ある「改革」批判者の絶望
当ブログのコメント欄でも紹介されていましたが、法科大学院制度や弁護士会の現実に、舌鋒鋭く、批判的な分析を加え、業界関係者を中心に注目されていた、弁護士(のち請求退会)ブログ「黒猫のつぶやき」が、今月28日の更新を最後に、新たな記事を掲載しないことを発表しました。
「改革」の失敗と、それによる法曹界の変質を直視した論調は、「改革」論議が過去のものになりつつある業界内にあって、貴重な視点を提供する役割を果たしてきただけに、それが今後、新たに見れなくなることを惜しむ読者の声が聞こえてきます。その一方で、時に旧試体制との比較において、新法曹養成体制で生まれた法曹の質の問題に触れる、辛辣な表現には、一部から反発や異論の声も出されました。
彼の主張の根底には、常に「改革」後のこの世界に対する、失望感もしくは絶望感が横たわっていたようにとれました。「改革」によって壊れた、彼からすれば劣化した法曹養成と法曹、そしてそれについて自覚のない業界に対する、緻密な批判的分析は、今にしてみれば、それ自体、彼のこの業界に対する嫌気の発露だったといえます。そして、その言葉通り、やがて彼は弁護士会から離れ、そして今回、その業界を見放すかのように、批判者の立場にも幕を下ろすことになったのでした。
28日の「最終記事」と銘打った投稿は、まさにそんな彼らしい、法曹養成をめぐる「改革」に関する総括的な彼の見方を提示するものとなっています。ただ、彼が振り返る「改革」と弁護士界の変遷を、ずっとウオッチしてきた立場からすると、正直、的確に言い当てていると感じる部分と、微妙な違和感を覚えるところがあります。
もとより立場の違い、あるいはこだわりどころの違いはあります。彼はあくまで業界の中にいた人間として、業界にとっての失敗と劣化をえぐります。一方、業界の近くで見てきた一市民である、当方の立場からすれば、あくまで「市民のため」「国民のため」と銘打った「改革」が一体何であったのか、その誤魔化しのない「価値」そのものに一番の関心があります。だから、当然、彼のような業界への絶望を背景に、見放すと形で終わらせるという結末にもなりません。
それはともかく、彼の「最終記事」には、次のようなタイトルが振られています。
「『弁護士=負け犬』の構造」
彼は、ここで「弁護士業界の凋落」の経緯を時系列的に取り上げていますが、彼が言いたいのは、司法改革批判者が考えているような、小泉政権下における、今回の司法制度改革がその原因ではなく、それ以前からその前兆があったということでした。
詳しくは、お読み頂ければと思いますが、昭和の高度成長期を通じた経済発展に伴い法律関係の需要増大と、司法試験受験者増のなかで合格者が長年抑えられてきた事実。その背景にあった政府・自民党側の増員欲求と、官僚司法打破、判検を含む法曹三者増員を条件化する日弁連の対立と、法曹三者間の合意の不調。その結果としての、司法試験の超難関固定化、合格者層の高齢化。そのなかで、難関を突破したというエリート意識にあぐらをかいた弁護士たちは、実は経済的合理性や採算性を度外視した発想の持ち主であり、資格によって生活が保証されていただけで、そこに客観的には既に「負け犬」の構造が成立していた、と。
その後の、実質弁護士のみの合格増を受け入れることになった「中坊路線」、経済界や大学法学部の復権を目論む法律学者・文部科学省などの政治的圧力に屈していったのは、そうした昭和の時代からの、多くの「おかしな信念の持ち主」である弁護士が、経済界の需要に応えられなくなり、そうした彼らの弁護士に対する不満が爆発したことによる、のだというのです。
そして、彼は弁護士会主導層や旧世代弁護士に矛先を向け、次のような、いつもながらの「黒猫節」を炸裂させています。
「日弁連や大規模弁護士会の執行部で実権を握っている高齢の弁護士たちは、大半が前述のような馬鹿げた信条の持ち主」
「自分たちが、経済的損得など考えず何年も司法試験の勉強を続けた結果ようやく弁護士になれた『エリート(笑)』である以上、同じように経済的損得など考えずに法科大学院へやってくる人間だけが弁護士になればいいという発想の持ち主が、呆れるほどに多い」
「結局のところ、何年もかけて『難関』の旧司法試験に合格したことの一事をもって、自分は社会のエリートだと勘違いしている旧世代の弁護士も、他に逃げる術もないため弁護士の肩書にしがみつかざるを得ず、現実逃避のために自分は司法試験に合格した法務博士様であるから社会のエリートだと主張し続けざるを得ない法科大学院世代の弁護士も、そのほとんどが愚かな社会の負け組であるという一点においてはほぼ同類」
法科大学院世代の法曹に対する、旧試体制で輩出された法曹の、実力面での優位性が強調されているイメージがあった黒猫氏の論調のなかで、今回はその旧試体制で生まれ、「改革」を主導した(受け入れた)法曹たちの発想の問題に着眼しているのが特徴です。彼は「負け犬」「負け組」と表現していますが、それを自覚していない当時の弁護士たちが、その無自覚のゆえに、「改革」につながる、当然の社会の不満を呼び起こし、その「改革」の結果が法曹養成を破壊するものであってもなお、いまだに無自覚であるということになります。そこで「弁護士業界が持ち直せる可能性」がなくなったと見切った結果が、今回の彼の最終決断ということになります。彼の絶望が導いた結論です。
