弁護士会「強制加入」と会員意見の落とし所
弁護士がメディアに頻繁に露出するのが当たり前になって久しいですが、今やその弁護士たちが、大衆に向けて、堂々と日弁連・弁護士会を批判するのを目にする時代になっています。コメント欄でも紹介されていましたが、橋下徹弁護士のネット番組に北村弁護士が登場し、弁護士会の強制加入制度に関連し、批判を展開しています(「橋下徹×北村晴男「行列」弁護士!コロナ対応を法律論で斬る/弁護士会に物言い!?」)。
「『僕たち弁護士は日弁連を辞められず、縛り付けられている』北村晴男氏と橋下氏が本音ぶちまける」。ネットニュースも、こうした刺激的なタイトルで番組を取り上げていたので、全編にわたってこうした論調が展開されたのかとも思いきや、日弁連・弁護士会批判に当たる部分は54分の番組中、8分程度。その内容も、強制加入批判としては、全体的に業界関係者にはおなじみのものではありました。
一部の「活動家」の人間が、日弁連をリードし、結果、声の大きな人の意見が日弁連の意見になっている。しかし、思想信条が違っても、強制加入であるから、弁護士である以上、辞めることもできない――という典型的な強制加入制度に照らした、日弁連の対外的意見表明の不当性をいう論調です。自らが日弁連と同意見であると知人・顧問先に誤解された、尋ねられたという、よくあるエピソードも、くっついています。
しかし、メディアに露出が多く、社会的知名度の高い2弁護士によるこの論調の展開は、弁護士の強制加入制度の現実も十分に周知されていない大衆には、やはり彼らが言う、日弁連・弁護士会の思想的な偏重や会委員の意思軽視といった、いかにもといっていい不当性の方をイメージさせるものになるとは思います。
こうした論調を実は弁護士会はずっと抱えてきました。そして、この論調が求める先にあるものの大方変わっていません。つまり、会員の思想信条にかかわるテーマについての対外的表明は、日弁連・弁護士会としてではなく、「有志」という形でせよ。もしくは、それが出来ないというのであれば、日弁連・弁護士会そのものを「有志」団体にせよ(強制加入をやめ、任意団体にせよ)――ということです。
一方、政治的影響力・効果を含めて、日弁連・弁護士会としての議決や意見表明の価値を強調する意見は根強くあります。また、会内に意見対立のある案件への配慮は、ある意味、組織としての政治的な判断にゆだねざるを得ない面もあります。いうまでもなく、意見対立のある執行方針を多数決の議決によっても決することができないということになると、日弁連・弁護士会は現実的に、今は挙げられている多くの意見を今後は挙げられなくなり、逆に執行に相当な制約が課せられてしまうからです(「『塊』としての日弁連・弁護士会という発想の限界」)。
また、そうした意味では、会内に限らず会外からも出される、日弁連・弁護士会の活動や意見表明に対する「政治的」という批判に対しても、こうした論調が出される度に、日弁連・弁護士会が沈黙しなければならないということになれば、人権団体としては筋が通せず、むしろ使命を果たせないことになりかねません。むしろ、「政治的」という批判を跳ね除けても、使命のためには発言する団体でなければ、結局、少なくとも人権を掲げる組織としては、その存在意義にかかわることになります。
ただ、こういうことを踏まえた上で、改めて冒頭のネット番組での2弁護士の対話の中の、ある一点には、注目しなければならないと思います。それは、北村弁護士が所属の東京弁護士会が行った死刑廃止決議をめぐる話しで言及された部分です。同弁護士を含め多くの会員が反対したものの、賛成多数で同決議が可決された際、同弁護士が求めた、社会に誤解を与えないための、出席会員数、賛否票数の社会への公表を、執行部が拒否したという話です。
これまでも書いてきたことですが、この強制加入と会員の思想信条の関係については、司法上は既に解決の道筋がつけられています。司法判断で示されているように、弁護士法1条の目的実現の範囲において、会の意思表明は個々の会員弁護士の活動の限界を克服するためのものであり、会員の思想・良心の自由の問題を完全に切り離して、会の行為の正当性が認められる。要は、会は縛らず、会員は縛られない「一致団結」として、優越的な「価値」が掲げられてきたのです(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)
