「過剰」をめぐる弁護士の現実と「諦念」
増員政策による、この国の弁護士数の過剰を、多くの市民が実感しているとはいえません。メディアが弁護士の経済状態の変化や不祥事の原因として伝える情報や、やたら目につくようになった法律事務所のCMなどから、ある種の変化を読み取っていたとして、過剰といえるまでの認識が社会に広がっているのかは疑問です。
そもそも多くの市民は弁護士と無縁に生活しているのだから、簡単に実感できないのは当たり前、といえるかもしれません。しかも、たとえかかわりがあり、自らがその影響を受けていたとしても、それを直ちに過剰の弊害と認識できるとも限らない。たまたま自分とかかわった弁護士の質や姿勢、それが自らにもたらした結果をもとに、その背景にある政策的な問題に目を向ける人は少数派だと思うし、そもそも当事者はそれどころではありません。しかも、弁護士との関係においては、当事者が不利益を認識しないまま、関係を終了してしまうことだってあります。
弁護士数が過剰かどうかが、そういう位置付けになってしまうテーマであればなおさらのこと、弁護士自身が業務実感からこれを口にし、たとえその利用者への弊害危惧を口にしたとしても、それがそうとは理解されず、弁護士業務への弊害危惧、つまり自らの利益を優先させた保身として扱われる余地が大きいことは事実です。
実は、このことに対する認識、あるいは諦めととれるような理解の仕方は、弁護士のなかで広がり続けてきたように見えます。個々の業務スタイルによってバラツキはあるものの、事件数の現実とともに過剰であるという認識は、増員政策の中で広がり続けながら、その一方で、弁護士発信の過剰弊害論が社会に受け入れられないのではないか、という諦めもまた、広がり、深まり続けているということなのです。
法曹人口と法曹養成をめぐり激論となった3月の臨時総会(「3・11臨時総会からみた『改革』と日弁連」)をみても、弁護士数が過剰であるから抑制という議論は、たとえそこに社会的な弊害という意味が込められても、もはや直ちに弁護士が一致して向き合える方向ではないととれました。もちろん、自分は過剰と認識していないという立場もあったと思いますが、この議論そのものが自らの保身を優先させるもの、社会はそうとるぞ、それでいいのか、という、世論を忖度する意見が目立ったように感じました。
「弊害」とは何か、ということについて、本当は非常に分かりやすい話が用意されています。事件数が増えず、弁護士が急増すれば、1件当たりの弁護士報酬が増えるか、弁護士業務の質が下がるかのどちらかなのだ、と。なぜならば、弁護士業務を営む1ヵ月当たりの経費は、事件数減に比例せず、さほど変わらないからなのだ、と。
「例えば、これまで100件の事件を賄っていた経費を10件の事件で捻出しなければならなくなるとしたら、どうなるかは結果は明らかであろう。事務所経費として必要な金額が変わらず、薄利多売が不可能になるのであるから、いずれ1件あたりの報酬を高くせざるを得ない」
「繰り返すが、事件が来なくても、病気で収入が途絶えても、事務所家賃や光熱費、ファックスコピー機のリース代、事務員の人件費等々固定経費には全くといっていいほど影響がない」
「他方、弁護士が破産すれば、事実上廃業に追い込まれることから、破産手続をとるわけにもいかない。ちなみに、最近は、金融機関の弁護士に対する信頼は下がり、まとまったお金を弁護士に貸さなくなっているそうである」(武本夕香子弁護士『弁護士人口論の原理と法文化』「司法改革の失敗」)
これは根本的ともいえる、それこそ多くの弁護士が共有してきた「実感」あるいは現実であるはずです。ただ、こうした現実的な業務実態をもとにした話も、前記保身批判の前にかき消されてしまうかもしれません。前記会内議論のムードをもとで、いまや弁護士自身がアピールしづらい、自己抑制して押し黙る方向になってきているようにもとれるのです。
もちろん、会内の通用しない論には、事件数増加への可能性、そこへの弁護士自身の努力で克服すべき、という、社会がより前向きと理解してくれそうな、威勢いい論調が被ります。根本的な話であればなおさらのこと、推進派からすれば、その前提を克服可能なものとして位置付けなければならなくなっている、ともいえます。ただ、思えば、かつてこの「改革」当初の弁護士会内でも、自ら打って出るのをよしとするような前向きな、威勢のいい、それこそ「改革」を見つめる外の目を十分意識したような論調が、内部の不安、本音をよそに声高に被せられ、流れが作られていった観がありました。
今、「改革」の結果をもとに、多くの弁護士が本音を口にしようとしたときにも、再びそれは現れたとみるべきでしょうか。弁護士自身が変われ、変わり方が足りないのだ、と、あくまで自己批判的にいう同業者の前に、やはり多くの弁護士は押し黙ってしまうかもしれません。
