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    「司法離れ」という扱われ方

      裁判員制度や司法試験受験者数をとりあげた、産経新聞の奇妙な記事が、一部弁護士の中でも話題になっています。タイトルは、「今年から18歳、19歳の裁判員も…懸念される若者の『司法離れ』 法教育の充実急務」。何に奇妙さ感じるかを一言で言えば、この記事で使われている、なんとも違和感を覚える「司法離れ」という表現にです。

     詳しくはお読み頂ければと思いますが、記事がまずスポットを当てたのは、10代への司法教育充実を図ろうと今年1月に設立された一般社団法人「司法教育支援協会」が主催し、今年3月中旬に開催された模擬裁判イベント。記事はこのイベントの狙いとして、「刑事裁判の難しさを疑似体験をした上で、裁判員として送り出せる場を用意したかった」という、同協会代表理事である元特捜検事の弁護士のコメントを紹介しています。

     問題は、ここから先、このイベントの背景として語った「若者の『司法離れ』」への危機感です。彼が挙げているのは、改正少年法が昨年4月に施行に連動して、裁判員の対象年齢も18歳以上に引き下げられたものの、最高裁が昨年行った調査では、18、19歳で裁判員に「参加したい」と答えたのは9・5%。「参加してもよい」は35・7%で、合わせても半数に満たない、と。裁判員になる際の心配事として、47・4%が「素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安」としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因になっている可能性がある、というのである。

     文脈として、論者と記者が、何を言いたいのか、というか、どういう話につなげたいのかはもちろん分かります。これは、若者の「司法離れ」として懸念すべき、ことでしょうか。明らかに若者の気持ちが離れたているのは裁判員制度に対してではないでしょうか。ここから読みとれる、若者が制度に参加したくない、という拒絶の意思表示そのものが、実は裁判員制度そのものの無理であり、失敗を意味しているようにしかとれないのです。

     裁判員制度は、いわゆる「平成の司法改革」のメニューの中でも、もともと国民の敬遠傾向がはっきりしていた制度といえます。民意を司法に反映する制度のように語られながら、その制度導入には民意を背景としない、ある種の矛盾と無理を抱えてスタートしたともいえます。その状況が制度推進者の思惑や期待に反し、制度スタートから14年になろうとしている現在でも変わっていない。そのことにこの記事は、(おそらく意図的に)目をつぶっています。

     そもそも「離れ」といいますが、そもそも若者に限らず、司法は国民に存在だったといえるでしょうか。なにやら後退しているかのようなイメージを与える表現ですが、もともと多くの国民にとっての司法は、一生かかわらなくてもおかしくない、あるいはかかわらなくて済むものならばかかわりたくない、存在です。その基本は、今も変わっていない。

     そして、それを考えれば、国民にとって司法を身近な存在にするかのように触れこみの裁判員制度が、まさにその思惑通りになっていないことを、この記事から読みとるのは、極めて自然です。「『素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安』としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因」という下りも、何が何でも制度を導入することを前提とする方向から懸念を導き出していますが、素人が裁判に強制的に参加させられる意義を理解していないと考えれば、問われるのは、彼らの「不安」や「二の足を踏む要因」を何とかすることではなく、裁判員制度そのものです。

     ただ、この記事にさらに決定的に違和感を覚えるのは、「若年層の関心の低さへの懸念は、裁判員にとどまらない」として、この「司法離れ」の話を、新司法試験に一本化された2012年から既に2022年には半分以下になっている司法試験受験者数の問題につなげていることです。記事は、前記元特捜検事の「法曹の仕事に目を向ける若い人たちが減ってきており、このままだと司法を担う人材が枯渇してしまう。関心を高める取り組みが必要」というコメントで締め括っています。

     これは、ある意味、全く異質の話を、「司法離れ」という言葉で無理につなげているとしか思えません。結論から言ってしまえば、志望者が離れているのは、これまでも繰り返し触れてきたように、増員政策の失敗で、弁護士の経済的価値とそれに対する期待度が減退し、さらにそこに法科大学院制度の時間的経済的負担が見合わない(リターンを期待できない)現実を無視しては語れないはずです。

     「関心の低さ」という言葉にあえてこだわるならば、それを生み出しているのは、前記のような現実であり、元特捜検事が必要だという「関心を高める取り組み」があるとすれば、前記状況を変える弁護士の現実的処遇や、法科大学院制度そのものを変える「取り組み」を抜きには語れません。ネット界隈でも、この点に一番反応している、業界関係者の声が見られました。

