「安く使いたい」という欲求と弁護士が抱えたもの
弁護士が格段に必要になる時代が到来する。それを考えた時、この国の弁護士の数は決定的に不足している――。20年以上前、司法改革が「事後救済社会」のイメージとしてつなげた弁護士必要論の描き方は、その結果としての激増政策を受け容れた当時の弁護士たちの意識に強く影響したといえます。
そして、今にしてみれば、この甚だ漠とした見通しに対する、当然呼び起こされてもよかった、当時の弁護士たちの疑念、つまりは経済的な実現可能性について、彼らの目を逸らさせ、楽観的捉え方に誘導したのが、潜在需要論でありました。
この国には、既にその段階で、弁護士がもっと活用されていい「眠れる鉱脈」のごとき需要が、存在している。それは、それこそ「鉱夫」たる弁護士が増えるほどに開拓され、顕在化するのだ、と。当時の多くの弁護士たちが、この発想が飲んだ時点で、彼らの、希少性にあぐらをかいてきたかのようにいう怠慢論への反論や、増員必要論に対する懸念論、慎重論の腰は砕けてしまっていたようにとれました。
その先の大外れの結果は、いまさら繰り返すまでもないでしょう。もちろん、この増員政策にあくまで反対した弁護士たちからすれば、想定内のことですが、前記発想の中で受け容れた多くの弁護士たちからは、ここまで弁護士の需要が顕在化せず、資格の価値に影響するほどの経済的打撃を受けるとは想定出来なかったという、本音を聞くことにもなったのです。
ここには、一種奇妙な気持ちにさせるような、自らの職業防衛に対する弁護士の、脇の甘さ、無防備さといいたくなるものを感じてしまいます。そして、それを考えたとき、もう一つ、20年以上たった今、弁護士の間で、この「改革」に秘められた真の目的のごとく、しきりと語られるようになっている、あることに突き当たります。
「弁護士を安く使えるようにする」。そういう弁護士を、そういう環境を実現する欲求と期待感が、実は前記さまざまな「改革」の描き方の向こうに、あるいはその他のものが、たとえそぎ落ちたとしても、「改革」の実としてつかもうとする、そんな発想があったのではないか、というイメージです。
しかし、現実的には、このイメージには、「改革」がはらんだ二つの異なる発想あるいは欲求・期待が混在していました。有り体にいえば、「おカネを投入する用意がある利用者が、より使いやすく、廉価で使いたい、使い勝手をよくしたい」というものと、「基本的におカネを投入する用意がない、これまでの利用不可能者(敬遠者)が、利用できるようになる(のではないか)」というものです。
要するに、「改革」、とりわけ弁護士増員政策は、結局、この二つの異なる社会の欲求と期待感を背負う(あるいは背負おうとした)ものだったのではないか、ということです。この「改革」でいわれているところの同床異夢性。経済界が求めた新自由主義的性格や企業ニーズへの対応と、弁護士会が対峙させた「市民のための改革」にもつながってみえます(「同床異夢的『改革』の結末」)。
弁護士会は、この同床異夢性を飲み込む、というか、分かった上で「改革」の駒を進める決断をした時、その後の弁護士業の運命を左右する二つの決定的な発想(あるいはミス)を選択したといえます。一つは、前記二つの「安く使いたい」という、弁護士にとっての採算性にかかわる異なる社会のニーズを、「ニーズはある」と一括りに捉えたこと。そして、もう一つは、前記必要論の外部からの「圧」に加え、内部からの「圧」になったともいっていい、より弁護士は公的なものに犠牲的に対応すべきとする、発想に背中を押されてしまったこと、です。
今にしてみれば、弁護士は、むしろ増員政策によって逆効果が生まれる、現実的な業務に影響する、二つの「無理」を抱えてしまったようにみえます。前者についていえば、弁護士が増えること、その競争効果でも事業者として実現し得ない、大量の無償ニーズを抱えること、そして後者についていえば、弁護士の使命感に紐付けられた「べき論」によって、事業者としての現実的な実現可能性への危機感が、「できる」「やればできる」の声に薄められる結果になってしまったことです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「『合格3000人』に突き進ませたもの」 「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。
そして、その結果はどうなったかといえば、弁護士の全体の経済的状況は大きな打撃を受け、その中で、経済界が求めた前者の弁護士を「安く使いたい(使い勝手をよくしたい)」というニーズについてだけ、要求者が着実に「改革」の実を得たのではないか――。この結果こそが、前記今、弁護士の中で聞かれる言葉につながっているようにとれるのです。
