ぼやけた弁護士「足りない論」
弁護士の増員必要論には、なぜかずっと、もやっとした不足論がつきまとってきたという印象があります。「就職ができないほど過剰ならば、なぜ増やすのか」と弁護士界外の人間から尋ねられる度に、本来、そのかっちりした解になるはずの「足りない論」の不透明感に改めて気付かされもしてきました。
例えば、当初、官側が強調し、弁護士会内でもいわれた、弁護士偏在解消のための増員必要論にしても、偏在の根本原因は地方の需要であり、需要がないところに弁護士がいないだけ、ということは、会内でつとにいわれてきました。偏在が存在していても、増やせば自然に人がそこに流れて解消するということではなく、また、それを支えるのは有志の精神だと多くの同業者は分かっていた。つまり、その解消が必要であっても、「足りない論」から導かれるものではない、ということが容易に導かれていたのです。
また、耳にタコができるほど聞かされてきた諸外国に比べて、日本の弁護士が少ないということも、各国で司法が現実にどのように機能し、国民がそれをどうとらえてきたか、ということ抜きに比べることへの疑問も加え、日本で法的ニーズの受け皿となる隣接士業の存在を加味しないような分析に、すぐさま疑問の声が上がってしまい、「足りない論」の根拠をぐらつかせることになります。
局所的な「足りない論」も、ずっと言われています。企業、国際分野、自治体でニーズに応える人材、刑事弁護、離婚、あるいは交通事故案件といった弁護士の取扱案件ごとに「まだまだ」と強調する「足りない論」がいわれてきました。ただ、常にそれがどの程度の不足なのかはぼやけていて、そもそも母数を大幅に増やさなければならないことなのか、という疑問が消えません。
そもそも母数を増やさなければ増えない、というのは、実は弁護士の増員には、不思議なくらいつきまとってきた発想といえます。企業系の弁護士のなかにも、人権派のなかにも、そういう形で自らが求める人材獲得を、全体の増員と結び付る人たちがいましたし、前記偏在解消が有志の精神で支えることが分かっている人のなかにも、そういう発想の人がいました。
しかし、これは見方によっては、消極的アプローチといっていいくらい、非効率で不確実な方法であり、かつ、母数をどうやって支えるのか、支える必要がないという前提に立つのか、といった疑問がすぐさま浮上するものです。これの発想が非効率であり、また、全体を持ちこたえられないために問題か発生するということは、当初の増員政策の破綻が明らかになったときに、弁護士会内を含め、推進派がこぞってミスマッチ論を強調した時点で、もはや分かったはず、といっていいもののように思えます。要は、求められたのは「足りない」の前に、どうマッチングするかで、さらにそうだとすれば、必要なのは激増なのか、ということになるのです(「決別すべき『弁護士不足』論の発想」)。
弁護士会のなかの増員反対・慎重派のなかでも、当初、完全な増員不要論者の方が少なかったといっていいかもしれません。なぜ、ここまでの激増が必要なのか、なぜ、増員ありきで、少しずつ影響を検証しながら、必要ならば増やすという方策がとれないのか、という意見の人は多かった。初めから「足りない」論に立った全体の激増ではなく、マッチングを考えながら増員の程度を考えていくという発想ならば、ここまで増員をめぐる会内の対立的世論状況は生まれなかったかもしれません。
「足りない論」は、厳密にいえば、「足りなくなる論」としても言われました。不足する未来を描く推論のもとに、いわば準備しなければ大変なことになるという話です。しかし、これも結果からすれば、なぜ、それに多くの弁護士が乗っかってしまったのか、と疑問に思うほど、中身は漠としています。「事後救済社会の到来」「二割司法」といった司法改革ワードは、弁護士が必要とされる、あるいは、必要とされるべき未来を連想させましたが、いまやそれは何だったのか、という疑問が呈されています。
さらに、弁護士界にあっては、「法曹一元」という悲願が「足りなくなる論」に被せられたことも指摘しておかなければなりません。「改革」が悲願実現の千載一遇のチャンスととらえた方々のなかには、本気で弁護士が裁判官の給源になる未来のために、増員は不可避と考えた人もいたのです。これまた、いまやあれは何だったのかといわれるほど、もはや「法曹一元」そのものが夢のように消えてしまっているのです(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。
