法科大学院制度にしがみつく虚しさ
西南学院大学法科大学院の今年度の入学者が、遂に前年を12人下回る3人にまで落ち込んだことが話題になっています。2004年開校時の実に17分の1です。同大学院の入学者は2007年の63人をピークに下降していましたが、それでもなんとか二桁をキープしていました。受験者数も回復することなく、今年度は41人と開校時の約9分の1でした。18人が合格していますが、8割以上の人が併願している他校に行ったか、進路を変更したということになります。
法科大学院の入学者は、一部に下げ止まりもいわれてはいますが、立命館大学(前年比12人減) 、上智大学(同11人減) など、西南学院大学同様、昨年に比べて10人以上の下げ幅で入学者を減らしているところもあります。
「私たちも一生懸命やっている」という法科大学院関係者の声も聞きますが、非常な虚しさを感じます。教育の質や合格率の向上に、この制度を選択させる「価値」を見出してもらうという努力が、「改革」と制度の位置どりの現実を認めないうえで行われている。そして、大学院の関係者に聞けば、実は彼らの多くもそれを重々分かっている、という現実があるようだからです。
法曹、とりわけ弁護士資格の不人気が解消されない以上、志望者は返ってこない。その不人気を生み出したのが、激増政策による弁護士の過剰状態と経済的な激変、志望者からみれば経済的な妙味の減退。前記激増政策と一体の、法曹量産のための制度として作られた法科大学院が、この現実と運命を共にするのは当然といえば当然のことです。
もはやどうみても、法科大学院は、志望者がこの状態の弁護士になるために、時間的経済的リスクをとって望むプロセスではないのです。教育の質を上げても、仮に合格率が上がっても、志望者にとっての最終目的や希望と合致しない、合致できないプロセスは選択されるでしょうか。
今年の予備試験出願者数が昨年を411人上回る1万3178人と過去最高を更新したという現実は、法曹界の現実が強制プロセスがなければ、より狭き門でも、まだかろうしでこれだけ選択される余地がある、ということを示している、法科大学院制度にとっては皮肉な結果とみるべきです。これを「抜け道」だといって、塞いだところで、本道が選択されるとみるのもまた、非常に虚しいといわなければなりません。彼らを追い詰めるような、本道強制化は、さらに法曹界の人材枯渇を招いて終わるだけです。
「理念は正しい」「教育の質を上げれば選択される」ということを本気でいうのであれば、あるいは経済的時間的負担さえなければ、まだ、法曹にチャレンジしようと考えている彼らのために、強制化を外しても選択されるプロセスを目指すべき、といえます。プロセスを選択制にして、「一発試験」のコースを残せば旧試と変わらない(現実的には選択されない脅威という本音をはらんでいますが)という論理にしがみつくことも、この現実からはもはや法曹の人材確保につながる話では完全になくなっているのです。
奇妙に思えるのは、弁護士会のなかの法科大学院擁護派の方々です。弁護士の状況が改善されない限り、根本的には志望者は返って来ないということ、さらにいえば、法科大学院本道強制化の継続は、さらに弁護士界自身の人材獲得のカセになることを、一番分かっていておかしくない弁護士という立場にありながら、そうした視点がみてとれない。予備試験への視線も含めて、ひたすら大学関係者と同様の制度存続論にしかみえないところです。
有り体にいってしまえば、本道主義にしがみつく法科大学院関係者も、弁護士内擁護派も、結局、「改革」の現実を認められない、見ようとしないだけなのではないか、と思えてきます。法科大学院制度にしてもこの状態で志望者は返ってくる、弁護士増員の結果にしても、弁護士の需要はまだあるとか、経済的にやれないことはないとか、やりがいをアピールすれば魅力を分かってくれるはず、とか。要は「なんとかなる」と考えたいだけ、のようにすらみえてくるのです。
法科大学院は、経営という目を背けられない現実を突き付けられることで、否応なく退場していく、という運命が待っています。どこかで決断しなけばならなくなる大学は、これからも出てくるでしょう。それで収まるべきとこに収まっていくという人もいます。しかし、これらの「改革」の結果を直視できないために費やされた時間、あるいはそのための労力や犠牲は、後年、この国の法曹養成にとって、どういう「価値」があったと評価されることになるのでしょうか。
