「ビジネス」が強調される弁護士の魅力度
かつて日本の多くの弁護士が、自らの仕事と結び付けられることに抵抗があった「ビジネス」という言葉は、いつのまにか彼らのなかで、あるべき覚悟のように語られるようになりました。弁護士はビジネスではない、といえば、そんな覚悟では当世生き残れない、頭が古いという批判が同業者から即座に返ってきてもおかしくない。ビジネス系の弁護士からは、かつて「弁護士会内では肩身が狭い」といったマイナー感をにじませた言葉を異口同音に聞いてきただけに、そこには、やはり隔世の感があります。
以前も書いたように「サービス業」という言い方も、弁護士は「覚悟」としていまや極一般的に使うようになっています(「『サービス業』という決意と覚悟」)。同じ意味合いで使われているようにもみえますが、こちらがジャンル分けとしての言い方であるとすれば、「ビジネス」にはもっとアグレッシブなものが込められているようにもとれます。この言葉が強調されるとき、おカネ儲けや採算性の追求というテーマに対して抵抗感を引きずる弁護士の業態に対して、より批判的に、新しい覚悟を求められてきた、ともいえます。
そして、「弁護士が何でビジネスではいけないの?」という、初めから旧来の弁護士とは違う発想の、その意味では過去と隔絶した人材もまた、弁護士の世界にやってきていることも事実です。
しかし、もし「ビジネス」という言葉が、弁護士としてやっていくために必要な「覚悟」として発信されているだけなのであれば、実はこれからこの世界に来ようとする人間にアピールする効果は、実は限定的なものではないか、と思います。つまり、「ビジネス」というのであれば、弁護士が「ビジネス」として、どれだけ魅力的なものであるかが語られなければ、そもそも弁護士という仕事が選択されるとはならない。少なくとも前記のようなアピールでは、積極的な選択の材料にはならない、ということです。
「ビジネス」として、新規参入、しかも未経験者が参入したくなる条件を考えれば、当然、採算性の効率、需要への見通し、安定性を担保する一応のモデル、そして、肝心のそれを自らのものにできる道筋が、より見えていることが当然プラス評価の材料になります。しかも、弁護士の場合、新法曹養成制度による法科大学院というプロセスの強制化によって、時間的経済的な先行投資を強いられているというマイナス条件が加味されています。
給費制や志望者減問題とも絡めて書きましたが、要は弁護士として「やれるか」「やれないか」ではなく、積極的な妙味が、しかもビジネスとして(つまりはより効率よくおカネ儲けにつながる商売として)、アピールできるのかどうかということです。
前回ご紹介した2月25日付けの週刊ダイヤモンドの特集「司法エリートの没落」では、弁護士ドットコムやアディーレのトップを、まさにビジネス感覚で弁護士業界に新たな地平を切り拓こうとしているパイオニアのような扱いでスポットを当てています(「『司法エリート没落』記事の限界」)。記事は、こう言います。
「彼ら風雲児に共通するのは、世間のニーズがどこにあり、どうすればそのニーズを満たすことができるのか、という野心的な常識破りのマーケッテイング思考を持っていることだ」
とりわけ、登場する三人の弁護士のうち、特に興味深い発言をしているのは、アディーレの代表である石丸幸人弁護士です。彼は自らは「マーケッター」であるとし、事業をやりたくて、弁護士界を「有望なマーケット」みて、この世界にきた。ただ、彼は言います。
「僕はマーケッターですから、市場が有望でなくなったら、次の市場に移ります。注目はやはり医療。弁護士業界はしょせん5000億~6000億市場ですけど、医療は年間70兆円ですからね。それで北里大学の医学部に通っているんですよ。純粋に医者になります」
このあと彼は、そのこととアディーレとのシナジーについての問いかけを「ない」と笑い飛ばしています。彼らが確かに弁護士として先駆的なビジネスモデルに果敢に挑戦している「先駆者」であり、成功者であったとしても、そこに必ずしも後進がこの世界を目指し、あとに続くようなモデルが提示されたとはいえません。しかも、マーケッターを自認する「先駆者」の一人は、既にこの世界をビジネスの「妙味」としては見切っているような発言をしています。彼の発言は、そもそもこの企画にふさわしかったのか、疑いたくなるくらい弁護士や業界の未来からは、もはやはずれているのです。
弁護士という仕事は、ここに登場した弁護士たちのように、もともとが「ビジネス」の発想をもったものこそが集まる世界になっていく、とみるべきなのでしょうか。しかし、「先駆者」である彼らも、また、「ビジネス」の成功者として、後進が続きたくなるような、そして、他のビジネスのなかで弁護士を選択したくなるような、材料を与えている存在にもみえません。
そして、もっといってしまえば、弁護士の志望者たちは、必ずしも彼らのような発想の持ち主ではないだけでなく、依然、本音では彼らのようにならずともやれる弁護士スタイルを求めているかもしれません。志望者たちの中には、資格さえとれば、なんだかんだいっても、かつてのような自分のなかのイメージとしてある、独立系自由業として魅力のある存在になれるはず、と信じている人たちもいるようにみえます。かつてのこの資格の安定性に比する、この仕事の魅力は、今後、どこに見出せるのでしょうか。
