非現実的だった「改革」の弁護士公益論
今回の司法改革は、この国の弁護士をどういう存在にするつもりだったのか――。「改革」当初、最も推進派によって強調されたのは弁護士の社会的責任(公益性)でした。「改革」のバイブルになった司法制度改革審議会の最終意見書は、「弁護士制度の改革」のなかで真っ先にその実践の必要性を掲げ、以下のように述べています。
「弁護士の社会的責任(公益性)は、基本的には、当事者主義訴訟構造の下での精力的な訴訟活動など諸種の職務活動により、『頼もしい権利の護り手』として、職業倫理を保持しつつ依頼者(国民)の正当な権利利益の実現に奉仕することを通じて実践されると考えられる」
「弁護士は、国民の社会生活や企業の経済活動におけるパートナー、公的部門の担い手などとして、一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在となるべく、その資質・能力の向上、国民との豊かなコミュニケーションの確保に努めなければならない」
「弁護士は、社会の広範かつ多様なニーズに一層積極的かつ的確に対応するよう、自ら意識改革に取り組むとともに、その公益的な使命にふさわしい職業倫理を自覚し、自らの行動を規律すべきである」
「同時に、弁護士は、『信頼しうる正義の担い手』として、通常の職務活動を超え、『公共性の空間』において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである」
ここで描かれたのは、当事者主義構造下での通常の業務のなかで、さらに加えてプロボノなどを通したなかで、その社会的責任(公益性)を果たしていく弁護士の姿。しかも、文脈にもあるように、そこで強くイメージ化されているのは、「奉仕者」としての姿であり、求められているのは、それに対する弁護士の強い自覚でした。
これは、いうまでもなく、従来のこの国の弁護士に対する、強烈な批判的論調といえます。そこで社会にイメージ化されたのは、公益への「奉仕者」としての自覚が決定的に足りない弁護士の姿といっていいと思います。それは、あるいは「社会正義の実現」を掲げながら、しっかり金儲けに邁進している社会的なイメージと結び付き、あたかも「奉仕者」としての「心得違い」として伝えられたようにもみえます。
これを当時、当の弁護士たちはどう受けとめたのか。「我が国の弁護士ほど日常の業務においても、ボランティア活動においても、社会正義の実現と国民の人権擁護に努め、自ら必要と判断した時に金と時間を使ってきた弁護士は世界に類例がない」(鈴木秀幸弁護士『司法のあり方と適正な弁護士人口政策』「司法改革の失敗」)といったとらえ方をしていた弁護士たちも確かにいたし、弁護士会の委員会活動やそれを支えている高額な会費徴収の現実からすれば、前記切り口に対して、不本意なものを感じた弁護士も少なくなかったのは事実です。
しかし、当時の弁護士会主導層は、前記「改革」のイメージを自己批判的に受け入れ、むしろ前向きな取り組み姿勢を示すことになります。「敷居が高い」「身近でない」批判と結び付けたり、「いつでも、どこでも、どんな問題でも国民の法的ニーズに応えられる、いわば全天候型・全方位型の弁護士像」(久保井一匡会長プレゼンテーション)を目指すとされたり。そうした役割設定のもとで、弁護士人口増、新法曹養成(ロースクール構想)への主体的関与、弁護士過疎の積極的解消の必要性も、結び付けられていきました。
ただ、今、こうした過去の流れを振り返り、当時の資料を見て、非常に奇妙な気持ちに陥るのは、この弁護士の「奉仕者」性を一体何が支えるのかについて、あまりにつっこんだやり取りがないこと、逆にいえば、とてつもない楽観論が支配していたようにみえることです。大量に増産された弁護士が、広範なニーズに社会的責任として、「奉仕者」としてこたえる。そこには、弁護士の事業者性の確保、あるいは採算性を保ちながら、それを維持していくことに対する懸念、さらにいえば、本来、個人事業者として、そうした経済的な環境の担保を前提としなければ成り立たない、あるいは弁護士という業態に対する社会の大きな誤解を生む、という、あってもいい視点が全く欠落しているようにみえるのです。
そして、さらに不思議なことは、その現実を一番、分かっているはずの弁護士主導層の人間たちまでが、そこを強調することなく、また、多くの会員がその方向を支持し、受け入れたことです。
