fc2ブログ

    「低廉化」期待への裏切りを生んでいるもの

     「平成の司法改革」といわれても、およそ裁判員制度導入以外、イメージできないという市民が多い中で、弁護士が増えたということに関しては、相当程度認識が広がっているという印象があります。そして、そうした市民と話をすると、今でもそれがいかに弁護士の低廉(低額)化のイメージとつながっているかということに気付かされます。

     弁護士の数が増えれば、そこに競争原理が働いて、費用は安くなる――。「改革」が市民利便につながる、その「目的」のように連想させ、かつ、それが簡単に起こり得ないことを百も承知だった弁護士会が、ことさらにこれを否定したり、クギをさすことも不思議なくらいしなかったイメージといえます。

     当然、この「改革」が打ち上げせられて20年以上たっても、この点を「改革」の成果として、評価する声が、少なくとも多くの利用者市民の中から上がっているという現実もありません。しかし、なぜか、前記の通り、依然弁護士増員のイメージとしてだけは残っている。

     その誤解の原因は、取りも直さず、弁護士と関わることがなくきた「普通の」市民にとって、他のサービス業と同一視した前記競争原理がもたらす低廉化の発想はイメージしやすく、かつ、それにつながっている、弁護士業そのものへの認識不足があること、といえます。

     これまでも書いてきたことですが、弁護士業(特に個人事業主としての)は、そもそも取り扱い案件一件当たりの料金を下げて、その分、件数をこなすという形の薄利多売化が、一部の定型処理案件を除き難しい性格の業務です。案件処理には、実入りの差にかかわらず、同様の作業が求められる面も多く、数が増えれば、一定のサービスの質を維持する以上、一人ではこなせず、人件費が発生することもあり得ます。

     弁護士が増えても、それに見合うだけの有償案件が発生しなければ、個々の弁護士の手持ち案件は少なくなり、かつ、一定額の経費は維持されることになれば、逆に単価は上げざるを得なくなります。競争原理が働くためには、利用者の継続的な取引と、彼らによる正常な選択が必要となりますが、大企業は別として、弁護士と恒常的な取引はなく、一回性の関係といっていい、弁護士とは一生に一度かかわるかかかわらないかの利用者市民にとっては、その前提条件がそもそも満たされないというべきなのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     もっとも企業案件ではなく、対市民でも定型処理案件を中心に、大々的に広告を打ち、顧客を大量に集めることを前提に、単価を安く設定できるとする新興系事務所も存在しています。しかし、これが現実に、案件的にも、個々の弁護士の業態としても、一般化できるかといえば、そこにも疑問があります(「弁護士の業務広告観」)。

     しかも、市民に定着化しているといえる、増員=低廉化のイメージの背景には、弁護士が相当程度儲けている(はず)という認識が伺えます。そもそも弁護士には経済的余裕があり、ならばこそ低廉化は100%弁護士側の企業努力ならぬ士業努力で可能である、ということ。逆にいえば、それだけ前記したような他のサービス業とは一般化できないことや、ましてや弁護士がこれによって生存にかかわる経済的影響が生じるなどということなど、利用者市民側にはおよそ考えられなくても不思議でない、ということなのです。

     やはり最大の疑問は、弁護士側の対応・不作為という点になってしまいます。「改革」主導者をはじめとする多くの弁護士会関係者らは、なぜ、今日に至るまで、この点をしっかりと国民に伝えきれないのか、あるいは意図的に伝えようとしないできたのか、ということです。

     「改革」の増員政策が実現困難な低廉化を社会にイメージさせていること、それがあたかも弁護士の努力次第で実現できるかのように伝わってしまっていること、「改革」の中で、常に報酬に関して、自由化や透明化・明確化が弁護士アクセスの課題と受けとめながら、社会にある低廉化への過度な期待や誤解には正面からクギを刺さないこと。期待を裏切るということだけでなく、あるいは市民にとって利益にならない選択につながるリスクがあるにもかかわらず――。

