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    弁護士会的「市民」像

     弁護士会が描く「市民」像というテーマが、これまでも弁護士会会員の間で、取り沙汰されてきました。そして、この文脈で取り上げられる多くの場合、それは、批判的な意味を持っています。要は、そこには現実の、いわば等身大の市民との間に乖離がある、というニュアンスです。

     どういうことかといえば、弁護士会が掲げる政策方針や提案の基本に、自らのそれに都合がいい「市民」像が設定され、あたかもその要求に忖度するような形にしているが、現実の市民とは乖離しているため、いわば当然にズレ、誤算が生じているのではないか、逆にズレ、誤算の根本的原因が、まさにそこにあるのではないか、という指摘になります。

     その中身は、あえて大きく分類すれば、二つに分けられます。一つは市民の意識や志向を弁護士会側に都合良く、「高く」(高い、低いで表現するのは若干語弊がありますが)、彼らにとっての理想的なものとして、描く傾向。市民は自立的で、常に行動は主体的であって、弁護士会が掲げる問題提起や司法の現実に対し、強い関心を抱き得る存在である、と。死刑廃止や人権侵害問題、法曹一元などにも、必ずや目を向け、賛同し得る「市民」ということになります。

     もう一つは、前記と被る部分もありますが、必ずや弁護士・会を必要とする存在、もしくは弁護士会の活動に必ずやエールを送ってくれる存在として、「市民」をとらえる傾向。市民のなかに(条件を満たせば)、基本的に弁護士・会を必要とする欲求が存在し、場合によっては、おカネを投入する用意も、意識も十分に存在しているととらえたり、弁護士自治もその存在意義を理解して、必ずや賛同してくれる存在とみているようにとれます(「『市民の理解』がはらむ問題」)。

     「し得る」とか「必ずや」とか「条件を満たせば」といった、可能性に期待するような言葉を敢えて挟んでいるのは、弁護士会のスタンスの特徴として、もし、現実的な乖離がそこに現在、存在しているとしても、それそのものを「課題」として、「なんとかしなければならないもの」、あるいは弁護士側の「努力次第で現実化するもの」ととらえがちである、ということがまた、弁護士会的なスタンスととれるからです。

     結局は、「市民のため」「市民の理解」ということを掲げながら、等身大の市民ではなく、あくまで彼らにとっての、在るべき論が介在しているような「理想像」から、逆算されているようにみえてしまう、ということになります。

     実は、「平成の司法改革」そのものにも、そういうニュアンスが読みとれます。司法制度改革審議会意見書の中で、「国民」が次のように描かれている箇所があります。

     「国民は、司法の運営に主体的・有意的に参加し、プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていくことが求められる。21世紀のこの国の発展を支える基盤は、究極において、統治主体・権利主体である我々国民一人ひとりの創造的な活力と自由な個性の展開、そして他者への共感に深く根ざした責任感をおいて他にないのであり、そのことは司法との関係でも妥当することを銘記すべきであろう」

     「司法の運営に主体的・有意的に参加」したり、「プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていく」国民は、もちろん現実の国民の意志から逆算されたものではなく、あくまで「改革」者側の、在るべき論に基づく願望といってもいいものです。「統治主体・権利主体である」国民という括りは正しくても、司法の信頼のうえに税金を投入して委託している側が、脱却すべき「統治客体意識」の持ち主とされることには、納得いかない国民がいてもおかしくありません。

     「改革」が理想を前提に語って何が悪いという人もいるかもしれません。仮に理想としてそれを提示されても、等身大の国民から捉えなければ、その理想を現実化するには本当は何が必要なのかも見誤ります。まさに、弁護士の需要と弁護士激増政策にしても、裁判員制度にしても「改革」の失敗の根っこには、そのことが横たわっているというべきです。

     弁護士会の掲げる「市民」像と現実の市民との隔たりにしても、そのしわ寄せは、結局、等身大の市民と向き合う個々の弁護士が被ることになります。そして、「市民のため」の「改革」と言いながら、それは、弁護士会が理想とした「市民」ではない市民にとっては有り難みを実感できない、よそよそしいものになることを、弁護士会や「改革」の主導者は、もっと理解しておくべきだったと言わなければなりません。


