両立困難な「価値」の理想と現実
「大衆が求める商品とは」という問いに対して、「より安く、より良い物」という回答は、極一般的なものといっていいでしょう。しかし、同時に「安く」て「良い物」は、一般的には両立しにくい価値として、その提供には困難が伴うことを大衆はよく知っています。
だから、あくまでその両立は、「理想」であり、「目標」であって、それに向かっての努力は求めても、表看板で質は落とされる、「安物買いの銭失い」のリスクは避けたいと考えるのもまた、一般的でしょう。
だとすれば、そうした大衆がまず一番知りたいのは、いうまでもなく、自分たちに最終的にもたらされるものの、真の姿のはずです。まして、それが生命や財産などに大きなリスクを伴うことならばなおさらのはずです。
司法の世界でも、見方によっては、時として相反し両立しにくい価値の「理想」と「目標」が掲げられてきました。
「適正」で「迅速」な裁判。これがどちらも欠くことができないテーマであることは、もはやこの世界では常識のようになっています。「質」を落とすことのない法曹の大幅増員もまた、同時にクリアすべきものとされてきました。
両立が困難な二つの課題をともにクリアするという姿勢は、もちろん社会には受け入れらやすいものです。だが、いつも気になるのは、そこから先。つまり、どこまで現実が語られ、伝えられてきたのかということです。
今回の司法改革についても、「法曹の質は絶対に下げられない」というのが、法科大学院・新司法試験下での、裁判所をはじめとする法曹界の「姿勢」としての公式見解でした。大量増員の「質」への影響は、当初からの懸念材料であったことは、むしろこうした見解からも明らかでした。
それが二回試験の不合格率上昇といった現実に加え、増員に比例する不祥事弁護士の増加の見方も強まり、「質低下」の懸念が広がると、法曹養成のフィルターが品質を保証する話よりも、一端、社会に放逐されたのちに、競争による「淘汰」によって、いずれ「質」が確保されるという論調がもっぱら言われるようになっています。
「増えることはよいこと」一辺倒のマスコミ論調のなかにも、一時期、「増やせばいいのか」とする見方が出されたときもありましたが、「増員」を改革の本道として、「なんとかしろ」という基調は変わっていません。
裁判については、「適正」と「迅速」の現実に関する報道はほとんどなく、まして「早ければいいのか」と言う切り口は全くみられません。そもそも被告人の権利の立場から、「時間をかけるべき裁判には時間をかけるべき」という主張が、当然、聞こえてきていい弁護士界からも、大きな声として聞こえてこない現実があります。あえていえば、「適正で限りなく迅速」という優先順位であっていいものが、逆転している裁判の現実が伝えられながらも、裁判員制度シフトのなかで問題として浮上してこない観もあります。
要するに問題は冒頭書いたような大衆にもたらされるもの、そのリスクについて、ちゃんと伝えられているのか、という点にあります。
「理想」も「目標」も掲げられていいし、「姿勢」が評価につながることも否定しません。法科大学院も、裁判迅速化も、裁判員制度も、「目標」が維持されていることや、「成果」を強調することが、「改革」の効果と成功を裏打ちすると、推進する関係者と大マスコミはとらえているかもしれません。
だが、そのことよりも大事なことは、本当のリスク、本当の実害が国民にフェアに提示されることです。ニーズというのであれば、それが大前提のニーズというべきです。それが示されて、はじめて国民が本当に求めるもの、選択するものが見えてくるはずです。
つまり、本当のことを聞かされれば、「そこまでして求めていない」という大衆の裁定が下る可能性もあるということです。
福島原発の報道を見て感じます。伝えられないから安心とは限らない、伝えられてもすべて伝えられている保証がない――。そうした不安を今、多くの国民が感じ始めていると思います。
だが、あえていえば、これは大きな国民の関心事であるがゆえの「不安」ともいえます。そうでなければ、「不安」ということにも気がつかされないまま、「理想」と「現実」のはざまにあるリスクを大衆が負うことも考えられるのです。

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だから、あくまでその両立は、「理想」であり、「目標」であって、それに向かっての努力は求めても、表看板で質は落とされる、「安物買いの銭失い」のリスクは避けたいと考えるのもまた、一般的でしょう。
だとすれば、そうした大衆がまず一番知りたいのは、いうまでもなく、自分たちに最終的にもたらされるものの、真の姿のはずです。まして、それが生命や財産などに大きなリスクを伴うことならばなおさらのはずです。
司法の世界でも、見方によっては、時として相反し両立しにくい価値の「理想」と「目標」が掲げられてきました。
「適正」で「迅速」な裁判。これがどちらも欠くことができないテーマであることは、もはやこの世界では常識のようになっています。「質」を落とすことのない法曹の大幅増員もまた、同時にクリアすべきものとされてきました。
両立が困難な二つの課題をともにクリアするという姿勢は、もちろん社会には受け入れらやすいものです。だが、いつも気になるのは、そこから先。つまり、どこまで現実が語られ、伝えられてきたのかということです。
今回の司法改革についても、「法曹の質は絶対に下げられない」というのが、法科大学院・新司法試験下での、裁判所をはじめとする法曹界の「姿勢」としての公式見解でした。大量増員の「質」への影響は、当初からの懸念材料であったことは、むしろこうした見解からも明らかでした。
それが二回試験の不合格率上昇といった現実に加え、増員に比例する不祥事弁護士の増加の見方も強まり、「質低下」の懸念が広がると、法曹養成のフィルターが品質を保証する話よりも、一端、社会に放逐されたのちに、競争による「淘汰」によって、いずれ「質」が確保されるという論調がもっぱら言われるようになっています。
「増えることはよいこと」一辺倒のマスコミ論調のなかにも、一時期、「増やせばいいのか」とする見方が出されたときもありましたが、「増員」を改革の本道として、「なんとかしろ」という基調は変わっていません。
裁判については、「適正」と「迅速」の現実に関する報道はほとんどなく、まして「早ければいいのか」と言う切り口は全くみられません。そもそも被告人の権利の立場から、「時間をかけるべき裁判には時間をかけるべき」という主張が、当然、聞こえてきていい弁護士界からも、大きな声として聞こえてこない現実があります。あえていえば、「適正で限りなく迅速」という優先順位であっていいものが、逆転している裁判の現実が伝えられながらも、裁判員制度シフトのなかで問題として浮上してこない観もあります。
要するに問題は冒頭書いたような大衆にもたらされるもの、そのリスクについて、ちゃんと伝えられているのか、という点にあります。
「理想」も「目標」も掲げられていいし、「姿勢」が評価につながることも否定しません。法科大学院も、裁判迅速化も、裁判員制度も、「目標」が維持されていることや、「成果」を強調することが、「改革」の効果と成功を裏打ちすると、推進する関係者と大マスコミはとらえているかもしれません。
だが、そのことよりも大事なことは、本当のリスク、本当の実害が国民にフェアに提示されることです。ニーズというのであれば、それが大前提のニーズというべきです。それが示されて、はじめて国民が本当に求めるもの、選択するものが見えてくるはずです。
つまり、本当のことを聞かされれば、「そこまでして求めていない」という大衆の裁定が下る可能性もあるということです。
福島原発の報道を見て感じます。伝えられないから安心とは限らない、伝えられてもすべて伝えられている保証がない――。そうした不安を今、多くの国民が感じ始めていると思います。
だが、あえていえば、これは大きな国民の関心事であるがゆえの「不安」ともいえます。そうでなければ、「不安」ということにも気がつかされないまま、「理想」と「現実」のはざまにあるリスクを大衆が負うことも考えられるのです。

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