     「法教育の充実」ということに意味があったとしても、前記裁判員制度そのものについて、直視しないこの記事の文脈では、ここでも抽象的な「関心」が、なにやら現実を変えるような印象を与えています。むしろ、いずれもあえて司法改革の「失敗」から、目を逸らしている、逆に言えば、読者の目を逸らさせようとしている、意図すら、読み込めてしまうのです。

     司法改革の結果をめぐる、ミスリードの典型的で、象徴的な例が、ここにあるように思えてなりません。


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    「改革」幻想と現実の距離

     司法改革の「バイブル」のような扱いとなった、2001年の司法制度改革審議会意見書の「法曹の役割」の項の冒頭には、以下のような記載があります。

     「21世紀の我が国社会における司法の役割の増大に応じ、その担い手たる法曹(弁護士、検察官、裁判官)の果たすべき役割も、より多様で広くかつ重いものにならざるをえない。司法部門が政治部門とともに『公共性の空間』を支え、法の支配の貫徹する潤いのある自己責任社会を築いていくには、司法の運営に直接携わるプロフェッションとしての法曹の役割が格段と大きくなることは必定である」

     法曹の将来性とともに、この「改革」の必要性と目的につなげる役割を果たした文脈であり、現に当時の多くの法曹は、この「改革」の基本的なスタンスを、期待感をもって肯定的に受けとめてしまったようにもみえました。しかし、今にしてみれば、法曹関係者も社会も、この文脈の持つ危うさにもっと敏感であってもよかったと思えるのです(もちろん、法曹界には当時からそれを見抜いていた方たちもいましたが)。

     「法の支配の貫徹する潤いのある自己責任社会」。司法が「公共の空間」を支えることで、それが築かれる、その過程で、あたかも必然的に拡大されるという法曹の役割――。ここで着地点として示されているのは、まさにこの「改革」の新自由主義的性格を露わにしているといえる「自己責任社会」ですが、その担保されるべき前提はここには全くみえません。

     例えば、自己責任を背負う側に公平で公正な情報が提供され、現実的に適正な選択が行える能力が担保されていなければ、それは背負う側には全く有り難くない、酷な責任を負わせられる社会です。当時、「改革」と絡んで散々言われた、事前規制型から事後救済型へ、という発想の先にくっついて来る「自己責任」論。それがあたかも法曹の役割が、必然的に拡大する(実質的には拡大させる)なかで、この国で、公正に、あるいは「潤いのある」という曖昧なポジティブなイメージなものとして成立していくかのような描き方です。

     改めて問うまでもないかもしれませんが、あれから20年以上が経過した今、この文脈のポジティブなイメージ通りに、法曹の役割と社会が現実化している、あるいはその方向に向かっていると実感している人は、法曹界と社会にどれくらいいるのでしょうか。むしろ、失敗が明確となる法曹(現実には弁護士)人口の激増につなげる、同意見書がここで断定的にいった法曹の役割拡大論は、「事前規制型から事後救済型」と「自己責任社会」という着地点を導き出すために、ひねり出されている感すらしてくるのです。

     そもそもそんな危なっかしい「自己責任」が被せられる社会を、事後救済を含めた法曹の役割の拡大に社会が託して、受け容れる前提もよく分かりません。これもまた、結果的に法曹に対する膨大な社会的な潜在的ニーズ、あたかも国民が増大を求め、増大さえしてくれれば、それを支えるために支え切れるだけのオカネを投入する用意が市民社会側にあるというニーズの幻想に、まさにつながった一方的な描き方の根っこが、ここにもあるように思えてならないのです。

     今年の司法試験合格者は1403人であったことが話題となっています。かろうじて1400台に踏みとどまったものの、3年連続で政府目標となっていた1500人を下回った格好です。受験者は3082人で7年連続減少し、5年間でほぼ半減。そのなかで合格率が新司法試験で史上2番目に高い45.5%に跳ね上がっています。

     弁護士の中からは、すぐさまこれまでも指摘されてきた司法試験の選抜機能の劣化、合格者全体のレベルダウン、予備試験組と法科大学院組の合格率格差(97.5%対37.7%)を懸念する声が挙がっています(弁護士猪野亨のブログ 弁護士坂野真一のブログ Schluze BlOG)。