     需要の顕在化も含めて、増員政策が「とにかくもっとうまくいくと思っていたのだ」と、ある意味、正直に語った、推進派の弁護士がいました。その意味を解すれば、こういう「改革」のボロが露呈しないでも、低廉化がある程度できるほどの、弁護士の需要が顕在化と経済的状況の維持を、この「改革」の未来に描いてしまった、ということでしょうか。

     しかし、この解けない誤解、そしていまだその解消に一歩も歩み出していない「改革」の現実が、ずっと市民を裏切り、多くの弁護士を苦しめているように、どうしても見えてしまうのです。


    弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    スポンサーサイト



    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    「年収300万円」論が引きずる疑問

     かつて法科大学院擁護・弁護士増員推進派が主催した集会で、ある弁護士が言い放ち物議を醸し、時を経て今でも時々、弁護士の中で話題になる、ある言葉があります(Schulze BLOG)。

     「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、合格者増員が必要」

     既に増員弁護士の数に見合う有償需要が顕在化せず、弁護士の経済的状況が下落するという「改革」の影響がはっきりした時点で言われたこの言葉は、あたかもその現実が「改革」の失敗を意味していないと、批判に対してクギを刺すような響きをもっていました。

     しかし、ある意味、それ以上に、多くの弁護士には、率直に驚くべき改革推進派の現状認識として受けとめられたようでした。「年収300万円でもいい人」を待望する増員肯定論が、「失敗」の現実に対する、いかにも後付けの理屈(開き直り)であるようにとれたのと同時に、いくら何でもこの条件を、「改革」後の法曹志望者にのませようとする、のませられるという認識に、呆れる声が聞かれたのです。

     これも度々引用される「成仏理論」と並び、「改革」推進論者から飛び出したいかにも現実と乖離した、ご都合主義的な「トンデモ」論のような、扱いされた言葉といっていいと思います(「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。

     最近も、この言葉をめぐって、弁護士のこんなツイートがなされていました。

     「私は、弁護士を増やして年収300万円でもいいという人を生み出すべきという人々に、常に問いかけていきたいのです。あなたの年収はいくらなのか、あなたは年収300万円で弁護士業をやっているのか、年収300万円でも弁護士を目指す人をどれだけ見つけて来られるのか、ということを」(深澤諭史弁護士のツイート)

     まさに多くの弁護士が前記言葉に感じたはずのことであると同時に、志望者目線で考えても、「改革」の結果として、既に答えが出てしまっている問いかけといえます。しかし、このツイートには、こんな返信も付されていました。

     「そもそも金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いることが問題です。依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような人が弁護士事務を行えるようにする必要があります」(「Imr @nglwer」氏の返信)

     この返信者は「弁護士の不当な高額報酬には反対する立場」であることを明らかにしていますが、あえていえば、奇しくもこの返信内容は、冒頭の「年収300万円」論とつなにがるようにみえます。あたかも「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士こそ、「年収300万円でもいい」といえる弁護士であり、それを社会は期待している、というように。

     そしてもっといってしまえば、このことは事業者性を犠牲にして公益性を追求する弁護士像をこの「改革」の先に描き込んだ、弁護士会内推進派の「あるべき論」にもつながるようにもとれるのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     結論から言えば、「金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いる」としても、深澤弁護士が提起している「300万円」論への疑問、その非現実性を越えて(目をつぶって)の、「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士を待望する無理は、やはり揺るがないといわなければなりません。

     しかし、あえてこの返信者の言う「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」、そして、その結果として「年収300万円でもいい」という弁護士の登場が、本当にこの国で待望されているとしたならば、この「改革」には別の矛盾が生じていないでしょうか。本気で、それをこの国の理想の弁護士像に変えると言うのであるならば、なぜ、この「改革」で作られた新たな法曹養成制度は、より高い経済的条件の参入障壁を設けているのでしょうか。