こうした結果につながった当時の弁護士(会)の姿勢について、かつてある反対派の弁護士は「弁護士は『改革』という言葉に弱い」と語りました。この言葉が、この弁護士の自らの業務に対する無防備さのすべてを語り切っているのかは分かりませんが、体質的ともいっていいこのことに、弁護士はもっと自覚的であっていいと思えます。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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そして、今にしてみれば、この甚だ漠とした見通しに対する、当然呼び起こされてもよかった、当時の弁護士たちの疑念、つまりは経済的な実現可能性について、彼らの目を逸らさせ、楽観的捉え方に誘導したのが、潜在需要論でありました。
この国には、既にその段階で、弁護士がもっと活用されていい「眠れる鉱脈」のごとき需要が、存在している。それは、それこそ「鉱夫」たる弁護士が増えるほどに開拓され、顕在化するのだ、と。当時の多くの弁護士たちが、この発想が飲んだ時点で、彼らの、希少性にあぐらをかいてきたかのようにいう怠慢論への反論や、増員必要論に対する懸念論、慎重論の腰は砕けてしまっていたようにとれました。
その先の大外れの結果は、いまさら繰り返すまでもないでしょう。もちろん、この増員政策にあくまで反対した弁護士たちからすれば、想定内のことですが、前記発想の中で受け容れた多くの弁護士たちからは、ここまで弁護士の需要が顕在化せず、資格の価値に影響するほどの経済的打撃を受けるとは想定出来なかったという、本音を聞くことにもなったのです。
ここには、一種奇妙な気持ちにさせるような、自らの職業防衛に対する弁護士の、脇の甘さ、無防備さといいたくなるものを感じてしまいます。そして、それを考えたとき、もう一つ、20年以上たった今、弁護士の間で、この「改革」に秘められた真の目的のごとく、しきりと語られるようになっている、あることに突き当たります。
「弁護士を安く使えるようにする」。そういう弁護士を、そういう環境を実現する欲求と期待感が、実は前記さまざまな「改革」の描き方の向こうに、あるいはその他のものが、たとえそぎ落ちたとしても、「改革」の実としてつかもうとする、そんな発想があったのではないか、というイメージです。
しかし、現実的には、このイメージには、「改革」がはらんだ二つの異なる発想あるいは欲求・期待が混在していました。有り体にいえば、「おカネを投入する用意がある利用者が、より使いやすく、廉価で使いたい、使い勝手をよくしたい」というものと、「基本的におカネを投入する用意がない、これまでの利用不可能者(敬遠者)が、利用できるようになる(のではないか)」というものです。
要するに、「改革」、とりわけ弁護士増員政策は、結局、この二つの異なる社会の欲求と期待感を背負う(あるいは背負おうとした)ものだったのではないか、ということです。この「改革」でいわれているところの同床異夢性。経済界が求めた新自由主義的性格や企業ニーズへの対応と、弁護士会が対峙させた「市民のための改革」にもつながってみえます(「同床異夢的『改革』の結末」)。
弁護士会は、この同床異夢性を飲み込む、というか、分かった上で「改革」の駒を進める決断をした時、その後の弁護士業の運命を左右する二つの決定的な発想(あるいはミス)を選択したといえます。一つは、前記二つの「安く使いたい」という、弁護士にとっての採算性にかかわる異なる社会のニーズを、「ニーズはある」と一括りに捉えたこと。そして、もう一つは、前記必要論の外部からの「圧」に加え、内部からの「圧」になったともいっていい、より弁護士は公的なものに犠牲的に対応すべきとする、発想に背中を押されてしまったこと、です。
今にしてみれば、弁護士は、むしろ増員政策によって逆効果が生まれる、現実的な業務に影響する、二つの「無理」を抱えてしまったようにみえます。前者についていえば、弁護士が増えること、その競争効果でも事業者として実現し得ない、大量の無償ニーズを抱えること、そして後者についていえば、弁護士の使命感に紐付けられた「べき論」によって、事業者としての現実的な実現可能性への危機感が、「できる」「やればできる」の声に薄められる結果になってしまったことです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「『合格3000人』に突き進ませたもの」 「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。
そして、その結果はどうなったかといえば、弁護士の全体の経済的状況は大きな打撃を受け、その中で、経済界が求めた前者の弁護士を「安く使いたい(使い勝手をよくしたい)」というニーズについてだけ、要求者が着実に「改革」の実を得たのではないか――。この結果こそが、前記今、弁護士の中で聞かれる言葉につながっているようにとれるのです。
こうした結果につながった当時の弁護士(会)の姿勢について、かつてある反対派の弁護士は「弁護士は『改革』という言葉に弱い」と語りました。この言葉が、この弁護士の自らの業務に対する無防備さのすべてを語り切っているのかは分かりませんが、体質的ともいっていいこのことに、弁護士はもっと自覚的であっていいと思えます。
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