     今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    「市民の理解」がはらむ問題

     弁護士会の対外的な意見表明の中で、しばしば登場してきた「市民の理解」は、現実的には二つの意味をはらんできたということができます。一つは、弁護士・会の存在意義や役割など、その等身大の現実について、より市民の理解を深め、周知するというベクトル。そして、もう一つは、逆に市民の理解から逆算して、弁護士・会自身が変わる必要を模索するというベクトルです。

     こういうことを書けば、もちろん弁護士会の主導層や個々の弁護士の方々の中にも、そのどちらのベクトル云々ではなく、当然にそのどちらも重要といった反応が返って来ると思います。

     例えば、しばしば個々の弁護士活動をめぐり、批判的な世論の矛先が向かう刑事弁護については、弁護士会も前者の立場から意見表明することになります。(東京弁護士会会長「弁護士が果たす役割について市民の理解を求めるとともに、 弁護活動の自由の保障の確保に関する声明」)。

     一方、弁護士自治に関して、日弁連は2001年に、会内に反対意見もありながら多数によって採択した総会決議(「市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議」)では、従来から主張してきた前者の立場からの意義強調に加えて、それが「市民の理解と支持」のうえに成り立つとして、「市民の意見や批判に対しては謙虚に耳を傾ける」と、後者の立場からの視点を加える形になりました。そして、それは逆に多数派市民の意見に抗しても、時に貫かれる必要もある弁護士・会の立場に重大な足枷になるとする、批判や懸念を会内に生むことにもなりました(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」)。

     しかし、今、改めて司法改革後の弁護士の状況と、「市民の理解」をめぐる前記二つのベクトルを捉え直すと、前者の立場より後者に傾斜する弁護士会的な発想に、個々の弁護士は、やはりより不安感を持っているようにとれるのです。例えば、それが最も顕著なのは、弁護士の公共的な役割の強調と、社会にある無償性への要求に対して、果たして弁護士会は個々の弁護士の経済的事情や、事業者として当然必要となる採算性を踏まえ、むしろ前者の立場で理解を求め、きちっと社会の要求にクギを刺しているのか、という批判的に目線です。

     改めていうまでもないことかもしれませんが、当の市民の目線からすれば、「市民の理解」を掲げた弁護士・会に対しては、後者の立場の達成度での評価が優先される形になって当然です。個々の活動においても、それが無理をはらんだものでも、様々な要求にこたえるものが良い弁護士で、答えられなければ悪い弁護士になる可能性がある、ということです。

     このことに関しては、採算性を度外視して弁護士が無理をして無償性のものに首を突っ込んで頑張ったあげく、結局、持ちこたえられなくなり、撤退した場合、批判の対象になる、といったことを嘆く声が界内にはあります。無償性・有償性を無視して、「ニーズはある」と増員政策で突っ込んだ「改革」の先で、こうした現実も生じているのです。

     そして、こうした現実に対する弁護士会の姿勢に対して、ネット上を含めた個々の弁護士の批判的な声を集めると、大略次のようなものに集約されるようにとれます。弁護士会主導層が「改革」路線に乗っかって、弁護士の現実を無視し、市民に対して体面的な姿勢(有り体にいえば、いい顔)をし過ぎているというもの。同時に、前者の立場に立った、有償サービスで成り立っている弁護士業の現実や、非採算部門の限界を伝える、弁護士会のアナウンスが決定的に不足しているというもの。弁護士会のそうした立場からは、距離を置かなければ、やっていかれないというもの――。

     「我々は商店街の店の一つなんよ。不採算業務や会務にウツツを抜かし、空疎な絵空事ばかり語るひとはできん。金を稼いで飯を食わんといけんのじゃ」(ピピピーッ @O59K2dPQH59QEJx)
     「(需要を察して)タダで提供、という選択をする場合、撤退時に、供給側が無理をしてても恨まれる(=赤字ローカル線の法則)ので、どうしてもやる場合は、・そうならないかを見極める、・終わり方を考えること、が重要だと思っています。弁護士会はそのあたりで失敗している」
     「そういう場合にもやらにゃならんことがあるわけですが、弁護士という職業がこれだけ手弁当&莫大な弁護士会費を費消して尽くしながら、ここまで世間の評判が悪い理由は、このあたりなのかな、と思っています。弁護士会はよく『市民の理解』と言うけれど、ならばそこは考える必要があるのでは」(向原総合法律事務所 弁護士向原 @harrier0516osk)

