「市民」側という自意識と社会的了解
これまでの日弁連・弁護士会の対外的な意見表明をみれば、およそ誰でもその中に、多くの「市民」という言葉が躍っていることに気気付くはずです。司法改革もそうでしたが、新自由主義的な性格をはらんだ流れに対し、あくまで弁護士会は「市民のため」という発想を対峙させ、その流れを作るという立場に立っています。
そこには、単なる目的意識にとどまらず、そもそも自らこそが、「市民のため」に存在し、「市民」の側に立っているという、強固な自意識のようなものを、そこに読み取ることができるはずです。
法曹界、弁護士界の議論を見ていると、およそ当たり前のように受けとめてしまいそうな、このことについて、いったん目を離して考えると、時々、奇妙な気持ちになることがあります。
例えば、長く弁護士会の悲願とされ、この司法改革への加担にも、大きく影響した法曹一元論。最近では、すっかり耳にすることも減った印象ですが、実はこの根底にあるのは、弁護士の優越性といえるものです。裁判官は弁護士経験のある人間から採用されるべきとする、その基本的な発想は、「社会経験が豊か」で、「市民感覚」を反映するのに、最もふさわしい法曹は弁護士である、という前提が存在しています。
長年「在野性」という言葉が、これとほとんど同じ意味として置き換えられてきたといえます。前記法曹一元の発想は、逆にその「市民」の視点での裁判を実現できていない「官僚裁判官制度」の問題と並べてとらえられてきました。つまり、裁判官のキャリアシステムを打破することの意味は、法曹一元実現の意義と同義であり、より「市民」性の反映に的確性を有している弁護士から裁判官が選ばれることが、そのための最適解であるということだったのです。
弁護士会のこの発想は、界内にあって、ほとんど疑う余地のない、アプリオリに、と言いたくなる響きを持っていました。ただ、法曹一元論議の経緯をみれば、はっきりしていますが、非常にシンプルな課題を抱えてきたといえます。弁護士の優越性に対する社会的な了解という点です。あえて弁護士経験のある人間から採用される制度にしなければならないほど、弁護士は前記「最もふさわしい法曹」なのか――。この点に対して、社会がどう理解しているか、という問題です。
法曹一元制度実現化の、ある種の限界が、この点にあると指摘する人もいます。官僚裁判官制度を根底から変える変革に際し、その原点となる、弁護士の裁判官としての前記適格性、あるいは法曹三者の中での優越性を、社会が認知しきれていない、ということです。つとに一元論議では、弁護士の優越性否定は反対派から言われてきたことですが、それをある意味、実証的に跳ね返すだけの社会的了解と認知が十分に構築されていないということになります(「弁護士任官と法曹一元の距離」)
なぜ、こういうことになっているのか――。弁護士界の論客だった故・大野正男弁護士は、自著の中で、この根本的な原因が、判検事を中心に展開した日本の近代的司法制度の中で、立場が低く、差別的に扱われてきた弁護士の歴史にあって、弁護士階層の主要な関心が、判検事に対する水平運動に向けられたことにある、としています。
「弁護士階層の水平運動が、司法という枠の中に限局され、自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていたことにも、注意する必要がある。法曹一元運動の挫折にみられるように、判検事は非常識、弁護士は常識的で社会の実情に明るいという観点のみから、その正当性を主張しても、それを裏づけるに足りる弁護士に対する社会の信頼がなければ、実現することは不可能である」
「法曹一元論は、弁護士の年来の主張であるが、不幸にして、今日に至るまで、社会からの要求・支持の面では見るべきものがない。水平運動としての法曹一元運動が、それなりの正当性の根拠をもちながら、弁護士階層の主張に限局され、なぜ横への――すなわち社会への――広がりをもちえないのか、が問題なのである」(「職業としての弁護士および弁護士団体の歴史」)
