弁護士会が「守るべきもの」というテーマ
これまでも弁護士界外の人間の中で、弁護士会に対して、弁護士のための「利権」団体、あるいは特権的なもので自らを守っている団体であるかのようなイメージを持っている人に、よく出会うことがありました。逆に言うと、弁護士はがっちりと弁護士会に守られている、両者はそういう関係にある、という見方になります。
懲戒制度で「身内のかばい合い」が存在し、厳しく追及されていないという批判の声も、しばしば耳にしました。しかし、弁護士の中にあっては、懲戒制度の公平性や妥当性について、いろいろと問題を指摘する声はあっても、およそそのイメージのごとく、「かばってくれる」と考えている人は、現実的にはほとんどいないはずです。
さらに、それとも関係して、弁護士自治も批判的に引き合いに出されることがしばしばありました。日本の弁護士は、世界でも珍しい強力な自治によって特権的に「保護」されている。監督官庁なきその体制が、前記「身内のかばい合い」という状況につながっている、と。
しかし、弁護士にとっての弁護士自治の「価値」あるいは「有り難味」は、本来、刑事裁判など国家権力と対峙する局面、あるいはその発想のなかで、より明確化するもので、同時にそれが国民の権利擁護という意味で、国民にとっての「価値」「有り難味」につながる、というものです。
だから、現実的に言えば、必ずしもすべての弁護士が自治の「価値」や「有り難味」を日常的に実感できているかは疑問ですし、最近ではこれまでのように何かにつけ、弁護士自治を持ち出す弁護士会の主張に、首をかしげる弁護士の声も沢山聞かれるようになっています。少なくとも、外の世界の人がイメージするような、これを弁護士のための「利権」「特権」のような意識でとらえている人は、制度の是非を問わず、この世界にはほとんどいないといっていいと思います。
また、弁護士人口をめぐり、「改革」で言われた、弁護士会が自ら保身のために数を調整しているなど、独占体質があるという、いわゆる「ギルド批判」といったものも、典型的な「利権」「特権」批判といえます。これに対して、「改革」論議当時の弁護士たちは結果的に自省的に受けとめる形になった面もありますが、数が少なかった現実を、意図的な「需給調整」だとか「利益誘導」のように批判されることには、多くの弁護士が納得していたようにはみえませんでした(「弁護士『ギルド批判』の役割」)。
要するに、いずれも界外でいわれる、弁護士会に対する「利権」あるいは「特権」団体イメージと、弁護士会員の目に映る弁護士会の現実には隔たりがありました。さらにいえば、前記イメージは、司法改革を主導してきた弁護士会主導層にとっても、一般の弁護士会員にとっても、極めて皮肉なものであったといえます。
なぜなら、前者の方々は、「利権」どころが、弁護士会は市民の人権のために身を切るような活動や「改革」を実践し(そのためにも弁護士自治を堅持し)、そのことによって、むしろ評価されるのがふさわしい形だと信じてきた(少なくとも建て前としては)はずであり、一方、多くの会員は、それを一定限度理解しながらも、高額の会費を払っている側として、自分たちがもっと「守られていいのではないか」という、気持ちを募らせてきたからです。
「弁護士費用を払わない依頼者がいれば、弁護士会の総力をもって依頼者に弁護士費用を払わせにかかるのが本来の弁護士会の役割」
「日弁連とは別に(いや日弁連がやってくれるならそれが一番だけど)ひたすらゴリゴリに弁護士の利権の確保を目的として活動する団体とかあったらいい」
ネット上には、弁護士とみられる人たちのこんな言葉が流れています。こうした捉え方には、会内に異論もあるかもしれませんが、いずれにしても、もっと自分たちは守られていいのではないか、という意識の高まりを象徴しているようにとれます。
弁護士会の目的を規定した弁護士法31条1項は、「弁護士会は、弁護士及び弁護士法人の使命及び職務にかんがみ、その品位を保持し、弁護士及び弁護士法人の事務の改善進歩を図るため、弁護士及び弁護士法人の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とする」とあります。