     「市民の理解」という言葉が、ある種観念的に会員に理解されて、それでもそれほど今日のように、その問題性に会員が敏感に反応しなく済んだのは、一重に「改革」が破壊した弁護士の経済的安定がかつては存在していたから、です。逆に言えば、こうなってしまった以上、弁護士会主導層は、以前のような発想で対応することはできません。そして、それはもはや「市民のため」にも、と言うべきなのです。


     弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794

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    「左翼」「革新系」が傾斜したとされる「改革」

     いわゆる「平成の司法改革」をめぐって、弁護士会内外でずっと言われ続けている言い方があります。「これを推進したのは、弁護士会内の左翼(あるいは革新系)である」というものです。この言い方は、基本的に肯定的なものではなく、むしろ「改革」の失敗の責任を問うような響きを持っています。つまり、弁護士増員政策を推進し、弁護士の経済的価値を下落させたのは、彼らではないか、と。

     現実的には、「改革」路線に対して、弁護士会内の「左翼」「革新系」と位置付けられるような人々は分裂し、徹底的に反対の立場を貫いた方々もいます。この言い方をする人たちはそれをあえて無視しているのか、それとも日弁連内の多数のそうした弁護士たちが「改革」賛成に回ったことを強調したいのか、いずれにしても、断定的にこうした表現を使うのを耳にしてきました。
     
     しかし、前記分裂の事情を踏まえていない点を除けば、少なくともこう評される、もしくはそう見えてしまう現実が、存在したことは否定できないように思えます。そして、そのことは、また会内でずっと言われ、今でも聞かれる、ある疑問の声につながっています。「なぜ、彼らはこの『改革』の旗を振る側に回ったのか」というものです。

     それは、端的に言ってしまえば、とりわけ「改革」反対派からみると、「改革」の結果から冷静に考えるほどに、いわゆる推進派に回った「左翼」「革新系」とされる人々のスタンスが、本来、彼らがとるべきだったように思えるものと、一見矛盾するような、あるいはとてもやぶへびなもののようにとらえられるからです。

     例えば、無理な弁護士増員政策を推進するほどに、弁護士のビジネス化は促進され、彼らの期待するような「活動派」の弁護士はいなくなることは容易に推察されるはずですし、会活動というものを考えたときも、弁護士が経済的余裕を失うことは、会務に積極的に参加する会員数に決定的に影響することは想像できます。さらにそれを、反対派がつとに指摘してきた弁護士(会)の「弱体化」ととらえれば、彼らこそそのことになぜ、敏感でなかったのか、ということになるのです。

     まして、規制緩和・新自由主義的な性格がはっきりしていた「改革」にあって、いかに「対峙」するという立場を明らかにしたとはいえ、こともあろうに前記性格で推し進める政府・財界が一体となった「オールジャパン」体制の一翼を担うことに、何の抵抗や疑問はなかったのか。一つ間違えれば、「対峙」しているはずの相手を結果的にアシストしかねないことに、彼らこそ、なぜ、もっと警戒できなかったのか――。ある意味、案の定という結果になっている現実からすればなおさらのこと、疑問視されてもおかしくありません。

     この「なぜ」について、これまでも長いこと、いろいろな業界内の声を聞いてきました。その中で、浮かび上がったのは、結局、彼らが大きく二つのことに引きずられたととれる現実です。一つは前記「対峙」の中で掲げた「市民のための『改革』」であり、もう一つは前記増員政策がもたらす、自らの味方が増えるとみる「人材確保論」というべきものです。

     これまでも書いてきたことですが、事前規制を排除し、自己責任を徹底化する「改革」に対し、市民に身近で、利用しやすい司法をこの機会に目指す「改革」を、日弁連「改革」主導層は提示しました。そのための「大きな司法」であり、裁判官を含めた法曹の増員であり、さらに「司法官僚制の打破」=悲願の「法曹一元」の達成という発想に結び付きました(「同床異夢的『改革』の結末」)。

