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    弁護士によるセクハラ・パワハラ事案への業界目線

     弁護士の不祥事として、近年、注目されていたのは、弁護士による依頼者の預かり金着服や、事件の放置といった業務に関連した違法、不当な行為です。そして、これらについては、前者は弁護士の経済的な困窮、後者はそれとも関連する形の弁護士のメンタルの問題といった、司法改革の失敗が色濃く反映しているととらえることもてきました。

     もちろん、その関連性をもってして、それらの不祥事が起こり得る言い訳にはなりません。司法改革が悪く、不祥事弁護士は悪くないとはならず、それが「逆境」であったとしても、それに負けない弁護士でなければならいし、当然社会もそれを求めるはずです。資質としての不的確性が、「逆境」によって炙り出されただけ、という人もいて当然です。

     しかし、変な言い方になりますが、ある意味、同業者からみて、困った同業者であったとしても、少なくともその事件発生の因果関係については、理解の範疇にあるという印象を持ちます。

     誤解されないようにしなければなりませんが、顧客のカネに手をつけることそのものへの理解ではなく、「改革」後の弁護士の事務所運営の困難さや、若手の困窮を知っている同業者からすれば、その先の悪い結果は、彼らの中で結び付けやすい。そして、そうだとすれば、何らかの対策を視野に入れることも、そこまで遠い話ではないようにもとれたということです。

     ここ数週間、これとは全く異質の弁護士の不祥事報道に、多くの弁護士が衝撃を受け、困惑しています。メディアにも大きく取り上げられた、演劇界のセクハラ撲滅の旗手とされた弁護士によるセクハラでの被害者からの提訴、自殺した女性弁護士への性被害認定で元弁護士会長へ賠償命令という二つのニュースです(弁護士ドットコムニュース朝日新聞デジタル)

     あくまで現段階で報じられている事実関係に基づけばという話ですが、当然、弁護士にあるまじき行為という以上に、その職業的性格に対する社会的信頼への裏切り度は極めて大きく、弁護士の社会的イメージを決定的に棄損するものになることは間違いありません。

     そして、前記同業者の受けとめ方からすると、その衝撃に加え、あえて困惑と書いたように、この事態をどのように受けとめるべきかについて、いまだ定めきれていないようにとれるところがあるのです。

     両案件とも共通しているのは、弁護士によるセクハラである同時に、優越的地位を利用したパワハラの性格を帯びているところです。多少語弊があるかもしれませんが、これまで弁護士のセクハラ、パワハラの案件に、同業者がどういう目線を送ってきたかといえば、それをあくまで対外的には、前者についてはあくまで資質の問題として、業界内に紛れ込んだ異物として、後者については、度が過ぎたプロ意識や親弁の問題ある「個性」につなげるなど、極力枠に押し込める扱いだった印象を持ちます。

     つまりは、若干矛盾するような感じもしますが、普通に社会に起こり得るようなこの手の不祥事が、弁護士にも生まれているが、極力それが業界の体質的な問題とは結び付けられない形に落ち着かせる。つまり弁護士も手を染める意味で特殊・例外的な扱いはできないが、あくまで弁護士としては異物であることを強調したい意図が先に立っているというニュアンスです。

     しかし、今回の二事例に関しての反応は、それを上回っているようにとれます。もちろん、それがセクハラ対策の当事者であったり、弁護士会会長経験者である裏切り度、ギャップは、社会的反応以上に、弁護士に衝撃を与えたといえますが、ことここに至って弁護士会に巣食う体質的な問題として見なければならないのではないか、という空気が生まれつつある。

     もっといってしまえば、セクハラもパワハラも、この業界に実は、ずっと存在してきていながら、自分たちが実は前記捉え方に流れるなかで、いわば見て見ぬふりをしてきたのではなかったかという自問が、同業者の中で起こり始めているということです。

     弁護士によるハラスメントについて、日弁連、弁護士会が全く対応してこなかったわけではなく、相談窓口は既に設置されてもいます(日本弁護士連合会神奈川県弁護士会第二東京弁護士会)。しかし、現実的に、それが十分に機能しているのかについては、弁護士の中にも異論があります。