     さらに根本的なことを付け加えなければなりません。この司法試験の結果を伝えたNHKのニュースでは、葉梨康弘法務大臣の、閣議後の記者会見での以下のような発言を紹介しています。

    「受験者数が減少傾向にあることは重く受け止めている。法曹が活躍する場をできるだけ広げていくために、いろんな形で情報発信していくことが必要だ」(NHK NEWS WEB)

     これは、冒頭の「バイブル」が法曹の将来性とともに、高らかに語った、この「改革」の目的の話とどうつなげてみればいいのでしょうか。このニュース自体も当たり前のように、「法曹を希望する人をどのように増やしていくかが課題」などといっています。

     法曹の役割拡大の描き方を誤っただけでなく、旧制度下ではあり得なかった受験者・人材の獲得を「改革」の目的としなければならなくなっている現実です。「法曹の役割が格段と大きくなる」と描いた「改革」の未来は、「法曹が活躍する場をできるだけ広げて」いかなければならない未来だったということです。

     何が間違っていたのか、そして今、誰の、何のために、それは進められているのか――。そのことが、今、それでも問われない「改革」というものがあり得るのでしょうか。


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    「市民」が求めたわけではないという現実

     かなり以前にも取り上げましたが、司法改革の推進を目的に、2000年に開催された市民集会で、司法制度改革審議会委員を務め、弁護士会内での「改革」を主導した故・中坊公平弁護士が、冒頭のあいさつの中で、次のような極めて印象的な発言をしました。

     「この『改革』は、残念ながら市民が下から求めたものではない。ただ、進め方によっては、市民のための『改革』になる」

     おそらく「改革」への期待感を盛り上げようとする、この集会の狙い通り、ある種の熱気に包まれていた会場の参加市民たちが、この発言をどう理解していたのかはともかく、この発言は確かにこの「改革」の現実を鋭く言い表していたものでした。

     のちに宮本康昭弁護士が、論文「司法制度改革の史的検討序説」で的確に分析したように、経済界が目指した、政治・経済の国際化と規制緩和の中で司法の役割をとらえ、作り変えようとする「規制緩和型司法改革」と、これに対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立することを目指した日弁連・弁護士会が掲げたのが「市民の司法型司法改革」であったという現実。

     ただ、それは現に司法の救済を必要としている多くの国民が、それを得られないでいるという前提に、あくまで日弁連・弁護士会が立ったものであり、その解決のため「大きな司法」も、裁判官増員も、「司法官僚制の打破」も、すべて彼らが導き出したもの。大きな市民社会の要求が、彼らを突きあげて、この「改革」を動かしたわけではなく、少なくともこと「市民のため」という目的は、「改革」の流れのなかで、前記の通り、日弁連・弁護士が作り出そうとしたということを意味しています(「『「改革」への期待感』という幻影」 「同床異夢的『改革』の結末」)。

     そして、中坊弁護士の前記言葉は、今にしてみれば、その日弁連・弁護士会が現在に至るまで掲げ続けている「市民のための改革」の結果について、別の現実も物語っているようにとれるのです。あくまでこれは前記の通り、日弁連・弁護士会が日本の司法を俯瞰し、導き出した「市民のため」であり、市民、とりわけ多数派市民がこの言葉から連想するものとは必ずしも一致していない、その当然過ぎる理由がここにあるということです。

     例えば、おそらく司法にそれまでかかわりがなく、ある日、かかわりを余儀なくされる圧倒的多数といっていい利用者市民が、この言葉のもとに言われる利用しやすい司法というメッセージの先には、おそらくまず二つのことを弁護士に期待してしまうはずです。一つは簡便で的確な弁護士とのマッチング、もう一つは無料、低廉といえるような、その経済的ハードルの低さです。

     あの日の会場の熱気のままに、今、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」が、市民の大きな支持のもとに、評価されているようにはとれない現実は、このいかんともしがたい実態と無縁ではないはずなのです。それをどこまで直視ししたのか、そもそもどこまでは直視してもできないことなのか、それもはっきり提示されているわけではないのです。

     日弁連が、この旗印のもとに何を目指そうとしたのか――。それを今、辿ろうと思えば、例えば日弁連が1999年に発表した「司法改革実現に向けての基本的提言」にも明確に表れています。