     どんなに純粋に、そうした覚悟を持つ弁護士がいたとしても、それをはねている、少なくとも旧試体制よりもはねている現実はどう考えればいいのでしょうか。唯一、その障壁から外れた機会となる予備試験をなぜ、本道を守るために目の敵にしているのでしょうか。あえていえば、「年収300万円」でも「依頼者利益」を優先し、自らの収入を省みなくても生活できる、という経済的条件を備えた、いわば富裕層しか越えられないハードルは、理想論のようにいわれる「あるべき弁護士」の登場の足を引っ張っていることにはどうしてならにないのでしょうか。

     現実に立ち返れば、「依頼者の利益を確保し公益に貢献する」ことに積極的な弁護士の登場を社会が求めていたとしても、より一定の経済的余裕が確保・担保された方が、経済的に追い詰めた先の「勇者」を期待するよりも、その裾野は広がります。むしろ、「改革」の逆転した発想によって、そこは旧試体制よりも失われているものの方を私たちは気にすべきです。

     「300万円論」「成仏理論」の論者も、事業者性の犠牲に在るべき姿を見出した当時の弁護士会内推進論者も、それが弁護士激増の先の姿として、本当にその無理に気付かず、また疑ってもいなかったのか――。本当の答えはもはや得られないだろう、その疑問に、どうしてもたどりついてしまうのです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    「経済的淘汰」をめぐる「改革」のツケ

     あくまで個人の印象としてと断りを付けますが、いわゆる平成の司法改革が走り出したころ、それを推進していた側の、編集委員などを含む大手メディア関係者と、弁護士増員とその先に予想されていた経済的淘汰について話すと、その返答は非常に歯切れが悪かったことを記憶しています。どういうことかというと、彼らの中にも、そういう形で弁護士が追い詰められていくことが、果たして良い結果を生むのかについて、疑問があるようにとれたということです。

     それまでの弁護士の経済的環境は恵まれ過ぎ、そこに弁護士は企業努力ならぬ士業努力を怠ってきた、という当時の弁護士も半ば認めてしまっていた見方を、「改革」推進論者は、度々振りかざしました。前記メディア関係者もその例外ではありませんでしたが、その一方で、いわゆる「手弁当」派も含めて、経済的安定が支えていた、弁護士の公的貢献、まさに公務員でない彼らが、公的な分野を支えられてきた現実が、そこにあったことも彼らは知っていたのです。

     そこの歯切れが悪いところを、こちらが突っ込むと、返って来るのは、弁護士の心得違いをいうような、前記論調がいう現実が「社会に受け容れられていない」ということを繰り返すか、当初、増員論が拠り所にしていたような、極めて不確かな眠れる弁護士ニーズの存在を掲げるかでした。

     もっともこれは弁護士会内の推進論もそうだったといえます。「経済的自立」論は、もはや社会に通用しないし、「二割司法」がいうように、潜在的ニーズは存在するとしていたわけですから。後者を拠り所にすれば、そもそも経済的淘汰の心配は、それほどする必要がない、と考えてしまった(期待した)弁護士も少なくなかったと思います(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士のプロボノ活動と『経済的自立論』」)。

     そもそも弁護士会内推進派から出された、一定の事業者性を犠牲にしても公益性の追求を、という「改革」の発想こそ、それでもなんとかなる、というその点についての非常に楽観的な見方に立脚していたのを、むしろ明らかにしているというべきです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     結局、このことが弁護士の在り方を考えるうえで、根本的な問題として、尾を引き、影を落としているように見えるのです、需要に対する「改革」の思惑は外れ、さらにその「改革」によって、弁護士の「心得違い」を改めさせるメリットが、かつての経済的安定性を失わせるデメリットを上回っているといった実感を、社会が感じているようにも、およそとれないからです。