     弁護士が増員されることは、それらの原動力となる人材が増え、同時に、いわば「同志」として活動する人材も増える、と、当時「人権派」と言われていた人も含め捉えていた現実があります。母数が増えれば、相対的に「活動派」も増えるのだ、と。前記「法曹一元」の現実化を考えていた人たちのなかには、数という意味では、給源の確保ということが、増員必要論に傾斜する根拠にもされました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。

     前記「なぜ」に関して、これらを素直に捉えれば、要するに彼らの決定的な見通しの甘さがあった、ということで括れてしまうのかもしれません。増員政策に乗っかって、旗を振っても、経済状況が変わることで、従来レベルの弁護士の活動の足を引っ張るものにはならないどころか、逆に増員弁護士から人材をより確保でき、それが「市民のため」をこの「改革」の中で、確固たるものにするだろう、という見通し。根本的な増員弁護士の生存に対する楽観論があったというふうに(「盲目的弁護士増員論の正体」)。

     しかし、あえて付け加えれば、前記の「なぜ」に対する声の中には、それよりもやや厳しい見方も聞かれます。彼らは本当に分かってなかったのか、あるいはどこまで分かっていなかったのか、と。少なくとも、この「改革」が志望者や若手に、これまでにない負担を課すものになることを本当に想定していなかったのか。想定しながら、「オールジャパン」で旗を振ったとすれば、そこには楽観論のミスとか、あるいは善意の抗弁では片付かないものがあるのではないか、というものです。

     これまで会ってきた「革新系」「左翼」とされる側の「改革」推進派の人の中にも、率直に自分たちの誤りを認める人もいなかったわけではありません。前記「見通し」の決定的な甘さがあったことを反省するニュアンスの声もありますし、さらには「規制緩和・新自由主義的路線はこの『改革』で決定的に実を取ることに成功したが、『市民のため』路線は、日弁連主導層が自賛するほどの実を取れたようには見れない」と、率直に語る人もいました。

     ただ、あくまで印象で言わして頂ければ、少なくとも表だって、こういうことを口にしているのは、彼らの中では少数派です。多くは、間違ったと認めるわけでもなく、ましてこの「改革」にもっと批判的でよかったのではないか、という方向の発想もない。正しかった過去の選択の上を、これからも走るのみといっているようにとれる方々のようです(「『市民のため』という姿勢と虚実」)。

     そのことが、「改革」が生んだ弁護士の現実を、よりいびつなものにしているように思えるのです。


     弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800

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    弁護士自治批判への恐れと怯え

     弁護士自治に対して、「機能していない」という批判的論調が、いまやインターネット上では、当たり前のように目にすることができます。あえて説明するまでもないかもしれませんが、これは弁護士の倫理面に関する批判に基づくものです。

     有り体にいえば、不祥事はもちろん、社会が問題視するような弁護士の言動に対して、弁護士会の自浄作用が働いていない。だから、完全自治を与えられ、監督官庁を持たない状態であり続ける資格が、弁護士会にはない、という主張です。逆に言えば、第三者や監督官庁が代わりににらみを利かせれば、こういうことにはならず、社会の利益につながるはず、という見方になります。

     一方、これも説明するまでもないことかもしれませんが、弁護士会が堅持し、繰り返し主張してきた自治の意義は、国民の人権擁護を貫徹するために、それを阻害する国家権力の干渉を排除するために必要なもの、という、戦前の教訓に基づくものです。あえてその観点でいえば、自治の機能は、いまだ失われていない、ということになるかもしれません。

     しかし、そんな風に強弁する人は、少なくとも弁護士会の多数派、あるいは主導層にはほとんどいないと思います。なぜかといえば、むしろ彼らは、前者のような社会の目線が、自治を脅かすことをずっと恐れ、怯えてきた、といえるからです。