当時の(あるいは今に続く)潜在需要論や、規制緩和に伴う需要増論に引きずられたという説、比較的良好だった弁護士の経済環境やこれまでの実績を過信したという説、有償需要に対する決定的な見込み違い説が聞かれます。ただ、いずれにしても、今日の現実は案の定の結果となっている、といえます。むしろ、皮肉にも弁護士は、公益性を目指す存在からも、「奉仕者」からも(もともと「奉仕者」ととらえるべきかには異論があったとしても)遠ざかっているというべきです(「弁護士の『公益性』をめぐる評価とスタンス」)。
弁護士の生き残りのかかる経済環境、一サービス業としての自覚が求められている競争状態のなかでは、これまで以上に弁護士は採算性を追求しなければならなくなり、当然のこととして損益分岐点へのシビアな視点を生み出します(「福岡の家電弁護士のブログ」)。ただ、それは有り体にいえば、「全天候型、全方位型」とはうらはらの、金にならないニーズは切り捨てる(切り捨てざるを得ない)弁護士像です。もちろん、彼らは弁護士の公益性を支えてきた弁護士会活動にも冷ややかな視線を送り出しています。依然として「改革」の無理を質さず、従来型の犠牲的、奉仕的会員関与を求める会運営への決別の方向です。
従来から採算性だけを追求する弁護士がいなかったのかといえば、もちろん、そうではありません。しかし、あたかも弁護士の「公益性」が実践されるように描かれた「改革」が、そうした「公益性」に目を向ける弁護士を減らしこそすれ、増やすことができないのが「改革」の現実です。もし、「改革」がはじめからこの結果を分かっていたとするならば、その意図はまた違うものと解されることになります(「『弁護士弱体化』という意図」)。
「改革」はなぜ、描いたような弁護士像を生み出していないか。そして、もし、この国にどうしても弁護士に取り組んでもらわなければならない、無償性の高い「公益」といえるニーズが存在するのであれば、まず何を整えることが優先されなければならないのか――。このことを直視するところから始めるべきです。
あなたは少年事件被疑者の実名報道は許されるべきだとお考えですか。少年法に対するご意見とあわせてお聞かせ下さい。司法ウオッチ「ニュースご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6558
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「弁護士の社会的責任(公益性)は、基本的には、当事者主義訴訟構造の下での精力的な訴訟活動など諸種の職務活動により、『頼もしい権利の護り手』として、職業倫理を保持しつつ依頼者(国民)の正当な権利利益の実現に奉仕することを通じて実践されると考えられる」
「弁護士は、国民の社会生活や企業の経済活動におけるパートナー、公的部門の担い手などとして、一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在となるべく、その資質・能力の向上、国民との豊かなコミュニケーションの確保に努めなければならない」
「弁護士は、社会の広範かつ多様なニーズに一層積極的かつ的確に対応するよう、自ら意識改革に取り組むとともに、その公益的な使命にふさわしい職業倫理を自覚し、自らの行動を規律すべきである」
「同時に、弁護士は、『信頼しうる正義の担い手』として、通常の職務活動を超え、『公共性の空間』において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである」
ここで描かれたのは、当事者主義構造下での通常の業務のなかで、さらに加えてプロボノなどを通したなかで、その社会的責任(公益性)を果たしていく弁護士の姿。しかも、文脈にもあるように、そこで強くイメージ化されているのは、「奉仕者」としての姿であり、求められているのは、それに対する弁護士の強い自覚でした。
これは、いうまでもなく、従来のこの国の弁護士に対する、強烈な批判的論調といえます。そこで社会にイメージ化されたのは、公益への「奉仕者」としての自覚が決定的に足りない弁護士の姿といっていいと思います。それは、あるいは「社会正義の実現」を掲げながら、しっかり金儲けに邁進している社会的なイメージと結び付き、あたかも「奉仕者」としての「心得違い」として伝えられたようにもみえます。