     最近もツィッター上での、弁護士のこんなやりとりが目に止まりました。

     「弁護士が他士業と決定的に違うのは、他士業が財産の存在を前提とし、それをどうするかを業とするのに対し、弁護士の仕事は『お金がないがどうにかして』の含まれている割合が高いことだと思っています。 金銭解決できる問題でも、お金がないからどうにかして、という問題もそこに含まれるかなと」
     「公務員ではないのにそこをどう担っていくのかという問題が、司法改革で完全に置き去りにされてきたことが残念だなと思います。司法改革はむしろ『弁護士の淘汰』つまり経済的淘汰を正当化していますから」(「向原総合法律事務所 弁護士向原」のツイート)
    「弁護士は淘汰されないように、お金が儲からない事件をやらなくなってきたように思います。そこは司法改革のときはどう思ってたのかなと考えています。滋賀では時間によっては受ける人がいないということになっているようです。だって法テラス事件儲からないもん」(佐藤正子弁護士のツイート)

     「できる」という前提にたった司法改革は、「できない」現実を結果的に切り捨て、その現実をなんとかする策の論議に、延々と踏み込まない結果を生んでいないか――。「改革」論議の、そしてあの日の推進論者の歯切れの悪さのツケのような気がしてなりません。


    弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

     司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    弁護士「減員」批判論の真実

     弁護士数の「減員」必要論に対して、ほぼ同じような批判的論調が、現在に至るまで延々と繰り出されている現実があります。あえてその特徴を挙げると、まず、一つにはこれを必ず弁護士発信の自己保身の発想とつなげて語られる点です。弁護士が競争を回避したいがために、人材の供給制限をしようとしている、というもので、思えば「改革」の増員をめぐる議論の当初から、弁護士を抵抗勢力のようにとらえる見方として存在し、現在もそれが言われているということになります。

     また、弁護士増員の程度に見合う、有償需要の存在をあえて無視し、一括りにしたような「需要」が存在しているとして論を進めるということもあります。その「需要」が「存在している」という前提があるのに、「減員」方向の論調が登場することをもって、前者の弁護士保身論を強調し、それをあたかも自分たちが楽して儲けられる経済環境を守ろうとしている弁護士の「心得違い」として、なじるように言うものでもあります。

     そして、もう一つ付け加えるならば、弁護士「減員」と司法試験合格者「減員」の意味をあえて区別せず、慎重に適正人口を検証するという考え方を排除する、という特徴もあります。日本の人口減や過疎化の現実や、仮に合格者を年1000人に減らしても増加基調が続くことも踏まえ、司法試験合格者を減らし、前記有償需要の存在と量を見定めつつ、検証すべきという、冷静な意見が弁護士界内にはありますが、それも「減員」論と一括りに批判され、見向きもされない傾向にあります(札幌弁護士会会長声明)。

     一気に増やすのではなく、「検証」しながら、増員の必要性とその程度を見極める、という発想に欠けているのも、この「改革」論議当初からのものといっていいと思います。

     最近も、こういったことを感じさせるネットメディアの記事が目に止まりました(現代ビジネス「弁護士人気の凋落続く――司法試験合格者数が7年連続で減少」)。

     司法試験合格者の減少、法科大学院制度による志望者の経済的負担の増加、「改革」が規制緩和の先に描いた弁護士大量必要社会、司法試験合格者を輩出できない法科大学院の実力、予備試験人気、前記札幌弁護士会長声明が言及している合格者数の政府目標への「過剰配慮」が招く質の懸念――。

     この記事の筆者は、これらの現実に言及しながら、これらを「改革」が既に生み出した「結果」として、問題の本質を堀り下げたり、事象を相互に関連づけることなく、この記事の結論を次のような言葉で導いています。

     「本当に、試験を難しくすれば有能な法曹人が増えていくのだろうか」
     「司法制度改革で法科大学院を作った背景には、法学部の学生だけでなく、様々な学部から法曹に進めるようにすることで、より幅広い知見を持った法曹人を作ろうという狙いがあった。世の中が複雑化、専門化する中で、多様な人材を法曹界に迎えなければ対応できなくなるという危機感もあったのだ」
     「にもかかわらず、現状主流を占めている議論は、人口が減りマーケットが縮小する中で、司法試験に合格した人が法曹の仕事で十分な収入を得られるようにするには合格者を減らすべきだ、というものだ。資格を取りさえすれば食べていける『ギルド』の発想と言っていい」
     「日本の法曹界は、人口が減り、経済も縮んでいく中で、競争を避け、自分たちが生きていける職域だけを守り続けていくことで十分だと思っているのだろうか。多くの若者たちが日本で弁護士になることに魅力を感じなくなっているという事実に、法曹界はもっと危機感を抱くべきではないか」