     「わが国は、長年にわたって官僚主導により政治、経済、社会が動かされてきた。この体制は、戦後のわが国に目覚ましい経済発展をもたらしたが、その一方で様々な社会的矛盾を生じさせ、これが今日、不透明なルール、不合理な規制、政財官の癒着、情報隠しとなってあらわれ、市民の生活に重大な影響をもたらしている」
     「今、わが国では、この体制の転換が求められている。これに応じて、司法のあり方もまた改められなければならない。この改革の基本的枠組みは、『市民による司法』を実現することである。そのために、『市民のための司法制度』の内容を整備し充実させていくことが重要である。『市民のための司法制度』を充実し、司法に市民が参加するという基盤ができるとき、司法ははじめて市民にとって頼りがいのあるものになる。これが『市民の司法』の実現である」

     改めてみれば、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」の源流にある発想が、いかに遠大なものであったかを知らされます。「不透明なルール」「不合理な規制」「政財官の癒着」「情報隠し」そして、「体制の転換」。これらのワードににじみ出る問題意識は、当然、理解できることですが、司法改革の射程がそこまで及んでいたことを今も、当時も、どれほどの多数派市民が発想で来たのでしょうか。

     弁護士会的目線で見れば、ここに貫かれているのは、ある意味、当然、官僚(的)司法の打破であり、それ即ち、「市民のため」に直結していたというべきです。この提言の中の、前記「全体像」に続く「『市民による司法』制度の実現」にあるように、当時の彼らがその旗のもとに掲げたのが、法曹一元制度と陪審制度の導入であった(むしろ、そうでなければならなかった)ことの必然性が、ここにあったといえます。

     もちろん、ここで言いたいのは、彼らの目指した「市民のための改革」の発想が無駄であったとか、意味がなかったということではありません。提言にさらに続いて記載されている整備すべき制度や弁護士の自己改革プログラムの中には、実をとれたものもあります。しかし、法曹一元制度実現は多くの市民が知るまでもなく消え、陪審制度は裁判員制度として市民参加への道は開いたものの、市民が求めたどころか、今もって求めているとは言い難い状況です。裁判員制度が陪審制度への一里塚のように言う人も今はいません。

     「市民が要望する良質な法的サービスの提供と法曹一元制度を実施するためには、弁護士の人口が相当数必要」と提言が指摘した弁護士人口の増加は、改めていうまでもなく、数と需要の量的バランスを欠いたため、そもそも成立せず、前記市民側の発想からみても、「市民のため」をどこまで前進させ、今後前進させるのかは不透明です。

     法曹一元や陪審制度が消えても、今でも弁護士界の中には「法の支配」や、「市民の司法」といった言葉を使う人は沢山います。しかし、日弁連・弁護士会が目指した「改革」のうち、どれが今でも「市民のために」に相応しい市民目線に合致するもので、どれが当時から「下からの求め」に必ずしも合致しない、忖度によるものであったのか、今、改めて問い直す必要があるように思えます。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    法テラスをめぐる「改革」のツケ

     以前にも書きましたが、法律扶助の運営主体が今の日本司法支援センター(法テラス)に移る以前、弁護士会が主体となって運営していた、いわゆる法律扶助協会の時代、それを担っていた弁護士たちには、ある種の自負心をみることがしばしばありました。

     本来国が担うべきコストを、自分たちが持ち出しで引き受けているという意識。「ボランティア」と言う人もいましたし、後年、あれは「プロボノ」であったと言う人もいますが、制度としても担い手としても財政的に厳しい現実を抱えながら、多くの関係者からは、制度を支えるモチベーション、あるいは情熱のようなものを感じました。文字通り、主体的であったということでしょう。

     法テラス(司法ネット・当時)構想については、国家が担うことへの懸念論が会内でさかんに議論される一方で、バトンを渡す側としての裏返しのような期待感や達成感のようなものさえ、関係者の中にはみてとれました(「コストの『担い手』観という根本問題」)。

     協会扶助時代には、民事法律扶助事業についての、国からの補助金は予算要望額の半分以下。財源不足で年度途中で援助申し込みの受け付け中止までありえた状態からは少なくとも脱出する。そこまで自分たちは、なんとかこの制度を支えたのだ、と。

     「扶助閥(族)」といわれた、当時扶助協会に深くかかわっていた弁護士と、それ以外の弁護士の意識は、もちろん同じでなかったことは確かですが、多かれ少なかれ、この制度にはそうした弁護士が支えてきたという意識が反映していたといえます。