改めてみると、確かにこの中に、今、弁護士会のなかに生まれているような欲求を反映できるような内容は、読みとりにくいと言わなければなりません。この規定に関し、これまで会内で強調されて来た点は、綱紀・懲戒、紛議調停などを含め、弁護士の「品位を保持」するための「指導」「監督」。 弁護士の「事務の改善進歩を図る」ための「指導」「連絡」についても、主に研修などがそれに当たるというものです。
しかし、本来、「弁護士及び弁護士法人の使命及び職務」に最も深刻に関わるのは、その実践を支える経済的基盤であり、それを「利権」と呼ぶかは別にしても、その擁護は、「使命及び職務」遂行のためには、構成員にとって前提的に語られてしかるべきものです。
この規定を見る度に思うのは、この規定のなかで収まることができていた、かつての弁護士と会の現実です。経済的基盤が担保されていたゆえに、多くの弁護士は、前記前提の欠落感を弁護士会の目的に感じないで済んできたのではないでしょうか。そして、これまた皮肉にも、これを根本から変えてしまったのが、前記「『利権』どころが、弁護士会は市民の人権のために身を切るような活動や「改革」を実践し、その面で評価されるのがふさわしい形」と信じて、弁護士会自らが旗を振った司法改革の結果である、という現実です。
昨年、今年のコロナ禍の下でも、そんな弁護士会と弁護士の現実をうかがわせるようなものを目にすることになりました(「欠落した業界団体的姿勢という問題」 「持続可能性への社会的理解と弁護士会の自覚」 「『改革』の責任と組織構成員擁護をめぐる欠落感」)。来年は、日弁連会長選が行われる年でもありますが、新しく弁護士会トップにつく方々は、かつてとは決定的に変わってきた会員の会に対する、この目線とその原因に、どこまで正面から向き合えるのか、そのことにも注目していきたいと思います。
今年も「弁護士観察日記」をお読み頂きありがとうございました。いつもながら皆様から頂戴した貴重なコメントは、大変参考になり、刺激になり、そして助けられました。この場を借りて心から御礼申し上げます。来年も引き続き、よろしくお願い致します。
皆様、よいお年をお迎え下さい。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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懲戒制度で「身内のかばい合い」が存在し、厳しく追及されていないという批判の声も、しばしば耳にしました。しかし、弁護士の中にあっては、懲戒制度の公平性や妥当性について、いろいろと問題を指摘する声はあっても、およそそのイメージのごとく、「かばってくれる」と考えている人は、現実的にはほとんどいないはずです。
さらに、それとも関係して、弁護士自治も批判的に引き合いに出されることがしばしばありました。日本の弁護士は、世界でも珍しい強力な自治によって特権的に「保護」されている。監督官庁なきその体制が、前記「身内のかばい合い」という状況につながっている、と。
しかし、弁護士にとっての弁護士自治の「価値」あるいは「有り難味」は、本来、刑事裁判など国家権力と対峙する局面、あるいはその発想のなかで、より明確化するもので、同時にそれが国民の権利擁護という意味で、国民にとっての「価値」「有り難味」につながる、というものです。
だから、現実的に言えば、必ずしもすべての弁護士が自治の「価値」や「有り難味」を日常的に実感できているかは疑問ですし、最近ではこれまでのように何かにつけ、弁護士自治を持ち出す弁護士会の主張に、首をかしげる弁護士の声も沢山聞かれるようになっています。少なくとも、外の世界の人がイメージするような、これを弁護士のための「利権」「特権」のような意識でとらえている人は、制度の是非を問わず、この世界にはほとんどいないといっていいと思います。
また、弁護士人口をめぐり、「改革」で言われた、弁護士会が自ら保身のために数を調整しているなど、独占体質があるという、いわゆる「ギルド批判」といったものも、典型的な「利権」「特権」批判といえます。これに対して、「改革」論議当時の弁護士たちは結果的に自省的に受けとめる形になった面もありますが、数が少なかった現実を、意図的な「需給調整」だとか「利益誘導」のように批判されることには、多くの弁護士が納得していたようにはみえませんでした(「弁護士『ギルド批判』の役割」)。
