「自由競争」をめぐる矛盾への目線
「弁護士に自由競争は馴染むか馴染まないか」などと言えば、いまや一昔も二昔も前の議論と言われかねませんが、現実的にはその議論が投げかけた根本問題は、いまだに、もやっとしたままで、現実が進行してきたという印象をどうしても持ってしまうのです。
例えば、法テラスをめぐり散々言われている弁護士の仕事に対する民業圧迫とか、価格設定権を握られていることへの問題意識、さらに弁護士会の高額会費への不満、あるいは自治や弁護士会活動への納得感をめぐる批判――。
こうした弁護士の中から聞こえる声は、見方によっては、自由競争の足を引っ張る阻害要因、いわば「規制」に対するものとみることが出来るからです。弁護士に一般のサービス業を被せ、その特異性を斟酌しない、競争への「覚悟」を求める声は、この「改革」が始まってから、散々聞かれるところとなりましたが、その「覚悟」を決めようとする側から出される、「それならばこれはどうなのだ」といわんばかりの、本音にとれます。
「資格を取っても当然に食えるわけではない」といった、弁護士の心得違いを言うような響きのことも度々言われてきましたが、それであれば、なおさらのこと、自由競争の阻害要因に、弁護士が敏感になるのもまたも、当然の結果といえます。
ところが、自由競争の阻害要因あるいは「規制」という視点になると、なぜか前記のようなレトリックで弁護士の意識変革的なことを言う「改革」推進論を掲げる側が、それをどうにかする、つまりはできるだけその阻害要因を除去するという話をするわけでもなく、なにやら腰が引けているようにみえるのです。
特に、いわば競争へ圧力と阻害要因との板挟みになっているような、前記弁護士たちの切実な声を、おそらく本当は一番理解できるはずの弁護士会主導層が、耳を傾ける風ではない。有り体にいえば、そこになると、弁護士の公的使命のようなものが持ち出され、そこは個々の弁護士でなんとかしろ、うまく調和させよ、と言っているように聞えるのです。
つまり、そこでは他のサービス業と同一視、文字通り自由な競争はできない、弁護士という仕事の特異性を認め、持ち出しているのではないか、という気がしてしまいます。そして、それが弁護士の現実であるならば、それは一昔も二昔も過去になったとされる「馴染まない」論につながってしまうようにもとれるのです。「馴染まない」とは、自由競争にどこまでいっても、丸投げできない、それがはばかれる弁護士の本当の姿ではなかったのか、と「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)。
弁護士会主導層が、ある種の自由競争をめぐる矛盾したようなスタンスをどうしてとっているのか、については、界内でいろいろな意見が聞かれます。前記弁護士法上の使命、「人権」を旧来のスタイル同様にかざしていることを、純粋に前記「改革」の方向とは矛盾した、競争の阻害要因とは本気で認められない立場、百も承知しているけれど、それこそそこはなんとかしろ、という立場(自分自身はどちらにしても影響ないという本音を伺わせつつ)、そして、「改革」に無理があったことも分かりながら、いまさらどうすることもできない、と見ている立場(もっとも二番目の立場の本音とも考えられますが)――。
そして、さらにここで、改めてはっきりさせなければならないのは、いわゆる「平成の司法改革」の「バイブル」とされた2001年の司法制度改革審議会意見書と、同時弁護士たちが受け止めた「改革」の立場です。これまでも書いてきたことですが、自由競争論議の事実上の端緒となっている弁護士増員政策は、実は当初、自由競争の促進と、その先の競争・淘汰、ましてはそれによる良質化などを表向き念頭に置いたものではありませんでした。
繰り返し言われたのは、決定的な弁護士の数の不足であり、その時点においても、さらに需要が拡大する未来おいても、質と量においてなんとかしなければならないという状況認識だったのです。嫌な言い方になるかもしれませんが、この時点で、増員という「改革」の方向を受け容れた、主導層を含む多くの弁護士たちは、自由競争による競争・淘汰が、弁護士にとって生存にかかわるような深刻なテーマになるとは思いもよらなかったはずです。
そして、そうであればこそ、その時点で、前記した矛盾、会員の板挟み的状況を想定した、慎重な検討をする余地もなかったのではないか、ということも疑いたくなるのです(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」 「『合格3000人』に突き進ませたもの」)。
