「サービス業」という決意と覚悟
弁護士はサービス業である、といまや多くの弁護士が言っています。弁護士は、よりよい法的なサービス提供を目指す仕事であり、特別な存在ではなく、お客様のニーズにこたえる点では、他のサービス業とは変わらないのだということです。
なぜ、こんな当たり前のことを弁護士はいまさら言い出しているのだ、と言う方もいると思います。また、それだけこれまでの弁護士が何か勘違いしていたのでないか、と思う方もいるでしょう。
確かにかつての弁護士についていえば、自らの仕事を「サービス業」とくくる人は少数派だったと思います。抵抗感があったといってもいいかもしれません。それを今、説明しようとすれば、やはり勘違いしていた部分があるとは思います。「サービス」をどこかお客さんに合わせて、へりくだって仕事をするイメージととらえ、それが独立して法律を指南する立場とは違うと頭から決めつけていた感じはあります。もちろん、これは市民からは威張っている存在にみえてもおかしくありません。
サービス業でなければ何だったんだ、といわれれば、ごく真っ当な弁護士の方の感覚でいえば、「聖職者」意識ということになるかもしれません。弁護士法1条に掲げられた「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という使命をはじめ、同法はまさしく弁護士に「聖職者」たるよう求めているように読めます。
ただ、これは法律という、ある意味、危険な武器を使いこなす弁護士が、市民にサービスを行うに当たっての厳しい自覚を促すものとも考えられます。
「聖職者」と称する人のなかにも、およそ実態はかけはなれた方は沢山いますが、弁護士を本当に「聖職者」と位置づけるかどうかは、社会が判断するので、少なくとも勘違いととられてしまうのは、その実態が「聖職者」ではない、やっていることは普通のお金儲けをするサービス業だと、とらえているということなのかもしれません。
その意味では、こうした「聖職者」規定のもとで、弁護士がそれにふさわしいような仕事をしてこなかった、そうは社会に認知されてこなかった、ともいえなくはありません。
最近の弁護士の中からは、そうしたことの反省に立って、むしろ「聖職者」ではなく、一サービス業として、社会のニーズをとらえ、自己研鑚していこうとする決意の声を聞くことが多くなりました。
ただ、気になることもあります。サービス業をどうとらえるかの問題です。いうまでもサービス業に期待されるのは、よりよいサービスの競争、さらには、その競争がもたらす依頼者・市民の利益にほかなりません。
しかし、弁護士の競争を考えるうえでは、二つの重要なポイントがあります。ひとつは、以前にも書きましたが、大衆にとっては弁護士という仕事が一回性の仕事、つまり次の依頼機会がない仕事になるという性格です。商品や飲食店のように、今度はだめなのにあたったら、次は別のところという選択の機会がないということです。つまり、次がないサービス競争ということになるわけです。
そして、もう一つは、この一生に一度しかないかもしれない弁護士とのかかわりで、生命・身体にかかわるとりかえしのつかない実害がうまれてしまうという点です。専門的な領域に関する対応や手法は、およそ素人には分からないことも多く、専門家に対する依存心・依頼心からも、最後まで自らが十分な「サービス」を提供されたかどうかもわからないまま、結論が出てしまうケースだってあります。
弁護士のサービス競争も、当然、その質と価格で行われますが、果たして大衆の正しい「選択」を確保できるのか、という問題になります。国民の能力はそんなに低くない、という方もいると思いますが、一般の商品・サービスに比べて、過剰な負担になり得ます。結果、質よりも分かりやすい価格やイメージに流れ、大衆が実害をこうむる危険もあります。もちろん、競争をしている側は、それでもこれが競争、あとは自己責任といえばいいことになるのも、サービス競争ですが。
こうみてくると、弁護士はサービス業であっても、それが一般にイメージするような「競争」を直ちに持ち込みにくい仕事ととらえるべきだと思います。もちろん、「競争」を前提として考えれば、前者についてはセカンド・オピニオンを含めた、弁護士選びの段階での複数の弁護士とのコンタクトを容易にできる機会をつくることや、価格を含めて自由に行われる弁護士の「競争」の中でも、案件と価格・対応を素人でも分かる形で対比して、費用負担も含めて実害が生まれる前に「選択」できる形の、なんらかの環境整備が必要ということになります。
少なくとも、弁護士が「聖職者」ばかりでない、というのであるならば、このまますべてを弁護士の「競争」にゆだねるのが、単純に大衆の利になる、とも言い切れなくなるはずです。
