弁護士のプロボノ活動と「経済的自立論」
ここ数年、企業法務系弁護士や大法律事務所と、いわゆる「プロボノ活動」を結び付けた話が、よく聞かれます。大事務所が人権にかかわる多くの分野の法律支援に乗り出しており、そこには若手も積極的に参加しているということも伝えられています。
最近では、朝日新聞が、弁護士が無償で法知識を駆使して、NPO法人などの取り組みを支える「プロボノ活動」が、企業法務系弁護士を中心に広がり、弁護士会や法律事務所が組織的に後押しし始めているとして、その現場にスポットを当てる記事を掲載しました(朝日デジタル4月21日配信、本紙同日夕刊)。
弁護士の公益活動が広がって来ているという点に着眼すれば、一も二もなく、社会は歓迎するはずという話になるのも当然といえば当然です。しかし、こうした動きにやや複雑な受けとめ方をする業界関係者もいます。有り体にいえば、これを弁護士に一般化はできない、もしくは弁護士一般にとらえられては困る現実があることです。
前記朝日の記事に、一部弁護士の中からは、「結構なこと」であるのは百も承知ながら、自分には単純に置き換えられないことへのため息のようなものも聞かれました。それはいうまでもなく、弁護士一般とはやや隔絶した、この分野の弁護士の経済的余裕が、この活動の広がりを支えていると彼らが読み取ったからにほかなりません。
前記朝日の記事は、そうした現実は伝えていません。むしろ伝えないまま、「無償化」の可能性を伝えることで、「やればできる」という社会の期待感が先行することへの不安もまた、一部弁護士の中にはあるといわなければなりません。ただでもサービス無償化への動きが、有償提供が基本の弁護士の法的サービスを壊すことの方を懸念する声が界内にあるだけになおさらです。
ボランティア活動のうち、主に専門家のスキルを活かした無償の公益活動を指すプロボノという言葉は、既にかなり社会に知られるようになりましたが、もともとが弁護士らの無償活動を指したといわるほど、弁護士にはゆかりがあるものです。しかし、あくまで強制性を伴わない自発性が伴っていることが基本のボランティアである以上、そもそも生活や本業を脅かしてまでやるという前提は基本的にはなく、社会も基本的にそうイメージしているはずです。
一方、日本の弁護士にあっては、プロボノの意義について、弁護士法1条の基本的人権の擁護と社会正義の実現という、使命と結び付け、その精神を体現したものという言い方もされます。前記朝日の記事に登場する弁護士も、プロボノ活動の意義について「弁護士の使命を全うできる」と語っています。
また、公害をはじめ公益的な訴訟活動に取り組む弁護士たちの、いわゆる「手弁当」活動も、プロボノ活動なのだという人もいます。
ただ、そうなると、弁護士がプロボノの対象とする活動は、弁護士の使命に由来する本来的活動なのであって、見方によっては、こと弁護士については、ボランティアが社会にイメージさせる、本業や生活を第一に考えたうえで、出来る範囲でやればよし、というニュアンスのボランティアのイメージとは違ってきます。ここに、弁護士に対する社会的要請と現実の微妙な行き違いが生まれているようにもみえるのです。
度々取り上げていますが、弁護士界ではかつて「経済的自立論」ということがいわれました。おカネにならない、採算性を無視しなければならないが、弁護士の使命からは手掛けるべき人権活動を全うするために、経済的基盤の確保が必要という論法です。
今にしてみれば、ボランティアのように、採算性を無視した活動の実践をその使命として宿命的に背負い、それを社会も弁護士の本来的業務として期待してしまいかねないという、弁護士の生存にかかわる前記行き違いを、この論法が実質的に埋めていたようにとれます。そして、この論法を成立させたのは、皮肉にもこの「改革」が破壊した、かつての弁護士の経済的余裕ということになります。実態は本来的業務でありながら、ボランティアとしてやれる経済的基盤を求めているだけなのですから。
司法改革は「改革」の路線としても、弁護士の自覚としても、この論法を後方に押しやりました。増員時代の弁護士に対し、一定の事業者性の犠牲のうえに、公益性のさらなる追求を求め、それを弁護士自身が自覚的に受けとめる形となった「改革」にあっては、経済的基盤が前提的に語られることなく、現状で問題なく「やれる」、もしくはどの弁護士も、努力次第でやれる程度の発想で、駒を進めたというべきです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「『改革』運動が描いた弁護士像」)。
弁護士の経済的体力への過信、あるいは「改革」の増員政策の影響への甘い見通しが、この発想を支えたというしかありません。そして、結局、今、企業法務弁護士のプロボノ実践が伝えている現実も、なんてことはない「経済的自立論」の正しさではないかと思えるのです(「『採算度外視』の無理と価値」 「『手弁当』の受け皿というテーマ」)。
企業法務系弁護士のプロボノの話を素朴に見聞きした人の中には、結局、今、あるいはこれからの時代に、現実問題として弁護士の使命を全うし、社会の期待にこたえるプロボノ活動をするには、企業法務系弁護士になるしかない、と考える人もいるかもしれません。しかし、社会にとって何が本当に有り難い話だったのかという視点で、弁護士という資格業のあり方と「改革」を考えると、それが唯一の選択肢だったようには思えないのです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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弁護士の公益活動が広がって来ているという点に着眼すれば、一も二もなく、社会は歓迎するはずという話になるのも当然といえば当然です。しかし、こうした動きにやや複雑な受けとめ方をする業界関係者もいます。有り体にいえば、これを弁護士に一般化はできない、もしくは弁護士一般にとらえられては困る現実があることです。
前記朝日の記事に、一部弁護士の中からは、「結構なこと」であるのは百も承知ながら、自分には単純に置き換えられないことへのため息のようなものも聞かれました。それはいうまでもなく、弁護士一般とはやや隔絶した、この分野の弁護士の経済的余裕が、この活動の広がりを支えていると彼らが読み取ったからにほかなりません。
前記朝日の記事は、そうした現実は伝えていません。むしろ伝えないまま、「無償化」の可能性を伝えることで、「やればできる」という社会の期待感が先行することへの不安もまた、一部弁護士の中にはあるといわなければなりません。ただでもサービス無償化への動きが、有償提供が基本の弁護士の法的サービスを壊すことの方を懸念する声が界内にあるだけになおさらです。
ボランティア活動のうち、主に専門家のスキルを活かした無償の公益活動を指すプロボノという言葉は、既にかなり社会に知られるようになりましたが、もともとが弁護士らの無償活動を指したといわるほど、弁護士にはゆかりがあるものです。しかし、あくまで強制性を伴わない自発性が伴っていることが基本のボランティアである以上、そもそも生活や本業を脅かしてまでやるという前提は基本的にはなく、社会も基本的にそうイメージしているはずです。
一方、日本の弁護士にあっては、プロボノの意義について、弁護士法1条の基本的人権の擁護と社会正義の実現という、使命と結び付け、その精神を体現したものという言い方もされます。前記朝日の記事に登場する弁護士も、プロボノ活動の意義について「弁護士の使命を全うできる」と語っています。
また、公害をはじめ公益的な訴訟活動に取り組む弁護士たちの、いわゆる「手弁当」活動も、プロボノ活動なのだという人もいます。
ただ、そうなると、弁護士がプロボノの対象とする活動は、弁護士の使命に由来する本来的活動なのであって、見方によっては、こと弁護士については、ボランティアが社会にイメージさせる、本業や生活を第一に考えたうえで、出来る範囲でやればよし、というニュアンスのボランティアのイメージとは違ってきます。ここに、弁護士に対する社会的要請と現実の微妙な行き違いが生まれているようにもみえるのです。
度々取り上げていますが、弁護士界ではかつて「経済的自立論」ということがいわれました。おカネにならない、採算性を無視しなければならないが、弁護士の使命からは手掛けるべき人権活動を全うするために、経済的基盤の確保が必要という論法です。
今にしてみれば、ボランティアのように、採算性を無視した活動の実践をその使命として宿命的に背負い、それを社会も弁護士の本来的業務として期待してしまいかねないという、弁護士の生存にかかわる前記行き違いを、この論法が実質的に埋めていたようにとれます。そして、この論法を成立させたのは、皮肉にもこの「改革」が破壊した、かつての弁護士の経済的余裕ということになります。実態は本来的業務でありながら、ボランティアとしてやれる経済的基盤を求めているだけなのですから。
司法改革は「改革」の路線としても、弁護士の自覚としても、この論法を後方に押しやりました。増員時代の弁護士に対し、一定の事業者性の犠牲のうえに、公益性のさらなる追求を求め、それを弁護士自身が自覚的に受けとめる形となった「改革」にあっては、経済的基盤が前提的に語られることなく、現状で問題なく「やれる」、もしくはどの弁護士も、努力次第でやれる程度の発想で、駒を進めたというべきです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「『改革』運動が描いた弁護士像」)。
弁護士の経済的体力への過信、あるいは「改革」の増員政策の影響への甘い見通しが、この発想を支えたというしかありません。そして、結局、今、企業法務弁護士のプロボノ実践が伝えている現実も、なんてことはない「経済的自立論」の正しさではないかと思えるのです(「『採算度外視』の無理と価値」 「『手弁当』の受け皿というテーマ」)。
企業法務系弁護士のプロボノの話を素朴に見聞きした人の中には、結局、今、あるいはこれからの時代に、現実問題として弁護士の使命を全うし、社会の期待にこたえるプロボノ活動をするには、企業法務系弁護士になるしかない、と考える人もいるかもしれません。しかし、社会にとって何が本当に有り難い話だったのかという視点で、弁護士という資格業のあり方と「改革」を考えると、それが唯一の選択肢だったようには思えないのです。
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