いまでもなく、それが本当に克服すべき保身であるならばいい、ということになるでしょう。ただ、現実であっても所詮通用しないという弁護士の「諦念」と、彼ら自身がそれどころではないという状況によって、確実に「弊害」を生み続ける方向で、「改革」は走っていないのか――。気付くこともないまま不利益を被るかもしれない利用者目線に立てば、どんどん発信されなくなるかもしれない、そのことの方も気にしなければならないはずです。
弁護士の質の低下についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4784
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弁護士数が過剰かどうかが、そういう位置付けになってしまうテーマであればなおさらのこと、弁護士自身が業務実感からこれを口にし、たとえその利用者への弊害危惧を口にしたとしても、それがそうとは理解されず、弁護士業務への弊害危惧、つまり自らの利益を優先させた保身として扱われる余地が大きいことは事実です。
実は、このことに対する認識、あるいは諦めととれるような理解の仕方は、弁護士のなかで広がり続けてきたように見えます。個々の業務スタイルによってバラツキはあるものの、事件数の現実とともに過剰であるという認識は、増員政策の中で広がり続けながら、その一方で、弁護士発信の過剰弊害論が社会に受け入れられないのではないか、という諦めもまた、広がり、深まり続けているということなのです。
法曹人口と法曹養成をめぐり激論となった3月の臨時総会(「3・11臨時総会からみた『改革』と日弁連」)をみても、弁護士数が過剰であるから抑制という議論は、たとえそこに社会的な弊害という意味が込められても、もはや直ちに弁護士が一致して向き合える方向ではないととれました。もちろん、自分は過剰と認識していないという立場もあったと思いますが、この議論そのものが自らの保身を優先させるもの、社会はそうとるぞ、それでいいのか、という、世論を忖度する意見が目立ったように感じました。
「弊害」とは何か、ということについて、本当は非常に分かりやすい話が用意されています。事件数が増えず、弁護士が急増すれば、1件当たりの弁護士報酬が増えるか、弁護士業務の質が下がるかのどちらかなのだ、と。なぜならば、弁護士業務を営む1ヵ月当たりの経費は、事件数減に比例せず、さほど変わらないからなのだ、と。
「例えば、これまで100件の事件を賄っていた経費を10件の事件で捻出しなければならなくなるとしたら、どうなるかは結果は明らかであろう。事務所経費として必要な金額が変わらず、薄利多売が不可能になるのであるから、いずれ1件あたりの報酬を高くせざるを得ない」
「繰り返すが、事件が来なくても、病気で収入が途絶えても、事務所家賃や光熱費、ファックスコピー機のリース代、事務員の人件費等々固定経費には全くといっていいほど影響がない」
「他方、弁護士が破産すれば、事実上廃業に追い込まれることから、破産手続をとるわけにもいかない。ちなみに、最近は、金融機関の弁護士に対する信頼は下がり、まとまったお金を弁護士に貸さなくなっているそうである」(武本夕香子弁護士『弁護士人口論の原理と法文化』「司法改革の失敗」)
これは根本的ともいえる、それこそ多くの弁護士が共有してきた「実感」あるいは現実であるはずです。ただ、こうした現実的な業務実態をもとにした話も、前記保身批判の前にかき消されてしまうかもしれません。前記会内議論のムードをもとで、いまや弁護士自身がアピールしづらい、自己抑制して押し黙る方向になってきているようにもとれるのです。
もちろん、会内の通用しない論には、事件数増加への可能性、そこへの弁護士自身の努力で克服すべき、という、社会がより前向きと理解してくれそうな、威勢いい論調が被ります。根本的な話であればなおさらのこと、推進派からすれば、その前提を克服可能なものとして位置付けなければならなくなっている、ともいえます。ただ、思えば、かつてこの「改革」当初の弁護士会内でも、自ら打って出るのをよしとするような前向きな、威勢のいい、それこそ「改革」を見つめる外の目を十分意識したような論調が、内部の不安、本音をよそに声高に被せられ、流れが作られていった観がありました。
今、「改革」の結果をもとに、多くの弁護士が本音を口にしようとしたときにも、再びそれは現れたとみるべきでしょうか。弁護士自身が変われ、変わり方が足りないのだ、と、あくまで自己批判的にいう同業者の前に、やはり多くの弁護士は押し黙ってしまうかもしれません。
いまでもなく、それが本当に克服すべき保身であるならばいい、ということになるでしょう。ただ、現実であっても所詮通用しないという弁護士の「諦念」と、彼ら自身がそれどころではないという状況によって、確実に「弊害」を生み続ける方向で、「改革」は走っていないのか――。気付くこともないまま不利益を被るかもしれない利用者目線に立てば、どんどん発信されなくなるかもしれない、そのことの方も気にしなければならないはずです。
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