「国民的基盤」に立つ弁護士会の行方
「弁護士は完全な自治団体である。われわれに監督権があるわけではない」
「しかし、弁護士法の法案提出権は法務省にある。監督していなくとも制度の立案官庁も法務省である。失礼ながら、弁護士会ごときに立法、制度立案権があるはずはない。国の責任で制度は作るべき」
あるいは弁護士のなかには、ご記憶がある方もいるかもしれませんが、これは2005年11月に行われた内閣府の規制改革・民間開放推進会議・専門ワーキンググループのヒアリングでの、弁護士に関する情報公開制度をめぐる、法務省と専門委員のやりとりです。
このやりとりは、弁護士に関するしかるべき客観情報があれば、質の低い弁護士がいても、その人が淘汰され、依頼者は損害を被らないとする、専門委員側の主張に続くものでした。
この日の法務省は、冒頭のように見方によっては、弁護士会側に立ってその立場を説明している形になり、結局、この場は、専門側の意見を受け取って、あくまで弁護士会側に要望として伝えるとしたのですが、これに対し、専門委員側は、次のように忠告しています。
「かつての法曹三者合意の際の慣行に縛られがちなのは分かるが、ここ数年の司法制度改革は依頼者、消費者本意の改革こそ底流。弁護士会は供給者団体であり、供給者団体の言うことだけを聞いてきたこれまでの司法制度の変遷に決別するために今、改革をやっている」
当時、弁護士のなかには、「弁護士会ごとき」とまで弁護士会を軽んじた表現を使って、もはや敵意すら感じる、この専門員の発言に、怒りを通り越して、あきれ返る人たちもいたように記憶します。
ただ、今、改めてこれを見てみれば、この専門委員の発言のなかに、この「改革」推進派の頭のなかにある、「改革」が目指す弁護士会の位置付けがはっきり描きこまれているように思えます。
「依頼者、消費者本意の改革」という錦旗のまえに、弁護士の発言力、あるいは存在価値を低下させること。それが供給者団体としての弁護士会の「独善」というようなものとともに、正当づけられています。依頼者・消費者本意に考えれば、弁護士会自体が改革対象であるということが強調されているように見えます。もちろん、「淘汰」の論理を持ち出し、増員への消極姿勢や「質」の主張に対して、既にこの段階でクギをさしている印象です。
これは見方を変えると、依頼者・市民の側に立つとしてきた弁護士会の孤立、あるいは依頼者・市民の利益と、弁護士会の主張を切り離して描こうとするもののように見えます。「彼らは本当は自分たちのこと本意とし、依頼者・消費者本意ではないのだ」とするように。
これは、弁護士自治の孤立化とも言えるかもしれません。実は、こうした方向を、既に日弁連は、これにさらにさかのぼること4年前には、意識していたことをうかがわせる決議を採択しています。2001年5月の定期総会で採択した「市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議」です。
この決議は、弁護士自治の基盤を「市民の理解と支持」に求め、そのうえにたって維持されるよう努力するというものでした。提案理由には、以下のような認識もが示されています。
「弁護士自治は、市民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現するためのものであるから、市民の理解と支持のもとに成り立つものであり、弁護士、弁護士会の活動に対する市民の意見や批判を一切認めないといった独善的なものでないことはいうまでもない」
この決議採択は、議論となりました。反対意見のなかには、多数派市民の理解が、弁護士自治の本来の意義につながる権力対峙性を揺るがすことを懸念する見方がありました。
前記決議提案理由の中に、「独善」という文字があることに注目できます。とらえ方によっては、既にその時点で中間報告をまとめていた司法制度改革審議会で、人的基盤の拡充、制度的基盤の整備、国民的基盤の確立が提言されている状況下、弁護士自治が近い将来、この「改革」の進展とともに、「独善」批判の形で攻撃対象となり、弁護士会が孤立する危険を想定しているように見えるからです。
さて、前記ヒアリングでの専門委員の発言からも、既に5年以上が経過ししたが、現在の状況はどうみるべきでしょうか。弁護士増員の弊害について、ようやく日弁連執行部も目を向けてきた観もありますが、自治を含む弁護士会の存在意義に対する社会のとらえ方は、むしろ厳しいものになってきているように思います(「弁護士自治の落城」)。増員に対する慎重・反対論を、それこそ供給者団体の独善とみる世論もあります。
日弁連の決議が、その意味で、先見の明があったという弁護士もいるかもしれません。しかし、それは逆のようにもとれます。「市民の理解と支持」を基盤とすると宣言したことで、弁護士自治の本来の存在意義を主張する基盤を弱めてしまったのではないか、ということです。
あの日、反対派が懸念したように、権力対峙性がぼやけるほど、「弁護士のための自治」というイメージが作られ、まさに、あの日の専門委員の言と同様の、「市民の利益」を掲げ、むしろ「市民理解と支持」という大義名分のもと、弁護士・会のあり方が批判され、その自治の存在が否定される状況に傾いているように見えるのです。
