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    無理を背負う形となった弁護士会的発想

     弁護士の公的役割あるいは公益性に関する、過去の論述を振り返ると、弁護士会主導層、あるいは会内の一部「人権派」と位置付けられている方々の捉え方は、ほぼ確立され、同様の趣旨が共通して、繰り返し述べられている印象を持ちます。

     国民の立場に立ち、民主主義にのっとった正義を社会に実現していく使命を持っているという基本的な弁護士観。強制力や権力をもたない弁護士は、法律に基づき、依頼者の要求を実現し、権利を守ることによって正義を実現していくしかないという宿命的自覚。弁護士自治・強制加入団体よる弁護士会の公的活動は、その使命の実現につながり、戦前・戦中の軍国主義ファシズム化での弁護士業弾圧への反省が、前記制度の存在意義の根底にあるという認識。弁護士が前記のような活動を維持し、権力から弾圧されないためには、もっぱら国民の信頼に依拠するしかない、国民を味方につけるしかないという発想――。

     しかし、不思議なくらいこの弁護士の公的役割、公益性の根底に据えられる発想のどこにも、それを成り立たせる前提となる公的な経済的な保障の必要性、あるいは私的経済活動によって、それらを支え切ることの限界性について触れるものがありません。つまり、有り体に言ってしまえば、前記自覚の上に成り立たせる公的役割・公益性は、当たり前のごとく、弁護士が私的経済活動でなんとかする、それに依拠するべきものとして、描かれているということなのです。

     今、こうした発想に触れる度に、正直、これは弁護士が一定の経済的安定を当たり前に確保できた時代、別の言い方をすれば、その前提を疑わなかった時代だからこそ、彼らは通用すると、考えたのではなかったということをどうしても考えてしまいます。なぜならば、まさにその前提なきうえに立つ弁護士会的発想の無理に、多くの弁護士は気が付き始めているようにとれるからです。

     この前提を踏まえない弁護士側の発想あるいは姿勢は、「平成の司法改革」では、むしろ極端に弁護士自身の首を絞め、結果、その無理を白日のもとにさらした観があります。有償・無償を問わず、「ニーズがあるから」(必要とされるから)弁護士を増やさなければ「ならない」という発想、必要とされる以上、事業者性を犠牲にしても公益性を追求しなければ「ならない」という発想。そうしなければ、国民から見放される、という発想――。

     これらは、無理な弁護士増員政策の旗を弁護士自身が振ることの根本的な動機につながっていた、というか、つなげられたのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。

     さらに、これらはおよそ弁護士が想定したのとは違う形で社会につたわり、別の効果を生んだように見えます。「給費制」存廃問題で露骨な形で現れた、弁護士の公的役割に対する国費投入への差別的な捉え方。法曹界内で全く聞かれていなかったわけではありませんが、在朝・在野法曹が、同じ司法修習の枠組みで国費で養成される形を批判的にとらえ、弁護士の公的役割の評価と、個人の経済的価値を生み出す資格という評価が堂々と比べられ、後者が重視される結果となりました(「『給費制』廃止違憲訴訟への目線」)。

     弁護士は公的役割とその拡大を、これからも自らの経済活動で生み出させる、自弁でなんとかする、という表明を、無理な増員政策に「大丈夫」と太鼓判を押し、胸を張る中で、ひたすら冒頭の発想だけにしがみついた。ひたすら、その「べき論」で「なんとかする」「なんとかできる」という姿勢で。しかも「あぐらをかいていた」という自省的な受け止め方にも

     もともと国民感情からすれば、日々の経済活動で生存できている、民間の組織や個人が、公費負担など何の公的な経済的後ろ盾なく、公的役割を担うのに、無理があることは、当たり前であり、およそ遠い発想ではありません。しかし、弁護士については、結果的にまるで当たり前のごとく、その例外的な場所に置かれることになりました。

     もともと「儲けている」というイメージは、もちろんず経済的な余裕という前提のある時代が、普遍のもののように社会にとられる可能性があるといえますが、弁護士自らが「改革」によっても、「なんとかする」「なんとかできる」という姿勢に立ってしまえば、なおさらのこと弁護士には特別の目線を送ることになってもおかしくありません。

