弁護士アクセスの先の落とし穴
かつて禁止され、現在、当たり前のように解禁されている弁護士の広告について、社会の大方の受けとめ方は、問題視するものではない、と思います。広告を通した利用者の目立った反応自体を多く拾えているわけではありませんが、少なくともネット上を含めた、弁護士へのアクセスという観点から、好意的というよりも、当然のもの、むしろそれ以前の禁止時代があったことを不思議に感じる人が大半かもしれません。
また、そこに弁護士会の体質としての閉鎖性、後進性批判、逆に解禁に道を開いた「改革」の前進性というとらえ方で、その「不思議」の部分を説明してみせる論調が、お決まりのように展開されてきた現実あります。
ただ、このとらえ方には、ひとつの前提があるといわなければなりません。それは、弁護士増員で散々いれてきた競争原理導入論につながる、弁護士という仕事のサービス業としての一般化。つまり、広告、それを伴う競争ということについて、弁護士を他のサービス業から特別扱いする必要は全くない、要は他で認められている広告を禁止する方がおかしい、という前提です。これもまた、一般には理解しにくいものとはいえません。
しかし、この前提に立つには、同時に肝心なことも社会に伝えなければなりません。つまり、現実問題として、その広告によって弁護士とつながる関係が、他のサービス業同様、利用者市民の選択によって問題なく成り立つのか、という点です。一般化する以上、そこの部分は、詐欺に当たるような不正とされない以上、自己責任として処理されることになります。そこが一般化されることが、果たして利用者に酷なものにならないのか、という現実的な問題です。
広告が解禁され、それを時勢的なものとして理解している弁護士は多くても、内心現状を好意的に受けとめていない弁護士は、沢山います。ただ、前記一般化論の前に、その利用者にとって肝心の部分について、声が挙げにくいと感じている弁護士も多いようにみえます。例えば、「広告をバンバン打てる資力がある弁護士が良い弁護士とは限らない」という言い方が、前記一般化論が前提としている利用者側の選択が成り立つという話からすれば、いかにも弁護士の保身、競争を否定したい欲求から出ているととられることを彼らは分かっている、ということです。
ただ、利用者にとって最大の問題は、そうは括りきれない状況が現に存在していることの方というべきです。ネット空間を含めた、広告による弁護士の露出、イメージ化、そしてそこに打たれている、保証なき「専門」の文字。それに引きずられた選択は、仮に広告の効果を期待する弁護士にとっては有り難いものになったとしても、必ずしも依頼者にとっていい結果をもたらさない。およそ弁護士の善意を期待できるのでなければ、この広告がもたらすものは、依頼者にとっては安心ではない。こと弁護士という仕事にあっては、こと広告がつなぐ関係が、弁護士にとって有り難くても、依頼者にとって危険なものになることもまた、多くの弁護士はよく分かっているのです。
依頼者側は見分けがつかないこと、弁護士のペースで不利益を被る危険があること。その実例と実害を坂野真一弁護士が、最近自身のブログで分かりやすく書いています。具体的な内容はお読み頂ければと思いますが、こうした事例を弁護士の口からよく耳にするようになりました。
広告の先に待っている、「専門家」である弁護士による依頼者が見分けることができない、不当なサゼッション。
「上記のようなやり方は、弁護士感覚からすれば弱者を窮地に追い込んで食い物にする許されるべきではない手法である。しかし、そのような法律事務所の売り上げがどんどん伸び、利益を上げているのであれば、ビジネス感覚からすれば、その手法は正しいと言えてしまうのだ」
この坂野弁護士の言葉が、現実を的確に言い表しています。坂野弁護士の事例は、ビジネス感覚で割り切った弁護士(もちろんすべてとはいえないけれど)が、「専門家」という立場を利用して、いかに簡単に自らの利益を優先させ、依頼者に不利益を被らせることができるのか、事前に見分けるどころか、場合によっては事後においても、不利益に気が付かないこともあり得るということを教えています。
この事例から、セカンド・オピニオンの必要性に解決策を見出そうとする意見も当然ある、とは思います。ただ、あえていえば、それもまた弁護士の善意、あるいは質の均一性はどこまでも前提にしなければなりません。坂野弁護士は「弁護士感覚からすれば」という前提で書いていますが、現実は、そこに「本来の」と前置きが必要ではないか、と思えるほど、そこが危うい弁護士に私たちは遭遇する可能性があります。
そして、坂野弁護士も指摘していますが、一サービス業化の意識を弁護士に促すことになった「改革」に期待されている競争が、果たしてこうした「弁護士感覚」に反して、依頼者の不利益のもとに利益を挙げた経済的成功側の弁護士たちを、淘汰するわけもない、という現実もまた、私たちは認識しておく必要があるのです。
広告解禁も、この「改革」路線も、結果的に弁護士会員の多数によって選択されたことになっています。ただ、その一方で、弁護士の保身、自己利益優先と揶揄されながら、ずっと依頼者の不利益につながるという懸念論を唱える弁護士は存在してきました。「広告」解禁反対論では、「品位」という言葉も出されました。弁護士の「品位」が広告解禁によって害されるというのは、市民にとってはいかにも分かりづらいものであったかもしれません。しかし、「本来の弁護士感覚」を対峙させて語らなければならない現実を前にすると、やはり解禁に反対した当時の弁護士たちが懸念した未来に立っているような気持ちになるのです(「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)。