もし、弁護士会が前記した強制加入制度を止めるといったメスを入れることなく、かつ、日弁連の正当な意見表明を維持するために、会員の思想信条との調和を考えるのであれば、この司法判断が指摘した、道筋にむしろ忠実でなければないはずなのです。そしてそう考えれば、当然、北村弁護士が求めている出席会員数と賛否票の表明は、むしろ積極的に採用すべき手段のはずといわなければなりません。つまり、彼らが言う「誤解」解消のための、「縛られていない」ことの社会的周知です。
もし、ここで決議支持派が、それによる執行力の低下のマイナスをいうのであれば、それは筋違いということになります。いうまでもなく、いかに日弁連名義の政治力の「価値」があろうとも、それはそれこそ「強制加入団体」としては行き過ぎの、前記司法判断の根拠にも差し障る、「一致団結」の粉飾・かさ増しとされても仕方がないからです。
対外的意見表明に関する会員の思想信条との調和策としては、もう一つ主体を、日弁連・弁護士会ではなく、意思統一がより確実に図れる内部委員会やプロジェクトチーム名義での執行とする、といったことを、もっと選択肢として検討するという方法もあります。しかし、ここでも日弁連・弁護士会名義との比較における、政治的効果のマイナス面が挙げられるとすれば、そこも前記同様の粉飾・かさ増し批判につながっておかしくありません。
「お二人の敵は日弁連」。前記番組は、司会者が促すこんな言葉で締めくくられています。橋下氏へのネットでの反応では、「変えたいならば変える立場になって言え」といった、これまでの橋下流の論法を、彼にお返しするような皮肉な声もありました。しかし、司法改革が生んだ弁護士の環境変化の中にあって、彼らのように問題を捉える会員は確実に増えているはずです。
強制加入をめぐる分裂的な会内世論状況を回避するためにも、まず、日弁連主導層は、依然「通用していた」やり方では、「通用しない」時代になっている、という、現状認識に、まず立って考えるべきです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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「『僕たち弁護士は日弁連を辞められず、縛り付けられている』北村晴男氏と橋下氏が本音ぶちまける」。ネットニュースも、こうした刺激的なタイトルで番組を取り上げていたので、全編にわたってこうした論調が展開されたのかとも思いきや、日弁連・弁護士会批判に当たる部分は54分の番組中、8分程度。その内容も、強制加入批判としては、全体的に業界関係者にはおなじみのものではありました。
一部の「活動家」の人間が、日弁連をリードし、結果、声の大きな人の意見が日弁連の意見になっている。しかし、思想信条が違っても、強制加入であるから、弁護士である以上、辞めることもできない――という典型的な強制加入制度に照らした、日弁連の対外的意見表明の不当性をいう論調です。自らが日弁連と同意見であると知人・顧問先に誤解された、尋ねられたという、よくあるエピソードも、くっついています。
しかし、メディアに露出が多く、社会的知名度の高い2弁護士によるこの論調の展開は、弁護士の強制加入制度の現実も十分に周知されていない大衆には、やはり彼らが言う、日弁連・弁護士会の思想的な偏重や会委員の意思軽視といった、いかにもといっていい不当性の方をイメージさせるものになるとは思います。
こうした論調を実は弁護士会はずっと抱えてきました。そして、この論調が求める先にあるものの大方変わっていません。つまり、会員の思想信条にかかわるテーマについての対外的表明は、日弁連・弁護士会としてではなく、「有志」という形でせよ。もしくは、それが出来ないというのであれば、日弁連・弁護士会そのものを「有志」団体にせよ(強制加入をやめ、任意団体にせよ)――ということです。