弁護士をサービス業として、本格的に自由な「競争」に突入させることには、弁護士の決意だけでなく、弁護士と市民の相当な覚悟が必要だと思います。

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確かにかつての弁護士についていえば、自らの仕事を「サービス業」とくくる人は少数派だったと思います。抵抗感があったといってもいいかもしれません。それを今、説明しようとすれば、やはり勘違いしていた部分があるとは思います。「サービス」をどこかお客さんに合わせて、へりくだって仕事をするイメージととらえ、それが独立して法律を指南する立場とは違うと頭から決めつけていた感じはあります。もちろん、これは市民からは威張っている存在にみえてもおかしくありません。
サービス業でなければ何だったんだ、といわれれば、ごく真っ当な弁護士の方の感覚でいえば、「聖職者」意識ということになるかもしれません。弁護士法1条に掲げられた「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という使命をはじめ、同法はまさしく弁護士に「聖職者」たるよう求めているように読めます。
ただ、これは法律という、ある意味、危険な武器を使いこなす弁護士が、市民にサービスを行うに当たっての厳しい自覚を促すものとも考えられます。
「聖職者」と称する人のなかにも、およそ実態はかけはなれた方は沢山いますが、弁護士を本当に「聖職者」と位置づけるかどうかは、社会が判断するので、少なくとも勘違いととられてしまうのは、その実態が「聖職者」ではない、やっていることは普通のお金儲けをするサービス業だと、とらえているということなのかもしれません。
その意味では、こうした「聖職者」規定のもとで、弁護士がそれにふさわしいような仕事をしてこなかった、そうは社会に認知されてこなかった、ともいえなくはありません。
最近の弁護士の中からは、そうしたことの反省に立って、むしろ「聖職者」ではなく、一サービス業として、社会のニーズをとらえ、自己研鑚していこうとする決意の声を聞くことが多くなりました。
ただ、気になることもあります。サービス業をどうとらえるかの問題です。いうまでもサービス業に期待されるのは、よりよいサービスの競争、さらには、その競争がもたらす依頼者・市民の利益にほかなりません。
しかし、弁護士の競争を考えるうえでは、二つの重要なポイントがあります。ひとつは、以前にも書きましたが、大衆にとっては弁護士という仕事が一回性の仕事、つまり次の依頼機会がない仕事になるという性格です。商品や飲食店のように、今度はだめなのにあたったら、次は別のところという選択の機会がないということです。つまり、次がないサービス競争ということになるわけです。
そして、もう一つは、この一生に一度しかないかもしれない弁護士とのかかわりで、生命・身体にかかわるとりかえしのつかない実害がうまれてしまうという点です。専門的な領域に関する対応や手法は、およそ素人には分からないことも多く、専門家に対する依存心・依頼心からも、最後まで自らが十分な「サービス」を提供されたかどうかもわからないまま、結論が出てしまうケースだってあります。
弁護士のサービス競争も、当然、その質と価格で行われますが、果たして大衆の正しい「選択」を確保できるのか、という問題になります。国民の能力はそんなに低くない、という方もいると思いますが、一般の商品・サービスに比べて、過剰な負担になり得ます。結果、質よりも分かりやすい価格やイメージに流れ、大衆が実害をこうむる危険もあります。もちろん、競争をしている側は、それでもこれが競争、あとは自己責任といえばいいことになるのも、サービス競争ですが。
こうみてくると、弁護士はサービス業であっても、それが一般にイメージするような「競争」を直ちに持ち込みにくい仕事ととらえるべきだと思います。もちろん、「競争」を前提として考えれば、前者についてはセカンド・オピニオンを含めた、弁護士選びの段階での複数の弁護士とのコンタクトを容易にできる機会をつくることや、価格を含めて自由に行われる弁護士の「競争」の中でも、案件と価格・対応を素人でも分かる形で対比して、費用負担も含めて実害が生まれる前に「選択」できる形の、なんらかの環境整備が必要ということになります。
少なくとも、弁護士が「聖職者」ばかりでない、というのであるならば、このまますべてを弁護士の「競争」にゆだねるのが、単純に大衆の利になる、とも言い切れなくなるはずです。
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