弁護士の「生存」と「改革」の価値
いうまでもないことかもしれませんが、「改革」の結果をもろにくらっている現在の弁護士たちが、いかに生存していくか、という問題と、これから弁護士がどうあるべきか、という問題は、残念ながら一致しない、必ずしも同じ解決策が導き出されるとはいえません。
例えば、業界として最も深刻に受けとめられるべき志望者減にしても、現在の経済状態でも、弁護士は生存できるということを既存の弁護士が証明すればよし、と考える人もいるかもしれませんが、それが志望者にとって人生をかけるほどの魅力ある資格になることとは限らないし、また、そうした状態の弁護士そのものが、社会にとって「改革」以前より有り難い存在になった、とも限らない。
そもそも既存の弁護士のなかには、「目的が違う」と言う人がいてもおかしくありません。彼らは正当に生きる権利を主張し、「改革」の結果も受けとめて、それならば業務も生きるために改善し、かつ、日弁連・弁護士会に対して、これまでのようなわけにはいかない、という欲求を強めるているといっていいかもしれません。
しかし、有り体にいえば、こと志望者減については、資格そのものがかつてのような輝きを復活できなければ、かつてのようにはならない。こんなにたくましく生きている弁護士がいます、という発信や、「生存バイアス」的な「成功者」にスポットを当てることで、一定のチャレンジャーを確保できても、それがかつてのような多くの志願者の動機づけになるともいえません。他の進路の選択肢を前に、かつてのように輝いていた資格の安定性が失われていれば、前記発信者側の狙いとは裏腹に、その効果は限定的にならざるを得ないでしょう(「『改革』と弁護士の『リアル』」)。
そして、これそのものが「改革」推進論者がいう、社会に利をもたらす「淘汰」(こういう生存環境に耐えられた弁護士だけが弁護士でいられ、かつ、そうした人材だけがやってくる、それが弁護士の良化につながるという意味で)でないとすれば、つまり、「改革」の想定外の結果(需要が顕在化しないなど)から仕方なく起きている結果に過ぎないとすれば、では「改革」によって弁護士と市民の関係は、一体、どこかどうよくなっているのですか、ということを問わなければならないのです。
弁護士の数の問題は、本来、とてもシンプルな問題のはずでした。つまり、足りなければ増やし、足りていれば増やさないだけ。このことは、今でも弁護士会外の人間には、不思議がられます。弁護士数が過剰だというのならば、増員政策を続けなければいいじゃいか、なぜ、それでも弁護士を年間千数百人増やし続けているのかと。そもそも足りないというならば、検証しながら少しずつ増やしていく、ということも出来たはずなのに、一気に増やすことが選択されたのが、今回の「改革」路線です(「『合格3000人』に突き進ませたもの」)。このこと自体、妥当性が問われていいことですが、現在はさらに、その結果が出ている段階なのです。それでも続いていることが、問われるのは、ある意味、当然といわなければなりません。
先般のエントリー(「『生き残り』策に引きずられない法科大学院中核論」)でも引用した「変貌する法科大学院と弁護士過剰社会」(花伝社)のなかで、著者の森山文昭弁護士は、毎年減っている弁護士数にあわせ、まずは当面、司法試験合格者数を年500人程度に戻すことを提案しています。いったん増加を止め、それで足りなければ、現実の需要に合わせて増員を検討する形に転換すべき、というのです。
彼は増員論の最大の問題は「増員=善」として、増員そのものが自己目的化したことにあり、司法制度改革審議会の議論はその典型としています。そのうえで、こう言います。
「増員すること自体が正しいのだから、その足を引っ張る(と増員論者からは見える)人に対しては、『エゴだ』『ギルドだ』『守旧派だ』と、口をきわめてののしることになる。しかし、必要以上に弁護士が増えることによって国民にどのような迷惑がかかるかを真剣に考えないで、ただ時流に乗って『増員だ』『増員だ』と叫ぶ人の方が、よほどエゴではないかと私は思う」
前記生存のために、現実を受け入れて道を模索している弁護士たちの多くも本音では多分、この森山弁護士の意見に同意すると思います。この提案が実現されれば、冒頭の二つの問題を解決する、あるいは唯一の解になるかもしれません。ただ、そんなことはもはや言っていられない、簡単には現状は変わらないし、もたない、という本音もあるようにみえます。既に存在している法科大学院の存在、そして、依然として、森山弁護士のいうような視点で「改革」路線を見直そうとせず、増員基調を認めている日弁連の現実は、よりそれを踏まえた方向に弁護士を進ませているのです。
しかし、これは全体として、市民にとっても志望者にとっても、有り難い方向に進んでいる話なのでしょうか。「改革」によって、どこがどうよくなったのか、よくなろうとしているのか、という、その「価値」について、やはり今、私たちはこだわるべきです。