一方、政治的影響力・効果を含めて、日弁連・弁護士会としての議決や意見表明の価値を強調する意見は根強くあります。また、会内に意見対立のある案件への配慮は、ある意味、組織としての政治的な判断にゆだねざるを得ない面もあります。いうまでもなく、意見対立のある執行方針を多数決の議決によっても決することができないということになると、日弁連・弁護士会は現実的に、今は挙げられている多くの意見を今後は挙げられなくなり、逆に執行に相当な制約が課せられてしまうからです(「『塊』としての日弁連・弁護士会という発想の限界」)。
また、そうした意味では、会内に限らず会外からも出される、日弁連・弁護士会の活動や意見表明に対する「政治的」という批判に対しても、こうした論調が出される度に、日弁連・弁護士会が沈黙しなければならないということになれば、人権団体としては筋が通せず、むしろ使命を果たせないことになりかねません。むしろ、「政治的」という批判を跳ね除けても、使命のためには発言する団体でなければ、結局、少なくとも人権を掲げる組織としては、その存在意義にかかわることになります。
ただ、こういうことを踏まえた上で、改めて冒頭のネット番組での2弁護士の対話の中の、ある一点には、注目しなければならないと思います。それは、北村弁護士が所属の東京弁護士会が行った死刑廃止決議をめぐる話しで言及された部分です。同弁護士を含め多くの会員が反対したものの、賛成多数で同決議が可決された際、同弁護士が求めた、社会に誤解を与えないための、出席会員数、賛否票数の社会への公表を、執行部が拒否したという話です。
これまでも書いてきたことですが、この強制加入と会員の思想信条の関係については、司法上は既に解決の道筋がつけられています。司法判断で示されているように、弁護士法1条の目的実現の範囲において、会の意思表明は個々の会員弁護士の活動の限界を克服するためのものであり、会員の思想・良心の自由の問題を完全に切り離して、会の行為の正当性が認められる。要は、会は縛らず、会員は縛られない「一致団結」として、優越的な「価値」が掲げられてきたのです(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)
もし、弁護士会が前記した強制加入制度を止めるといったメスを入れることなく、かつ、日弁連の正当な意見表明を維持するために、会員の思想信条との調和を考えるのであれば、この司法判断が指摘した、道筋にむしろ忠実でなければないはずなのです。そしてそう考えれば、当然、北村弁護士が求めている出席会員数と賛否票の表明は、むしろ積極的に採用すべき手段のはずといわなければなりません。つまり、彼らが言う「誤解」解消のための、「縛られていない」ことの社会的周知です。
もし、ここで決議支持派が、それによる執行力の低下のマイナスをいうのであれば、それは筋違いということになります。いうまでもなく、いかに日弁連名義の政治力の「価値」があろうとも、それはそれこそ「強制加入団体」としては行き過ぎの、前記司法判断の根拠にも差し障る、「一致団結」の粉飾・かさ増しとされても仕方がないからです。
対外的意見表明に関する会員の思想信条との調和策としては、もう一つ主体を、日弁連・弁護士会ではなく、意思統一がより確実に図れる内部委員会やプロジェクトチーム名義での執行とする、といったことを、もっと選択肢として検討するという方法もあります。しかし、ここでも日弁連・弁護士会名義との比較における、政治的効果のマイナス面が挙げられるとすれば、そこも前記同様の粉飾・かさ増し批判につながっておかしくありません。
「お二人の敵は日弁連」。前記番組は、司会者が促すこんな言葉で締めくくられています。橋下氏へのネットでの反応では、「変えたいならば変える立場になって言え」といった、これまでの橋下流の論法を、彼にお返しするような皮肉な声もありました。しかし、司法改革が生んだ弁護士の環境変化の中にあって、彼らのように問題を捉える会員は確実に増えているはずです。
強制加入をめぐる分裂的な会内世論状況を回避するためにも、まず、日弁連主導層は、依然「通用していた」やり方では、「通用しない」時代になっている、という、現状認識に、まず立って考えるべきです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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