「改革」が描くキレイな絵に引きずられず、私たちは警戒し、そして現実が本当の私たちの利益や安心を提供する方向に向かっているのかということに、こだわり続けなければなりません。
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また、そこに弁護士会の体質としての閉鎖性、後進性批判、逆に解禁に道を開いた「改革」の前進性というとらえ方で、その「不思議」の部分を説明してみせる論調が、お決まりのように展開されてきた現実あります。
ただ、このとらえ方には、ひとつの前提があるといわなければなりません。それは、弁護士増員で散々いれてきた競争原理導入論につながる、弁護士という仕事のサービス業としての一般化。つまり、広告、それを伴う競争ということについて、弁護士を他のサービス業から特別扱いする必要は全くない、要は他で認められている広告を禁止する方がおかしい、という前提です。これもまた、一般には理解しにくいものとはいえません。
しかし、この前提に立つには、同時に肝心なことも社会に伝えなければなりません。つまり、現実問題として、その広告によって弁護士とつながる関係が、他のサービス業同様、利用者市民の選択によって問題なく成り立つのか、という点です。一般化する以上、そこの部分は、詐欺に当たるような不正とされない以上、自己責任として処理されることになります。そこが一般化されることが、果たして利用者に酷なものにならないのか、という現実的な問題です。
広告が解禁され、それを時勢的なものとして理解している弁護士は多くても、内心現状を好意的に受けとめていない弁護士は、沢山います。ただ、前記一般化論の前に、その利用者にとって肝心の部分について、声が挙げにくいと感じている弁護士も多いようにみえます。例えば、「広告をバンバン打てる資力がある弁護士が良い弁護士とは限らない」という言い方が、前記一般化論が前提としている利用者側の選択が成り立つという話からすれば、いかにも弁護士の保身、競争を否定したい欲求から出ているととられることを彼らは分かっている、ということです。
ただ、利用者にとって最大の問題は、そうは括りきれない状況が現に存在していることの方というべきです。ネット空間を含めた、広告による弁護士の露出、イメージ化、そしてそこに打たれている、保証なき「専門」の文字。それに引きずられた選択は、仮に広告の効果を期待する弁護士にとっては有り難いものになったとしても、必ずしも依頼者にとっていい結果をもたらさない。およそ弁護士の善意を期待できるのでなければ、この広告がもたらすものは、依頼者にとっては安心ではない。こと弁護士という仕事にあっては、こと広告がつなぐ関係が、弁護士にとって有り難くても、依頼者にとって危険なものになることもまた、多くの弁護士はよく分かっているのです。
依頼者側は見分けがつかないこと、弁護士のペースで不利益を被る危険があること。その実例と実害を坂野真一弁護士が、最近自身のブログで分かりやすく書いています。具体的な内容はお読み頂ければと思いますが、こうした事例を弁護士の口からよく耳にするようになりました。
広告の先に待っている、「専門家」である弁護士による依頼者が見分けることができない、不当なサゼッション。
「上記のようなやり方は、弁護士感覚からすれば弱者を窮地に追い込んで食い物にする許されるべきではない手法である。しかし、そのような法律事務所の売り上げがどんどん伸び、利益を上げているのであれば、ビジネス感覚からすれば、その手法は正しいと言えてしまうのだ」
この坂野弁護士の言葉が、現実を的確に言い表しています。坂野弁護士の事例は、ビジネス感覚で割り切った弁護士(もちろんすべてとはいえないけれど)が、「専門家」という立場を利用して、いかに簡単に自らの利益を優先させ、依頼者に不利益を被らせることができるのか、事前に見分けるどころか、場合によっては事後においても、不利益に気が付かないこともあり得るということを教えています。
この事例から、セカンド・オピニオンの必要性に解決策を見出そうとする意見も当然ある、とは思います。ただ、あえていえば、それもまた弁護士の善意、あるいは質の均一性はどこまでも前提にしなければなりません。坂野弁護士は「弁護士感覚からすれば」という前提で書いていますが、現実は、そこに「本来の」と前置きが必要ではないか、と思えるほど、そこが危うい弁護士に私たちは遭遇する可能性があります。
そして、坂野弁護士も指摘していますが、一サービス業化の意識を弁護士に促すことになった「改革」に期待されている競争が、果たしてこうした「弁護士感覚」に反して、依頼者の不利益のもとに利益を挙げた経済的成功側の弁護士たちを、淘汰するわけもない、という現実もまた、私たちは認識しておく必要があるのです。
広告解禁も、この「改革」路線も、結果的に弁護士会員の多数によって選択されたことになっています。ただ、その一方で、弁護士の保身、自己利益優先と揶揄されながら、ずっと依頼者の不利益につながるという懸念論を唱える弁護士は存在してきました。「広告」解禁反対論では、「品位」という言葉も出されました。弁護士の「品位」が広告解禁によって害されるというのは、市民にとってはいかにも分かりづらいものであったかもしれません。しかし、「本来の弁護士感覚」を対峙させて語らなければならない現実を前にすると、やはり解禁に反対した当時の弁護士たちが懸念した未来に立っているような気持ちになるのです(「『弁護士広告』解禁論議が残したもの」)。
「改革」が描くキレイな絵に引きずられず、私たちは警戒し、そして現実が本当の私たちの利益や安心を提供する方向に向かっているのかということに、こだわり続けなければなりません。
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