     しかも「改革」にあって、弁護士自らが当時、盛んに言った、「あぐらをかいていた」という自省的な受け止め方にも、自省的な言葉も、あるいは弁護士会が期待したような社会的な積極的評価よりも、経済的前提なき、公的活動や、増員による低廉化良質化への社会的期待のハードルを上げ、むしろ無理を無理として理解してもらう状況から、どんどん遠ざかる結果になったようにすらみえるのです(「非現実的だった『改革』の弁護士公益論」)。

      弁護士会内の声に耳を貸すと、弁護士会主導層の発想は、いまでも変わっていない、という人が沢山います。その多くの弁護士が、既にその無理を見切って、自らの生存にかかわる経済活動を当然に優先させ、その発想そのものから距離をおき始めている印象を持ちます。

     それが本当に国民にとって有り難いことで、国民を味方につけることにつながるのか――。そういう危機感もまた、今の弁護士会にはあるように見えません。


    弁護士の経済的な窮状の現実を教えてください。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4818

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    「市民のため」という姿勢と虚実

     日弁連主導層の中にずっと存在し続けてきた司法改革観、あるいは司法改革史観といえるものは、「市民のため」という言葉で彩られています。

     例えば、同史観に貫かれた一冊といえる「司法改革――日弁連の長く困難なたたかい」(朝日新聞社)のあとがきで、著者で元日弁連事務総長の大川真郎弁護士は、いわゆる「平成の司法改革」は、日弁連の積極的な行動がなかったとしても、いずれ実現していたが、中身は「相当違ったものになったと思われる」と総括。日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、「『市民のための司法』がここまで実現した」と自賛しています。

     しかし、率直な印象で言わして頂ければ、残念なことに司法改革の成果と日弁連の果たした役割に関する、こうした評価を業界内のその筋の方々以外からは、ほとんど耳にした記憶がありません。「改革」が提唱されてから20年以上が経過した現在、肝心の市民から、その成果について日弁連の役割についても、そうした評価がなされていないようにとれる現実は何を意味しているというべきでしょうか。

     経済界が目指した規制緩和型の「改革」。「事前規制型から事後救済型へ」「自己責任」「自由競争」となど新自由主義的発想に基礎づけられた「改革」の方向に対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立する方向を対峙させたのが、当時、日弁連が提唱した「市民の司法型」とされた「市民のため『改革』」でした(「同床異夢的『改革』の結末」)。

     しかし、現在において、業界内からも聞こえて来る現実的な評価は、大きな流れとしては、結果として後者は前者に取り込まれたのではないか、というものです。つまりは、弁護士激増政策や新法曹養成制度、あるいは紛争解決の窓口的な役割を担った法テラスにしても、利用者市民の実感としても、「市民のため」としての成果、役割よりも、むしろ自己責任や自由競争をより際立たせる結果となっている。その意味では、経済界のニーズにより引き付けることに成功したことを含め、前者の方向性が、後者よりも、しっかり「改革」の実をとっているのではないか、ということになるのです。

     弁護士激増政策にしても、増えるほどに市民にとって弁護士が有り難い存在になる、といった単純な展開にはならなかった。数を増やせば、追い詰められるように、弁護士は食うために、弁護士がいない地方にも行き、これまで手掛けなかった案件も手掛けるようになり、競争に参加することでサービスの良化と低廉化が加速されるなどということにはならない。むしろ、弁護士は生存をかけてこれまで以上に採算性を追及し、(これまで手掛けてきたような弁護士までが)手を出せない案件が増え、逆に利用者市民は、食い詰めたベテラン弁護士までが、顧客の預かり金に手を付けることを心配しなくてはならなくなっている。

     さらに、多様な人材の輩出を謳っていた法科大学院を中核とする新法曹養成制度にして、より「市民のため」に活動する人材を輩出する法曹養成へ転換されたという話はないし、むしろ経済的先行負担の存在や、資格取得後のより経済的安定志向の強まりから、企業内弁護士への傾斜は強まり、逆に最も市民の身近で活動してきたはずの、いわゆる「町(街)弁」が生きづらくなった現実まであります(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。

     そして、ある意味、最も問題というべきなのは、冒頭の「市民のため」論を掲げてきた多くの方々が、この「改革」の結果を直視しようとしない、何がどう不味かったのか、どこで話がちがってしまったのかを全く総括せず、スル―しているようにとれるところです。むしろ、未だに一部の「成果」ととれる所だけを切り取り、弁護士にしても生存バイアス的にピックアップして、期待をつなげようとしているようにすら見えるといわなければなりません。

     「この改革によって、弁護士・弁護士会が置かれることになった状況は、容易なものではない。しかし、いかにきびしい状況になろうとも、日弁連は、市民の期待にこたえ、『市民のための司法』の実現に向かって進みつづけるものと思われる」

     冒頭の書籍のあとがきは、こんな力強い言葉で締めくくられています。彼らの思いとは裏腹の「改革」の現実と、それを直視しようとしない彼らの姿をどこか象徴しているような一文に見えてきます。


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    弁護士絶対活用論への根本的な疑問

     いわゆる平成の司法改革は、弁護士の社会的な役割を非常に大きく見積もった、別の言い方をすれば、社会的役割を弁護士に集中させ、背負わせるという考え方をとったといえます。まさに弁護士が社会の隅々に進出し、市民社会にあって市民の身近な存在になる、その形が最も望ましいという描き方になります。

     弁護士の将来的必要論、司法の機能不全論(「二割司法」)といった、司法改革論議に登場した論調は、弁護士の決定的な不足を印象付け、同時にそのことをあたかもこの国の司法が抱える問題の元凶のように位置付けました。増員必要論は、そうした論調に後押しされたといえますが、同時に、それは当然のこどく(まるで議論するまでもないことのごとく)、そこにあるものが、増員弁護士以外が担いようのないニーズと役割であるとする前提に立っていたのです。

     現実は、蓋を開ければ、弁護士を激増させなければならないほどの、弁護士必要社会は今のところ到来しているとはいえません。むしろ、増やした弁護士の活用先を探さなければならなくなっている現実をみても、それは明らかです。増やせば増やすほどに、需要が顕在化するというような、いわゆる「開拓論」の期待も、少なくとも当初の見積もりとは大分違っていたといわなければなりません。

     それはこれまでも度々書いてきたことですが、増員弁護士の生存を現実化できるだけの有償需要の存在の見誤りによるところではありますが、同時に、それは弁護士に荷重な役割と期待を担わした結果ではないか、という疑問が拭いされないのです。そして、いうまでもなく、弁護士が背負わされたものの、妥当性というテーマを完全に脇に置いて、それら見積もりの上に、いわばそれが成り立つ前提に法科大学院を中核とする新法曹養成制度も構築されたのでした。

     しかし、ある意味、不思議に思えることですが、弁護士活用絶対論、つまり疑いもなく弁護士の登場を期待し、その他の手段では問題を解決できない、という前提の論調が、ずっと繰り出されている現実があります。

     「政府間交渉やビジネスの場で活躍できる法曹を育成しなければならない。そのためには法曹志望者の裾野拡大が課題」。「弁護士の場合、民事事件全体の数が増えていないため、法律事務所も多くの新人を受け入れるだけの余裕がない」という現実を認めながら、「法科大学院の本来の理念」などと言って、「多彩な人材が企業や国や自治体、公益団体、国際機関で力を発揮すれば、日本の法曹界にとっても新たな可能性が開ける」などとする(公明党「【主張】法曹養成の課題 多彩な人材の活躍の場拡大を」)。

     まるで「改革」論議当初から時が止まっているかのような錯覚に陥ります。こういう文脈では、弁護士活用先として、むしろ可能性が見出せるものとして、必ず組織内弁護士が言及されることになりますが、そのうち本当に、司法試験という国家試験で選抜と、専門的で高度な法曹教育を受けた法曹資格者たる弁護士でなければ、どうしても務まらないのは、どのくらいあるのかという視点での、別の可能性の検証は、「改革」の結果が出ている今でも、ずっと封印されている観があるのです。

     このことは、さらにこの「改革」の二つの既定路線と深くかかわっているようにとれます。その一つは、「事後救済社会」の到来への対応という捉え方です。実は、この点で当初、疑問を投げかける声がなかったわけではありませんでした。

     「規制緩和」の名の下に、行政による事前規制から事後監視・救済型社会へ――。この流れの中に位置づけられた、この「改革」は、その担い手としての法曹の必要性を導き出しました。しかし、そこで問題となるものとして、「法知識の分布」に注目した人がいました。

     法科大学院制導入前のわが国は、全国100近い法学部から、年間約4万5000人の卒業生が、官庁や企業に就職し、実は日本社会は法知識が拡散し、法曹ではない「法律家」が多数存在してきた法知識の「拡散型モデル」の国。拡散型の日本では、法知識を備えた優秀な人材を中央官庁が擁して、法律や政省令を整備し、事前規制型社会を構築し、規制を受ける社会側も、企業を中心に法知識を備えた法的リテラシーの高い人材がいて、制度の運用を支えてきた、と。そして、その形を基本的に壊し、素人とプロの壁がはっきりしている「集中型モデル」にするのが、法科大学院制度であった、と(「『事後救済型社会』と法科大学院の選択」)。

     しかし、このこと自体、この文脈で弁護士活用絶対論を導き出すことの妥当性について、現時点でも再考する余地はないのでしょうか。ある意味、皮肉にも、その事前規制型社会において、組織内でそれを支えた「法的リテラシーの高い人材」の変わりに、法曹があてがわれる、いや、むしろ結果として、そこに現在、増員弁護士の将来性を見出すというのであるならば、事後救済社会を支えるため、という話自体が怪しくなってきます。

     もう一つの既定路線は、いわゆる隣接士業への対応です。つとに言われてきたことですが、この「改革」の発想は、はじめからこの国の法的ニーズの受け皿を、司法書士、税理士などいわやる弁護士の「隣接士業」を含めた総体として考えない、ものでした。諸外国の弁護士数との比較において、日本の弁護士がいかにも少ないという、「改革」の描き方にしても、わが国での「隣接士業」の役割を、あえて捨象している、ということも言われてきました。

     司法制度改革審議会にあっても、結果として司法書士への簡裁代理権付与など隣接士業の有効活用の必要性は一定限度認めざるを得なくなっていますが、来るべき弁護士大量増員時代の仕切り直しを示唆する、いびつな内容になっていますし、法科大学院の養成対象をそれらの士業に拡大する議論には、踏み込まない姿勢をとっています(「弁護士増員と隣接士業の仕切り直し」)。

     このことを、今、あえて取り上げている意味は、二つのことを問いかけたいからにほかなりません。それは事後救済社会も含めて、本当にこれが、国民が望んだ、司法にとっての唯一の選択肢だったのか、ということ、そして、それは今もなお、問い直す価値がないことなのか、ということです。


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    「かかりつけ弁護士」の可能性とネック

     いわゆる平成の司法改革後、よく目にすることになった「かかりつけ弁護士」(ホームローヤー)という弁護士像は、「身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在」「国民の社会生活上の医師」といった、同「改革」で掲げられた発想を、対市民という視点で、体現しているようにとれるものといえます。

     日常的に発生する可能性がある法律問題について、身近で相談できる存在というイメージは、まさに前記「医師」に例えたレトリックのように、社会に普通に存在している「かかりつけ医」のように、弁護士がなることであり、また、この「改革」に当たって弁護士界側が解消すべき課題として、度々唱えてきた「敷居が高い」存在からの脱却をも、象徴するようなものにもとらえられてきました。

     しかし、現実的には、弁護士像は、残念ながら、社会の期待よりも、およそその可能性に対する、一部業界側の期待あるいは希望が上回っているなかで語られてきたようにとれます。もちろん、これに対しては、認知の問題として片付ける方もいると思います。弁護士のあり方の可能性として、いまだ周知されていない、それゆえに利用されるための周知そのものが、課題であり、今はその過程にあるのだ、というように。

     確かにそれも、あるかもしれません。しかし、その一面で、業界側が描くこの制度のメリットが強調され、発信されているのに対し、この制度が社会に受け容れられる根本的な課題について、どこまで取り上げられ、語られているのか、という疑問が、どうしても拭いきれません。そして、そのことは、前記したこの発想への期待をめぐる現在の状況と無縁ではないように思えるのです。

     当ブログのコメント欄でも紹介されていましたが、最近も、この「かかりつけ弁護士」の可能性について、弁護士が語っているインタビュー記事が、ネットニュースに流れました(「超高齢社会を生き抜くための『かかりつけ弁護士』 安否確認から法律相談まで」ラジオ関西トピックス)。

     タイトルにあるように、この記事では、超高齢化社会におけるこの制度の可能性が紹介され、遺言、認知症発症後の財産管理、死後の後始末など、老後や死後の悩みに、いつでも相談できる弁護士の存在が語られています。「かかりつけのお医者さんのように、毎回同じ弁護士に相談することで、自身のことをよく知ってもらうことができ、状況にあった法的アドバイスを受けることができる」。「一般的な内容は『依頼者の見守り』」で、「例えば、月に一回、お電話や相談にて、健康状態などのご様子を確認し、必要に応じて法律相談に応じ」、「月額5000円~1万円ほどが一般的」。

     その他、「財産管理契約」、認知症などでの判断能力低下の場合、本人に変わって、財産管理や生活・介護・医療サービス等を受けられるようサポートする「任意後見契約」、遺言・相続相談など、ニーズにあった契約締結のバリエーションも紹介しています。

     これまでも業界が発信してきた「かかりつけ弁護士」に関する紹介記事同様、メリットや効果そのものについては、社会にとっても魅力的な存在として伝わるかもしれません。しかし、この制度の基本的な成立条件は、むしろ魅力とは他のところにあり、こうした記事が突っ込まない傾向にある、その部分の評価如何である、という印象を持ってしまうのです。

     端的に言ってしまえば、この制度の最も基本的な成立要件は、この制度を利用する市民と、これに参加する弁護士にとっての、それぞれの経済的妙味とその現実性に尽きるといわなければなりません。当たり前のことかもしれませんが、前者についていえば、制度が提供するサービスが、利用者にとって、例えば、「月額5000円~1万円」を「一般的」なものとする価値に見合うものとして、いわばそこまでのものとして受け容れられるか、ということです。

     もちろん、高齢者個人の保有財産によって、それこそそれは一概にはいえず、むしろこの支出に負担感を感じない人に利用されればよい、という割り切り方もあるのかもしれませんし、それで十分この制度の意義は語られていい、という人もいるかもしれません。ただ、その辺の感覚が、果たしてサービス提供者と、受益想定者との間で、制度にとってどれほどの限界や壁になっているのかを、提供者側が突っ込んでとらえきれているのかが不透明です。つまり、いくらメリットを伝えても、そこが検証されなければ、状況はかわらないはずです。

     同様に「改革」がもたらした弁護士の活用スタイルとして、いわれる学校での問題に対応する「スクールローヤー」について、教育現場の人たちに聞くと、結局、ネックは費用対効果の問題という声が返って来る現実があります。

     成立条件の後者は、社会的意義とは別に、弁護士は果たしてこぞって「ホームローヤー」という弁護士像に、経済的妙味も含めてメリットを感じ、それを目指すのか、というところにあります。内容にもよりますが、一般の感覚とはおそらく逆で、前記「月額5000円~1万円」というのは、およそ弁護士の他の日常業務を犠牲にするまでの妙味を感じさせる価格ではない、という見方もありますし、これも一般が考えるように薄利多売的に数をこなして利益を上げるという発想も、現実的には難しい(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     2014年に、静岡市自治会連合会と静岡県弁護士会が、全国初の「自治体ホームーローヤー」制度を立ち上げ、話題となりました。自治体組織の存在に目を付け、ホームローヤー制度を自治会単位で利用してもらうという発想においては、画期的なものでした。自治会加入の市民に対する、無料電話相談を原則とするものです。

     ただ、無料相談に弁護士が期待する、その先の受任にどの程度つながるのか、基本的に「無料」ということとの絡みで、時間的なものも含めた本業への影響、さらには他の行政や弁護士会が行っている無料法律相談との関係、電話という手段の限界など、当初から一部弁護士の間では、ここでも前記基本条件と関わる課題が指摘されていました。

     「かかりつけ弁護士」は、冒頭のように、「医師」になぞらえて、提供する側としても、利用する側へも、「かかりつけ医」を連想させる制度でありながら、繰り返し指摘されているように、そこには病気やケガという多くの人が必然的になんらかのかかわりを持つ対象と、法的問題という市民の関わり方の頻度と性格、保険制度の有無という、決定的な違いが横たわっています、結局、その違いこそがネックであり、また、向き合わざるを得ない現実のはずです。