    また、こうした不祥事全般を、旧司法試験世代のものととらえる見方もあり、今回の事案でも、すかさず新法曹養成制度の正当性、妥当性と結び付ける向きもあります。ただ、不祥事の当事者がいかに旧世代に属しているからといって、新制度の実績からそれが現実的に有効であるかのような見方も、極端な描き方のようにみえます。

     今回の事案の衝撃が、体面としては決して容易でないこの世界の体質的構造的な観点に踏み込む、新たな気運のきっかけになるのかどうかが注目されるところではあります。


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    弁護士ツイート懲戒問題が投げかけたもの

     弁護士がツイッターの実名アカウントで発した投稿をめぐる大阪弁護士会の懲戒処分を取り消した、5月17日付けの日弁連の判断が話題になっています。問題になったのは、「弁護士費用を踏み倒す奴はタヒね(タヒ=死を意味するネットスラング)」など7つのツイートでした。

     結論から言ってしまえば、弁護士報酬の踏み倒しや正規の金額を払わない利用者市民に向けられた文脈である点や、「タヒね」の表現は「軽薄で下品」ではあっても、ツイッターの特性、茶化した俗語であるという点、個人を特定しない発信という点などを考慮し、「品位を失うべき非行」(弁護士法56条1項)で懲戒処分にすることまでを相当としない、というものです(弁護士ドットコムニュース)。

     ネット上での一般的な話題は、やはり「タヒね」表現と「品位」をめぐる日弁連・弁護士会のスタンスに集まっているようです。これを表現として日弁連が「許容」したとストレートに受けとめて批判的にとらえている人もいます。しかし、日弁連の方がツイッターというプラットホームの特性とこの言葉がどの程度の意味合いで使われているかをより考慮した印象で、「軽薄で下品」であっても、要は懲戒対象とするほどの案件ではない、という結論にたどりついており、この点の考慮については、妥当とする意見も多く聞かれます。

     もっとも前記56条1項が「職務の内外を問わず」「品位を失うべき非行」を懲戒対象にしていることもあり、「タヒね」の本来の意味に注目し、弁護士に「常に、深い教養と高い品性の陶やに努め」ることを義務化した弁護士法2条の規定まで引用して、弁護士により高い、特別な「品性」を求める方向で、懲戒相当を導き出した大阪弁護士会の姿勢の方が、この手の事案についての、従来の弁護士会的な処理の仕方であるというイメージもありました。

     その意味では、個人を特定しない発信を対象から外す点はともかく、表現面で、よりツイッターの現実に即し、言ってみれば、個人的なツイッター上の俗語を用いた、ぼやきまで懲戒の対象にはしないという姿勢を明確に示した点では、今回の日弁連の対応には、新しさも感じます。

     しかし、あえていえば、むしろ業界的に多くの弁護士がより注目しているのは、この「タヒね」表現に関することより、前記した発言意図にかかわる、弁護士報酬の踏み倒しや正規の金額を払わない利用者市民に向けられた、表現・文脈に対する、両者の評価の違いではないか、と思えるのです。

     本件を弁護士法56条1項の「非行」に該当すると結論付けた、大阪弁護士会の議決書には、次のような下りがありました。

     「弁護士は依頼者から適正な報酬を受けることが当然認められているとしても、弁護士費用支払に関する本件ツイートのように「報酬を支払わない者に対し『金払わない奴は来るな』『金払う気がないなら法律事務所に来るな』等記載して法律相談や事件処理を拒んだとしても不当ではない」旨の対象会員の主張を是認することはできない」
     「報酬を支払わない意図で弁護士を利用するものに対し、法律相談や受任を拒絶できることは認められるべきであるが、本件の如きその拒絶に対する表現は、あまりに短絡的・感情的であり、文言自体の品位・品性も認められない。また法的な問題を抱えるなかで真に弁護士費用が準備できない市民に対しては、弁護士の敷居をより高くしたり、門戸を閉ざしてしまうことにもなりかねない」
     「法テラスの報酬につき、対象会員は、弁護士にとって生きていけないような金額であるから、正規の金額ではないというが、対象会員のこのような意見は、広く法律事務全般に係わる権限を付与された法律専門職としての弁護士あるいはその他の法律専門職に課せられた社会的責任を前提とする法テラスの制度趣旨等をおろそかにするものであり、当該ツイートを正当化する根拠と認めることはできない」