弁護士増員政策は、当初、国家も政治家も経済界も、「足りない論」に乗っかって、こぞって推進した、ととらえられています。ただ、一方で、国家も政治家も経済界も、本質的には弁護士が増えることを手放しには歓迎していない、ということがずっといわれてきました。つまり、法的に理論武装した弁護士たちという存在は、時に政策や制度構築を目指す国家と政治家には疎ましく、また、消費者側に立って企業を訴える弁護士たちの登場と濫訴社会の到来は、経済界にとっては悪夢なのだ、と。
では、なぜ、ということになれば、一つの推測が成り立ちます。つまり、彼らは、この「改革」の増員政策の先に、そうした不都合な未来が到来しないことを見切っていた、見切っていたからこそ推進派に回ったということです。経済的に追い詰められることになる弁護士たちは、もはや自らの生活でいっぱいになり、反権力対国家のエネルギーを失い、また、単に弁護士を増やしただけでは、経済界を脅かすような濫訴社会など、この国には到来しない、と。
もちろん経済界は、前記したような母数論に立ったとしても、関心はあくまでマッチングの方であり、必要な人材を必要なだけ確保できることが目的ですから、その目的が達成できるのであれば、ハナからそれ以外に関心はなく、無論、責任を負うつもりもありません。
ただ、それにとどまらず、国家も政治家も経済界も、前記した自分たちに不都合な形ではなく、むしろ、都合のいい形に弁護士そのものを変えられる未来を、この政策の先に読みとったのではなかったのか、ということを考えてしまうのです。根拠がぼやけている弁護士「足りない論」の向こうには、そうした思惑までが薄らと浮かんでくるのです。
弁護士の数が今月4万人を突破したことが報じられています(毎日新聞1月26日付け) 。ぼやとした「足りない論」を引きずりながら、弁護士の激増政策は依然続いています。
地方の弁護士の経済的ニーズについてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
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例えば、当初、官側が強調し、弁護士会内でもいわれた、弁護士偏在解消のための増員必要論にしても、偏在の根本原因は地方の需要であり、需要がないところに弁護士がいないだけ、ということは、会内でつとにいわれてきました。偏在が存在していても、増やせば自然に人がそこに流れて解消するということではなく、また、それを支えるのは有志の精神だと多くの同業者は分かっていた。つまり、その解消が必要であっても、「足りない論」から導かれるものではない、ということが容易に導かれていたのです。
また、耳にタコができるほど聞かされてきた諸外国に比べて、日本の弁護士が少ないということも、各国で司法が現実にどのように機能し、国民がそれをどうとらえてきたか、ということ抜きに比べることへの疑問も加え、日本で法的ニーズの受け皿となる隣接士業の存在を加味しないような分析に、すぐさま疑問の声が上がってしまい、「足りない論」の根拠をぐらつかせることになります。
局所的な「足りない論」も、ずっと言われています。企業、国際分野、自治体でニーズに応える人材、刑事弁護、離婚、あるいは交通事故案件といった弁護士の取扱案件ごとに「まだまだ」と強調する「足りない論」がいわれてきました。ただ、常にそれがどの程度の不足なのかはぼやけていて、そもそも母数を大幅に増やさなければならないことなのか、という疑問が消えません。
そもそも母数を増やさなければ増えない、というのは、実は弁護士の増員には、不思議なくらいつきまとってきた発想といえます。企業系の弁護士のなかにも、人権派のなかにも、そういう形で自らが求める人材獲得を、全体の増員と結び付る人たちがいましたし、前記偏在解消が有志の精神で支えることが分かっている人のなかにも、そういう発想の人がいました。