     それだけに前記懸念論も、中心はその主体性の行方にかかわるものが強かった。新たなセンターが弁護士会にとって代わる、それが大きくなれば、自治を脅かし、果ては「第2日弁連」になる。さらに刑事弁護が法務省の下に置かれる結果となる、などの声が噴出したのです。

     ただ、こうした主体性にかかわる危機のなかで、価格設定権、あるいは具体的な弁護士の処遇に対する問題を、どこまで当時の弁護士が深刻に受け止めていたのかは疑問です。少なくとも一部の弁護士がボランティアで支えていた制度よりは、多くが関与できる妥当な処遇を期待する、根拠なき楽観的見方があったようにもとれました。

     先ごろ弁護士ドットコムタイムズが公表した、全国の弁護士を対象に、法テラスとの契約状況や不満点などを尋ねたアンケート(vol.1 vol.2 vol.3)の結果(回答523人)を見ると、弁護士の処遇という根本的な問題が積み残されたまま、弁護士の意識が制度から離れつつある現実が浮き彫りになっています。

     1年間の売上げに占める、法テラスを通じた受任事件報酬の割合は「25%未満」が民事扶助契約者の83.9%、全回答者の47%が法テラス以外の受任件数や売上げへの圧迫を感じ、報酬に不満は92.0%――。

     ある弁護士は、この結果に対し、結局、法律扶助に関して、制度はあくまで弁護士のボランティアを求めているのではないか、と指摘しました。しかも、扶助協会時代の方が現実的な処遇はいい、という見方も聞かれます。さらに、法律扶助時代の、むしろ「扶助はボランティアであっても当然」という感覚の現・弁護士会主導層が、この状態を改善する気に欠けているという批判の声も聞こえてきます。

     法テラスに対して、弁護士が「民業圧迫」と言い出たのは、発足後ずっとあとのことです。国民の「裁判を受ける権利」を実現し、誰でも利用しやすい司法を実現するという目的の前に、具体的に支える弁護士の処遇について徹底的にこだわらなかった、こだわることができなかったツケといわなければなりません。弁護士激増政策の失敗と同様の現実といえます。

     それだけではありません。こういう本音をツイートしている弁護士もいます。

     「ちなみに、自分が法テラスを辞めた理由は、報酬の低さではなく、弁護士に対する敬意が皆無であるから。担当者が無礼なこともあるし、制度としても弁護士に対する敬意が微塵も感じられない。安いのは我慢できる。けど、敬意も信用もない相手と一緒に仕事はできない」(中村剛〈take-five〉)。

     弁護士の場合、無償化ということの問題をめぐっても、安い、利用しやすいという環境が、顧客の意識に悪い形で影響することが、ずっと聞かれています。

     ただ、いずれにしても、制度が変わり、主体が移っても、弁護士にコストを被せることはむしろ前提化したまま、一方で制度を支える自負につながっていたような主体的な意識は、完全に砕かれつつある――。

     それでも前記回答の81.8%に当たる、法テラスの「民事法律扶助」に契約している弁護士のうち、最多の47.2%の人は、契約理由として「地域や社会への貢献のため」と回答しています。ボランティアとして納得できる人と、経済的に可能な人だけが参加すればいい制度である、というのであれば、話は終わるかもしれません。

     しかし、推進派大新聞が社説で、「改革」が実現させたと手放しに歓迎し、読者に伝える制度の、これがもう一つの現実であることは、やはり社会も確認しておく必要があるはずです。


    弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046

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    コストの「担い手」観という根本問題

     2001年に発表された司法制度改革審議会意見書を「バイブル」とし、路線化して現在に至っている、今回の「司法改革」について、改めてこだわるべきなのは、その「コスト」負担に対する発想ではないか、という気がするのです。要するに、どこがそのコストを負担することになったのか、有り体にいえば、どこにそのツケを回すことを前提に、「改革」を推進したのか、という問題です。

     その視点で、この「改革」をみると、国家的事業とされながら、その柱とされているような政策で、共通して、その「担い手」観ともいうべきものに、あたかも、コストをめぐる責任を転嫁するような発想がくっついているように見えるのです。

     「国民の期待にこたえる」「より利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのある」司法とか、アクセス拡充とか、あるいは「二割司法」の解消にしても、「社会の隅々」論とつながった、誤用のような「法の支配」を行き渡らせるという話も、結局、増員政策を手段として、そのコストは、弁護士が背負わされたといえます。