     適正な報酬を得ることは認められているとしながら、本件のような「拒絶」の姿勢を示した表現を「短絡的・感情的」と括り、逆におなじみの「敷居が高い」論にまでつなげ、弁護士費用を準備できない市民排除の方を懸念する姿勢を示しています。さらに法テラスの報酬の安さについての意見に対しては、「法律専門職に課せられた社会的責任を前提とする法テラスの制度趣旨」を掲げ、ツイート正当化の根拠として否定しています。「踏み倒し」が許されないという点を、発言意図につながる文脈として、むしろその妥当性を評価したととれる日弁連の判断とは対照的といえます。

     この点は、大阪弁護士会の指摘の方に、違和感や反発を覚える会員も少なからずいるようです。問題とされた中にあった「正規の金が払えないなら法テラス行きなさい」というツイートについて、弁護士の中から「一体、これのどこが問題なんだ」という声も、異口同音に聞かれました。

     弁護士会が掲げる弁護士の役割や法テラスに対する理念的な理解と、報酬という極めて現実的な問題に直面している弁護士会員の現状との距離感を、これは象徴しているようにとれます。表現については、懲戒請求の対象となった弁護士も「不適切な部分」があったことも伝えられ、その不適切な部分のマイナスイメージは当然本人が背負う形になります。

     むしろ利用者に報酬を正当に要求できる、その裏返しとして、場合によっては正当に利用者を「拒絶」することに、あるいは弁護士会は背を向けるのではないか――。ツイッターで、つい不適切な発言をしてしまうことよりも、そちらの方が会員にとっての現実的な懸念になるのではないかという気がしてならないのです。


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    弁護士への市民理解という課題

     依頼者市民の弁護士に対する不満や不安の声のなかに、自分の弁護士が「何をしてくれているのか分からない」という趣旨のことを聞くことがあります。自分の弁護士が、自分のために、一体どういうメリットのある活動をしてくれているのか実感できない、ということです。

     基本的なことをいえば、専門的知識や司法の現実を知らない依頼者が、弁護士が自分のために本来すべきことをしていないという点、つまりは「何をしていないのか」を把握するのには、そもそも困難が伴います。これは、ある意味、市民にとって、弁護士という仕事が他のサービス業と比べて格段に違うところともいえます。弁護士の競争による淘汰を成り立たせようとする論調は、まず、この困難を軽く見積もりがちです。

     情報提供といっても、それを主導するのは当該弁護士自身であるし、それに対して依頼者市民が客観的に、その活動の粗を突くような対応を、適切に行うのは難しいし、他の弁護士の知見を参考にするといってもそれが果たして正しいかもわからず、また大変な労力もかかります。

     それだけに、というべきか、「何をしてくれているのか」のメリットは、依頼者側が弁護士をサービス業ととらえるほどに、積極的にこちらにアピールされていい、という捉え方がされがちです。この点には弁護士側の積極性や説得する力にかかっている部分も確かにありますし、弁護士側の「できるだけの努力」という話になります。また、こうしたテーマになると、ここは依頼者と弁護士の「協働」関係の構築ということが、弁護士会サイドでの落ち着きどころともなります。

     ただ、こうしたことが繰り返しいわれても、残念ながら、依頼者の中の弁護士に対する不満・不安に大きな変化が起こっているわけでもありません。それは、ある意味で「前提」となるような弁護士という仕事に対する本質的理解が進んでいないからではないか、という気持ちにどうしてもなってしまうのです。そして、それは「改革」のなかで、望ましい発想のようになってきた個々の弁護士のサービス業としての自覚という流れのなかで、むしろ置き去りになっているようにもみえるのです。

     弁護士の倫理を規定した行動規範といえる弁護士職務基本規程の21条は「弁護士は良心に従い、依頼者の権利及び正当な利益を実現するように努める」とする一方で、20条では「弁護士は事件の受任及び処理に当たり、自由かつ独立の立場を保持するように努める」としています。同規程にかわる前の弁護士倫理にも同様の規定があり、度々議論に取り上げられてきたものですが、依頼者にとっての弁護士理解という意味では、根本的な問題になる条文といえます。