要するに、いずれも界外でいわれる、弁護士会に対する「利権」あるいは「特権」団体イメージと、弁護士会員の目に映る弁護士会の現実には隔たりがありました。さらにいえば、前記イメージは、司法改革を主導してきた弁護士会主導層にとっても、一般の弁護士会員にとっても、極めて皮肉なものであったといえます。
なぜなら、前者の方々は、「利権」どころが、弁護士会は市民の人権のために身を切るような活動や「改革」を実践し(そのためにも弁護士自治を堅持し)、そのことによって、むしろ評価されるのがふさわしい形だと信じてきた(少なくとも建て前としては)はずであり、一方、多くの会員は、それを一定限度理解しながらも、高額の会費を払っている側として、自分たちがもっと「守られていいのではないか」という、気持ちを募らせてきたからです。
「弁護士費用を払わない依頼者がいれば、弁護士会の総力をもって依頼者に弁護士費用を払わせにかかるのが本来の弁護士会の役割」
「日弁連とは別に(いや日弁連がやってくれるならそれが一番だけど)ひたすらゴリゴリに弁護士の利権の確保を目的として活動する団体とかあったらいい」
ネット上には、弁護士とみられる人たちのこんな言葉が流れています。こうした捉え方には、会内に異論もあるかもしれませんが、いずれにしても、もっと自分たちは守られていいのではないか、という意識の高まりを象徴しているようにとれます。
弁護士会の目的を規定した弁護士法31条1項は、「弁護士会は、弁護士及び弁護士法人の使命及び職務にかんがみ、その品位を保持し、弁護士及び弁護士法人の事務の改善進歩を図るため、弁護士及び弁護士法人の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とする」とあります。
改めてみると、確かにこの中に、今、弁護士会のなかに生まれているような欲求を反映できるような内容は、読みとりにくいと言わなければなりません。この規定に関し、これまで会内で強調されて来た点は、綱紀・懲戒、紛議調停などを含め、弁護士の「品位を保持」するための「指導」「監督」。 弁護士の「事務の改善進歩を図る」ための「指導」「連絡」についても、主に研修などがそれに当たるというものです。
しかし、本来、「弁護士及び弁護士法人の使命及び職務」に最も深刻に関わるのは、その実践を支える経済的基盤であり、それを「利権」と呼ぶかは別にしても、その擁護は、「使命及び職務」遂行のためには、構成員にとって前提的に語られてしかるべきものです。
この規定を見る度に思うのは、この規定のなかで収まることができていた、かつての弁護士と会の現実です。経済的基盤が担保されていたゆえに、多くの弁護士は、前記前提の欠落感を弁護士会の目的に感じないで済んできたのではないでしょうか。そして、これまた皮肉にも、これを根本から変えてしまったのが、前記「『利権』どころが、弁護士会は市民の人権のために身を切るような活動や「改革」を実践し、その面で評価されるのがふさわしい形」と信じて、弁護士会自らが旗を振った司法改革の結果である、という現実です。
昨年、今年のコロナ禍の下でも、そんな弁護士会と弁護士の現実をうかがわせるようなものを目にすることになりました(「欠落した業界団体的姿勢という問題」 「持続可能性への社会的理解と弁護士会の自覚」 「『改革』の責任と組織構成員擁護をめぐる欠落感」)。来年は、日弁連会長選が行われる年でもありますが、新しく弁護士会トップにつく方々は、かつてとは決定的に変わってきた会員の会に対する、この目線とその原因に、どこまで正面から向き合えるのか、そのことにも注目していきたいと思います。
今年も「弁護士観察日記」をお読み頂きありがとうございました。いつもながら皆様から頂戴した貴重なコメントは、大変参考になり、刺激になり、そして助けられました。この場を借りて心から御礼申し上げます。来年も引き続き、よろしくお願い致します。
皆様、よいお年をお迎え下さい。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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