新法曹養成制度が引きずるもの
「改革」の法曹人口増員政策とともに登場し、進められることになった法科大学院制度。以前も書いたように、少なくとも法曹界が議論の前提としてきた司法研修所を中核とする法曹養成制度の大転換を受け入れざるを得なくなった、その決め手は、増員政策の決定、要は研修所だけでは対応しきれないとみたという事情がありました。その意味では、少なくとも当初、法科大学院制度は、根本的に「質・量ともに」とされた「改革」の法曹増産体制を支える存在と、この世界の人間は受けとめたといっていいと思います(「法科大学院制度導入必然性への疑問」 「法科大学院制度選択の事情と思惑」)。
ただ、もはやこの構図ははっきりと崩れているというべきです。無理な増員政策の失敗よって、弁護士の経済環境や修養環境が激変し、資格としての将来性を含めた「価値」の下落、あるいは投資のリスクが高まり、同時に、新法曹養成のプロセスの経済的時間的負担にも「価値」を見出せなくなった志望者が、この世界自体を目指さなくなってきたからです。
こうした状況下で、法科大学院関係者の意思の根底には、どこか共通して「自分たちのせいではない」という意識が、ずっとあるように見えます。さすがに、「合格したところでその先がみえない」という現状が、ここまではっきりしてくると、以前のような、司法試験合格者数の少なさのせい、つまりは、合格率さえ上げてくれれば人は来る、合格させればいいじゃないかという論調は、以前ほど公言しづらくはなっています。
ただ、そもそもの増員政策の失敗については、自分たちとは関係ない、法曹界側、基本的に弁護士についての、いわば「改革」の不徹底さの問題、本来的には存在しているはずの潜在的ニーズへの掘り起こしが不十分であったり、意識変革が行われていない結果、現在のような経済環境を生んでいる、というところに問題を見出そうとする傾向にあります。
しかし、この見方が間違っていた場合、どうなるのか。現状のように、激増政策の必要性の根本が問われた場合、彼らの立ち位置はどうなるのか、という問題があります。既に多くの大学らよる法科大学院制度からの撤退が開始されている時点で、従来からの量産体制に多くの大学が妙味を見出す時代ではなくなっています。しかし、弁護士の増員基調が続き、経済環境も好転しないまま、一部生き残った法科大学院がそのスケールで、法曹の卵を輩出していくとなれば、それは有能な人間がこの世界を目指し、その多くの人材から適材を選抜する法曹養成の在り方からは遠くなるのではないか、なかんずく、それがこの国の法曹界と社会のためになるのか、という根本問題があるように思えるのです。
この「改革」が、法科大学院制度が法曹養成の中核として位置付け、「村おこし」ならぬ「大学おこし」とばかり、多くの大学がわれもわれもと参入へ手を挙げた時、関係者をはやばやと不安にさせたのは、74校というその予想以上の数の多さでした。しかし、実は法曹養成にとっての本当の不安は、もう一つあった。それは、大学がいわば法曹養成のステークホルダーになる、ということ。つまり、この制度が中核になる以上、今後、大学運営、あるいはその関係者の利害というものと切り離せない、というよりは、そこに「預ける」形になるということでした。
当然といえば、当然のことであり、むしろ、プロセスの中核の地位になる以上、その前提がなければ、成り立たない制度といえますが、今にしてみれば、「改革」論議のなかで、法曹界側がそのことの意味を十分理解していたのかという疑問を持ってしまいます。
例えば、もし、法科大学院というプロセスが、法曹になるための理想の教育を、「改革」が掲げた理念通り、実践するというのであれば、受験要件という強制化を外して、長い時間をかけて、その正しさと「価値」を実証する方が、少なくとも、今の志望者敬遠傾向解消にはプラスになるはずですが、それができない事情がどこにあるのか。実務を知らない、司法試験に合格もしていない教員が主流と批判されるのであれば、それをただちに解消する方策だって、あるいは法曹養成としての在り方を考えればプラスであっても、そうはできないのはどうしてなのか。そして、前記したように、合格させればよし、法科大学院の数が絞られて存続すればよし、という彼らから聞こえてくる発想も、果たして本来、あるべき法曹養成から純粋に逆算されているように見えないのはなぜなのかーー。
いまでも弁護士会のなかには、この増員基調のなかでも、弁護士が好転し、なんとかなっていくという見通しに立っているという意見もありますし、それと併せて、この強制化を伴った法科大学院も守ろうとする方々が沢山います。「受験要件削除」を地方弁護士会が決議すれば、会内で「画期的」と評される状況もあります(「法科大学院の『くびき』」)。
しかし、旧制度、旧法曹批判と、「数」の必要性ばかりが声高にいわれ、中核の地位を大学に譲った、あの日から、法曹養成は何に付き合い、縛られることになったのか――。今こそ、そういう視点があってもいいように思えます。
