期待と失望を生んだ「改革」の実相
法曹志望者の減少という現実は、弁護士資格あるいは司法試験という制度が、いかに志望者にとって期待値(期待度)が高い存在であり、いかに「改革」の結果がそれを裏切ったのかを物語っているといえます。医師と並ぶ、経済的安定度と社会的ステータスを誇ってきた資格制度、それを一発逆転のごとく取得できる試験制度。たとえそれがこの国で最難関とされる試験であったとしても、それは人生を賭けるだけの、やりがいと魅力を感じさせるものであって当然です。
そして、「改革」の結果は、増員政策の失敗によって弁護士の経済的価値を下落させ、その意味での社会的ステータスから引きずりおろした。その一方で、司法試験は修了を受験要件化した法科大学院は、これまで以上に、あらかじめ時間と経済的投資が必要になった制度に見合う「価値」を提供できなかった。
この「改革」を推進した人々は、今、どうかといえば、前者については、依然として増員政策の先に未来があるように言う人たち、弁護士の未来は関係なく増員政策は必要と言い続けている人たちがいたり、また弁護士会からは、その期待値だけをなんとか引き上げよ、とばかり、夢や希望を語れという人たちがいます。
そして、後者についていえば、前記資格の現実と、かつての魅力ある時代には最難関であっても多くの人材がチャレンジしていた試験制度であったこと、さらに制度そのものが合格できる人材を輩出できていないことを度外視し、試験を受かりやすくせよとか、取得までの時短政策で志望者が回復するとか、はたまた「抜け道」である予備試験をなんとかせよ、とか。
要するに、旗を振った側は、問題を極力矮小化してとらえ、期待を失望に変えた「改革」の結果を直視しない姿勢を示しているのが現実といわなければなりません。
しかし、そもそもこの「改革」のさらなる罪深さは、この実行にあたって、志望者の期待を大いに煽ったところにあります。もちろん、「改革」と名のつくものは、どれもそのメリットを強調し、それこそ民主主義社会であれば、いかに国民の期待に応えるものであるかをその必要性、正当性の証しのように唱え、否が応でも大衆の期待を煽るものになるといえるかもしれません。
しかし、この「改革」にあっては、メッキがはがれるのが早過ぎる。つまり、結果がお粗末過ぎた。既にこういう結果を見通していた人たちの異論を拝し、推し進めようとする人たちと、なんとかなるだろうという人たちの甘い見透しの結果としかいようがない現実です。それを認めずに、期待した方に「信じた方が悪い」という声をぶつけるのは、いかがなものでしょうか。
その彼らは、何をどう煽ったのでしょうか。弁護士資格について、「改革」推進者の中で、資格価値を下落させるまでの経済的窮状を予測していた人はいませんでした。有償・無償をごちゃまぜにして語られた潜在ニーズ論、「二割司法」に象徴されるような、極端な潜在性の強調で、増員後にも弁護士の経済的地位が確保される未来を、推進者は連想させました。そして、「バイブル」となった司法審意見書は、さらに弁護士が必要となる未来を描き込みました。経済的ステータスは維持、もしくはさらに向上する未来を連想させてといってもおかしくありません。今でも完全には消えていない、この国で長く定着してきた資格イメージからすれば、それに一時で煽られた側、信じた側の責任をいうのは、筋違いというべきです。
法科大学院を中核とする新法曹養成にあってはどうだったかといえば、まず、「受かりやすい」というイメージを広げる形になりました。有名な修了者の「7、8割合格」という「改革」の謳い文句。あまりにかけ離れた合格率で、その上げ過ぎたハードルの高さが判明すると、推進者側が即座に「目安」云々といった弁明に追われた代物です。数字上の合格率は旧試より受かりやすくなっているといっても、煽った数字には到底見合わない。導入のための宣伝文句が裏目に出ている。
一方で、司法審意見書に沿って、教育的「価値」も強調され、あたかも旧試体制が欠陥制度で、次代を背負う法曹には新プロセスが必要不可欠というイメージが作られ、流された。しかし結果として、それでも合格率の低迷が続き、かつ、それでも先行投資するだけの実質的「価値」を新プロセスに見出せない人材が予備試験に流れたのです。それに対して、今、「価値」を示せない、失望を生んだ側が、失望した側の心得違いをなじり、その流れを力づくでせき止め、本道に向かわせよ、と言っている――。
