発想」)。

     そして、その中で、やはり気になるのは、かつて存在していた前記「自負」はどうなったのか、ということなのです。

     何度か書いてきたことですが、弁護士は経済的な意味での保身から、この「改革」の弁護士増員政策に反対してきた、という意見を今でも聞きます。しかし、現実的なことを言えば、「改革」は増員後の有償需要の顕在化に対する楽観論とともに、この弁護士の中にあった潜在的な「自負」に訴え、いわば、それを利用する形で、弁護士たちを巻き込んだ面もあったといえます。

     つまり、今では感覚的数値だったとされる「二割司法」と表現された司法の膨大な機能不全、規制緩和後に到来するとされた事後救済社会での役割、「社会の隅々」に登場する身近な存在への待望、あるいは法曹一元――。まさに、そうしたものを支えなければならない現実を私たち弁護士は看過すべきではないという界内推進派の呼びかけは、少なくとも当時の弁護士の中にあった、前記したような社会の「下支え」意識と、その「自負」を強く刺激するものになったはずなのです。

     しかし、この「改革」の結果は、その呼びかけの想定と違うものであったのと同時に、前記「自負」を含めた彼らの意識の在り様を変えてしまいました。いわば「自負」に乗っかったはずの「改革」が、皮肉にも弁護士の根本的な目線を変えたようにとれたのです。サービス業化、ビジネス化への志向を余儀なくされる事態は、「下支え」ととらえていた役割そのものの意義を動かしたのではなく、まさにそのシビアな成立・生存条件への関心に意識の比重を転換したものになったからといえます。

     そして、さらに肝心なことは、この「改革」が社会の弁護士への目線を、より前記「自負」につながるような発想、あるいはそれへの期待に近付けるものになったかも疑わしい、という現実です。弁護士が増える社会が、この国をよくする、そういう実感を、より社会に与えるものになったのか、ということです。この「改革」が、弁護士が沢山いる社会の価値を、前記した「自負」の正しさを裏付ける形で、実現しつつあるわけでは、決してない、ということなのです。

     「弁護士が増えれば、それだけ経済的に余裕がなくなる弁護士は社会に溢れる。だから、私たちはもっと警戒しなければならない」。

     こういった市民の声をネットでもそれ以外でも沢山聞いてきました。最近でも、「弁護士による遺産横領や未返還は総額20億円、起訴や懲戒処分は5年間で50人に」(讀賣新聞オンライン)、「成年後見人の弁護士が“現金約570万円着服”弁護士会が業務停止処分を発表」 (RKBオンライン)といった報道を目にした市民が弁護士をどうとらえるのかは、もはや火を見るより明らかというべきだし、むしろ前記のような警戒感を市民側としては健全といわなければならない、深刻な現実が存在しているようにもとれます。

     「改革」以前、この社会の中に、それこそ彼らの「自負」に沿うような期待感や待望論がどの程度あったのかは一口にはいえませんが、少なくとも弁護士たちをその役割観に沿って動員させた「改革」の結果は、弁護士にとっても、社会にとっても、正反対のベクトルに作用するものになっている現実は認めざるを得ないように思えるのです。

     前記のような、依頼者市民を犠牲にする弁護士の不祥事を「『改革』の成果」と皮肉った人がいました。冒頭の弁護士は、それでも間違ってはいないという人もいるかもしれません。ただ、少なくとも「社会がよくなる」ことも、「人権レベル」の向上も下支えも、弁護士を量産さえすれば達成されるものではないことは、この弁護士増員社会が証明したことを、今一度、弁護士は直視すべきです。

     そうしなければ、この「改革」で何が欠落し、社会にとって何を欠落させるべきではなかったのかという点に、延々と辿りつくことができないはずです。

     今年も「弁護士観察日記」をお読み頂きありがとうございました。いつもながら皆様から頂戴した貴重なコメントは、大変参考になり、刺激になり、そして助けられました。この場を借りて心から御礼申し上げます。来年も引き続き、よろしくお願い致します。
     皆様、よいお年をお迎え下さい。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR