「公益活動」への弁護士の目線と意識
弁護士の公益活動(いわゆるプロボノ)を義務化し、一定の基準を達成できなかった場合、「負担金」「分担金」といわれる、事実上の「罰金」を課す方向が日本の弁護士会に登場してから、既に15年以上が経過していますが、その是非について、会内には様々な受けとめ方かあるようです。
こうした形での強制化そのものの妥当性、効果への疑問についての声は、依然会内に根強くあります(及川智志弁護士のツイート)。そして、これを弁護士の「ボランティア」とする位置付けも、弁護士業務の現在の状況のなかで、さまざまな形にとらえられることになっているようにみえます。
以前も書きましたが、そもそもこの弁護士の無償の公益活動を義務化し、自発性を否定した「罰金」による強制化策がとられた時点で、これは本質的な意味において、「ボランティア」の定義からは外れます。弁護士業務の実態に即していえば、これらの活動は、いわゆる「ボランティア」活動ではなく、弁護士の本来的な業務であり、ただ、無償性の高い(無償性を期待されてきた)業務と、当然に有償な業務がある、とみることができるのです(「弁護士とボランティアの厄介な関係」)。
逆に言うと、弁護士業務について、これを「ボランティア」と位置付けることは、弁護士の本来業務とされてきたもののうち、無償もしくは無償性の高いもの、それを期待されているもの、弁護士会活動や、従来「手弁当」でやってきたとされるような採算性がとられない活動は、すべて「ボランティア」活動と位置付ける発想になります。
これは、弁護士の業務は有償が原則であるという意味をはっきりさせるうえでは、分かりやすい面があり、また、いまやそう理解している会員も多いようにみえます。ただ、こうした発想が弁護士会で強まった背景には、やはり司法改革があります。
司法制度改革審議会の最終意見書は、弁護士について「通常の職務活動を超え、『公共性の空間』において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである」「公益活動を弁護士の義務として位置付けるべきである」としました。弁護士の使命に基づき、それまでも実践してきた弁護士・会の本来業務について、ここでは公益性への自覚の問題という視点で取り上げられ、それを、あたかも弁護士の「新使命」として再定義した。そして、それを「改革」の季節にあった弁護士会は、忠実なバイブルの実践者として、あたかも弁護士に与えられた「新使命」のように、いち早く自省的取り入れたのです。
この司法審の発想は、一方で当時既に「改革」の増員政策の先に登場することが想定されていた、弁護士のビジネス化と競争をにらんでいたともいえます。公共性への自覚を強調する意見書の文脈は、あたかもカネ金儲け本位に走りかねない弁護士へ、自戒と自覚を促すような響きを持っていました(「『公益性』と『競争』という仕掛け」)。
つまり、この発想の前提は、弁護士が無償の活動ができるのにもかかわらず、それに見向きもせず、ひたすらカネ儲け本位に走る経済的環境になるという想定です。また、当時の「改革」前の弁護士の経済的環境にも、そうとられてしまうものがあったのかもしれません。
ただ、その意味では、「改革」は非常に皮肉な結果をもたらした、といえます。「改革」の増員政策による弁護士の経済環境の悪化は、従来のように、自発的な意思を伴えば、そうした活動に注力できた弁護士の環境を奪い、一方で、ビジネス化、一サービス業の自覚が余儀なくされ、あるいは強まるなかで、生存のために経済的にゆとりのない状況での、無償性の業務を強制的求める形そのものが不満の対象になったからです。
そして、弁護士の中には、当然、経済的余裕がない中で、「ボランティア」のためになぜ、生活がかかっている有償業務が犠牲にならなければいけないのか、という意識、「ボランイティア」であればこそ、優先順位としても限定的にとらえられてしかるべきという意識、「ボランティア」とされているものも、むしろ本来、有償業務としてもっと扱われるべきという意識まで生まれることになったのです。
弁護士会の前記義務化を含めた、プロボノ政策について、会内で異口同音に、よく耳にする不満の声があります。それは、要するに「これらは、経済的にゆとりがある弁護士会主導層が、その感覚で推進してきたものではないか」というものです。つまりは、広く会員の現実を理解していないという不満になります。弁護士の増員政策と供給過剰が、弁護士の経済的状況を決定的に直撃している現実を百も承知でありながら、それを変更しようとしない姿勢への批判とも通底するものと言えます。
時々、若手の弁護士や志望者の声のなかで、「自分はプロボノできちっと社会貢献できるようになるために、ビジネスローヤーを目指したい」といった趣旨のことを耳にします。もちろん、この志も認められていいし、そして「改革」後の志のあり方としては、現実的で、かつ、あるいは「改革」推進論者が歓迎・期待する、一つの形なのかもしれません。
しかし、裏を返せば、これはやはり経済的なゆとり、あるいは安定を担保したい発言であり、かつて弁護士会でさんざん聞かれた、経済的自立論の正しさを、むしろ裏付ける話にもとれます(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士の活動と経済的『支え』の行方」)。
一般的にプロボノ活動は、歴史的にみても、弁護士による「ボランティア」から広がり、弁護士業界において、最も浸透している、という括り方もされています(「LEGAL NET」 ウィキペディア)。しかし、これらの見方には、経済的な担保や、犠牲的精神に頼ってきた現実と限界・無理といった問題が、前提的にとらえられていない印象を持ちます。弁護士のためのみならず、それを享受する社会のためにも、本当にいま必要な前提が何であるのかに、そのあり方を含め、今一度、光が当てられるべきです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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こうした形での強制化そのものの妥当性、効果への疑問についての声は、依然会内に根強くあります(及川智志弁護士のツイート)。そして、これを弁護士の「ボランティア」とする位置付けも、弁護士業務の現在の状況のなかで、さまざまな形にとらえられることになっているようにみえます。
以前も書きましたが、そもそもこの弁護士の無償の公益活動を義務化し、自発性を否定した「罰金」による強制化策がとられた時点で、これは本質的な意味において、「ボランティア」の定義からは外れます。弁護士業務の実態に即していえば、これらの活動は、いわゆる「ボランティア」活動ではなく、弁護士の本来的な業務であり、ただ、無償性の高い(無償性を期待されてきた)業務と、当然に有償な業務がある、とみることができるのです(「弁護士とボランティアの厄介な関係」)。
逆に言うと、弁護士業務について、これを「ボランティア」と位置付けることは、弁護士の本来業務とされてきたもののうち、無償もしくは無償性の高いもの、それを期待されているもの、弁護士会活動や、従来「手弁当」でやってきたとされるような採算性がとられない活動は、すべて「ボランティア」活動と位置付ける発想になります。
これは、弁護士の業務は有償が原則であるという意味をはっきりさせるうえでは、分かりやすい面があり、また、いまやそう理解している会員も多いようにみえます。ただ、こうした発想が弁護士会で強まった背景には、やはり司法改革があります。
司法制度改革審議会の最終意見書は、弁護士について「通常の職務活動を超え、『公共性の空間』において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである」「公益活動を弁護士の義務として位置付けるべきである」としました。弁護士の使命に基づき、それまでも実践してきた弁護士・会の本来業務について、ここでは公益性への自覚の問題という視点で取り上げられ、それを、あたかも弁護士の「新使命」として再定義した。そして、それを「改革」の季節にあった弁護士会は、忠実なバイブルの実践者として、あたかも弁護士に与えられた「新使命」のように、いち早く自省的取り入れたのです。
この司法審の発想は、一方で当時既に「改革」の増員政策の先に登場することが想定されていた、弁護士のビジネス化と競争をにらんでいたともいえます。公共性への自覚を強調する意見書の文脈は、あたかもカネ金儲け本位に走りかねない弁護士へ、自戒と自覚を促すような響きを持っていました(「『公益性』と『競争』という仕掛け」)。
つまり、この発想の前提は、弁護士が無償の活動ができるのにもかかわらず、それに見向きもせず、ひたすらカネ儲け本位に走る経済的環境になるという想定です。また、当時の「改革」前の弁護士の経済的環境にも、そうとられてしまうものがあったのかもしれません。
ただ、その意味では、「改革」は非常に皮肉な結果をもたらした、といえます。「改革」の増員政策による弁護士の経済環境の悪化は、従来のように、自発的な意思を伴えば、そうした活動に注力できた弁護士の環境を奪い、一方で、ビジネス化、一サービス業の自覚が余儀なくされ、あるいは強まるなかで、生存のために経済的にゆとりのない状況での、無償性の業務を強制的求める形そのものが不満の対象になったからです。
そして、弁護士の中には、当然、経済的余裕がない中で、「ボランティア」のためになぜ、生活がかかっている有償業務が犠牲にならなければいけないのか、という意識、「ボランイティア」であればこそ、優先順位としても限定的にとらえられてしかるべきという意識、「ボランティア」とされているものも、むしろ本来、有償業務としてもっと扱われるべきという意識まで生まれることになったのです。
弁護士会の前記義務化を含めた、プロボノ政策について、会内で異口同音に、よく耳にする不満の声があります。それは、要するに「これらは、経済的にゆとりがある弁護士会主導層が、その感覚で推進してきたものではないか」というものです。つまりは、広く会員の現実を理解していないという不満になります。弁護士の増員政策と供給過剰が、弁護士の経済的状況を決定的に直撃している現実を百も承知でありながら、それを変更しようとしない姿勢への批判とも通底するものと言えます。
時々、若手の弁護士や志望者の声のなかで、「自分はプロボノできちっと社会貢献できるようになるために、ビジネスローヤーを目指したい」といった趣旨のことを耳にします。もちろん、この志も認められていいし、そして「改革」後の志のあり方としては、現実的で、かつ、あるいは「改革」推進論者が歓迎・期待する、一つの形なのかもしれません。
しかし、裏を返せば、これはやはり経済的なゆとり、あるいは安定を担保したい発言であり、かつて弁護士会でさんざん聞かれた、経済的自立論の正しさを、むしろ裏付ける話にもとれます(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士の活動と経済的『支え』の行方」)。
一般的にプロボノ活動は、歴史的にみても、弁護士による「ボランティア」から広がり、弁護士業界において、最も浸透している、という括り方もされています(「LEGAL NET」 ウィキペディア)。しかし、これらの見方には、経済的な担保や、犠牲的精神に頼ってきた現実と限界・無理といった問題が、前提的にとらえられていない印象を持ちます。弁護士のためのみならず、それを享受する社会のためにも、本当にいま必要な前提が何であるのかに、そのあり方を含め、今一度、光が当てられるべきです。
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