裁判員「強制」への消えた批判目線
裁判員制度で、市民が裁判員となることは、「義務」ではなくて、「権利」なのだ、という言い方が、この制度を推進する側からいわれてきました。制度を合憲とした昨年11月16日の最高裁大法廷判決も、同制度が、国民に憲法上の根拠のない負担を課すものであるから、意に反する苦役に服させることを禁じた憲法18条後段に違反するとした上告理由に対する判示のなかで、「裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり、これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」などとしています。
罰則をもって誰の目にも参加を「強制」している制度について、参政権と同様の「権利」だという論法が、そもそもどう国民に理解される前提に立っているのかということを問い質したくなります。「司法ウオッチ」でも、裁判員制度の問題性について、鋭く指摘してきた織田信夫弁護士は、この最高裁の判示についてこう書いて、あきれています。
「判決は全体として希代の迷判決であるけれども、その中でもこの部分ほど笑止千万なものはない。裁判員は一部の例外を除き国民の義務として構成されている。自分の日常生活を犠牲にしても裁判員にならなければ行政罰を課され、守秘義務違反、質問票虚偽記載では刑罰まで予定されている。それが国民に対し『参政権と同様の権限を付与するもの』とはどのような思考回路から出てきているのであろうか」
「この事件の最も重要な憲法判断を要する部分が、この国民に課した裁判員参加義務の正当性に関するものであるのに、それについてかかるかかる荒唐無稽な判示をして、この制度にお墨付きを与えようとする最高裁の態度には、それでもお前は本当に最高裁なのかと問いかけたくなる」(『裁判員制度と最高裁』「裁判員制度廃止論」)
ただ、この論法のおかしさに加えて、さらに強い、あるいは特別の違和感を覚えてきたのは、この切り口の裁判員制度擁護論もしくは推奨論が、国家の側からだけではなく、こと弁護士の口から聞かれてきたことです。最近の日弁連会長のブログでも、被後見人選挙権訴訟の和解や、一票の価値の格差訴訟での無効・意見判決に触れ、選挙権(参政権)の重要性を強調したうえで、わざわざ裁判員制度を持ち出し、まるで最高裁判決に沿わせるかのようにこう書いています。
「裁判員になるのを国民の義務としてのみ捉えるのではなく、刑事裁判が適正に行われているか、国民の一般常識とかけ離れた判決になっていないかをチェックする、主権者としての権利なんだという側面も理解して、積極的に参加していただければと思います」
違和感というのは、大きく二つに分けられます。一つは、こうした弁護士の口から出た擁護論・推奨論を、前記したようなこの主張の、おかしさを弁護士として、いわば「分かってやっている」ととる場合。弁護士としての当然の突っ込みどころに、目をつぶらせているのは、法律家としてのこだわりを横においた、政策的あるいは政治的な判断優先の姿勢ではないか、ととれるということです。なんとか「お墨付き」を与えた最高裁の無理筋を、批判するどころか、とことん付き合う姿勢ということができます。
権利の「側面も理解して」という会長ブログの表現は、やはり、すべて分かったうえで、国民に対する嘆願調になっているようにとれます。法律家からみたならば、織田弁護士の指摘するように、あきらかに「義務」だけれど、ここはそれに目をつぶり、「権利」として見て行きましょうよ、という啓蒙とみるべきなのでしょうか。
そして、もう一つは、さらに問題というべきかもしれませんが、あるいは本当に「分かっていない」、要は本気で心の底から「義務」でなく、「権利」と考えているととる場合。裁判員制度をめぐる論議で、ずっと思ってきたことですが、この制度が強制性、憲法にもない義務を国民に突如貸すこの制度の問題に、本来、国民の人権の側から最も敏感に反応してよかったのは、弁護士ではなかったのか、という思いがあります。陪審制度を求め、国民の司法参加を肯定する立場できた経緯があっても、国民の意思を反映しようという制度の導入に当たって国民の意思がなおざりにされたり、突如強制・義務化する無理、あるいは「民主的」とされる制度の矛盾について、弁護士こそ敏感に反応して、筋を通して然るべきではなかったのか、と。
つまり、ここには、この制度が投げかけた国民の強制というテーマについて、かつてでは考えられないような、弁護士の感覚の鈍磨が存在しているのではないか、という思いになるのです。
もちろん、織田弁護士のように、そのことをずっと指摘し、こだわってきた弁護士も沢山います。また、当初、国民の司法参加や陪審制導入に積極的な考えの弁護士のなかにも、その方法論、被告人・裁判員双方について、選択制を含めた、緩やかなスタートが望ましいという考えは、結構聞かれました。しかし、結局、日弁連主流派をはじめ、「改革」推進派の方々は、制度存続を最優先させるかのような、辞退事由を含めた制度の在り方について、予想以上の強硬な立場をとったということができます。その理由こそが、この二つの違和感につながっているように思えます。
大マスコミを含め、この制度を推進する側は、この制度が根本的に抱える「強制化」の無理、さらには耐性実験ともいえる義務化の「挑戦」という本質を、「権利」といいくるめて、なんとかしようという狙いがあるようにとれます。そして、そのなかで、国民にとって、弁護士はどういう存在であるべきか、ということも、問われています。織田弁護士が最高裁に投げかけたのと同様に、やはり「お前は本当に弁護士なのか」という問いかけがなされなければなりません。
ただいま、「裁判員制度」「検察審査会の強制起訴制度」についてもご意見募集中!