     また、旧司法試験体制を「点」の「選抜」とか、受験技術偏重だと批判した、法科大学院を中核とした「プロセス」の効果を謳った新法曹養成は、結局、時間的経済的コストが、志望者と新人法曹に回されたというべきです。

     さらにいえは、もう一つの「改革」の目玉といえる、裁判員制度に至っては、改めていうまでもなく、肉体的精神的コストを、裁判への参加を強制する国民に負担させることが前提となっています。

     そして、そのそれぞれに、どういう理屈、正確にいえば、そのコストを飲まざるを得ない論法がとられたのか――。一番目の弁護士についていえば、結局、「公益性」ということを絡めた弁護士の「使命」と、それに対する社会の「期待感」という切り口だったといえます。

     しかも、それを弁護士会「改革」主導層が自省的に引き入れ、推し進めた。事業者性を犠牲にしても、公益性を重視すべくとか、あるいは前記「期待」を念頭においた拡大路線として、司法試験合格年3000人も「大丈夫」と太鼓判を押したのです。その結果、個人事業主の集まりであるにもかかわらず、現実的なコスト負担の可能性、限界性、さらに前提とした経済基盤の持続可能な形での確保とその必要性というものは省みられることがなかったといえます(「『改革』運動が描いた弁護士像」 「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」)。

     かつて法律扶助を担っていた、「扶助閥」とも言われた弁護士たちからは、本来国家が担うべきコストを、われわれが担っているという自負にも近い言葉を耳にすることがありました。それだけに、当初、現在の法テラスにつながる構想が浮上した時に、国家が担うという点に、懸念論もありながらも、逆に彼らの期待感が膨らんだ観もありました。

     しかし、結果をみれば、弁護士が負うコストへの発想の問題性を、現在も制度は引きずることになっているといえます。要は「なんとかしろ」という発想なのです(「弁護士の現実に向き合わない発想と感性」)。

     新法曹養成の志望者・新人法曹へのコストのつけ回しは、結局、法曹志望の「自己責任」論によって、転嫁されたといえます。「給費制」廃止論議でも登場することになりましたが、司法修習を含め法曹養成は、個人の選択に基づく、「職業訓練」であり、受益者負担の考え方で括れるという話です。結果、朝野ともに法曹は国家によって養成されてきたというこれまでの発想も、本人たちの自覚も、さらに高額な経済的コスト負担よって、人材の多様性や機会保障という点も、後方に押しやられました(「『多様性』のプライオリティ」 「『多様性確保』失敗のとらえ方」)。

     そして、裁判員制度は、民主的な司法とか、国民の常識の反映とか、あるいは、それらと矛盾する現行裁判正当化の意思が反映した「国民の理解」促進論が繰り出され、あたかも「民主主義のコスト」のように、強制的な司法参加を国民に迫るものとなりました。本来、税金の負担と、プロの職業的自覚への信頼という視点もありながら、「統治客体意識」(司法審意見書)などという、烙印まで国民に押し、いわば現行裁判の問題の責任を国民に転嫁(あるいは共犯化)する形で強行された、というべきです(「『司法の正統性』という視点」)。

     結果、刑事裁判において、本来主役であるはずの「裁かれる側」が後方に押しやられ、参加する国民が主役のような扱いになりました。

     今、なぜ、こんなことを書くかと言えば、いうまでもなく、まさにこの無理な論法による、無理なコストのつけ回しは、この「改革」ですべて裏目に出たからです。事業者性の安定的な維持の可能性を無視したコスト観によって、「改革」が描いた未来は絵に描いた餅になり、法曹が「改革」によって、より「「国民の期待にこたえる」「より利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのある」という社会的評価が得られたわけではなく、一方で、弁護士という資格の経済的価値だけが下落した。

     法曹養成の時間的経済的負担感と前記資格の経済価値下落によって、法曹志望者は離反し、法科大学院を堅持したい側が、彼らの掲げてきた理念とも矛盾するなりふり構わぬ修正に乗り出している。裁判員制度も、結局、刑事裁判を変質させつつ、およそ国民に受け容れられたとも、定着したともいえない状況に陥っています。

     それでも、このコストの「担い手」観は正しい、正しかった、と、依然、強弁する人もいるかもしれません。しかし、結局、この「改革」がどこにコストを回したのか、その発想が正しかったのか、までに立ち返って考えないことには、この「改革」の正当な評価が延々とできないばかりか、それがもたらしている現実の袋小路から脱することも延々とできないと思えてならないのです。


    弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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