「司法離れ」という扱われ方
裁判員制度や司法試験受験者数をとりあげた、産経新聞の奇妙な記事が、一部弁護士の中でも話題になっています。タイトルは、「今年から18歳、19歳の裁判員も…懸念される若者の『司法離れ』 法教育の充実急務」。何に奇妙さ感じるかを一言で言えば、この記事で使われている、なんとも違和感を覚える「司法離れ」という表現にです。
詳しくはお読み頂ければと思いますが、記事がまずスポットを当てたのは、10代への司法教育充実を図ろうと今年1月に設立された一般社団法人「司法教育支援協会」が主催し、今年3月中旬に開催された模擬裁判イベント。記事はこのイベントの狙いとして、「刑事裁判の難しさを疑似体験をした上で、裁判員として送り出せる場を用意したかった」という、同協会代表理事である元特捜検事の弁護士のコメントを紹介しています。
問題は、ここから先、このイベントの背景として語った「若者の『司法離れ』」への危機感です。彼が挙げているのは、改正少年法が昨年4月に施行に連動して、裁判員の対象年齢も18歳以上に引き下げられたものの、最高裁が昨年行った調査では、18、19歳で裁判員に「参加したい」と答えたのは9・5%。「参加してもよい」は35・7%で、合わせても半数に満たない、と。裁判員になる際の心配事として、47・4%が「素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安」としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因になっている可能性がある、というのである。
文脈として、論者と記者が、何を言いたいのか、というか、どういう話につなげたいのかはもちろん分かります。これは、若者の「司法離れ」として懸念すべき、ことでしょうか。明らかに若者の気持ちが離れたているのは裁判員制度に対してではないでしょうか。ここから読みとれる、若者が制度に参加したくない、という拒絶の意思表示そのものが、実は裁判員制度そのものの無理であり、失敗を意味しているようにしかとれないのです。
裁判員制度は、いわゆる「平成の司法改革」のメニューの中でも、もともと国民の敬遠傾向がはっきりしていた制度といえます。民意を司法に反映する制度のように語られながら、その制度導入には民意を背景としない、ある種の矛盾と無理を抱えてスタートしたともいえます。その状況が制度推進者の思惑や期待に反し、制度スタートから14年になろうとしている現在でも変わっていない。そのことにこの記事は、(おそらく意図的に)目をつぶっています。
そもそも「離れ」といいますが、そもそも若者に限らず、司法は国民に存在だったといえるでしょうか。なにやら後退しているかのようなイメージを与える表現ですが、もともと多くの国民にとっての司法は、一生かかわらなくてもおかしくない、あるいはかかわらなくて済むものならばかかわりたくない、存在です。その基本は、今も変わっていない。
そして、それを考えれば、国民にとって司法を身近な存在にするかのように触れこみの裁判員制度が、まさにその思惑通りになっていないことを、この記事から読みとるのは、極めて自然です。「『素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安』としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因」という下りも、何が何でも制度を導入することを前提とする方向から懸念を導き出していますが、素人が裁判に強制的に参加させられる意義を理解していないと考えれば、問われるのは、彼らの「不安」や「二の足を踏む要因」を何とかすることではなく、裁判員制度そのものです。
ただ、この記事にさらに決定的に違和感を覚えるのは、「若年層の関心の低さへの懸念は、裁判員にとどまらない」として、この「司法離れ」の話を、新司法試験に一本化された2012年から既に2022年には半分以下になっている司法試験受験者数の問題につなげていることです。記事は、前記元特捜検事の「法曹の仕事に目を向ける若い人たちが減ってきており、このままだと司法を担う人材が枯渇してしまう。関心を高める取り組みが必要」というコメントで締め括っています。
これは、ある意味、全く異質の話を、「司法離れ」という言葉で無理につなげているとしか思えません。結論から言ってしまえば、志望者が離れているのは、これまでも繰り返し触れてきたように、増員政策の失敗で、弁護士の経済的価値とそれに対する期待度が減退し、さらにそこに法科大学院制度の時間的経済的負担が見合わない(リターンを期待できない)現実を無視しては語れないはずです。
「関心の低さ」という言葉にあえてこだわるならば、それを生み出しているのは、前記のような現実であり、元特捜検事が必要だという「関心を高める取り組み」があるとすれば、前記状況を変える弁護士の現実的処遇や、法科大学院制度そのものを変える「取り組み」を抜きには語れません。ネット界隈でも、この点に一番反応している、業界関係者の声が見られました。
「法教育の充実」ということに意味があったとしても、前記裁判員制度そのものについて、直視しないこの記事の文脈では、ここでも抽象的な「関心」が、なにやら現実を変えるような印象を与えています。むしろ、いずれもあえて司法改革の「失敗」から、目を逸らしている、逆に言えば、読者の目を逸らさせようとしている、意図すら、読み込めてしまうのです。