新しい時代に必要にされる弁護士になれない人間は、この世界に来なくていい、という声も聞こえてきそうです。しかし、「こういう弁護士ならばやっていけます」「いまやこういう発想でないと弁護士にはなれません」というアピールで期待できるのは、そこにビジネスチャンスを見出す新人の獲得よりも、現実的には、こういう世界にはやたらにこない方がいいという戒め効果の方です。それももはや、実害を考えれば、成功者による「生存バイアス」のようなもので魅力が語られるよりは、ずっと健全であるようにも思います。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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以前も書いたように「サービス業」という言い方も、弁護士は「覚悟」としていまや極一般的に使うようになっています(「『サービス業』という決意と覚悟」)。同じ意味合いで使われているようにもみえますが、こちらがジャンル分けとしての言い方であるとすれば、「ビジネス」にはもっとアグレッシブなものが込められているようにもとれます。この言葉が強調されるとき、おカネ儲けや採算性の追求というテーマに対して抵抗感を引きずる弁護士の業態に対して、より批判的に、新しい覚悟を求められてきた、ともいえます。
そして、「弁護士が何でビジネスではいけないの?」という、初めから旧来の弁護士とは違う発想の、その意味では過去と隔絶した人材もまた、弁護士の世界にやってきていることも事実です。
しかし、もし「ビジネス」という言葉が、弁護士としてやっていくために必要な「覚悟」として発信されているだけなのであれば、実はこれからこの世界に来ようとする人間にアピールする効果は、実は限定的なものではないか、と思います。つまり、「ビジネス」というのであれば、弁護士が「ビジネス」として、どれだけ魅力的なものであるかが語られなければ、そもそも弁護士という仕事が選択されるとはならない。少なくとも前記のようなアピールでは、積極的な選択の材料にはならない、ということです。
「ビジネス」として、新規参入、しかも未経験者が参入したくなる条件を考えれば、当然、採算性の効率、需要への見通し、安定性を担保する一応のモデル、そして、肝心のそれを自らのものにできる道筋が、より見えていることが当然プラス評価の材料になります。しかも、弁護士の場合、新法曹養成制度による法科大学院というプロセスの強制化によって、時間的経済的な先行投資を強いられているというマイナス条件が加味されています。
給費制や志望者減問題とも絡めて書きましたが、要は弁護士として「やれるか」「やれないか」ではなく、積極的な妙味が、しかもビジネスとして(つまりはより効率よくおカネ儲けにつながる商売として)、アピールできるのかどうかということです。
前回ご紹介した2月25日付けの週刊ダイヤモンドの特集「司法エリートの没落」では、弁護士ドットコムやアディーレのトップを、まさにビジネス感覚で弁護士業界に新たな地平を切り拓こうとしているパイオニアのような扱いでスポットを当てています(「『司法エリート没落』記事の限界」)。記事は、こう言います。
「彼ら風雲児に共通するのは、世間のニーズがどこにあり、どうすればそのニーズを満たすことができるのか、という野心的な常識破りのマーケッテイング思考を持っていることだ」
とりわけ、登場する三人の弁護士のうち、特に興味深い発言をしているのは、アディーレの代表である石丸幸人弁護士です。彼は自らは「マーケッター」であるとし、事業をやりたくて、弁護士界を「有望なマーケット」みて、この世界にきた。ただ、彼は言います。
「僕はマーケッターですから、市場が有望でなくなったら、次の市場に移ります。注目はやはり医療。弁護士業界はしょせん5000億~6000億市場ですけど、医療は年間70兆円ですからね。それで北里大学の医学部に通っているんですよ。純粋に医者になります」
このあと彼は、そのこととアディーレとのシナジーについての問いかけを「ない」と笑い飛ばしています。彼らが確かに弁護士として先駆的なビジネスモデルに果敢に挑戦している「先駆者」であり、成功者であったとしても、そこに必ずしも後進がこの世界を目指し、あとに続くようなモデルが提示されたとはいえません。しかも、マーケッターを自認する「先駆者」の一人は、既にこの世界をビジネスの「妙味」としては見切っているような発言をしています。彼の発言は、そもそもこの企画にふさわしかったのか、疑いたくなるくらい弁護士や業界の未来からは、もはやはずれているのです。
弁護士という仕事は、ここに登場した弁護士たちのように、もともとが「ビジネス」の発想をもったものこそが集まる世界になっていく、とみるべきなのでしょうか。しかし、「先駆者」である彼らも、また、「ビジネス」の成功者として、後進が続きたくなるような、そして、他のビジネスのなかで弁護士を選択したくなるような、材料を与えている存在にもみえません。
そして、もっといってしまえば、弁護士の志望者たちは、必ずしも彼らのような発想の持ち主ではないだけでなく、依然、本音では彼らのようにならずともやれる弁護士スタイルを求めているかもしれません。志望者たちの中には、資格さえとれば、なんだかんだいっても、かつてのような自分のなかのイメージとしてある、独立系自由業として魅力のある存在になれるはず、と信じている人たちもいるようにみえます。かつてのこの資格の安定性に比する、この仕事の魅力は、今後、どこに見出せるのでしょうか。
新しい時代に必要にされる弁護士になれない人間は、この世界に来なくていい、という声も聞こえてきそうです。しかし、「こういう弁護士ならばやっていけます」「いまやこういう発想でないと弁護士にはなれません」というアピールで期待できるのは、そこにビジネスチャンスを見出す新人の獲得よりも、現実的には、こういう世界にはやたらにこない方がいいという戒め効果の方です。それももはや、実害を考えれば、成功者による「生存バイアス」のようなもので魅力が語られるよりは、ずっと健全であるようにも思います。
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