     議論されてきたことではありますが、よく言われることは、弁護士が20条の「自由かつ独立」の立場で、適正で妥当な紛争の仲裁を求める姿勢が、仮に彼のなかで21条の「依頼者の権利及び正当な利益」実現と矛盾なく存在していたとしても、依頼者にはそうとれない、100%自らの権利・利益実現に立っていないととられかねないという問題です。依頼者側の不安・不安に直結している点ともいえます。

     依頼者の意思に対する干渉という捉え方で是非を論じる向きもありますが、100%依頼者側に寄り添うといっても、司法という舞台での最良の解決として、説明・説得によってそれは正当化される、というか、それしか解決の道はない、という見方もあります。ただ、むしろここで言いたいのは、そもそも弁護士とはこういう厄介な存在なのだ、ということそのものが、社会に理解されているのか、という点です。要は、一サービス業ととらえる流れのなかで、この厄介さ、つまり弁護士との付き合いは簡単ではない、という理解がむしろ落っこちていないかということなのです。「気楽に」「何でも」弁護士へ、というアピールになっている弁護士会広報も、その意味ではこうした関係性を安易に捉えられる素地を作っていないか、という気もしてきます。

     弁護士という仕事への市民の理解は、むしろ刑事弁護で時に露骨に辛辣に取り上げられてきました。「弁護士は社会的な悪の擁護もする」、さらには、「カネさえもらえば」という前置きまで付く。いまだに「なぜ、弁護士は」という疑問符がつくレベルが一般的という見方もできなくありません。

     「福岡の家電弁護士のブログ」は最近のエントリーで、いまだにこうした理解は、「捕まっている=悪いヤツ」という前提があるからであり、この前提が市民から拭い去られない限り、弁護士が悪者とは限らない被疑者を弁護する活動に予算をつけるなどということに、市民的理解が得られるとは、到底思えない、として、こう続けます。

     「弁護士(会)は、昨今盛んに広報や業務拡大を叫びます。しかし、そんなことより、こういう前提を拭い去るような地道な活動(一例として法教育など)をしっかりとやること、そしてそれが効果を生むために、弁護士はしっかりやってるんだということを、わかりやすく伝えることのほうが重要じゃないかと個人的には思います」

     やはり弁護士・会は、弁護士理解の「前提」となるものから伝えていくことに目を向ける必要があります。


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    利用者の「疑念」と「妄想」

     弁護士や司法の利用者の話のなかには、しばしばそれらに対する強い不信感が登場します。そして、その多くは、全体的な社会的信用度にかかわるものというよりも、自らの不利な状況が、かかわった弁護士、裁判官らの癒着や不正に起因しているという疑念に基づくものととれます。まるで自分を陥れる大きな陰謀が、彼らのなかでめぐらされているといった調子のものもあります。

     民事裁判で自分側の弁護士が、相手側弁護士や当事者と通じて、自分を不利に陥れているといった利益相反的なものや、さらにそれに裁判所が一枚かんでいて、三者の癒着構造が、訴訟手続き上も判決においても、今の自分の悪い結果をもたらしている、という疑念はとても一般的です。さらに、判決そのものが偽装・捏造され、別に本物の判決が存在するということを固く信じて疑わない人もいます。

     弁護士に聞けば、本音として、そうした「妄想」に近いものを持ってしまう依頼者・市民とは付き合いたくない、極力かかわらないというものが返ってきます。そうした「妄想」の手強さを体験したことがある弁護士も少なくなく、誤解を解くことは不可能に近い、ととらえていたり、相手にする余裕はない、という受けとめ方もあります。

     もっとも、すべての陰謀は、「そんなことあり得ない」という、疑惑に対する、社会のいわゆる「陰謀論扱い」によって救われ、そこに逃げ込めることによって、まんまと成就するものとは思います。その考え方からすれば、彼らの疑惑を常に頭から否定するわけにはいきません。ただ、その一方で、「疑惑」を固く信じている人は、それ以外の可能性について、往々にして耳をかさなくなるという問題があります。それらの否定論を踏まえて、なお、疑うに足る理由をみつけようとする努力をしないのです。それでは、弁護士ならずとも、第三者に「妄想」扱いされても仕方がないかもしれません。