確かに、「改革」主導層の無自覚さがあることは当ブログでも書いてきたことです(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「司法試験『選抜機能』の危機が省みられない事情」 「現実を直視できない増員路線」)。しかし、前段の日弁連・弁護士会がこの「改革」を受け入れざるを得なかった、つまりは必然的に「中坊路線」が登場せざるを得なかった、という論調につながる見方は、むしろこの「改革」の旗を未だに振ろうとする側と、「改革」の失敗に対して弁明しようとする側の捉え方と変わりません。
「改革」側の思惑に乗せられ、あるいはその意図通り、弁護士が変質したという事実、警鐘を鳴らし、あくまで抵抗した弁護士たちもいたという事実を見てきた側からすれば、弱点をまんまと突かれた(法曹一元待望論、法曹養成でのイニシアティブ獲得、あるいは抵抗しても無駄という敗北的現実論等)という方がしっくりくるように思えます。弁護士会全体を俯瞰した時に、盲目的な無自覚が、現在の状況に至る「負け組」の起源というのは、何かしっくり来ない表現のように感じます。
より早くから経済界から不満が出ないような、経済的合理性を持った弁護士の自覚があれば、こんな「改革」の結果になっていないということを言いたいのでしょうか。そうだとすれば、「改革」推進論者は、この「改革」は間違っておらず、遅すぎたくらいだと言うでしょう。そして、この混乱と淘汰の先に、お決まりの経済的合理性を持った弁護士が生き残る姿を描くでしょう。
また、「改革」主導層の現在の無自覚は、「改革」の失敗を認めて舵を切れないこと(その意味では無自覚ではなく、自覚しながら認められないだけかもしれませんが)。経済的合理性を考えれば、弁護士過剰状態に対して、もっとはっきりとした姿勢を示せるはずなのに、市場原理に乗っかった増員を受け入れながら、それはできない、という矛盾にこそ、問題があります。
「負け組」というのであれば、逆に一体どういう形が勝利の形であったのか、それがよく分からなくなってくるのです。それはもちろん、前記したような立場の違いからすれば、やはりそもそもその答えも違うのかしれません。しかし、少なくとも、彼を絶望に追い込んだ、「改革」と業界の現実と、私たち社会にとってのその意味には、今後も目を向けていかなくてはなりません。その意味で、最後までこのブログは、貴重な視点を提示してくれているように思えます。
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「改革」の失敗と、それによる法曹界の変質を直視した論調は、「改革」論議が過去のものになりつつある業界内にあって、貴重な視点を提供する役割を果たしてきただけに、それが今後、新たに見れなくなることを惜しむ読者の声が聞こえてきます。その一方で、時に旧試体制との比較において、新法曹養成体制で生まれた法曹の質の問題に触れる、辛辣な表現には、一部から反発や異論の声も出されました。
彼の主張の根底には、常に「改革」後のこの世界に対する、失望感もしくは絶望感が横たわっていたようにとれました。「改革」によって壊れた、彼からすれば劣化した法曹養成と法曹、そしてそれについて自覚のない業界に対する、緻密な批判的分析は、今にしてみれば、それ自体、彼のこの業界に対する嫌気の発露だったといえます。そして、その言葉通り、やがて彼は弁護士会から離れ、そして今回、その業界を見放すかのように、批判者の立場にも幕を下ろすことになったのでした。
28日の「最終記事」と銘打った投稿は、まさにそんな彼らしい、法曹養成をめぐる「改革」に関する総括的な彼の見方を提示するものとなっています。ただ、彼が振り返る「改革」と弁護士界の変遷を、ずっとウオッチしてきた立場からすると、正直、的確に言い当てていると感じる部分と、微妙な違和感を覚えるところがあります。
もとより立場の違い、あるいはこだわりどころの違いはあります。彼はあくまで業界の中にいた人間として、業界にとっての失敗と劣化をえぐります。一方、業界の近くで見てきた一市民である、当方の立場からすれば、あくまで「市民のため」「国民のため」と銘打った「改革」が一体何であったのか、その誤魔化しのない「価値」そのものに一番の関心があります。だから、当然、彼のような業界への絶望を背景に、見放すと形で終わらせるという結末にもなりません。
それはともかく、彼の「最終記事」には、次のようなタイトルが振られています。
「『弁護士=負け犬』の構造」
彼は、ここで「弁護士業界の凋落」の経緯を時系列的に取り上げていますが、彼が言いたいのは、司法改革批判者が考えているような、小泉政権下における、今回の司法制度改革がその原因ではなく、それ以前からその前兆があったということでした。