「予備試験」のあり方をめぐる議論についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/5852
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法科大学院の入学者は、一部に下げ止まりもいわれてはいますが、立命館大学(前年比12人減) 、上智大学(同11人減) など、西南学院大学同様、昨年に比べて10人以上の下げ幅で入学者を減らしているところもあります。
「私たちも一生懸命やっている」という法科大学院関係者の声も聞きますが、非常な虚しさを感じます。教育の質や合格率の向上に、この制度を選択させる「価値」を見出してもらうという努力が、「改革」と制度の位置どりの現実を認めないうえで行われている。そして、大学院の関係者に聞けば、実は彼らの多くもそれを重々分かっている、という現実があるようだからです。
法曹、とりわけ弁護士資格の不人気が解消されない以上、志望者は返ってこない。その不人気を生み出したのが、激増政策による弁護士の過剰状態と経済的な激変、志望者からみれば経済的な妙味の減退。前記激増政策と一体の、法曹量産のための制度として作られた法科大学院が、この現実と運命を共にするのは当然といえば当然のことです。
もはやどうみても、法科大学院は、志望者がこの状態の弁護士になるために、時間的経済的リスクをとって望むプロセスではないのです。教育の質を上げても、仮に合格率が上がっても、志望者にとっての最終目的や希望と合致しない、合致できないプロセスは選択されるでしょうか。
今年の予備試験出願者数が昨年を411人上回る1万3178人と過去最高を更新したという現実は、法曹界の現実が強制プロセスがなければ、より狭き門でも、まだかろうしでこれだけ選択される余地がある、ということを示している、法科大学院制度にとっては皮肉な結果とみるべきです。これを「抜け道」だといって、塞いだところで、本道が選択されるとみるのもまた、非常に虚しいといわなければなりません。彼らを追い詰めるような、本道強制化は、さらに法曹界の人材枯渇を招いて終わるだけです。
「理念は正しい」「教育の質を上げれば選択される」ということを本気でいうのであれば、あるいは経済的時間的負担さえなければ、まだ、法曹にチャレンジしようと考えている彼らのために、強制化を外しても選択されるプロセスを目指すべき、といえます。プロセスを選択制にして、「一発試験」のコースを残せば旧試と変わらない(現実的には選択されない脅威という本音をはらんでいますが)という論理にしがみつくことも、この現実からはもはや法曹の人材確保につながる話では完全になくなっているのです。
奇妙に思えるのは、弁護士会のなかの法科大学院擁護派の方々です。弁護士の状況が改善されない限り、根本的には志望者は返って来ないということ、さらにいえば、法科大学院本道強制化の継続は、さらに弁護士界自身の人材獲得のカセになることを、一番分かっていておかしくない弁護士という立場にありながら、そうした視点がみてとれない。予備試験への視線も含めて、ひたすら大学関係者と同様の制度存続論にしかみえないところです。
有り体にいってしまえば、本道主義にしがみつく法科大学院関係者も、弁護士内擁護派も、結局、「改革」の現実を認められない、見ようとしないだけなのではないか、と思えてきます。法科大学院制度にしてもこの状態で志望者は返ってくる、弁護士増員の結果にしても、弁護士の需要はまだあるとか、経済的にやれないことはないとか、やりがいをアピールすれば魅力を分かってくれるはず、とか。要は「なんとかなる」と考えたいだけ、のようにすらみえてくるのです。
法科大学院は、経営という目を背けられない現実を突き付けられることで、否応なく退場していく、という運命が待っています。どこかで決断しなけばならなくなる大学は、これからも出てくるでしょう。それで収まるべきとこに収まっていくという人もいます。しかし、これらの「改革」の結果を直視できないために費やされた時間、あるいはそのための労力や犠牲は、後年、この国の法曹養成にとって、どういう「価値」があったと評価されることになるのでしょうか。
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