しかし、これは見方によっては、消極的アプローチといっていいくらい、非効率で不確実な方法であり、かつ、母数をどうやって支えるのか、支える必要がないという前提に立つのか、といった疑問がすぐさま浮上するものです。これの発想が非効率であり、また、全体を持ちこたえられないために問題か発生するということは、当初の増員政策の破綻が明らかになったときに、弁護士会内を含め、推進派がこぞってミスマッチ論を強調した時点で、もはや分かったはず、といっていいもののように思えます。要は、求められたのは「足りない」の前に、どうマッチングするかで、さらにそうだとすれば、必要なのは激増なのか、ということになるのです(「決別すべき『弁護士不足』論の発想」)。
弁護士会のなかの増員反対・慎重派のなかでも、当初、完全な増員不要論者の方が少なかったといっていいかもしれません。なぜ、ここまでの激増が必要なのか、なぜ、増員ありきで、少しずつ影響を検証しながら、必要ならば増やすという方策がとれないのか、という意見の人は多かった。初めから「足りない」論に立った全体の激増ではなく、マッチングを考えながら増員の程度を考えていくという発想ならば、ここまで増員をめぐる会内の対立的世論状況は生まれなかったかもしれません。
「足りない論」は、厳密にいえば、「足りなくなる論」としても言われました。不足する未来を描く推論のもとに、いわば準備しなければ大変なことになるという話です。しかし、これも結果からすれば、なぜ、それに多くの弁護士が乗っかってしまったのか、と疑問に思うほど、中身は漠としています。「事後救済社会の到来」「二割司法」といった司法改革ワードは、弁護士が必要とされる、あるいは、必要とされるべき未来を連想させましたが、いまやそれは何だったのか、という疑問が呈されています。
さらに、弁護士界にあっては、「法曹一元」という悲願が「足りなくなる論」に被せられたことも指摘しておかなければなりません。「改革」が悲願実現の千載一遇のチャンスととらえた方々のなかには、本気で弁護士が裁判官の給源になる未来のために、増員は不可避と考えた人もいたのです。これまた、いまやあれは何だったのかといわれるほど、もはや「法曹一元」そのものが夢のように消えてしまっているのです(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。
弁護士増員政策は、当初、国家も政治家も経済界も、「足りない論」に乗っかって、こぞって推進した、ととらえられています。ただ、一方で、国家も政治家も経済界も、本質的には弁護士が増えることを手放しには歓迎していない、ということがずっといわれてきました。つまり、法的に理論武装した弁護士たちという存在は、時に政策や制度構築を目指す国家と政治家には疎ましく、また、消費者側に立って企業を訴える弁護士たちの登場と濫訴社会の到来は、経済界にとっては悪夢なのだ、と。
では、なぜ、ということになれば、一つの推測が成り立ちます。つまり、彼らは、この「改革」の増員政策の先に、そうした不都合な未来が到来しないことを見切っていた、見切っていたからこそ推進派に回ったということです。経済的に追い詰められることになる弁護士たちは、もはや自らの生活でいっぱいになり、反権力対国家のエネルギーを失い、また、単に弁護士を増やしただけでは、経済界を脅かすような濫訴社会など、この国には到来しない、と。
もちろん経済界は、前記したような母数論に立ったとしても、関心はあくまでマッチングの方であり、必要な人材を必要なだけ確保できることが目的ですから、その目的が達成できるのであれば、ハナからそれ以外に関心はなく、無論、責任を負うつもりもありません。
ただ、それにとどまらず、国家も政治家も経済界も、前記した自分たちに不都合な形ではなく、むしろ、都合のいい形に弁護士そのものを変えられる未来を、この政策の先に読みとったのではなかったのか、ということを考えてしまうのです。根拠がぼやけている弁護士「足りない論」の向こうには、そうした思惑までが薄らと浮かんでくるのです。
弁護士の数が今月4万人を突破したことが報じられています(毎日新聞1月26日付け) 。ぼやとした「足りない論」を引きずりながら、弁護士の激増政策は依然続いています。
地方の弁護士の経済的ニーズについてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
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