     前記の筆者自身が言及している「改革」の現実についていえば、「改革」が描いた弁護士大量必要社会の目論見が外れながら、増員を強行したことにより、弁護士の経済的環境は激変し、法科大学院の経済的負担に比して、経済的リターンが期待できない弁護士界の現実を志望者が見切った結果、この世界はチャレンジする対象から外された。それでも作った制度を維持するために、司法試験の選抜機能を投げうった、合格者輩出のための「過剰配慮」が行われ、その影響が懸念されている――ということになるはずです。

     そうした関係性を、この記事の筆者は脇に置き、「改革」当初にあった「世の中が複雑化、専門化する中で、多様な人材を法曹界に迎えなければ対応できなくなる」という、法科大学院必要論と、当てが外れた大量増員必要論を補強する論調を持ち出し、結果、今の弁護士も「資格を取りさえすれば食べていける『ギルド』の発想」であるとして、「多くの若者たちが日本で弁護士になることに魅力を感じなくなっているという事実に」危機感を持て、と言っているのです。

     「改革」が明らかに失敗という結論を出していても、どうしても「改革」当初に、それこそ弁護士会を抵抗勢力のように描いていわれた「ギルド」批判まで持ち出して、弁護士の危機感がないという「心得違い」論に着地させようとしているのです。

     こういう論調を繰り返し、それで終えてしまう限り、「改革」が生んだ状況のフェイズは基本的に変わりません。いうまでもなく、志望者減や増やそうにも増やせない弁護士人口といった、「改革」の失敗がもたらしたことへの反省にも、もし、有償性は期待できなくても、この国にどうしても弁護士の役割があるとしても、その一定の数を無理なく確保するために、本当は何が必要なのか、という議論にも、一歩も踏み出すことができないからです。


    地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。https://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 資格試験
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    前提的に語られない弁護士「処遇」

     人材を獲得しようと思えば、当然、それなりの処遇を考えなければならない――。こんな当たり前のことが、この「改革」をめぐる法曹界の多くの人たちの発想には、決定的に欠落していた(している)のではないか、と、感じてきました。この間、さまざまな業界の人に、このことについての意見を求めてきましたが、結論は聞くまでもないことで、逆にそれはこの業界の発想の異様さを浮き立たせることになりました。

     とりわけ、「優秀」な人材を得ようと思えば、それを抜きに考える発想そのものが、この社会の一般的な認識としてはあり得ないものと言わざるを得ません。それだけに、なぜ、法曹、とりわけ弁護士界の「改革」路線にしがみつく人々からは、この発想が前提的に語られないのか、という気持ちにさせられるのです。

     「足りない」から「増やさなければならない」。まさに、単純ともいえるこの発想で突き進んできたのが、この「改革」の弁護士増員政策です。そして、いまもなお、法テラスの担い手をはじめ、さまざまな分野での不足論、あるいは活動領域の拡大(の必要性)を前提とした、減員不要論が言われています(日弁連「法曹人口政策に関する当面の対処方針」)。

     その「不足」がどの程度の規模かもさることながら、前記したように、現実的にはどういう処遇を伴うかを考えなければ、いくら増員してもそれは現実化しない。むしろそれがはっきりしたのが、この「改革」の失敗の教訓ではないか、と思えて仕方がないのです。

     なぜ、この処遇を前提的に語らない発想に、この業界は突き進むのか――。「改革」の当初から考えれば、それは端的に言って、弁護士の人気幻想と潜在需要幻想の驕りといわなければなりません。ある意味、法科大学院制度の発想にも反映していることですが、根本的に弁護士人気は揺るがす、多くの人がこの世界の門をたたくという、旧司法試験体制の経験がもたらした誤算。そして、弁護士の潜在需要は、増員によって顕在化し、これによっても弁護士人気は不動であり続けるという誤算(「逆効果政策をやめられない『改革』」)。

