法科大学院「本道」をめぐる現状認識と自覚の問題
法科大学院関係者が法科大学院の現状を語る話のなかに、かねてから共通した違和感を覚えることがあります。それは、「改革」に対する被害者意識のようなものをにじませるような表現に出会うことです。撤退大学の「敗北宣言」のなかでは、大学の経営責任、あるいは制度参入責任がなかったことを理解してくれ、といわんばかりの、「改革」の想定外を強調した無念と恨み節が提示されるのを目にします(「法科大学院撤退にみる『改革』の無責任」)。
撤退に追い込まれている側のメッセージとして、こうした表現になることは、いわば「立場が言わせている」という見方ができるかもしれません。ただ、他の法科大学院関係者の話を聞いていると、これは単なる負け惜しみではなく、この人たちはあるいは本気で、どこまでも「改革」の期待に自分たちがこたえられなかったのではなく、責任は別のところにあると言いたいのではないか、と疑いたくなってくるのです。
それは、別の見方をすると、自分たちがこの「改革」のなかで、いかに特権的な地位を与えられてきたか、ということに対する認識不足のようにも感じてきます。「改革」は、彼らに「法曹養成の中核」という地位を与え、司法試験の受験資格を与え、国費も投入しています。法曹養成そのものの実績はなく、未知数だった大学が運営する存在に、公平な受験機会を犠牲にして、強制的に志望者を誘導して、本道にするという非常な便宜を図った。そういう基本的な認識が、彼らのなかに果たしてあるのか、ということです(「法科大学院の『本音』と『自覚』」)。
既に昨年7月の話ですが、現在、議事録が開示されている中教審法科大学院特別委員会の最も直近の会合(第75回)で、委員である鎌田薫・早稲田大学総長が次のように述べています。
「法科大学院生は日常的な授業を通じて教育を受け、検証され、各学期の試験、それから、厳格な進級判定、修了判定ということがなされている上に、この共通到達度確認試験まで経ているわけですけれども、司法試験の前では、たった1回の予備試験を受けた人と全く同等の取扱いということでは、これだけ念入りなプロセスを経て教育され、その水準を確認された学生たちが時間とコストを何のために費やしているのかということについての説得力に欠けるんではないか」
「それは受験生だけではなくて、法科大学院も、また国も相当の負担をするわけでありますので、是非これは要望でしかないのかもしれませんけれども、こうしたプロセスを経た人たちが最終的な法曹資格の認定の上で,それ相応の処遇が受けられるような制度とセットにしないと、これだけのことをやる意味が社会的にも説得力を欠くんじゃないかという気がしますんで、是非そちらの方向での御検討をお願いしたいと思います」
彼は、もっと便宜が図られてしかるべき、と言っています。しかし、法科大学院生と「1回の予備試験を受けた人」が全く同等であることの「説得力」こそ、法科大学院側に課せられたことではなかったのですか。時間とコストをかける意味、いわば「価値」を立証しなければならないのは、彼らの側にあるはずです。志望者に選択されない、ということが、そのことに対する評価とはみないということでしょうか。
自分たちが強制の地位まで与えられながら、「価値」を示し切れていないというのではなく、「相応の処遇が受けられるような制度とセット」ではないと、プロセスの「説得力」がない、と。そもそも理念の正しさを固く信じ、それを実証するのであれば、強制化を外し、一発試験ルートと競争してでも、選択されるだけの「価値」を示すべきで、強制化にしがみつくのは、そもそも選択されない脅威による制度の自信のなさであるということは、ここでもさんざん書いてきました。しかし、この発言を見る限り、強制化を外して勝負するなどということは、およそ夢のまた夢。それとは真逆の、もっと私たちはお膳立てされていいはずだ、という話なのですから。
受験生のことを考えてあげてほしい、と言っているようでありながら、「価値」を示せず、選択されなかったという事実を認めていない。ただ、「相応の処遇」というおまけをつけても、それが本当の意味で「社会的にも説得力」のある、法科大学院ルートの「価値」となるのでしょうか。「同等の扱い」が問題なのではなく、むしろ「同等」にしたならば、即座に「価値」として評価されないというところに本質的な問題があるのではないでしょうか。それも志望者は、見抜いているはずです。
