弁護士業務への無理解という前提
弁護士という仕事への決定的な理解不足が、適正な報酬の額についての利用者感情に影響していると切実に感じ出している弁護士が増えているようです。もちろん、報酬に対する理解という問題は、この仕事にずっとつきまとってきました。ただ、一口にいえば、これまで長く弁護士会は報酬の問題について、適正さではなく、透明性が問われているというスタンスでした。
古くから「弁護士は寿司屋と同じ」などといわれるなど、報酬の分かりにくさへの不満・不安が社会にあり、それがアクセスへの阻害要因になっているといった認識が弁護士側には確かにありました。弁護士の報酬基準規程が公正取引委員会からの独占禁止法違反の指摘を受け、規制緩和の流れのなかで2004年に廃止を余儀なくされ、前記事情から危機感を覚えた日弁連は全国弁護士のアンケートをもとに目安を作るなど苦肉の策のような対応もしてきました(日弁連「弁護士報酬(費用)のご説明」)。
しかし、これはあくまで分かりにくい報酬の不安解消という枠組みでの捉え方であり、根本的な価額の妥当性の問題として捉えてきたわけではありません。つまり、基本的には透明化すればある程度不安解消とともに理解され、そこから先その妥当性が問われるということを想定していないということです。
依頼者市民側に相場観がないという状況は変わらず、不当に高くとられることも、安いけど不当に手を抜かれることも、すべて弁護士の一存で決められるという懸念は存在しています(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」)。ただ、その一方で依頼者市民の弁護士に対する要求のハードルが高くなっているという声が聞かれます。それは一面、今回の「改革」が、弁護士からすれば不当に高い要求のハードルを持った市民を取りこんでしまった、というべきかもしれません。
例えば、根本的に薄利多売化が困難な弁護士という仕事への理解度の低さ。有り体言えば、手間は同じにかかるが採算性に違いがあるということを前提にしない。前記相場観がない状況の不安のなかで、逆に他のサービス業であれば当然のような、正当に高くとられること、正当に手を抜かれる(それなりのサービスになる)ことが認められない(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
数は増え、弁護士はいくらも代わりがいる、「利用しやすくなる」というイメージには当然低額化競争も連想される。有償の法的指南であるはずの「法律相談」も、「無料」にすることが逆に当然の企業努力であるかのような受けとめ方まで。「改革」の弁護士が「変わる」というイメージ、あるいは一サービス業化の努力が、皮肉な形で弁護士に跳ね返ってきているようにも見えます。
そもそも「改革」が、こうした弁護士の現実をどこまで踏まえ、前提としていたか。それは「法テラス」の現実がすべて物語っているように思います。仕事がとられるだけでなく、安くサービスを受けられるという期待感を背負ったこのシステムが、若手の仕事供給源というメリットが強調されながら、手間のかかる案件を不適正な額の報酬で弁護士を活用しようとしているという不満を生んでいる現実(「食えない弁護士を救う? 追い詰める? 『法テラス』の存在意義とは」日刊SPA!)。
最近、「法テラス」の案件は一切手を出さないと断言する弁護士の声をよく耳にします。むしろ、不当な扱いと戦うべきであるという意見まであります(「大阪・淀屋橋の弁護士ブログ」)。弁護士に適正なコストをかけずに、良質なサービスを得られる、得ようとするという誤解のもとになっているという意味でも、「民業圧迫」であるという捉え方になってきている観があります。また、そういう意味で「法テラス」の存在をとらえる見方が、弁護士の業務を守る側にも立っていい日弁連に決定的に欠落しているという批判まで聞かれます。
「改革」は蓋をあけてみれば、法テラスにしても、過疎対策にしても、そもそも増員政策にしても、弁護士が一番犠牲になっているという見方がこの世界にはあります。そのどれもが弁護士自らが「登山口」などと称して受けとめた弁護士改革とつながりながら、皮肉にも結果的には、弁護士という仕事への根本的な無理解が共通して横たわっていたようにみえてしまうのです。
法テラスの現状の問題点についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046
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古くから「弁護士は寿司屋と同じ」などといわれるなど、報酬の分かりにくさへの不満・不安が社会にあり、それがアクセスへの阻害要因になっているといった認識が弁護士側には確かにありました。弁護士の報酬基準規程が公正取引委員会からの独占禁止法違反の指摘を受け、規制緩和の流れのなかで2004年に廃止を余儀なくされ、前記事情から危機感を覚えた日弁連は全国弁護士のアンケートをもとに目安を作るなど苦肉の策のような対応もしてきました(日弁連「弁護士報酬(費用)のご説明」)。
しかし、これはあくまで分かりにくい報酬の不安解消という枠組みでの捉え方であり、根本的な価額の妥当性の問題として捉えてきたわけではありません。つまり、基本的には透明化すればある程度不安解消とともに理解され、そこから先その妥当性が問われるということを想定していないということです。
依頼者市民側に相場観がないという状況は変わらず、不当に高くとられることも、安いけど不当に手を抜かれることも、すべて弁護士の一存で決められるという懸念は存在しています(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」)。ただ、その一方で依頼者市民の弁護士に対する要求のハードルが高くなっているという声が聞かれます。それは一面、今回の「改革」が、弁護士からすれば不当に高い要求のハードルを持った市民を取りこんでしまった、というべきかもしれません。
例えば、根本的に薄利多売化が困難な弁護士という仕事への理解度の低さ。有り体言えば、手間は同じにかかるが採算性に違いがあるということを前提にしない。前記相場観がない状況の不安のなかで、逆に他のサービス業であれば当然のような、正当に高くとられること、正当に手を抜かれる(それなりのサービスになる)ことが認められない(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
数は増え、弁護士はいくらも代わりがいる、「利用しやすくなる」というイメージには当然低額化競争も連想される。有償の法的指南であるはずの「法律相談」も、「無料」にすることが逆に当然の企業努力であるかのような受けとめ方まで。「改革」の弁護士が「変わる」というイメージ、あるいは一サービス業化の努力が、皮肉な形で弁護士に跳ね返ってきているようにも見えます。
そもそも「改革」が、こうした弁護士の現実をどこまで踏まえ、前提としていたか。それは「法テラス」の現実がすべて物語っているように思います。仕事がとられるだけでなく、安くサービスを受けられるという期待感を背負ったこのシステムが、若手の仕事供給源というメリットが強調されながら、手間のかかる案件を不適正な額の報酬で弁護士を活用しようとしているという不満を生んでいる現実(「食えない弁護士を救う? 追い詰める? 『法テラス』の存在意義とは」日刊SPA!)。
最近、「法テラス」の案件は一切手を出さないと断言する弁護士の声をよく耳にします。むしろ、不当な扱いと戦うべきであるという意見まであります(「大阪・淀屋橋の弁護士ブログ」)。弁護士に適正なコストをかけずに、良質なサービスを得られる、得ようとするという誤解のもとになっているという意味でも、「民業圧迫」であるという捉え方になってきている観があります。また、そういう意味で「法テラス」の存在をとらえる見方が、弁護士の業務を守る側にも立っていい日弁連に決定的に欠落しているという批判まで聞かれます。
「改革」は蓋をあけてみれば、法テラスにしても、過疎対策にしても、そもそも増員政策にしても、弁護士が一番犠牲になっているという見方がこの世界にはあります。そのどれもが弁護士自らが「登山口」などと称して受けとめた弁護士改革とつながりながら、皮肉にも結果的には、弁護士という仕事への根本的な無理解が共通して横たわっていたようにみえてしまうのです。
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