     そして、その恐れ・怯えの中身についてもっと言ってしまえば、弁護士自治を掲げ、懲戒権を独占することによって、社会から求められる前記したような自浄作用に対して、果たして社会を納得させる結果を生み出せるのかについて、主導層も多くの会員も、胸を張れるような自信を持ち合わせてない現実もあるということです。

     つまり、発生する弁護士の問題事例を、懲戒処分の厳格化による抑止と、倫理に関する会員全体に対する研修などによる意識向上の効果が、前記社会の目線を和らげ、自治を認めてくれるまでに変えられる、あるいはそう在り続けさせられるとまで、確信できない。

     さらに、批判されることを覚悟で言ってしまえば、むしろ発想は逆で、自治がある以上、起きてしまった不祥事に対しても、会員に対しても、何かをやらなければならない、努力していなければならない、という、ある種の姿勢として認められようとするものであった現実も否定できないようにとれるのです。

     前記弁護士会が掲げてきた自治の存在意義の論調には、「国民から負託されたもの」という言葉が必ずといっていいほど付されています。要は、自治そのものが、弁護士自らのための「特権」ではない、ということの強調、注釈といえるものです。

     しかし、ここにこそ、弁護士自治の最大の難点であり、主導層が掲げる自治観の最大の弱点が隠されているというべきです。負託した「国民」とは何を指すか。当然のように、これが社会の多数派の「国民」(おそらく注釈が付されなければ、当然に社会はそう理解するでしょうが)であれば、社会の少数派、時に前記存在意義でいえば、最も国家権力と先鋭的に対立し、彼らに最後の砦として期待される弁護士として自治の本来の役割が全うできない。

     弁護士会の倫理を問題視する多数派国民は、当然に弱者の立場よりも、倫理面での問題を、弁護士の「特権」の問題とみて批判して、むしろ権力の介入の余地を歓迎するかもしれないし、また、権力側に介入しようとする意図があれば、当然にその多数世論の目線を利用するかもしれません。

     こう見てくると、弁護士自治をめぐる弁護士会の恐れ、怯え方は、ある意味、とても中途半端で、いびつなものに見えます。つまり、自浄作用の結果そのものについて、強い自信の裏付けがないまま(あるいはないがゆえに)、前記したような社会の多数派の反応を恐れ、負託してもらっている対象が、場合によっては、自治最大の目的と抵触するかもしれない、多数派の解される可能性が高い「国民」である、とする立場をとった、ということです(「『国民的基盤』に立つ弁護士会の行方」 「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」 「『国民的基盤』論の危い匂い」)。

    「増えたらば、悪くなるとは口が裂けてもいえない」

     司法改革の弁護士激増政策が、ほぼ規定路線になりつつあったころ、弁護士不祥事の増加など倫理面での恐れについて尋ねた、ある推進派の弁護士はこう語りました。同じころ、この質問に対して、異口同音にこうした、ある意味、自治を有する弁護士会的な建て前論を、他の弁護士たちからも耳にしたことを覚えています。おそらくご本人は、弁護士自治を持つ側の、むしろあるべき自覚としてこちらに語っていたようにもとれましたが、一面、彼らを現実的に怯えさせているものが存在し、また、その存在そのものに彼らがとても自覚的であったことも伝わりました。

     弁護士主導層の中にあった、多数派国民・世論への恐れと怯えは、結局、「改革」の結果とともに、弁護士自治を追い詰めることになっていないのか、という気持ちになってくるのです。


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    弁護士会会務への会員目線

     かつて個々の弁護士にとって、弁護士会の会務とは、どのような存在であったのか――。いろいろな人の声や記憶をたどりながら、それを探ろうとしています。なぜ、そんなことをしているかといえば、あまりにも急激に、会務という存在への、多くの弁護士の目線が変化したと感じているからです。

     もちろん、以前から弁護士会との距離感は、個々の弁護士によってばらつきがありましたし、会務に対する思い入れにしても濃淡がありました。当時のことを思い返しても、かつてから実質会務に熱心だったのは、弁護士会員の一部であった、という人もいますし、また、取り組みにしても、あくまで自分のかかわっているテーマについてのつながりだけで、会の役職者以外、水平的に認識したり、理解している人は少ないとも言われてきました。