冒頭の、弁護士会の「市民のため」アピール、あるいは「市民」の側という自意識に対する奇妙な気持ちは、ここにつながります。とりわけ、この司法改革において、弁護士会側の期待に反し、法曹一元の実現は完全にメニューから外されただけでなく、この「改革」そのものが、そもそも「市民」側法曹としての弁護士という存在への、社会の了解度を醸成させるものに果たしてなったといえるのかも疑わしいといわなければなりません。
弁護士と判検事に対して、社会には前記法曹一元が期待したのとは違う、もう一つの目線が存在しています。公務員たる判検事に対して、自由な資格業である弁護士。これは「公益」に対して貢献することが制度上は予定されている前者に対して、「私益」を追及できる(現実に追及している)後者という目線です。
多分に後者に対する厳しい見方に立ち、数を少なく押さえ、競争を排除し、不当に儲けている弁護士に、公益を意識させよ、「市民」に貢献せよ、という方向に進められたのが、この「改革」路線であり、弁護士自らが事業者性を犠牲にしてでもそうすべき、と受けとめたのが、その現実でした。しかも、激増政策の失敗の結果、多くの弁護士は、逆に採算性、事業者性を、これまで以上に意識しなければ生き残れなくなったのです(「『改革』が求めた弁護士像のちぐはぐ感」)
しかも、前記法曹一元の目的に絡めれば、この「改革」では、「判検事は非常識」というテーマに関して、弁護士という存在が対置されているわけではなく、その是正というイメージでは、完全に裁判員制度にお株を奪われているといえます。法曹一元でなくても、民意を反映させられるという建て前です。
「市民」という言葉は、かつての弁護士会同様の意味合いをもって、今もそのアピールに登場しますが、「顧客」「サービス」への意識を強めた多くの弁護士の中には、その括り方そのものに冷ややかな目線を向けるムードもあります(「弁護士会が登場させる『市民』」)。
弁護士階層の主張が「広がりをもちえない」という大野弁護士のいう問題性はそのままに、もはや「改革」は多くの弁護士に対し、旧来の弁護士会とは違う自意識を広げることになっているといわなければなりません。その現実から、もう一度、果たして誰が、というより、何が「市民のため」なのか考え直す必要があります。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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そこには、単なる目的意識にとどまらず、そもそも自らこそが、「市民のため」に存在し、「市民」の側に立っているという、強固な自意識のようなものを、そこに読み取ることができるはずです。
法曹界、弁護士界の議論を見ていると、およそ当たり前のように受けとめてしまいそうな、このことについて、いったん目を離して考えると、時々、奇妙な気持ちになることがあります。
例えば、長く弁護士会の悲願とされ、この司法改革への加担にも、大きく影響した法曹一元論。最近では、すっかり耳にすることも減った印象ですが、実はこの根底にあるのは、弁護士の優越性といえるものです。裁判官は弁護士経験のある人間から採用されるべきとする、その基本的な発想は、「社会経験が豊か」で、「市民感覚」を反映するのに、最もふさわしい法曹は弁護士である、という前提が存在しています。
長年「在野性」という言葉が、これとほとんど同じ意味として置き換えられてきたといえます。前記法曹一元の発想は、逆にその「市民」の視点での裁判を実現できていない「官僚裁判官制度」の問題と並べてとらえられてきました。つまり、裁判官のキャリアシステムを打破することの意味は、法曹一元実現の意義と同義であり、より「市民」性の反映に的確性を有している弁護士から裁判官が選ばれることが、そのための最適解であるということだったのです。
弁護士会のこの発想は、界内にあって、ほとんど疑う余地のない、アプリオリに、と言いたくなる響きを持っていました。ただ、法曹一元論議の経緯をみれば、はっきりしていますが、非常にシンプルな課題を抱えてきたといえます。弁護士の優越性に対する社会的な了解という点です。あえて弁護士経験のある人間から採用される制度にしなければならないほど、弁護士は前記「最もふさわしい法曹」なのか――。この点に対して、社会がどう理解しているか、という問題です。