詳しくは、お読み頂ければと思いますが、昭和の高度成長期を通じた経済発展に伴い法律関係の需要増大と、司法試験受験者増のなかで合格者が長年抑えられてきた事実。その背景にあった政府・自民党側の増員欲求と、官僚司法打破、判検を含む法曹三者増員を条件化する日弁連の対立と、法曹三者間の合意の不調。その結果としての、司法試験の超難関固定化、合格者層の高齢化。そのなかで、難関を突破したというエリート意識にあぐらをかいた弁護士たちは、実は経済的合理性や採算性を度外視した発想の持ち主であり、資格によって生活が保証されていただけで、そこに客観的には既に「負け犬」の構造が成立していた、と。
その後の、実質弁護士のみの合格増を受け入れることになった「中坊路線」、経済界や大学法学部の復権を目論む法律学者・文部科学省などの政治的圧力に屈していったのは、そうした昭和の時代からの、多くの「おかしな信念の持ち主」である弁護士が、経済界の需要に応えられなくなり、そうした彼らの弁護士に対する不満が爆発したことによる、のだというのです。
そして、彼は弁護士会主導層や旧世代弁護士に矛先を向け、次のような、いつもながらの「黒猫節」を炸裂させています。
「日弁連や大規模弁護士会の執行部で実権を握っている高齢の弁護士たちは、大半が前述のような馬鹿げた信条の持ち主」
「自分たちが、経済的損得など考えず何年も司法試験の勉強を続けた結果ようやく弁護士になれた『エリート(笑)』である以上、同じように経済的損得など考えずに法科大学院へやってくる人間だけが弁護士になればいいという発想の持ち主が、呆れるほどに多い」
「結局のところ、何年もかけて『難関』の旧司法試験に合格したことの一事をもって、自分は社会のエリートだと勘違いしている旧世代の弁護士も、他に逃げる術もないため弁護士の肩書にしがみつかざるを得ず、現実逃避のために自分は司法試験に合格した法務博士様であるから社会のエリートだと主張し続けざるを得ない法科大学院世代の弁護士も、そのほとんどが愚かな社会の負け組であるという一点においてはほぼ同類」
法科大学院世代の法曹に対する、旧試体制で輩出された法曹の、実力面での優位性が強調されているイメージがあった黒猫氏の論調のなかで、今回はその旧試体制で生まれ、「改革」を主導した(受け入れた)法曹たちの発想の問題に着眼しているのが特徴です。彼は「負け犬」「負け組」と表現していますが、それを自覚していない当時の弁護士たちが、その無自覚のゆえに、「改革」につながる、当然の社会の不満を呼び起こし、その「改革」の結果が法曹養成を破壊するものであってもなお、いまだに無自覚であるということになります。そこで「弁護士業界が持ち直せる可能性」がなくなったと見切った結果が、今回の彼の最終決断ということになります。彼の絶望が導いた結論です。
確かに、「改革」主導層の無自覚さがあることは当ブログでも書いてきたことです(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「司法試験『選抜機能』の危機が省みられない事情」 「現実を直視できない増員路線」)。しかし、前段の日弁連・弁護士会がこの「改革」を受け入れざるを得なかった、つまりは必然的に「中坊路線」が登場せざるを得なかった、という論調につながる見方は、むしろこの「改革」の旗を未だに振ろうとする側と、「改革」の失敗に対して弁明しようとする側の捉え方と変わりません。
「改革」側の思惑に乗せられ、あるいはその意図通り、弁護士が変質したという事実、警鐘を鳴らし、あくまで抵抗した弁護士たちもいたという事実を見てきた側からすれば、弱点をまんまと突かれた(法曹一元待望論、法曹養成でのイニシアティブ獲得、あるいは抵抗しても無駄という敗北的現実論等)という方がしっくりくるように思えます。弁護士会全体を俯瞰した時に、盲目的な無自覚が、現在の状況に至る「負け組」の起源というのは、何かしっくり来ない表現のように感じます。
より早くから経済界から不満が出ないような、経済的合理性を持った弁護士の自覚があれば、こんな「改革」の結果になっていないということを言いたいのでしょうか。そうだとすれば、「改革」推進論者は、この「改革」は間違っておらず、遅すぎたくらいだと言うでしょう。そして、この混乱と淘汰の先に、お決まりの経済的合理性を持った弁護士が生き残る姿を描くでしょう。
また、「改革」主導層の現在の無自覚は、「改革」の失敗を認めて舵を切れないこと(その意味では無自覚ではなく、自覚しながら認められないだけかもしれませんが)。経済的合理性を考えれば、弁護士過剰状態に対して、もっとはっきりとした姿勢を示せるはずなのに、市場原理に乗っかった増員を受け入れながら、それはできない、という矛盾にこそ、問題があります。
「負け組」というのであれば、逆に一体どういう形が勝利の形であったのか、それがよく分からなくなってくるのです。それはもちろん、前記したような立場の違いからすれば、やはりそもそもその答えも違うのかしれません。しかし、少なくとも、彼を絶望に追い込んだ、「改革」と業界の現実と、私たち社会にとってのその意味には、今後も目を向けていかなくてはなりません。その意味で、最後までこのブログは、貴重な視点を提示してくれているように思えます。
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