弁護士会が登場させる「市民」
日弁連・弁護士会が掲げる「市民」という言葉に、最近、反発や違和感を口にする弁護士会員を見かけるようになりました。ネットでは「市民ガー」といった、そうした弁護士会の姿勢を揶揄するような取り上げ方もされています。
日弁連・弁護士会がこの言葉を登場させるのは、おおよそ「市民のため」か、「市民の信頼」という文脈です。自らが市民の「ために」活動している、という、外向けのアピールか、それによって得る、市民の信頼が会存立の基礎だと言う、外向けアピールであるとともに、会員の自覚を促すという意味では、内向きのアピールともいえます。
ある時期から、日弁連・弁護士会は、彼らが牙城としてきた弁護士自治も、市民の理解、信頼を基盤に考えるということを強調し出しましたし、この司法「改革」も、「市民のため」を旗印にしました。
しかし、今、会内に見られる、「市民」という言葉の用法(あるいは使い所)への違和感は、「改革」を含めて、日弁連・弁護士会が、この「市民」という存在)について、ある点をあいまいにしてきたツケではないか、と思えるのてす。
「市民のため」に活動し、「市民」の信頼を基盤とする。この社会で、この発想そのものに異を唱える人はほとんどいないと思います。しかし、弁護士・会の役割からすれば、簡単に割り切れない面があります。かつて弁護士自治の「基盤」をどこに置くかをめぐり、弁護士会内でも議論になったことですが、この「市民」が社会の「多数派市民」を当然に指すのであれば、この仕事と会の役割とは齟齬が生じるからです。その議論では、弁護士自治の「市民」基盤を強調すれば、それを「多数派市民」の理解と解釈される形で、逆に弁護士・会活動への攻撃に利用されかねない、という懸念論も会内から出されました。(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」 「『国民的基盤』論の危い匂い」)
刑事事件で弁護士は、時に社会的に孤立し、既にメディアによって「犯罪者」のように扱われている、「多数派市民」を敵に回した被疑者・被告人の側に立つこともあります。また、刑事事件は、「多数派市民」自身にはほとんど一生かかわらない、我がことに置き換えにくい、無関心でもおかしくない分野です。
それを前提にすれば、弁護士・会の立場からの主張は、「市民」の意識に響かないだけでなく、逆に敵視されるかもしれない。弁護士は、「なぜ、あんな犯罪者の味方をするのか」という目線を当然に向けられる。かつて「弁護士は人権侵害被害者・弱者と同じ立場に立つことを覚悟しなければならない」と語った人権派弁護士がいましたが、まさに、弁護士は本来的にそういう覚悟のうえに成り立つ仕事といわなければなりません。
かつて弁護士・会が今より「反権力」とか「在野性」を前面に出していた時代に、それを批判的に取り上げる論調のなかでは、決まってそこで登場する市民を、あえて「市民」(カギカッコ付き市民)、要は一般の多数派市民を指していない、特定のシンパのような存在であるとする表現がみられました。ただ、実は前記弁護士・会の役割を考えれば、その市民が「多数派市民」でないことは何もおかしなことではないのです。
もう一つ、会員の違和感につながっているのは、前記二つの文脈が弁護士という仕事に対する、市民(あるいは社会)の「期待(感)」という要素と絡めて、弁護士会主導層によって、ご都合主義的ともいえる形で繰り出されているようにとれる現実があることです。「市民のため」が繰り出せれる場面では、「改革」の増員論がそもそもそうであったように、潜在的に弁護士に大きな期待感をもった多数の「市民」の存在が描かれます。一方、「市民の信頼」が持ち出される場面の「市民」は、弁護士・会への信頼が危うくしかねない存在として強調される傾向にあります。
とりわけ、弁護士会の内向きの対会員アピールでいえば、公益活動といった無償性の高いものを会員に求めたり、訴えるときは、市民の「期待感」が強調され、先般の依頼者見舞金制度といった会員に経済的負担を求めるような場面では、「弁護士自治堅持」が、葵の印籠か錦旗のように持ち出せされながら、後者の形となる。
しかし、「改革」は、むしろ個々の弁護士にとって、現実がどちらの形も実感できないこと、別の言い方をすれば、極めて疑わしいものであることをはっきりさせてしまったようにとれるのです。「改革」が想定したほど、有償ニーズがない現実、法テラスなどでの処遇の実態は、おカネを投入するほどには弁護士という仕事に「期待」していない「市民」や社会の存在を浮き立たせた。その一方で、弁護士が経済的に持ち出すことによって、支えられる「信頼」がどれほどのものなのかも実感できない――。
有り体にいってしまえば、要するにこれらは「市民」に対する弁護士・会の「片思い」ではないか、という疑念といってもいいと思います。ある時には「求められている」ことの自覚を促す形で、ある時には「失う」ことの脅威が強調される形で、「市民」は登場してくるけど、本当の「市民」目線は、どうもそのどちらとも違うのではないか、と。
もちろん、弁護士・会が、その使命に関わるテーマや、社会に影響を及ぼす「改革」の負の影響について、市民に訴え、賛同を求めること自体が間違いということでは決してありません。しかし、今回の「改革」によって、弁護士会が向き合う「市民」という存在は、会員にとってより分かりにくいものになった。それだけに、どういう市民が弁護士・会を本当に必要としているのか、そして、どういう形ならば、どの程度の期待に現実的にこたえられるのか(逆に何が担保されなければ、こたえられないのか)、いわば等身大の社会の期待感と、等身大の弁護士の可能性が、もう一度、直視されるべきではないでしょうか。
真っ最中の日弁連会長選挙選で、候補者たちの主張のなかにも、ところどころ「市民」が登場しています。それが何を意味しているとみるべきか、まず、そこは考える必要がありそうです。