      しかし、冒頭の当たり前の発想に立てば、志望者予備軍たちは、当然により処遇される進路を、水平的にとらえて、選択するのであって、そこにもある意味、競争原理が働くのです。しかも、それは一時メディアが盛んに取り上げたような「食える食えない」ではなく、まさにより「遇されるか否か」の問題といわなければなりません。 業界として選ばれるか選ばれないかは、処遇が決めると前提的に考えず、あたかも受け皿が増やすと決めれば増えると考えてしまうのは、これが国内最難関の資格試験にかかわり、あくまで「選ぶ」側として、「選ばれる」側の発想が、後方に押しやられてしまったから、ということもできるのかもしれません。

     現実は、深刻な志望者離れがはっきりとした段階で、「選ばれる」側を意識せざるを得なくなった方々も沢山いたようです。新法曹養成制度の見直しが、同じ制度の理念を掲げてきた仲間内からも異論が出るような、志望者負担軽減を意図した資格取得までの時短策であったことでも、それは伺えます(「法科大学院在学中受験『容認』という末期症状」)。

     その一方で、潜在需要論についていえば、増員のペースダウン論にはじまり、それを根本的には塗り替えない増員必要論が、言われ続けています。弁護士会主導層が判を押したように言い続けている魅力発信の必要性や「やりがい」論も、見方によっては処遇を度外視した、別の言い方をすれば、増員による弁護士資格の経済的価値の下落という決定的事実を、まるでなかったかのように踏まえない、必ずや「選ばれる」という発想にとれます(「『やりがい』強調が映し出す現実」)。

     業界内には、こういう異論を想定してか、まるで開き直るかのように、むしろ処遇のハードルを下げても、それでもこの世界に来る人材を求めているようにとれる発言も聞かれました(「Schulze BLOG」)。しかし、これも冒頭の現実を考えれば、いかにも無理があり、社会的にみた、これまでの弁護士資格の経済的価値も度外視するものであると同時に、いかにもこの発言そのものが、当初は想定外の、「改革」の失敗を受けた後付けの言い分のようにとれてしまうのです(「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。

     弁護士の処遇は、今後、全体的に改善に向かうのでしょうか。全体の処遇を底上げするような潜在需要の顕在化や、公的負担の投入を前提に、弁護士の経済的基盤が今後、さらに強固になることへの楽観的見通しに立つ業界内の人間は、おそらく圧倒的に少数派のはずです。しかも、増員基調は、今後も変わりません。日弁連が現段階での減員不要と認識していること自体、弁護士全体の処遇改善が念頭にないか、それとも依然として楽観的な見通しに立っているのかととられても仕方がありません。

     そもそも経済界をはじめとする、弁護士を恒常的に利用しようとする側が(あるいは社会全体も)、今でも念頭に置いているのは、増員によって弁護士が安く使えるようになる、要するに「低処遇」への期待感の方である、とすら思えます。そして、そうだとすれば、前記業界内から出た処遇のハードルを自ら下げようとする意見は、見事にその「ニーズ」に合致することになります。

     ただ、それでも仮にそれが一部利用者に都合よく、その期待感にこたえるものになったとしても、それが最終的に、この国の多くの弁護士利用者市民の利益につながるかは、相当疑わしいといわなければなりません。なぜならば、言うまでもなく、それはどこまでいっても、冒頭のあり得ない発想のドグマから生まれたものだからです。


    地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798

    司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。https://www.mag2.com/m/0001296634.html

    にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
    にほんブログ村

    にほんブログ村 その他生活ブログへ
    にほんブログ村



    人気ブログランキングへ

    テーマ : 弁護士の仕事
    ジャンル : 就職・お仕事

       スポンサーリンク



    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR