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    弁護士絶対活用論への根本的な疑問

     いわゆる平成の司法改革は、弁護士の社会的な役割を非常に大きく見積もった、別の言い方をすれば、社会的役割を弁護士に集中させ、背負わせるという考え方をとったといえます。まさに弁護士が社会の隅々に進出し、市民社会にあって市民の身近な存在になる、その形が最も望ましいという描き方になります。

     弁護士の将来的必要論、司法の機能不全論(「二割司法」)といった、司法改革論議に登場した論調は、弁護士の決定的な不足を印象付け、同時にそのことをあたかもこの国の司法が抱える問題の元凶のように位置付けました。増員必要論は、そうした論調に後押しされたといえますが、同時に、それは当然のこどく(まるで議論するまでもないことのごとく)、そこにあるものが、増員弁護士以外が担いようのないニーズと役割であるとする前提に立っていたのです。

     現実は、蓋を開ければ、弁護士を激増させなければならないほどの、弁護士必要社会は今のところ到来しているとはいえません。むしろ、増やした弁護士の活用先を探さなければならなくなっている現実をみても、それは明らかです。増やせば増やすほどに、需要が顕在化するというような、いわゆる「開拓論」の期待も、少なくとも当初の見積もりとは大分違っていたといわなければなりません。

     それはこれまでも度々書いてきたことですが、増員弁護士の生存を現実化できるだけの有償需要の存在の見誤りによるところではありますが、同時に、それは弁護士に荷重な役割と期待を担わした結果ではないか、という疑問が拭いされないのです。そして、いうまでもなく、弁護士が背負わされたものの、妥当性というテーマを完全に脇に置いて、それら見積もりの上に、いわばそれが成り立つ前提に法科大学院を中核とする新法曹養成制度も構築されたのでした。

     しかし、ある意味、不思議に思えることですが、弁護士活用絶対論、つまり疑いもなく弁護士の登場を期待し、その他の手段では問題を解決できない、という前提の論調が、ずっと繰り出されている現実があります。

     「政府間交渉やビジネスの場で活躍できる法曹を育成しなければならない。そのためには法曹志望者の裾野拡大が課題」。「弁護士の場合、民事事件全体の数が増えていないため、法律事務所も多くの新人を受け入れるだけの余裕がない」という現実を認めながら、「法科大学院の本来の理念」などと言って、「多彩な人材が企業や国や自治体、公益団体、国際機関で力を発揮すれば、日本の法曹界にとっても新たな可能性が開ける」などとする(公明党「【主張】法曹養成の課題 多彩な人材の活躍の場拡大を」)。

     まるで「改革」論議当初から時が止まっているかのような錯覚に陥ります。こういう文脈では、弁護士活用先として、むしろ可能性が見出せるものとして、必ず組織内弁護士が言及されることになりますが、そのうち本当に、司法試験という国家試験で選抜と、専門的で高度な法曹教育を受けた法曹資格者たる弁護士でなければ、どうしても務まらないのは、どのくらいあるのかという視点での、別の可能性の検証は、「改革」の結果が出ている今でも、ずっと封印されている観があるのです。

     このことは、さらにこの「改革」の二つの既定路線と深くかかわっているようにとれます。その一つは、「事後救済社会」の到来への対応という捉え方です。実は、この点で当初、疑問を投げかける声がなかったわけではありませんでした。

     「規制緩和」の名の下に、行政による事前規制から事後監視・救済型社会へ――。この流れの中に位置づけられた、この「改革」は、その担い手としての法曹の必要性を導き出しました。しかし、そこで問題となるものとして、「法知識の分布」に注目した人がいました。

     法科大学院制導入前のわが国は、全国100近い法学部から、年間約4万5000人の卒業生が、官庁や企業に就職し、実は日本社会は法知識が拡散し、法曹ではない「法律家」が多数存在してきた法知識の「拡散型モデル」の国。拡散型の日本では、法知識を備えた優秀な人材を中央官庁が擁して、法律や政省令を整備し、事前規制型社会を構築し、規制を受ける社会側も、企業を中心に法知識を備えた法的リテラシーの高い人材がいて、制度の運用を支えてきた、と。そして、その形を基本的に壊し、素人とプロの壁がはっきりしている「集中型モデル」にするのが、法科大学院制度であった、と(「『事後救済型社会』と法科大学院の選択」)。

     しかし、このこと自体、この文脈で弁護士活用絶対論を導き出すことの妥当性について、現時点でも再考する余地はないのでしょうか。ある意味、皮肉にも、その事前規制型社会において、組織内でそれを支えた「法的リテラシーの高い人材」の変わりに、法曹があてがわれる、いや、むしろ結果として、そこに現在、増員弁護士の将来性を見出すというのであるならば、事後救済社会を支えるため、という話自体が怪しくなってきます。

     もう一つの既定路線は、いわゆる隣接士業への対応です。つとに言われてきたことですが、この「改革」の発想は、はじめからこの国の法的ニーズの受け皿を、司法書士、税理士などいわやる弁護士の「隣接士業」を含めた総体として考えない、ものでした。諸外国の弁護士数との比較において、日本の弁護士がいかにも少ないという、「改革」の描き方にしても、わが国での「隣接士業」の役割を、あえて捨象している、ということも言われてきました。

     司法制度改革審議会にあっても、結果として司法書士への簡裁代理権付与など隣接士業の有効活用の必要性は一定限度認めざるを得なくなっていますが、来るべき弁護士大量増員時代の仕切り直しを示唆する、いびつな内容になっていますし、法科大学院の養成対象をそれらの士業に拡大する議論には、踏み込まない姿勢をとっています(「弁護士増員と隣接士業の仕切り直し」)。

     このことを、今、あえて取り上げている意味は、二つのことを問いかけたいからにほかなりません。それは事後救済社会も含めて、本当にこれが、国民が望んだ、司法にとっての唯一の選択肢だったのか、ということ、そして、それは今もなお、問い直す価値がないことなのか、ということです。


    今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806

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    「かかりつけ弁護士」の可能性とネック

     いわゆる平成の司法改革後、よく目にすることになった「かかりつけ弁護士」(ホームローヤー)という弁護士像は、「身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在」「国民の社会生活上の医師」といった、同「改革」で掲げられた発想を、対市民という視点で、体現しているようにとれるものといえます。

     日常的に発生する可能性がある法律問題について、身近で相談できる存在というイメージは、まさに前記「医師」に例えたレトリックのように、社会に普通に存在している「かかりつけ医」のように、弁護士がなることであり、また、この「改革」に当たって弁護士界側が解消すべき課題として、度々唱えてきた「敷居が高い」存在からの脱却をも、象徴するようなものにもとらえられてきました。

     しかし、現実的には、弁護士像は、残念ながら、社会の期待よりも、およそその可能性に対する、一部業界側の期待あるいは希望が上回っているなかで語られてきたようにとれます。もちろん、これに対しては、認知の問題として片付ける方もいると思います。弁護士のあり方の可能性として、いまだ周知されていない、それゆえに利用されるための周知そのものが、課題であり、今はその過程にあるのだ、というように。

     確かにそれも、あるかもしれません。しかし、その一面で、業界側が描くこの制度のメリットが強調され、発信されているのに対し、この制度が社会に受け容れられる根本的な課題について、どこまで取り上げられ、語られているのか、という疑問が、どうしても拭いきれません。そして、そのことは、前記したこの発想への期待をめぐる現在の状況と無縁ではないように思えるのです。

     当ブログのコメント欄でも紹介されていましたが、最近も、この「かかりつけ弁護士」の可能性について、弁護士が語っているインタビュー記事が、ネットニュースに流れました(「超高齢社会を生き抜くための『かかりつけ弁護士』 安否確認から法律相談まで」ラジオ関西トピックス)。

     タイトルにあるように、この記事では、超高齢化社会におけるこの制度の可能性が紹介され、遺言、認知症発症後の財産管理、死後の後始末など、老後や死後の悩みに、いつでも相談できる弁護士の存在が語られています。「かかりつけのお医者さんのように、毎回同じ弁護士に相談することで、自身のことをよく知ってもらうことができ、状況にあった法的アドバイスを受けることができる」。「一般的な内容は『依頼者の見守り』」で、「例えば、月に一回、お電話や相談にて、健康状態などのご様子を確認し、必要に応じて法律相談に応じ」、「月額5000円~1万円ほどが一般的」。

     その他、「財産管理契約」、認知症などでの判断能力低下の場合、本人に変わって、財産管理や生活・介護・医療サービス等を受けられるようサポートする「任意後見契約」、遺言・相続相談など、ニーズにあった契約締結のバリエーションも紹介しています。

     これまでも業界が発信してきた「かかりつけ弁護士」に関する紹介記事同様、メリットや効果そのものについては、社会にとっても魅力的な存在として伝わるかもしれません。しかし、この制度の基本的な成立条件は、むしろ魅力とは他のところにあり、こうした記事が突っ込まない傾向にある、その部分の評価如何である、という印象を持ってしまうのです。

     端的に言ってしまえば、この制度の最も基本的な成立要件は、この制度を利用する市民と、これに参加する弁護士にとっての、それぞれの経済的妙味とその現実性に尽きるといわなければなりません。当たり前のことかもしれませんが、前者についていえば、制度が提供するサービスが、利用者にとって、例えば、「月額5000円~1万円」を「一般的」なものとする価値に見合うものとして、いわばそこまでのものとして受け容れられるか、ということです。

     もちろん、高齢者個人の保有財産によって、それこそそれは一概にはいえず、むしろこの支出に負担感を感じない人に利用されればよい、という割り切り方もあるのかもしれませんし、それで十分この制度の意義は語られていい、という人もいるかもしれません。ただ、その辺の感覚が、果たしてサービス提供者と、受益想定者との間で、制度にとってどれほどの限界や壁になっているのかを、提供者側が突っ込んでとらえきれているのかが不透明です。つまり、いくらメリットを伝えても、そこが検証されなければ、状況はかわらないはずです。

     同様に「改革」がもたらした弁護士の活用スタイルとして、いわれる学校での問題に対応する「スクールローヤー」について、教育現場の人たちに聞くと、結局、ネックは費用対効果の問題という声が返って来る現実があります。

     成立条件の後者は、社会的意義とは別に、弁護士は果たしてこぞって「ホームローヤー」という弁護士像に、経済的妙味も含めてメリットを感じ、それを目指すのか、というところにあります。内容にもよりますが、一般の感覚とはおそらく逆で、前記「月額5000円~1万円」というのは、およそ弁護士の他の日常業務を犠牲にするまでの妙味を感じさせる価格ではない、という見方もありますし、これも一般が考えるように薄利多売的に数をこなして利益を上げるという発想も、現実的には難しい(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。

     2014年に、静岡市自治会連合会と静岡県弁護士会が、全国初の「自治体ホームーローヤー」制度を立ち上げ、話題となりました。自治体組織の存在に目を付け、ホームローヤー制度を自治会単位で利用してもらうという発想においては、画期的なものでした。自治会加入の市民に対する、無料電話相談を原則とするものです。

     ただ、無料相談に弁護士が期待する、その先の受任にどの程度つながるのか、基本的に「無料」ということとの絡みで、時間的なものも含めた本業への影響、さらには他の行政や弁護士会が行っている無料法律相談との関係、電話という手段の限界など、当初から一部弁護士の間では、ここでも前記基本条件と関わる課題が指摘されていました。

     「かかりつけ弁護士」は、冒頭のように、「医師」になぞらえて、提供する側としても、利用する側へも、「かかりつけ医」を連想させる制度でありながら、繰り返し指摘されているように、そこには病気やケガという多くの人が必然的になんらかのかかわりを持つ対象と、法的問題という市民の関わり方の頻度と性格、保険制度の有無という、決定的な違いが横たわっています、結局、その違いこそがネックであり、また、向き合わざるを得ない現実のはずです。

     業界側の一部から発信される制度への期待感と可能性とともに、どこまで現実的問題に向き合えるのかが、それが結局、この制度を次のレベルに引き上げるためには避けられないもののようにみえるのと同時に、この基本的成立要件をある意味、無視して突き進む失敗こそ、この「改革」に共通するものに思えてならないのてす。。


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    ウクライナ戦争と日本の弁護士会のスタンス

     今年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻後、日本の弁護士会ではこれに即座に反応し、これに抗議する会長声明や談話が相次いで出されました(日弁連東京弁護士会大阪弁護士会神奈川県弁護士会静岡県弁護士会福井弁護士会など)。

     それらの主張と根拠はほぼ同じで、国際関係における武力による威嚇又は武力の行使を禁じた国連憲章、戦争の放棄と平和的生存権の尊重を謳う日本国憲法の理念などからロシアの軍事侵攻を非難するものです。また、ウクライナ国民に関しては、避難民の保護・支援に言及するものもあり、さらに日弁連はこれに関連して、かねてから問題があると反対してきた入管法改正の政府法案が、前記保護を口実に進められる動きを警戒する別の会長声明も発表しています。

     いうまでもないことかもしれませんが、これら日本の弁護士会の発言は、一部声明が直接言及するように、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士の使命への、いわば自覚に基づくものといえます。そして、このアクションを含めて、多くの弁護士会員も、社会一般の見方としても、ここまでの内容やその適格者性について、おそらくほとんど異論はないと思います。

     しかし、どうしてもその弁護士会のスタンスとして、釈然としないものが残っています。それは、端的に言ってウクライナがとった行動への反応がみられないことです。ゼレンスキー大統領は、侵攻を受け、即座に一般市民への武器提供を表明し、総動員令によって18歳から60歳までのウクライナ人男性の出国を原則禁止としました。これは前記弁護士会の主張と根拠や問題意識、あるいは使命感からすれば、当然に発言していい局面ではないかと思えるからです。

     前記声明・談話の中では、「ウクライナの市民の生命・安全・自由について深く憂慮」(日弁連)、「ウクライナの市民は、街を破壊され、暮らしを破壊され、命を奪われ、戦争の恐怖に直面」(神奈川県弁)などという表現もみられながら、戦争を恐れて避難したい国民の意思を抑え込む、強制動員方針に沈黙するということはあり得るでしょうか。

     5月にはウクライナの弁護士が出国を認めるよう求める請願書をゼレンスキー大統領に提出しています。しかし、この禁止措置について、現在は緩和の方向も伝えられているものの、当時、同大統領は「祖国の防衛は市民の義務」と、解除に否定的な回答もしていました。

     戦争に対する強制動員、あるいはそれが「祖国の防衛」という大義が国家によって掲げられた時、認められるという現実は、それこそ日本国憲法の平和主義、民主主義、市民的自由という価値観からして、そして基本的人権の擁護と社会正義の実現という使命からして、日本の弁護士会は何も言わなくていいという理屈になるのでしょうか。

     ウクライナ戦争を契機に、まるで「明日は我が身」のごとく、ウクライナの徹底抗戦賛美とともに、防衛力増強や緊急事態条項への積極論調を含め改憲派が勢いづくだけではなく、国内ムードの傾斜も一部指摘されていますし、強制動員は徴兵制と同じ方向を向いています。前記国民の動員も犠牲も、「祖国の防衛」という条件によって「当然」とする常識が、権力側の思惑と都合によって作られようとしているようにもみえます(「国民の強制動員からみるウクライナ戦争」)。

     個々の弁護士の中には、もちろんこの点で問題意識を持って、発言されている方もいます(「弁護士 猪野 亨のブログ」)。しかし、一方で、国内世論のムードとして、ウクライナ政府の方針に対する厳しい見方に対して、すかさず、侵略したロシアを擁護するものと決め付けたり、ウクライナによる祖国防衛の努力に水を差すのかといった批判的な論調がぶつけられる現実もあります。

     日本の弁護士会が、国外の問題であったとしても、前記日本国憲法の価値観や弁護士の使命に基づき、「ここまでは沈黙するわけにはいかない」とする判断が、強制動員問題へは前記国内ムードなどへの忖度から踏み込めなかった――。「よもや」と付け加えさせて頂きますが、「戦争」という事態を前にしても言うべきことを言わなければならないはずの、人権擁護を掲げる専門家集団としては、これが最悪の想像であるといわなければなりません。


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    「社会の隅々」論がもたらしているもの

     司法改革によって、盛んに言われることになった、社会の津々浦々に弁護士が登場し、活用される社会を目指すという、いわゆる「社会の隅々」論の影響力には大きいものがあった、といえます。もっともそれは残念ながら、社会的影響という意味ではなく、弁護士とりわけ弁護士会主導層のスタンスに対するものということになります。

     有り体にいえば、「あまねく」といったレトリックや、やや誤用の疑いがある「法の支配」という言葉を伴った、この論調こそが、増員政策を含めた「改革」路線に弁護士(会)が、盲目的にしがみつく根拠になってしまった(なっている)一面があるということなのです。

     もちろん、この論調が理想として掲げるもの、そのものを否定的にとらえる弁護士の方が少ないかもしれません。社会で弁護士が広く活用される理想・目標の、どこがいけないのか、と。いまでも、この論調は弁護士の中で聞かれますし、社会正義の実現を使命として掲げる弁護士の発信するビジョンとしては、ある種の座りの良さがあるのも事実です。

     ただ、それだけに、この論調には率直にいって、注意が必要なのだと思います。この論調の理想が輝くほど、「改革」がもたらしている現実が見えなくなっているようにとれるからです。

     この弁護士進出論が、最初にイメージさせたものは、まさに増員必要論を裏付けるような、「社会の隅々」で増員弁護士が必要とされる現実、あるいは必要とされる現実があるゆえに、増やさなければならないという見方です。そして、さらにいえば、それが自営業者である弁護士が、経済的に成り立つ形で、存在しているということです。

     それこそ、これを支える公的支援などが前提として語られないということであれば、解釈はこれらの需要は、増員弁護士を支え切れるほどの有償のものとして存在していること(もしくは増員後も、弁護士は一定の経済的余裕を維持できること)になります。

     結論からいえば、「改革」の先には、そういう現実は現れませんでした。現れなかったけれど、この理想は今も生きている。問題は、今でもその成立要件がぼやけたまま、それに目が向けられないということです。取り方によっては、今からでも、いずれ当初の見方が成立する、つまりいずれ弁護士は、「社会の隅々」の市民に拍手をもって迎えられる未来がくる、と。経済的な条件を特別に前提としなくても、この先に個々の弁護士の努力によって、それは訪れるかのように。そして、あたかもこの論調が輝くほどに、弁護士たちの思考停止が生み出されるような感じすら覚えてしまうのです。

     今から10年くらい前の原稿で、前記「改革」の中で登場する「法の支配」という言葉の誤用的な現実と、「社会の隅々」論に疑問を投げかけた武本夕香子弁護士の論文を紹介しました。この中で、武本弁護士は、「弁護士が社会の隅々まで行き渡れば、社会がよくなるという議論は、あたかも社会一般の人達が弁護士よりも一歩劣ることを前提とした議論であり、一般人を馬鹿にした議論である」としました。

     前記理想的な輝きをこの論調に見ている方々からすれば、とても受け容れられないものかもしれません。しかし、当時も書きましたが、「社会がよくなる」ためや、私人間の紛争解決に、弁護士や「法の支配」がより登場する社会を大衆が本当に求めてきたのか(求めているのか)、ということを、「改革」当初も、そしてその結果が出た今も、この言葉を掲げる人は想定していないということを、武本弁護士の言葉は想起させるのです。

     まして、それが弁護士におカネを投入する用意がある、もしくは「無償ならば」という条件抜きでという前提を、この論調はどこまで踏まえているのかという気持ちにならざるを得ないのです(「『法の支配』というイメージ」 「弁護士『津々浦々』論の了解度」)。

     以前、このブログに、次のような強烈な皮肉ととれるコメントが書かれたことを思い出します。

     「日本には、弁護士が全然足りません。1、無償で動いてくれて、2、無茶なことでもなんでもいいなりにやってくれる、3、一切口答えをしない、4、それでいて能力の高い弁護士。国民は、弁護士に、そういうことを求めています。しかし、そういう弁護士さんを探しているのですが、全然見つかりません。日本には弁護士が少なすぎるんじゃありませんか!?」(「弁護士の活動と経済的『支え』の行方」)

     「改革」の結果を直視すれば、この皮肉が意味する「隅々」論が踏まえるべき現実に、当然に行き当たりそうですが、むしろそれをさせないような理想の響きがあることが、この論調の罪深さのような気さえしてくるのです。 


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    日弁連、新「行動計画」の欠落感

     日弁連が、2月17日付けで、新たな「司法サービスの全国展開と充実のための行動計画」を発表しました。今後10年を見据えたもので、前回2012年以来、まとめられたものです。内容としては、「法律事務所の設置等」「法律相談サービス提供態勢の整備・確立」「法律相談サービス等の充実」「刑事国選弁護事件及び少年付添事件の対応態勢の整備」「犯罪被害者対応態勢の整備」について、それぞれいくつかの計画が示されています。

     例えば、「法律事務所の設置等」では、以下のようなことが列挙されています。

     ① 全ての地方裁判所支部管内において、弁護士ゼロワン状態を解消する。
     ② 人口3万人以上の簡易裁判所管内及び人口3万人以上の市町村において、弁護士過疎度が高く、弁護士の需要が高いと考えられる地点から、順次、弁護士の過疎・偏在状態の解消を目指す。
     ③ 人口にかかわらず、弁護士に対するアクセスの不便性や地域の要望などを総合的に考慮して、法律事務所の設置の必要性が高いと判断される地域にも、法律事務所を設置する。
     ④ 地方裁判所支部管内において、女性弁護士がゼロである地域をできる限り減らし、最終的には解消するための制度設計を行い、地方裁判所支部管内における女性弁護士ゼロ地域の解消に取り組む。

     タイトル通り、日弁連は「司法サービスの全国展開と充実」に向けた、きっちりとした目標は示しています。ただ、この「行動計画」には、会内から冷ややかな声も聞こえてきます。「目標」ではあっても、果たして「計画」といえるのか――。要は、具体化する手段、あるいは裏付けが、はっきりと会員弁護士に伝わる形で示されているとはいえないからです。

     日弁連は、この「行動計画」の「策定の経緯」という一文の中で、以下のような認識を示しています。

     「この約四半世紀にわたる弁護士過疎・偏在解消に向けた当連合会の行動によって、全国各地で弁護士を通じての司法アクセスは相当程度改善されたと言えるが、人口の高齢化などにより市民が弁護士にアクセスすることが困難な地域が存在しないと言える状況にはないこと、弁護士の絶対数が4万人以上に増えたものの、現在も登録している弁護士の約3分の2が東京や大阪、名古屋の大都市に集中していること、他方、地方や支部で登録する弁護士の数は減少し、地域住民に対する司法サービスは、質・量ともに十分とは考えられないことからすれば、いまだ弁護士過疎や弁護士の偏在状態が十分に解消されたとは言えず、今後とも当連合会が率先して市民の司法アクセスの充実に向けた行動を展開していく必要性はなお高いと言うべきである」

     全国各地で弁護士を通じて司法アクセスが相当程度改善され、弁護士の絶対数が4万人以上に増えた現在も登録している弁護士の約3分の2が東京や大阪、名古屋の大都市に集中し、地方や支部で登録する弁護士の数は減少している――。ここまでの認識を示しながら、日弁連はこの原因を直視しているといえるでしょうか。

     偏在の現実は、あくまで弁護士の生存のための経済的条件の反映であり、その必然的な結果であること。従って、もし、あくまで「ゼロワン」解消的な発想で、弁護士の地域定着化を目指すのであれば、その経済的条件の担保が前提的に語られる必要がある――。前記のような認識を示すのであれば、このことこそが、実は日弁連が「約四半世紀にわたる」といっている活動の、最も教訓として語られていいことではないのでしょうか。

     前記紋切り型にもとれる「法律事務所の設置等」に関する4点どれをとっても、まずそのことがひっかかってしまうのです。経済的な裏付けをどこに求めるという前提なのでしょうか。公的支援でしょうか。それとも弁護士の有志の精神に期待し続けるということ(その限界は認識していないということ)でしょうか(「弁護士過疎と増員の本当の関係」 「本当のことをいうべき日弁連」)。

     はたまたさらに増員政策を推し進めれば、依然トリクルダウンのように、都市部から溢れた出す弁護士が、地方に流れ、「質・量ともに十分とは考えられない」地域の司法サービスを充足させてくれるはず、というヨミなのでしょうか。「女性弁護士ゼロ地域の解消」の必要性を強調しても、その意義だけでどうにかなるわけではないのです(「地方ニーズ論と減員不要論への疑問」)。

     会員の中から今、冷ややかな声が聞かれるのは、こうした発想を抜きに突っ込んだ、かつての発想への反省、そこから得た教訓が、この新たな「行動計画」に反映しているようにみえないからのように思えてならないのです。


    地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798

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    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
    河野真樹
    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

    お買い求めは全国書店もしくは共栄書房へ。

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