弁護士の経済的窮状の現実についてご意見、情報をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4818
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例えば、業界として最も深刻に受けとめられるべき志望者減にしても、現在の経済状態でも、弁護士は生存できるということを既存の弁護士が証明すればよし、と考える人もいるかもしれませんが、それが志望者にとって人生をかけるほどの魅力ある資格になることとは限らないし、また、そうした状態の弁護士そのものが、社会にとって「改革」以前より有り難い存在になった、とも限らない。
そもそも既存の弁護士のなかには、「目的が違う」と言う人がいてもおかしくありません。彼らは正当に生きる権利を主張し、「改革」の結果も受けとめて、それならば業務も生きるために改善し、かつ、日弁連・弁護士会に対して、これまでのようなわけにはいかない、という欲求を強めるているといっていいかもしれません。
しかし、有り体にいえば、こと志望者減については、資格そのものがかつてのような輝きを復活できなければ、かつてのようにはならない。こんなにたくましく生きている弁護士がいます、という発信や、「生存バイアス」的な「成功者」にスポットを当てることで、一定のチャレンジャーを確保できても、それがかつてのような多くの志願者の動機づけになるともいえません。他の進路の選択肢を前に、かつてのように輝いていた資格の安定性が失われていれば、前記発信者側の狙いとは裏腹に、その効果は限定的にならざるを得ないでしょう(「『改革』と弁護士の『リアル』」)。
そして、これそのものが「改革」推進論者がいう、社会に利をもたらす「淘汰」(こういう生存環境に耐えられた弁護士だけが弁護士でいられ、かつ、そうした人材だけがやってくる、それが弁護士の良化につながるという意味で)でないとすれば、つまり、「改革」の想定外の結果(需要が顕在化しないなど)から仕方なく起きている結果に過ぎないとすれば、では「改革」によって弁護士と市民の関係は、一体、どこかどうよくなっているのですか、ということを問わなければならないのです。
弁護士の数の問題は、本来、とてもシンプルな問題のはずでした。つまり、足りなければ増やし、足りていれば増やさないだけ。このことは、今でも弁護士会外の人間には、不思議がられます。弁護士数が過剰だというのならば、増員政策を続けなければいいじゃいか、なぜ、それでも弁護士を年間千数百人増やし続けているのかと。そもそも足りないというならば、検証しながら少しずつ増やしていく、ということも出来たはずなのに、一気に増やすことが選択されたのが、今回の「改革」路線です(「『合格3000人』に突き進ませたもの」)。このこと自体、妥当性が問われていいことですが、現在はさらに、その結果が出ている段階なのです。それでも続いていることが、問われるのは、ある意味、当然といわなければなりません。
先般のエントリー(「『生き残り』策に引きずられない法科大学院中核論」)でも引用した「変貌する法科大学院と弁護士過剰社会」(花伝社)のなかで、著者の森山文昭弁護士は、毎年減っている弁護士数にあわせ、まずは当面、司法試験合格者数を年500人程度に戻すことを提案しています。いったん増加を止め、それで足りなければ、現実の需要に合わせて増員を検討する形に転換すべき、というのです。
彼は増員論の最大の問題は「増員=善」として、増員そのものが自己目的化したことにあり、司法制度改革審議会の議論はその典型としています。そのうえで、こう言います。
「増員すること自体が正しいのだから、その足を引っ張る(と増員論者からは見える)人に対しては、『エゴだ』『ギルドだ』『守旧派だ』と、口をきわめてののしることになる。しかし、必要以上に弁護士が増えることによって国民にどのような迷惑がかかるかを真剣に考えないで、ただ時流に乗って『増員だ』『増員だ』と叫ぶ人の方が、よほどエゴではないかと私は思う」
前記生存のために、現実を受け入れて道を模索している弁護士たちの多くも本音では多分、この森山弁護士の意見に同意すると思います。この提案が実現されれば、冒頭の二つの問題を解決する、あるいは唯一の解になるかもしれません。ただ、そんなことはもはや言っていられない、簡単には現状は変わらないし、もたない、という本音もあるようにみえます。既に存在している法科大学院の存在、そして、依然として、森山弁護士のいうような視点で「改革」路線を見直そうとせず、増員基調を認めている日弁連の現実は、よりそれを踏まえた方向に弁護士を進ませているのです。
しかし、これは全体として、市民にとっても志望者にとっても、有り難い方向に進んでいる話なのでしょうか。「改革」によって、どこがどうよくなったのか、よくなろうとしているのか、という、その「価値」について、やはり今、私たちはこだわるべきです。
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