     癒着構造の根拠になるのは、いうまでもなく、人的なつながりで、同一の出身大学の先輩、後輩、同輩であるとか、所属弁護士会、会派、さらにそれ以外の各種所属団体や地域などの同一性。弁護士、裁判官も含めて、そこに圧力、口利きが働くような力学が存在するという見方です。大企業と個人間の紛争では、さらにそれを利用する大企業の「裏の手」が被せられます。

     確かに、そういうつながりが作用する場合が全くない、とはいえません。現に顔が見えるような小弁護士会の人的つながりや、そこの行政相手のケースで、その行政との地域的なつながりや現実的なかかわり濃淡によって、受任を回避するという傾向が存在したことを知っていますし、その場合、そういうかかわりを回避するために他県の弁護士を探すということが行われてきた実態もあるのは事実です。もちろん、すべての場合に反論は用意されるはずですが、少なくとも「癒着」ととられても仕方がない状況がないとはいえません。

     ただ、一方で疑念の当事者のなかには、なぜ、一民事事件でそこまで人的つながりを総動員した「陰謀」が、彼らにとってのどういうメリットのもとに繰り出されているのかについて、その不自然さ、極端さを全く考慮しないものが多いことも、また事実です。そこでは、やはり行き場のない、根本的な被害者意識の矛先が、まず、そこを既定事実として向けられてしまっている観があります。大企業が相手の場合、そこに有形無形のメリットを描き込むのは容易である面もありますが、その意味で、彼らこそ反証するような疑いの目をあっさりと放棄してしまうところが決定的に存在していることは否定できません。

     では、彼らの「疑念」のすべてが弁護士として見放すしかない「妄想」、この仕事に付きまとう宿命として受けとめ放置するしかない、という結論でよしといえるのでしょうか。この疑念には、例えば、口頭弁論の前の弁論準備手続きを、まるで専門家による談合のような場にとらえていたり、水面下で両当事者の弁護士が和解の落とし所を探る行為、さらにそれをもとに相手側にではなく、こちら側を説得するような姿勢を専門家の慣れ合いととらえる見方がくっついていたりします。さらには、懲戒請求に対して弁護士会の結論が甘く、身内のかばい合いという土壌があるといった「情報」も彼らの耳には入っています。これらが、すべて彼らの疑念を駆り立てる方向に作用していることに気付かされるのです。

     これらに、もし、決定的な利用者側の制度に対する認識不足があるのであれば、少なくともそこはなんとか出来ないでしょうか。事案そのものについても、それこそ受任や弁論準備の段階で、依頼者の願いや主張のなかで、何が法律問題で、何が司法的解決につながるのかについての、決定的な説明に欠けていると感じるものもあります。ただ、ここについてはどこまでが弁護士側の経験に基づく能力的な問題や、あるいは努力不足といえるのかは、極端な例以外、同業者でも簡単には判断できない部分といえます。それはそれとしても、制度や弁護士への根本的な理解が、実は司法関係者が考えている以上に足りない、という現実が横たわっているように思えるのです。

     それを考えると、弁護士の経済的な余裕を奪っている、この「改革」路線は、弁護士と利用者の相互不理解のような現実に効果的な解決の道を用意しているのか、そもそもそれをどこまで念頭に置いていたのか、という疑念も膨らんでしまうのです。


    成立した取り調べの録音・録画を一部義務付ける刑事司法改革関連法についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/7138

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    弁護士「高圧的」イメージをめぐる変化

     かつて弁護士に対する市民の苦情、あるいは関係決裂の原因として、しばしば市民の口から「馬鹿にされた」という言葉を聞くことがありました。もちろん、弁護士側には、馬鹿にする意図など毛頭ない、という弁明をしたくなるケースもあるとは思います。

     ただ、以前も書いたことがありますが、耳をすませて市民の言い分を聞けば、「馬鹿にされた」という話の多くは、「素人扱いされた」というものです。多くの市民は、法律に関しては少なくとも弁護士よりは「素人」と考えるのは一般的ですから、それも当然といえば当然なのですが、要は、その時の弁護士の態度。言葉に出さなくても、知識に対して、「そんなことも知らないのか」とか、依頼者の要望に対して、あきれ顔で「そんなことはできない」と言われた(ような気持ちになった)というのが、圧倒的に多かった、という印象があります(「弁護士に関する苦情(3)『素人扱いされた』」)。