カルロス・ゴーン被告人の国外逃亡と日本の刑事司法について、自由なご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「ニュースご意見板」http://shihouwatch.com/archives/8373
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日弁連・弁護士会がこの言葉を登場させるのは、おおよそ「市民のため」か、「市民の信頼」という文脈です。自らが市民の「ために」活動している、という、外向けのアピールか、それによって得る、市民の信頼が会存立の基礎だと言う、外向けアピールであるとともに、会員の自覚を促すという意味では、内向きのアピールともいえます。
ある時期から、日弁連・弁護士会は、彼らが牙城としてきた弁護士自治も、市民の理解、信頼を基盤に考えるということを強調し出しましたし、この司法「改革」も、「市民のため」を旗印にしました。
しかし、今、会内に見られる、「市民」という言葉の用法(あるいは使い所)への違和感は、「改革」を含めて、日弁連・弁護士会が、この「市民」という存在)について、ある点をあいまいにしてきたツケではないか、と思えるのてす。
「市民のため」に活動し、「市民」の信頼を基盤とする。この社会で、この発想そのものに異を唱える人はほとんどいないと思います。しかし、弁護士・会の役割からすれば、簡単に割り切れない面があります。かつて弁護士自治の「基盤」をどこに置くかをめぐり、弁護士会内でも議論になったことですが、この「市民」が社会の「多数派市民」を当然に指すのであれば、この仕事と会の役割とは齟齬が生じるからです。その議論では、弁護士自治の「市民」基盤を強調すれば、それを「多数派市民」の理解と解釈される形で、逆に弁護士・会活動への攻撃に利用されかねない、という懸念論も会内から出されました。(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」 「『国民的基盤』論の危い匂い」)
刑事事件で弁護士は、時に社会的に孤立し、既にメディアによって「犯罪者」のように扱われている、「多数派市民」を敵に回した被疑者・被告人の側に立つこともあります。また、刑事事件は、「多数派市民」自身にはほとんど一生かかわらない、我がことに置き換えにくい、無関心でもおかしくない分野です。
それを前提にすれば、弁護士・会の立場からの主張は、「市民」の意識に響かないだけでなく、逆に敵視されるかもしれない。弁護士は、「なぜ、あんな犯罪者の味方をするのか」という目線を当然に向けられる。かつて「弁護士は人権侵害被害者・弱者と同じ立場に立つことを覚悟しなければならない」と語った人権派弁護士がいましたが、まさに、弁護士は本来的にそういう覚悟のうえに成り立つ仕事といわなければなりません。
かつて弁護士・会が今より「反権力」とか「在野性」を前面に出していた時代に、それを批判的に取り上げる論調のなかでは、決まってそこで登場する市民を、あえて「市民」(カギカッコ付き市民)、要は一般の多数派市民を指していない、特定のシンパのような存在であるとする表現がみられました。ただ、実は前記弁護士・会の役割を考えれば、その市民が「多数派市民」でないことは何もおかしなことではないのです。
もう一つ、会員の違和感につながっているのは、前記二つの文脈が弁護士という仕事に対する、市民(あるいは社会)の「期待(感)」という要素と絡めて、弁護士会主導層によって、ご都合主義的ともいえる形で繰り出されているようにとれる現実があることです。「市民のため」が繰り出せれる場面では、「改革」の増員論がそもそもそうであったように、潜在的に弁護士に大きな期待感をもった多数の「市民」の存在が描かれます。一方、「市民の信頼」が持ち出される場面の「市民」は、弁護士・会への信頼が危うくしかねない存在として強調される傾向にあります。
とりわけ、弁護士会の内向きの対会員アピールでいえば、公益活動といった無償性の高いものを会員に求めたり、訴えるときは、市民の「期待感」が強調され、先般の依頼者見舞金制度といった会員に経済的負担を求めるような場面では、「弁護士自治堅持」が、葵の印籠か錦旗のように持ち出せされながら、後者の形となる。
しかし、「改革」は、むしろ個々の弁護士にとって、現実がどちらの形も実感できないこと、別の言い方をすれば、極めて疑わしいものであることをはっきりさせてしまったようにとれるのです。「改革」が想定したほど、有償ニーズがない現実、法テラスなどでの処遇の実態は、おカネを投入するほどには弁護士という仕事に「期待」していない「市民」や社会の存在を浮き立たせた。その一方で、弁護士が経済的に持ち出すことによって、支えられる「信頼」がどれほどのものなのかも実感できない――。
有り体にいってしまえば、要するにこれらは「市民」に対する弁護士・会の「片思い」ではないか、という疑念といってもいいと思います。ある時には「求められている」ことの自覚を促す形で、ある時には「失う」ことの脅威が強調される形で、「市民」は登場してくるけど、本当の「市民」目線は、どうもそのどちらとも違うのではないか、と。
もちろん、弁護士・会が、その使命に関わるテーマや、社会に影響を及ぼす「改革」の負の影響について、市民に訴え、賛同を求めること自体が間違いということでは決してありません。しかし、今回の「改革」によって、弁護士会が向き合う「市民」という存在は、会員にとってより分かりにくいものになった。それだけに、どういう市民が弁護士・会を本当に必要としているのか、そして、どういう形ならば、どの程度の期待に現実的にこたえられるのか(逆に何が担保されなければ、こたえられないのか)、いわば等身大の社会の期待感と、等身大の弁護士の可能性が、もう一度、直視されるべきではないでしょうか。
真っ最中の日弁連会長選挙選で、候補者たちの主張のなかにも、ところどころ「市民」が登場しています。それが何を意味しているとみるべきか、まず、そこは考える必要がありそうです。
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