志望者の減少は、「改革」が下落させた期待値の表れであり、「改革」に対する失望の大きさそのものを示しているといわなければなりません。そしてそこには「改革」を推進するために、結果として期待感を煽り、被害を拡大させ、「資格商法」などと揶揄する声が出るほど、失望の傷口を広げた「改革」路線の手法があったというべきです。
しかし、思えばこれは、法曹志望者にとっての「改革」だけではありません。増員によって弁護士が利用しやすくなる未来。競争・淘汰によって弁護士が良質化・低額化するという未来。経済界の一部の欲求を実現できたとしても、社会全体で利用しやすさは実感できず、人的な過疎よりも、都市部を含め広がりを持ってとらえるべき、経済的理由による司法過疎は解消されない。もちろん、その期待の要になるような、増員による低額化は、そもそも簡単に実現できないことを少なくとも業界人は、はじめから分かっていたのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
気が付けば、弁護士だけが過剰に増え、裁判官と検察官はさほど増えない「改革」。一部の人間の期待にこたえたかもしれないが、煽った期待が結局パンドラの箱を開ける形になり、「改革」によって生きにくくなった弁護士を苦しめる結果になっています(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」)。
志望者に対して、この「結果は想像できただろ」という声がありますが(「若手『自己責任論』が覆い隠すもの」)、ある意味、それと同じ響きをもって「この改革は国民が選択したものだ」ということが時々いわれます。自己責任論、自業自得論で、失望した側に責任を転嫁するものとしかいいようがありません。しかし、逆に推進者の責任が問われない、この「改革」の土壌であればこそ、こうした発言が生まれるし、また、いつまでたっても彼らが裏切りの結果と、失望の原因を直視しないまま、路線が続けられるのだ、ということを思わざるを得ません。
「予備試験」のあり方をめぐる議論についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/5852
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そして、「改革」の結果は、増員政策の失敗によって弁護士の経済的価値を下落させ、その意味での社会的ステータスから引きずりおろした。その一方で、司法試験は修了を受験要件化した法科大学院は、これまで以上に、あらかじめ時間と経済的投資が必要になった制度に見合う「価値」を提供できなかった。
この「改革」を推進した人々は、今、どうかといえば、前者については、依然として増員政策の先に未来があるように言う人たち、弁護士の未来は関係なく増員政策は必要と言い続けている人たちがいたり、また弁護士会からは、その期待値だけをなんとか引き上げよ、とばかり、夢や希望を語れという人たちがいます。
そして、後者についていえば、前記資格の現実と、かつての魅力ある時代には最難関であっても多くの人材がチャレンジしていた試験制度であったこと、さらに制度そのものが合格できる人材を輩出できていないことを度外視し、試験を受かりやすくせよとか、取得までの時短政策で志望者が回復するとか、はたまた「抜け道」である予備試験をなんとかせよ、とか。
要するに、旗を振った側は、問題を極力矮小化してとらえ、期待を失望に変えた「改革」の結果を直視しない姿勢を示しているのが現実といわなければなりません。
しかし、そもそもこの「改革」のさらなる罪深さは、この実行にあたって、志望者の期待を大いに煽ったところにあります。もちろん、「改革」と名のつくものは、どれもそのメリットを強調し、それこそ民主主義社会であれば、いかに国民の期待に応えるものであるかをその必要性、正当性の証しのように唱え、否が応でも大衆の期待を煽るものになるといえるかもしれません。