     「高圧的」という言葉は、よく弁護士に使われてきました(「『高圧的』弁護士イメージの現実」)。弁護士にもさまざまな人がいます。かつてから依頼者が「素人」であるがゆえに、逆に気配りを欠かさない弁護士もいたことも知っているだけに、その点では弁護士=高圧的イメージとされることは、少々気の毒には思いますが、ただ、現実的にそうした弁護士が存在してきたことは、私の経験からも事実です。

     どの社会にもいる、と括ってしまえば、弁護士という職業の「特徴」のようにいうこともおかしな感じがしますが、その一方で、弁護士自身が自覚してきた「敷居が高い」という市民の受けとめ方の一つの要素として、こうした姿勢があったことは否定しきれない、と思いますし、それもまた自覚している同業者がいます。難関試験を経たある種のエリート意識、サービス業的な自覚のなさということを、「高圧的」の背景に当てはめることもできなくありません。

     かつて「雇う」という言葉を弁護士に使っただけで、「弁護士を雇うとは何事だ」と激怒したベテラン弁護士がいました。弁護士会内では、数々の役職を歴任し、「良識派」という評価もされていた人物ですら、こういう感覚だったのか、と今にして思います。

     ただ、この点に関しては、弁護士のタイプが大きく変わってきたのも事実です。依頼者・市民に対する口のきき方や態度に、当たり前の配慮をする弁護士は増え、同業者から見ても、前記したような弁護士は「旧タイプ」とくくられるようになっています。時々、ある種の皮肉として、「これは司法改革の唯一の功績ではないか」という人もいます。これまでも書いてきたように、「改革」が弁護士に一サービス業の自覚を求めた先には、必ずしも依頼者・市民にとって、望ましいことが待っているとは言い切れない現実がありますが、少なからずその自覚が、弁護士の依頼者に対する「配慮」の意識に変化をもたらしたと考えれば、前記言い方もまた正しいことになります。

     その一方で、弁護士の「高圧的」イメージには、依然強固なものがあります。それだけに、若手を含めて、多くの弁護士は、そうしたものを形づくることに貢献してきた「旧タイプ」の弁護士の淘汰は、いまや本音の部分では歓迎している、といっていいと思います。ただ、少々気になるのは、最近、これも弁護士から聞こえてくる、依頼者・相談者市民の方の変化です。

     それは、一言でいえば、サービスの有償性を度外視し、さまざまなことを弁護士に持ち込む傾向。そこには、弁護士に筋違いの要求をするものも増え、無理な要求のレベルもまた上がっているという指摘があります。「相談者の質」という問題を言う弁護士は、以前よりも増えているのです。有償性が伝わらないまま、「気楽に」「小さいことでも」の弁護士活用のアピールが、そうした弁護士にとって歓迎できない「多様化」をもたらしている、という見方もあります。「敷居が低くなったことの副作用」という受けとめ方や、その意味では、弁護士会は、もっと弁護士が扱うサービスの有償性の方を、社会にアピールすべき、ということも言われ出しています。

     当然、この傾向は、弁護士に対する「不満」の裾野を広げる方向であり、それはまた、そうした無理な要求に対して現実的対応をとる弁護士の姿勢を、「高圧的」という旧タイプイメージに置き換える危険性を生み出します。

     依頼者に対する姿勢には、弁護士側の意識と能力が現実的に深くかかわり、今後も自覚が求められ続けることはいうまでもありません。ただ、一方で、旧タイプの淘汰という形だけでは、弁護士の負のイメージが払拭されない、それこそ「身近」「親しみやすさ」「本当は敷居が低い」アピールだけでは、解決しない新たな状況も生まれているように見えるのです。


     「司法ウオッチ」では、現在、以下のようなテーマで、ご意見を募集しています。よろしくお願い致します。
     【法テラス】弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。
     【弁護士業】いわゆる「ブラック事務所(法律事務所)」の実態ついて情報を求めます。
     【刑事司法】全弁協の保釈保証書発行事業について利用した感想、ご意見をお寄せ下さい。
     【民事司法改革】民事司法改革のあり方について、意見を求めます。
     【法曹養成】「予備試験」のあり方をめぐる議論について意見を求めます。
     【弁護士の質】ベテラン弁護士による不祥事をどうご覧になりますか。
     【裁判員制度】裁判員制度は本当に必要だと思いますか

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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