これを当時、当の弁護士たちはどう受けとめたのか。「我が国の弁護士ほど日常の業務においても、ボランティア活動においても、社会正義の実現と国民の人権擁護に努め、自ら必要と判断した時に金と時間を使ってきた弁護士は世界に類例がない」(鈴木秀幸弁護士『司法のあり方と適正な弁護士人口政策』「司法改革の失敗」)といったとらえ方をしていた弁護士たちも確かにいたし、弁護士会の委員会活動やそれを支えている高額な会費徴収の現実からすれば、前記切り口に対して、不本意なものを感じた弁護士も少なくなかったのは事実です。
しかし、当時の弁護士会主導層は、前記「改革」のイメージを自己批判的に受け入れ、むしろ前向きな取り組み姿勢を示すことになります。「敷居が高い」「身近でない」批判と結び付けたり、「いつでも、どこでも、どんな問題でも国民の法的ニーズに応えられる、いわば全天候型・全方位型の弁護士像」(久保井一匡会長プレゼンテーション)を目指すとされたり。そうした役割設定のもとで、弁護士人口増、新法曹養成(ロースクール構想)への主体的関与、弁護士過疎の積極的解消の必要性も、結び付けられていきました。
ただ、今、こうした過去の流れを振り返り、当時の資料を見て、非常に奇妙な気持ちに陥るのは、この弁護士の「奉仕者」性を一体何が支えるのかについて、あまりにつっこんだやり取りがないこと、逆にいえば、とてつもない楽観論が支配していたようにみえることです。大量に増産された弁護士が、広範なニーズに社会的責任として、「奉仕者」としてこたえる。そこには、弁護士の事業者性の確保、あるいは採算性を保ちながら、それを維持していくことに対する懸念、さらにいえば、本来、個人事業者として、そうした経済的な環境の担保を前提としなければ成り立たない、あるいは弁護士という業態に対する社会の大きな誤解を生む、という、あってもいい視点が全く欠落しているようにみえるのです。
そして、さらに不思議なことは、その現実を一番、分かっているはずの弁護士主導層の人間たちまでが、そこを強調することなく、また、多くの会員がその方向を支持し、受け入れたことです。
当時の(あるいは今に続く)潜在需要論や、規制緩和に伴う需要増論に引きずられたという説、比較的良好だった弁護士の経済環境やこれまでの実績を過信したという説、有償需要に対する決定的な見込み違い説が聞かれます。ただ、いずれにしても、今日の現実は案の定の結果となっている、といえます。むしろ、皮肉にも弁護士は、公益性を目指す存在からも、「奉仕者」からも(もともと「奉仕者」ととらえるべきかには異論があったとしても)遠ざかっているというべきです(「弁護士の『公益性』をめぐる評価とスタンス」)。
弁護士の生き残りのかかる経済環境、一サービス業としての自覚が求められている競争状態のなかでは、これまで以上に弁護士は採算性を追求しなければならなくなり、当然のこととして損益分岐点へのシビアな視点を生み出します(「福岡の家電弁護士のブログ」)。ただ、それは有り体にいえば、「全天候型、全方位型」とはうらはらの、金にならないニーズは切り捨てる(切り捨てざるを得ない)弁護士像です。もちろん、彼らは弁護士の公益性を支えてきた弁護士会活動にも冷ややかな視線を送り出しています。依然として「改革」の無理を質さず、従来型の犠牲的、奉仕的会員関与を求める会運営への決別の方向です。
従来から採算性だけを追求する弁護士がいなかったのかといえば、もちろん、そうではありません。しかし、あたかも弁護士の「公益性」が実践されるように描かれた「改革」が、そうした「公益性」に目を向ける弁護士を減らしこそすれ、増やすことができないのが「改革」の現実です。もし、「改革」がはじめからこの結果を分かっていたとするならば、その意図はまた違うものと解されることになります(「『弁護士弱体化』という意図」)。
「改革」はなぜ、描いたような弁護士像を生み出していないか。そして、もし、この国にどうしても弁護士に取り組んでもらわなければならない、無償性の高い「公益」といえるニーズが存在するのであれば、まず何を整えることが優先されなければならないのか――。このことを直視するところから始めるべきです。
あなたは少年事件被疑者の実名報道は許されるべきだとお考えですか。少年法に対するご意見とあわせてお聞かせ下さい。司法ウオッチ「ニュースご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6558
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