しかし、この「改革」にあっては、メッキがはがれるのが早過ぎる。つまり、結果がお粗末過ぎた。既にこういう結果を見通していた人たちの異論を拝し、推し進めようとする人たちと、なんとかなるだろうという人たちの甘い見透しの結果としかいようがない現実です。それを認めずに、期待した方に「信じた方が悪い」という声をぶつけるのは、いかがなものでしょうか。
その彼らは、何をどう煽ったのでしょうか。弁護士資格について、「改革」推進者の中で、資格価値を下落させるまでの経済的窮状を予測していた人はいませんでした。有償・無償をごちゃまぜにして語られた潜在ニーズ論、「二割司法」に象徴されるような、極端な潜在性の強調で、増員後にも弁護士の経済的地位が確保される未来を、推進者は連想させました。そして、「バイブル」となった司法審意見書は、さらに弁護士が必要となる未来を描き込みました。経済的ステータスは維持、もしくはさらに向上する未来を連想させてといってもおかしくありません。今でも完全には消えていない、この国で長く定着してきた資格イメージからすれば、それに一時で煽られた側、信じた側の責任をいうのは、筋違いというべきです。
法科大学院を中核とする新法曹養成にあってはどうだったかといえば、まず、「受かりやすい」というイメージを広げる形になりました。有名な修了者の「7、8割合格」という「改革」の謳い文句。あまりにかけ離れた合格率で、その上げ過ぎたハードルの高さが判明すると、推進者側が即座に「目安」云々といった弁明に追われた代物です。数字上の合格率は旧試より受かりやすくなっているといっても、煽った数字には到底見合わない。導入のための宣伝文句が裏目に出ている。
一方で、司法審意見書に沿って、教育的「価値」も強調され、あたかも旧試体制が欠陥制度で、次代を背負う法曹には新プロセスが必要不可欠というイメージが作られ、流された。しかし結果として、それでも合格率の低迷が続き、かつ、それでも先行投資するだけの実質的「価値」を新プロセスに見出せない人材が予備試験に流れたのです。それに対して、今、「価値」を示せない、失望を生んだ側が、失望した側の心得違いをなじり、その流れを力づくでせき止め、本道に向かわせよ、と言っている――。
志望者の減少は、「改革」が下落させた期待値の表れであり、「改革」に対する失望の大きさそのものを示しているといわなければなりません。そしてそこには「改革」を推進するために、結果として期待感を煽り、被害を拡大させ、「資格商法」などと揶揄する声が出るほど、失望の傷口を広げた「改革」路線の手法があったというべきです。
しかし、思えばこれは、法曹志望者にとっての「改革」だけではありません。増員によって弁護士が利用しやすくなる未来。競争・淘汰によって弁護士が良質化・低額化するという未来。経済界の一部の欲求を実現できたとしても、社会全体で利用しやすさは実感できず、人的な過疎よりも、都市部を含め広がりを持ってとらえるべき、経済的理由による司法過疎は解消されない。もちろん、その期待の要になるような、増員による低額化は、そもそも簡単に実現できないことを少なくとも業界人は、はじめから分かっていたのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
気が付けば、弁護士だけが過剰に増え、裁判官と検察官はさほど増えない「改革」。一部の人間の期待にこたえたかもしれないが、煽った期待が結局パンドラの箱を開ける形になり、「改革」によって生きにくくなった弁護士を苦しめる結果になっています(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」)。
志望者に対して、この「結果は想像できただろ」という声がありますが(「若手『自己責任論』が覆い隠すもの」)、ある意味、それと同じ響きをもって「この改革は国民が選択したものだ」ということが時々いわれます。自己責任論、自業自得論で、失望した側に責任を転嫁するものとしかいいようがありません。しかし、逆に推進者の責任が問われない、この「改革」の土壌であればこそ、こうした発言が生まれるし、また、いつまでたっても彼らが裏切りの結果と、失望の原因を直視しないまま、路線が続けられるのだ、ということを思わざるを得ません。
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