     しかし、弁護士会の会務の存在を否定的にとらえたり、存在そのものに違和感を覚えるといった言説に触れることは、今よりも圧倒的に少なかったのは確かです。その意味で、弁護士会・会務と会員の距離感は全体的に広がり、さらにいえば、よりよそよそしいもの、親近感を感じられないものになっているとの印象を持ちます。

     こうした中で、特徴的に強くなっているようにとれるのが、有志代替論ともいえるものです。つまり、強制加入団体である弁護士会が会務として、会費を原資とした活動をするのではなく、会を離れ、会員有志が(当然自弁で)活動すべき、という意見です。

     これは見方を変えれば、会員コンセンサスそのものの放棄、断念を前提としているようにもとれます。会務として必要かどうかの検討すらするまでもなく、自らは距離を置きたい、あるいは関係性を断ち切りたいという欲求を感じさせるものです。

     弁護士会には、現在「多重会務」という問題があり、その中で当該会務が本当に弁護士会としてどうしてもやらなければいいことか、その精査を求める声があることも書きました(「『多重会務』問題の解決を阻むもの」)。しかし、前記のような視点をみると、「多重会務」という問題の捉え方そのものが、多数派の目線ではもはやないのかもしれない、という気がしてきます。

     アンケートを取ったわけではないので、あくまで推測ですが(いや、もはやそんなアンケートは結果を予想したならば弁護士会としては取れないという人もいますが)、おそらく会務について圧倒的多数派の会員は、有志代替論支持ではないか、とまでで言われています。そして、有志代替論者の多くは、度々個々の会員の意思と会の意思表明の問題として取り上げられる、会長声明等にも否定的傾向にあるようです。

     度々、ここでも書いていますが、強制加入と会員の思想信条の関係については、既に司法判断で示された解決の道筋があります。つまり、弁護士法1条の目的実現の範囲において、会の意思表明は個々の会員弁護士の活動の限界を克服するためのものであり、会員の思想・良心の自由の問題を完全に切り離して、会の行為の正当性が認められる――、というものです。

     しかし、もはや会員の意識は、この道筋の前提からも離れてきているのかもしれません。とりわけ、「個々の会員弁護士の活動の限界を克服するため」に会としての意思表明や、それにつながる会務が必要、あるいは許容されるべき、というところも、一足飛びに有志代替に置き換える方が、しっくりくるというように。

     このテーマになると、必ず高い会費の問題が言及されます。会費の高額感が、より弁護士会会務への理解あるいは納得感に対して、より厳しい目線を生んだということであれば、それはこれまでも書いてきたように、弁護士の経済環境の悪化という、弁護士会主導層としてはおそらく想定外の、「改革」の負の影響を、変化の原因として、結び付けざるを得なくなります。

     過去においても、現在、将来においても、会務を根本的に支えるものは、会員の経済的余裕であるという点を、弁護士会主導層はなぜか直視したがらないようにもみえます。

     もっとも会費の高額感ということであれば、本来、矛先が向かっていい例えば事務局職員の人件費や会館建設・維持費の削減という議論には、あまりならない現実もあります。会務や会の意思表明の方が、会費支出者にとって、なぜか会員にとって、より目障りな存在になっている、ということなのでしょうか。

     会務こそ、弁護士が支えるべき「公益性」であるととらえられることに、会員の中には潜在的な不満もあるようです。個々の弁護士として、会と離れたところでの「公益的」な活動が、「会務」でないがゆえに低く見られているような感じがする、といった意見を時々耳にします。あるいは有志代替論の根底に、この見方がどこかつながっているのかもしれません。 

     「会務はいずれなくなるかもしれない」という弁護士もいます。要はさまざまなものをスリム化した果てに、おおよそ弁護士会は登録事務中心の組織となるということにとれます。しかし、当然、それでは収まらず、その時には強制加入も自治も無傷でいられるようにはとれません。

     今の段階で、何が望ましく、どこまで想定すべきか、そしてより何が現実的なのかは、簡単には導き出せない答えかもしれませんが、少なくとも弁護士会主導層は、今の会員間の声に対して、決定的に危機感が欠落しているようにみえてしまいます。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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