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/

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あるいは弁護士のなかには、ご記憶がある方もいるかもしれませんが、これは2005年11月に行われた内閣府の規制改革・民間開放推進会議・専門ワーキンググループのヒアリングでの、弁護士に関する情報公開制度をめぐる、法務省と専門委員のやりとりです。
このやりとりは、弁護士に関するしかるべき客観情報があれば、質の低い弁護士がいても、その人が淘汰され、依頼者は損害を被らないとする、専門委員側の主張に続くものでした。
この日の法務省は、冒頭のように見方によっては、弁護士会側に立ってその立場を説明している形になり、結局、この場は、専門側の意見を受け取って、あくまで弁護士会側に要望として伝えるとしたのですが、これに対し、専門委員側は、次のように忠告しています。
「かつての法曹三者合意の際の慣行に縛られがちなのは分かるが、ここ数年の司法制度改革は依頼者、消費者本意の改革こそ底流。弁護士会は供給者団体であり、供給者団体の言うことだけを聞いてきたこれまでの司法制度の変遷に決別するために今、改革をやっている」
当時、弁護士のなかには、「弁護士会ごとき」とまで弁護士会を軽んじた表現を使って、もはや敵意すら感じる、この専門員の発言に、怒りを通り越して、あきれ返る人たちもいたように記憶します。
ただ、今、改めてこれを見てみれば、この専門委員の発言のなかに、この「改革」推進派の頭のなかにある、「改革」が目指す弁護士会の位置付けがはっきり描きこまれているように思えます。
「依頼者、消費者本意の改革」という錦旗のまえに、弁護士の発言力、あるいは存在価値を低下させること。それが供給者団体としての弁護士会の「独善」というようなものとともに、正当づけられています。依頼者・消費者本意に考えれば、弁護士会自体が改革対象であるということが強調されているように見えます。もちろん、「淘汰」の論理を持ち出し、増員への消極姿勢や「質」の主張に対して、既にこの段階でクギをさしている印象です。
これは見方を変えると、依頼者・市民の側に立つとしてきた弁護士会の孤立、あるいは依頼者・市民の利益と、弁護士会の主張を切り離して描こうとするもののように見えます。「彼らは本当は自分たちのこと本意とし、依頼者・消費者本意ではないのだ」とするように。
これは、弁護士自治の孤立化とも言えるかもしれません。実は、こうした方向を、既に日弁連は、これにさらにさかのぼること4年前には、意識していたことをうかがわせる決議を採択しています。2001年5月の定期総会で採択した「市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議」です。
この決議は、弁護士自治の基盤を「市民の理解と支持」に求め、そのうえにたって維持されるよう努力するというものでした。提案理由には、以下のような認識もが示されています。
「弁護士自治は、市民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現するためのものであるから、市民の理解と支持のもとに成り立つものであり、弁護士、弁護士会の活動に対する市民の意見や批判を一切認めないといった独善的なものでないことはいうまでもない」
この決議採択は、議論となりました。反対意見のなかには、多数派市民の理解が、弁護士自治の本来の意義につながる権力対峙性を揺るがすことを懸念する見方がありました。
前記決議提案理由の中に、「独善」という文字があることに注目できます。とらえ方によっては、既にその時点で中間報告をまとめていた司法制度改革審議会で、人的基盤の拡充、制度的基盤の整備、国民的基盤の確立が提言されている状況下、弁護士自治が近い将来、この「改革」の進展とともに、「独善」批判の形で攻撃対象となり、弁護士会が孤立する危険を想定しているように見えるからです。
さて、前記ヒアリングでの専門委員の発言からも、既に5年以上が経過ししたが、現在の状況はどうみるべきでしょうか。弁護士増員の弊害について、ようやく日弁連執行部も目を向けてきた観もありますが、自治を含む弁護士会の存在意義に対する社会のとらえ方は、むしろ厳しいものになってきているように思います(「弁護士自治の落城」)。増員に対する慎重・反対論を、それこそ供給者団体の独善とみる世論もあります。
日弁連の決議が、その意味で、先見の明があったという弁護士もいるかもしれません。しかし、それは逆のようにもとれます。「市民の理解と支持」を基盤とすると宣言したことで、弁護士自治の本来の存在意義を主張する基盤を弱めてしまったのではないか、ということです。
あの日、反対派が懸念したように、権力対峙性がぼやけるほど、「弁護士のための自治」というイメージが作られ、まさに、あの日の専門委員の言と同様の、「市民の利益」を掲げ、むしろ「市民理解と支持」という大義名分のもと、弁護士・会のあり方が批判され、その自治の存在が否定される状況に傾いているように見えるのです。
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