法曹一元制度実現化の、ある種の限界が、この点にあると指摘する人もいます。官僚裁判官制度を根底から変える変革に際し、その原点となる、弁護士の裁判官としての前記適格性、あるいは法曹三者の中での優越性を、社会が認知しきれていない、ということです。つとに一元論議では、弁護士の優越性否定は反対派から言われてきたことですが、それをある意味、実証的に跳ね返すだけの社会的了解と認知が十分に構築されていないということになります(「弁護士任官と法曹一元の距離」)
なぜ、こういうことになっているのか――。弁護士界の論客だった故・大野正男弁護士は、自著の中で、この根本的な原因が、判検事を中心に展開した日本の近代的司法制度の中で、立場が低く、差別的に扱われてきた弁護士の歴史にあって、弁護士階層の主要な関心が、判検事に対する水平運動に向けられたことにある、としています。
「弁護士階層の水平運動が、司法という枠の中に限局され、自らの職業がどのような社会的適応性をもっているかという社会的視野に欠けていたことにも、注意する必要がある。法曹一元運動の挫折にみられるように、判検事は非常識、弁護士は常識的で社会の実情に明るいという観点のみから、その正当性を主張しても、それを裏づけるに足りる弁護士に対する社会の信頼がなければ、実現することは不可能である」
「法曹一元論は、弁護士の年来の主張であるが、不幸にして、今日に至るまで、社会からの要求・支持の面では見るべきものがない。水平運動としての法曹一元運動が、それなりの正当性の根拠をもちながら、弁護士階層の主張に限局され、なぜ横への――すなわち社会への――広がりをもちえないのか、が問題なのである」(「職業としての弁護士および弁護士団体の歴史」)
冒頭の、弁護士会の「市民のため」アピール、あるいは「市民」の側という自意識に対する奇妙な気持ちは、ここにつながります。とりわけ、この司法改革において、弁護士会側の期待に反し、法曹一元の実現は完全にメニューから外されただけでなく、この「改革」そのものが、そもそも「市民」側法曹としての弁護士という存在への、社会の了解度を醸成させるものに果たしてなったといえるのかも疑わしいといわなければなりません。
弁護士と判検事に対して、社会には前記法曹一元が期待したのとは違う、もう一つの目線が存在しています。公務員たる判検事に対して、自由な資格業である弁護士。これは「公益」に対して貢献することが制度上は予定されている前者に対して、「私益」を追及できる(現実に追及している)後者という目線です。
多分に後者に対する厳しい見方に立ち、数を少なく押さえ、競争を排除し、不当に儲けている弁護士に、公益を意識させよ、「市民」に貢献せよ、という方向に進められたのが、この「改革」路線であり、弁護士自らが事業者性を犠牲にしてでもそうすべき、と受けとめたのが、その現実でした。しかも、激増政策の失敗の結果、多くの弁護士は、逆に採算性、事業者性を、これまで以上に意識しなければ生き残れなくなったのです(「『改革』が求めた弁護士像のちぐはぐ感」)
しかも、前記法曹一元の目的に絡めれば、この「改革」では、「判検事は非常識」というテーマに関して、弁護士という存在が対置されているわけではなく、その是正というイメージでは、完全に裁判員制度にお株を奪われているといえます。法曹一元でなくても、民意を反映させられるという建て前です。
「市民」という言葉は、かつての弁護士会同様の意味合いをもって、今もそのアピールに登場しますが、「顧客」「サービス」への意識を強めた多くの弁護士の中には、その括り方そのものに冷ややかな目線を向けるムードもあります(「弁護士会が登場させる『市民』」)。
弁護士階層の主張が「広がりをもちえない」という大野弁護士のいう問題性はそのままに、もはや「改革」は多くの弁護士に対し、旧来の弁護士会とは違う自意識を広げることになっているといわなければなりません。その現実から、もう一度、果たして誰が、というより、何が「市民のため」なのか考え直す必要があります。
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