あなたは少年事件被疑者の実名報道は許されるべきだとお考えですか。少年法に対するご意見とあわせてお聞かせ下さい。司法ウオッチ「ニュースご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6558
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ただ、もはやこの構図ははっきりと崩れているというべきです。無理な増員政策の失敗よって、弁護士の経済環境や修養環境が激変し、資格としての将来性を含めた「価値」の下落、あるいは投資のリスクが高まり、同時に、新法曹養成のプロセスの経済的時間的負担にも「価値」を見出せなくなった志望者が、この世界自体を目指さなくなってきたからです。
こうした状況下で、法科大学院関係者の意思の根底には、どこか共通して「自分たちのせいではない」という意識が、ずっとあるように見えます。さすがに、「合格したところでその先がみえない」という現状が、ここまではっきりしてくると、以前のような、司法試験合格者数の少なさのせい、つまりは、合格率さえ上げてくれれば人は来る、合格させればいいじゃないかという論調は、以前ほど公言しづらくはなっています。
ただ、そもそもの増員政策の失敗については、自分たちとは関係ない、法曹界側、基本的に弁護士についての、いわば「改革」の不徹底さの問題、本来的には存在しているはずの潜在的ニーズへの掘り起こしが不十分であったり、意識変革が行われていない結果、現在のような経済環境を生んでいる、というところに問題を見出そうとする傾向にあります。
しかし、この見方が間違っていた場合、どうなるのか。現状のように、激増政策の必要性の根本が問われた場合、彼らの立ち位置はどうなるのか、という問題があります。既に多くの大学らよる法科大学院制度からの撤退が開始されている時点で、従来からの量産体制に多くの大学が妙味を見出す時代ではなくなっています。しかし、弁護士の増員基調が続き、経済環境も好転しないまま、一部生き残った法科大学院がそのスケールで、法曹の卵を輩出していくとなれば、それは有能な人間がこの世界を目指し、その多くの人材から適材を選抜する法曹養成の在り方からは遠くなるのではないか、なかんずく、それがこの国の法曹界と社会のためになるのか、という根本問題があるように思えるのです。
この「改革」が、法科大学院制度が法曹養成の中核として位置付け、「村おこし」ならぬ「大学おこし」とばかり、多くの大学がわれもわれもと参入へ手を挙げた時、関係者をはやばやと不安にさせたのは、74校というその予想以上の数の多さでした。しかし、実は法曹養成にとっての本当の不安は、もう一つあった。それは、大学がいわば法曹養成のステークホルダーになる、ということ。つまり、この制度が中核になる以上、今後、大学運営、あるいはその関係者の利害というものと切り離せない、というよりは、そこに「預ける」形になるということでした。
当然といえば、当然のことであり、むしろ、プロセスの中核の地位になる以上、その前提がなければ、成り立たない制度といえますが、今にしてみれば、「改革」論議のなかで、法曹界側がそのことの意味を十分理解していたのかという疑問を持ってしまいます。
例えば、もし、法科大学院というプロセスが、法曹になるための理想の教育を、「改革」が掲げた理念通り、実践するというのであれば、受験要件という強制化を外して、長い時間をかけて、その正しさと「価値」を実証する方が、少なくとも、今の志望者敬遠傾向解消にはプラスになるはずですが、それができない事情がどこにあるのか。実務を知らない、司法試験に合格もしていない教員が主流と批判されるのであれば、それをただちに解消する方策だって、あるいは法曹養成としての在り方を考えればプラスであっても、そうはできないのはどうしてなのか。そして、前記したように、合格させればよし、法科大学院の数が絞られて存続すればよし、という彼らから聞こえてくる発想も、果たして本来、あるべき法曹養成から純粋に逆算されているように見えないのはなぜなのかーー。
いまでも弁護士会のなかには、この増員基調のなかでも、弁護士が好転し、なんとかなっていくという見通しに立っているという意見もありますし、それと併せて、この強制化を伴った法科大学院も守ろうとする方々が沢山います。「受験要件削除」を地方弁護士会が決議すれば、会内で「画期的」と評される状況もあります(「法科大学院の『くびき』」)。
しかし、旧制度、旧法曹批判と、「数」の必要性ばかりが声高にいわれ、中核の地位を大学に譲った、あの日から、法曹養成は何に付き合い、縛られることになったのか――。今こそ、そういう視点があってもいいように思えます。
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