予備試験のあり方をめぐる議論についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/5852
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撤退に追い込まれている側のメッセージとして、こうした表現になることは、いわば「立場が言わせている」という見方ができるかもしれません。ただ、他の法科大学院関係者の話を聞いていると、これは単なる負け惜しみではなく、この人たちはあるいは本気で、どこまでも「改革」の期待に自分たちがこたえられなかったのではなく、責任は別のところにあると言いたいのではないか、と疑いたくなってくるのです。
それは、別の見方をすると、自分たちがこの「改革」のなかで、いかに特権的な地位を与えられてきたか、ということに対する認識不足のようにも感じてきます。「改革」は、彼らに「法曹養成の中核」という地位を与え、司法試験の受験資格を与え、国費も投入しています。法曹養成そのものの実績はなく、未知数だった大学が運営する存在に、公平な受験機会を犠牲にして、強制的に志望者を誘導して、本道にするという非常な便宜を図った。そういう基本的な認識が、彼らのなかに果たしてあるのか、ということです(「法科大学院の『本音』と『自覚』」)。
既に昨年7月の話ですが、現在、議事録が開示されている中教審法科大学院特別委員会の最も直近の会合(第75回)で、委員である鎌田薫・早稲田大学総長が次のように述べています。
「法科大学院生は日常的な授業を通じて教育を受け、検証され、各学期の試験、それから、厳格な進級判定、修了判定ということがなされている上に、この共通到達度確認試験まで経ているわけですけれども、司法試験の前では、たった1回の予備試験を受けた人と全く同等の取扱いということでは、これだけ念入りなプロセスを経て教育され、その水準を確認された学生たちが時間とコストを何のために費やしているのかということについての説得力に欠けるんではないか」
「それは受験生だけではなくて、法科大学院も、また国も相当の負担をするわけでありますので、是非これは要望でしかないのかもしれませんけれども、こうしたプロセスを経た人たちが最終的な法曹資格の認定の上で,それ相応の処遇が受けられるような制度とセットにしないと、これだけのことをやる意味が社会的にも説得力を欠くんじゃないかという気がしますんで、是非そちらの方向での御検討をお願いしたいと思います」
彼は、もっと便宜が図られてしかるべき、と言っています。しかし、法科大学院生と「1回の予備試験を受けた人」が全く同等であることの「説得力」こそ、法科大学院側に課せられたことではなかったのですか。時間とコストをかける意味、いわば「価値」を立証しなければならないのは、彼らの側にあるはずです。志望者に選択されない、ということが、そのことに対する評価とはみないということでしょうか。
自分たちが強制の地位まで与えられながら、「価値」を示し切れていないというのではなく、「相応の処遇が受けられるような制度とセット」ではないと、プロセスの「説得力」がない、と。そもそも理念の正しさを固く信じ、それを実証するのであれば、強制化を外し、一発試験ルートと競争してでも、選択されるだけの「価値」を示すべきで、強制化にしがみつくのは、そもそも選択されない脅威による制度の自信のなさであるということは、ここでもさんざん書いてきました。しかし、この発言を見る限り、強制化を外して勝負するなどということは、およそ夢のまた夢。それとは真逆の、もっと私たちはお膳立てされていいはずだ、という話なのですから。
受験生のことを考えてあげてほしい、と言っているようでありながら、「価値」を示せず、選択されなかったという事実を認めていない。ただ、「相応の処遇」というおまけをつけても、それが本当の意味で「社会的にも説得力」のある、法科大学院ルートの「価値」となるのでしょうか。「同等の扱い」が問題なのではなく、むしろ「同等」にしたならば、即座に「価値」として評価されないというところに本質的な問題があるのではないでしょうか。それも志望者は、見抜いているはずです。
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