この先、弁護士という資格、あるいは弁護士会という存在は、この板挟みの状況を保ち切れず、いずれ自治・強制加入廃止を含め、大きくその姿を変えざるを得なくなる、と、予想する弁護士もいます。ただ、そうなった場合、需要にしても、競争・淘汰にしても、当初の筋書きとは大きく異なってしまった「改革」が、本当に弁護士を利用者にとってより有り難いものに変えたのか、いや、そもそもそのことがフェアに問われることが果たしてあるのか、という疑問が、今度は湧いてきてしまうのです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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こうした弁護士の中から聞こえる声は、見方によっては、自由競争の足を引っ張る阻害要因、いわば「規制」に対するものとみることが出来るからです。弁護士に一般のサービス業を被せ、その特異性を斟酌しない、競争への「覚悟」を求める声は、この「改革」が始まってから、散々聞かれるところとなりましたが、その「覚悟」を決めようとする側から出される、「それならばこれはどうなのだ」といわんばかりの、本音にとれます。
「資格を取っても当然に食えるわけではない」といった、弁護士の心得違いを言うような響きのことも度々言われてきましたが、それであれば、なおさらのこと、自由競争の阻害要因に、弁護士が敏感になるのもまたも、当然の結果といえます。
ところが、自由競争の阻害要因あるいは「規制」という視点になると、なぜか前記のようなレトリックで弁護士の意識変革的なことを言う「改革」推進論を掲げる側が、それをどうにかする、つまりはできるだけその阻害要因を除去するという話をするわけでもなく、なにやら腰が引けているようにみえるのです。
特に、いわば競争へ圧力と阻害要因との板挟みになっているような、前記弁護士たちの切実な声を、おそらく本当は一番理解できるはずの弁護士会主導層が、耳を傾ける風ではない。有り体にいえば、そこになると、弁護士の公的使命のようなものが持ち出され、そこは個々の弁護士でなんとかしろ、うまく調和させよ、と言っているように聞えるのです。
つまり、そこでは他のサービス業と同一視、文字通り自由な競争はできない、弁護士という仕事の特異性を認め、持ち出しているのではないか、という気がしてしまいます。そして、それが弁護士の現実であるならば、それは一昔も二昔も過去になったとされる「馴染まない」論につながってしまうようにもとれるのです。「馴染まない」とは、自由競争にどこまでいっても、丸投げできない、それがはばかれる弁護士の本当の姿ではなかったのか、と「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)。
弁護士会主導層が、ある種の自由競争をめぐる矛盾したようなスタンスをどうしてとっているのか、については、界内でいろいろな意見が聞かれます。前記弁護士法上の使命、「人権」を旧来のスタイル同様にかざしていることを、純粋に前記「改革」の方向とは矛盾した、競争の阻害要因とは本気で認められない立場、百も承知しているけれど、それこそそこはなんとかしろ、という立場(自分自身はどちらにしても影響ないという本音を伺わせつつ)、そして、「改革」に無理があったことも分かりながら、いまさらどうすることもできない、と見ている立場(もっとも二番目の立場の本音とも考えられますが)――。
そして、さらにここで、改めてはっきりさせなければならないのは、いわゆる「平成の司法改革」の「バイブル」とされた2001年の司法制度改革審議会意見書と、同時弁護士たちが受け止めた「改革」の立場です。これまでも書いてきたことですが、自由競争論議の事実上の端緒となっている弁護士増員政策は、実は当初、自由競争の促進と、その先の競争・淘汰、ましてはそれによる良質化などを表向き念頭に置いたものではありませんでした。
繰り返し言われたのは、決定的な弁護士の数の不足であり、その時点においても、さらに需要が拡大する未来おいても、質と量においてなんとかしなければならないという状況認識だったのです。嫌な言い方になるかもしれませんが、この時点で、増員という「改革」の方向を受け容れた、主導層を含む多くの弁護士たちは、自由競争による競争・淘汰が、弁護士にとって生存にかかわるような深刻なテーマになるとは思いもよらなかったはずです。
そして、そうであればこそ、その時点で、前記した矛盾、会員の板挟み的状況を想定した、慎重な検討をする余地もなかったのではないか、ということも疑いたくなるのです(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」 「『合格3000人』に突き進ませたもの」)。
この先、弁護士という資格、あるいは弁護士会という存在は、この板挟みの状況を保ち切れず、いずれ自治・強制加入廃止を含め、大きくその姿を変えざるを得なくなる、と、予想する弁護士もいます。ただ、そうなった場合、需要にしても、競争・淘汰にしても、当初の筋書きとは大きく異なってしまった「改革」が、本当に弁護士を利用者にとってより有り難いものに変えたのか、いや、そもそもそのことがフェアに問われることが果たしてあるのか、という疑問が、今度は湧いてきてしまうのです。
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