司法改革の結果をめぐる、ミスリードの典型的で、象徴的な例が、ここにあるように思えてなりません。
裁判員制度の必要性についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4808
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問題は、ここから先、このイベントの背景として語った「若者の『司法離れ』」への危機感です。彼が挙げているのは、改正少年法が昨年4月に施行に連動して、裁判員の対象年齢も18歳以上に引き下げられたものの、最高裁が昨年行った調査では、18、19歳で裁判員に「参加したい」と答えたのは9・5%。「参加してもよい」は35・7%で、合わせても半数に満たない、と。裁判員になる際の心配事として、47・4%が「素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安」としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因になっている可能性がある、というのである。
文脈として、論者と記者が、何を言いたいのか、というか、どういう話につなげたいのかはもちろん分かります。これは、若者の「司法離れ」として懸念すべき、ことでしょうか。明らかに若者の気持ちが離れたているのは裁判員制度に対してではないでしょうか。ここから読みとれる、若者が制度に参加したくない、という拒絶の意思表示そのものが、実は裁判員制度そのものの無理であり、失敗を意味しているようにしかとれないのです。
裁判員制度は、いわゆる「平成の司法改革」のメニューの中でも、もともと国民の敬遠傾向がはっきりしていた制度といえます。民意を司法に反映する制度のように語られながら、その制度導入には民意を背景としない、ある種の矛盾と無理を抱えてスタートしたともいえます。その状況が制度推進者の思惑や期待に反し、制度スタートから14年になろうとしている現在でも変わっていない。そのことにこの記事は、(おそらく意図的に)目をつぶっています。
そもそも「離れ」といいますが、そもそも若者に限らず、司法は国民に存在だったといえるでしょうか。なにやら後退しているかのようなイメージを与える表現ですが、もともと多くの国民にとっての司法は、一生かかわらなくてもおかしくない、あるいはかかわらなくて済むものならばかかわりたくない、存在です。その基本は、今も変わっていない。
そして、それを考えれば、国民にとって司法を身近な存在にするかのように触れこみの裁判員制度が、まさにその思惑通りになっていないことを、この記事から読みとるのは、極めて自然です。「『素人に裁判という難しい仕事を正しくできるか不安』としており、予備知識の少なさが、二の足を踏む要因」という下りも、何が何でも制度を導入することを前提とする方向から懸念を導き出していますが、素人が裁判に強制的に参加させられる意義を理解していないと考えれば、問われるのは、彼らの「不安」や「二の足を踏む要因」を何とかすることではなく、裁判員制度そのものです。
ただ、この記事にさらに決定的に違和感を覚えるのは、「若年層の関心の低さへの懸念は、裁判員にとどまらない」として、この「司法離れ」の話を、新司法試験に一本化された2012年から既に2022年には半分以下になっている司法試験受験者数の問題につなげていることです。記事は、前記元特捜検事の「法曹の仕事に目を向ける若い人たちが減ってきており、このままだと司法を担う人材が枯渇してしまう。関心を高める取り組みが必要」というコメントで締め括っています。
これは、ある意味、全く異質の話を、「司法離れ」という言葉で無理につなげているとしか思えません。結論から言ってしまえば、志望者が離れているのは、これまでも繰り返し触れてきたように、増員政策の失敗で、弁護士の経済的価値とそれに対する期待度が減退し、さらにそこに法科大学院制度の時間的経済的負担が見合わない(リターンを期待できない)現実を無視しては語れないはずです。
「関心の低さ」という言葉にあえてこだわるならば、それを生み出しているのは、前記のような現実であり、元特捜検事が必要だという「関心を高める取り組み」があるとすれば、前記状況を変える弁護士の現実的処遇や、法科大学院制度そのものを変える「取り組み」を抜きには語れません。ネット界隈でも、この点に一番反応している、業界関係者の声が見られました。
「法教育の充実」ということに意味があったとしても、前記裁判員制度そのものについて、直視しないこの記事の文脈では、ここでも抽象的な「関心」が、なにやら現実を変えるような印象を与えています。むしろ、いずれもあえて司法改革の「失敗」から、目を逸らしている、逆に言えば、読者の目を逸らさせようとしている、意図すら、読み込めてしまうのです。
司法改革の結果をめぐる、ミスリードの典型的で、象徴的な例が、ここにあるように思えてなりません。
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