     業界側の一部から発信される制度への期待感と可能性とともに、どこまで現実的問題に向き合えるのかが、それが結局、この制度を次のレベルに引き上げるためには避けられないもののようにみえるのと同時に、この基本的成立要件をある意味、無視して突き進む失敗こそ、この「改革」に共通するものに思えてならないのてす。。


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    ウクライナ戦争と日本の弁護士会のスタンス

     今年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻後、日本の弁護士会ではこれに即座に反応し、これに抗議する会長声明や談話が相次いで出されました(日弁連東京弁護士会大阪弁護士会神奈川県弁護士会静岡県弁護士会福井弁護士会など)。

     それらの主張と根拠はほぼ同じで、国際関係における武力による威嚇又は武力の行使を禁じた国連憲章、戦争の放棄と平和的生存権の尊重を謳う日本国憲法の理念などからロシアの軍事侵攻を非難するものです。また、ウクライナ国民に関しては、避難民の保護・支援に言及するものもあり、さらに日弁連はこれに関連して、かねてから問題があると反対してきた入管法改正の政府法案が、前記保護を口実に進められる動きを警戒する別の会長声明も発表しています。

     いうまでもないことかもしれませんが、これら日本の弁護士会の発言は、一部声明が直接言及するように、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士の使命への、いわば自覚に基づくものといえます。そして、このアクションを含めて、多くの弁護士会員も、社会一般の見方としても、ここまでの内容やその適格者性について、おそらくほとんど異論はないと思います。

     しかし、どうしてもその弁護士会のスタンスとして、釈然としないものが残っています。それは、端的に言ってウクライナがとった行動への反応がみられないことです。ゼレンスキー大統領は、侵攻を受け、即座に一般市民への武器提供を表明し、総動員令によって18歳から60歳までのウクライナ人男性の出国を原則禁止としました。これは前記弁護士会の主張と根拠や問題意識、あるいは使命感からすれば、当然に発言していい局面ではないかと思えるからです。

     前記声明・談話の中では、「ウクライナの市民の生命・安全・自由について深く憂慮」(日弁連)、「ウクライナの市民は、街を破壊され、暮らしを破壊され、命を奪われ、戦争の恐怖に直面」(神奈川県弁)などという表現もみられながら、戦争を恐れて避難したい国民の意思を抑え込む、強制動員方針に沈黙するということはあり得るでしょうか。

     5月にはウクライナの弁護士が出国を認めるよう求める請願書をゼレンスキー大統領に提出しています。しかし、この禁止措置について、現在は緩和の方向も伝えられているものの、当時、同大統領は「祖国の防衛は市民の義務」と、解除に否定的な回答もしていました。

     戦争に対する強制動員、あるいはそれが「祖国の防衛」という大義が国家によって掲げられた時、認められるという現実は、それこそ日本国憲法の平和主義、民主主義、市民的自由という価値観からして、そして基本的人権の擁護と社会正義の実現という使命からして、日本の弁護士会は何も言わなくていいという理屈になるのでしょうか。

     ウクライナ戦争を契機に、まるで「明日は我が身」のごとく、ウクライナの徹底抗戦賛美とともに、防衛力増強や緊急事態条項への積極論調を含め改憲派が勢いづくだけではなく、国内ムードの傾斜も一部指摘されていますし、強制動員は徴兵制と同じ方向を向いています。前記国民の動員も犠牲も、「祖国の防衛」という条件によって「当然」とする常識が、権力側の思惑と都合によって作られようとしているようにもみえます(「国民の強制動員からみるウクライナ戦争」)。

     個々の弁護士の中には、もちろんこの点で問題意識を持って、発言されている方もいます(「弁護士 猪野 亨のブログ」)。しかし、一方で、国内世論のムードとして、ウクライナ政府の方針に対する厳しい見方に対して、すかさず、侵略したロシアを擁護するものと決め付けたり、ウクライナによる祖国防衛の努力に水を差すのかといった批判的な論調がぶつけられる現実もあります。

     日本の弁護士会が、国外の問題であったとしても、前記日本国憲法の価値観や弁護士の使命に基づき、「ここまでは沈黙するわけにはいかない」とする判断が、強制動員問題へは前記国内ムードなどへの忖度から踏み込めなかった――。「よもや」と付け加えさせて頂きますが、「戦争」という事態を前にしても言うべきことを言わなければならないはずの、人権擁護を掲げる専門家集団としては、これが最悪の想像であるといわなければなりません。


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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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