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/
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罰則をもって誰の目にも参加を「強制」している制度について、参政権と同様の「権利」だという論法が、そもそもどう国民に理解される前提に立っているのかということを問い質したくなります。「司法ウオッチ」でも、裁判員制度の問題性について、鋭く指摘してきた織田信夫弁護士は、この最高裁の判示についてこう書いて、あきれています。
「判決は全体として希代の迷判決であるけれども、その中でもこの部分ほど笑止千万なものはない。裁判員は一部の例外を除き国民の義務として構成されている。自分の日常生活を犠牲にしても裁判員にならなければ行政罰を課され、守秘義務違反、質問票虚偽記載では刑罰まで予定されている。それが国民に対し『参政権と同様の権限を付与するもの』とはどのような思考回路から出てきているのであろうか」
「この事件の最も重要な憲法判断を要する部分が、この国民に課した裁判員参加義務の正当性に関するものであるのに、それについてかかるかかる荒唐無稽な判示をして、この制度にお墨付きを与えようとする最高裁の態度には、それでもお前は本当に最高裁なのかと問いかけたくなる」(『裁判員制度と最高裁』「裁判員制度廃止論」)
ただ、この論法のおかしさに加えて、さらに強い、あるいは特別の違和感を覚えてきたのは、この切り口の裁判員制度擁護論もしくは推奨論が、国家の側からだけではなく、こと弁護士の口から聞かれてきたことです。最近の日弁連会長のブログでも、被後見人選挙権訴訟の和解や、一票の価値の格差訴訟での無効・意見判決に触れ、選挙権(参政権)の重要性を強調したうえで、わざわざ裁判員制度を持ち出し、まるで最高裁判決に沿わせるかのようにこう書いています。
「裁判員になるのを国民の義務としてのみ捉えるのではなく、刑事裁判が適正に行われているか、国民の一般常識とかけ離れた判決になっていないかをチェックする、主権者としての権利なんだという側面も理解して、積極的に参加していただければと思います」
違和感というのは、大きく二つに分けられます。一つは、こうした弁護士の口から出た擁護論・推奨論を、前記したようなこの主張の、おかしさを弁護士として、いわば「分かってやっている」ととる場合。弁護士としての当然の突っ込みどころに、目をつぶらせているのは、法律家としてのこだわりを横においた、政策的あるいは政治的な判断優先の姿勢ではないか、ととれるということです。なんとか「お墨付き」を与えた最高裁の無理筋を、批判するどころか、とことん付き合う姿勢ということができます。
権利の「側面も理解して」という会長ブログの表現は、やはり、すべて分かったうえで、国民に対する嘆願調になっているようにとれます。法律家からみたならば、織田弁護士の指摘するように、あきらかに「義務」だけれど、ここはそれに目をつぶり、「権利」として見て行きましょうよ、という啓蒙とみるべきなのでしょうか。
そして、もう一つは、さらに問題というべきかもしれませんが、あるいは本当に「分かっていない」、要は本気で心の底から「義務」でなく、「権利」と考えているととる場合。裁判員制度をめぐる論議で、ずっと思ってきたことですが、この制度が強制性、憲法にもない義務を国民に突如貸すこの制度の問題に、本来、国民の人権の側から最も敏感に反応してよかったのは、弁護士ではなかったのか、という思いがあります。陪審制度を求め、国民の司法参加を肯定する立場できた経緯があっても、国民の意思を反映しようという制度の導入に当たって国民の意思がなおざりにされたり、突如強制・義務化する無理、あるいは「民主的」とされる制度の矛盾について、弁護士こそ敏感に反応して、筋を通して然るべきではなかったのか、と。
つまり、ここには、この制度が投げかけた国民の強制というテーマについて、かつてでは考えられないような、弁護士の感覚の鈍磨が存在しているのではないか、という思いになるのです。
もちろん、織田弁護士のように、そのことをずっと指摘し、こだわってきた弁護士も沢山います。また、当初、国民の司法参加や陪審制導入に積極的な考えの弁護士のなかにも、その方法論、被告人・裁判員双方について、選択制を含めた、緩やかなスタートが望ましいという考えは、結構聞かれました。しかし、結局、日弁連主流派をはじめ、「改革」推進派の方々は、制度存続を最優先させるかのような、辞退事由を含めた制度の在り方について、予想以上の強硬な立場をとったということができます。その理由こそが、この二つの違和感につながっているように思えます。
大マスコミを含め、この制度を推進する側は、この制度が根本的に抱える「強制化」の無理、さらには耐性実験ともいえる義務化の「挑戦」という本質を、「権利」といいくるめて、なんとかしようという狙いがあるようにとれます。そして、そのなかで、国民にとって、弁護士はどういう存在であるべきか、ということも、問われています。織田弁護士が最高裁に投げかけたのと同様に、やはり「お前は本当に弁護士なのか」という問いかけがなされなければなりません。
ただいま、「裁判員制度」「検察審査会の強制起訴制度」についてもご意見募集中!
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