弁護士の「扱い」への深い疑念
司法改革は、弁護士の意識を否応なく変えるものになりましたが、その中にあって、ある奇妙と言っていい変化に気付かされます。的確な表現が難しい面がありますが、強いて言えば、それは自らの仕事の社会的位置付けに対する失望感のようなものが、弁護士自身から言われ出したということです。
それはどういうことかいえば、自らの仕事に対する必要性と、それに見合う扱い、いわば相応に大切にされているのか、ということへの疑念が生まれたことによるものです。
例えば、それは経済的な意味によって生み出されている面は大きいといえます。法曹養成においては、法科大学院制度によって経済的ハードルが上げられるとともに、国が養成しているという形の要であった給費制も廃止された。ここから導かれるものは、国が特別に保護・育成すべき価値がある存在から、自前の経済力でチャレンジできる人間だけ来い、という存在への転落です。
そして、増員政策によっても需要が顕在化せず、経済的な安定が崩れても、そこに特別な保護・援助の手は差し伸べられません。一サービス業として、「なんとかしろ」が基本です。しかも、そのうえで同時に「プロフェッション」として、採算性を犠牲にしても、公益性を追求すべきという存在になることを突き付けられている。「なんとかしろ」と。
「プロフェッション」と「自営業」という位置付けが、「改革」にとって都合良く主張されている、という指摘もあります。前者で公益性を求め、後者で特別扱いがない存在を求める。その無理を成立させるのも、させないのも、弁護士の努力次第、消える者は消えよ、という扱いになります(「中年老い易く猫飼い難し」氏のツイート」)。
弁護士の経済的異変に対して、「それでもやれる」という結論を導き出す「食える、食えない」論争は一部に起きても、それが「食える」かではなく、なぜか「より高く処遇されるべき」という方向にはならない。そこには、経済的に処遇することで、より優秀な人材を確保する発想も、もはや意欲も、この「改革」にはみられないということになってしまいます。
その結果はもちろん、法曹養成そのものに跳ね返りますが、同時に、弁護士にとっては自らの仕事が、もはやそういう存在なのだ、という自覚に繋がらざるを得ないこともあります。
弁護士が増えて、収入が減って、事務所が維持できないという現実が表面化しても、「改革」論議に参加している人間から「知ったことか」と切り捨てられる。さらには、あろうことか同じ弁護士の口からも「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、司法試験合格者の増員が必要」との発言まで飛び出す(「弁護士『保身』批判が覆い隠す現実」 「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。
弁護士増員政策の失敗が、明らかに弁護士の経済的基盤を直撃し、資格の価値にまで影響しても、「改革」によって法曹養成の中核の座についた法科大学院の関係者は、その事実に冷淡であるということが言われてきました。その彼らももちろん無縁でないはずの、修了者の行き先にかかわる資格の価値の下落に対して、あくまで弁護士が「なんとかしろ」と丸投げする。
いろいろな見方ができるかもしれませんが、そこに直視してしまったらば、当然、増員政策の失敗、見直しに踏み込むことになり、制度維持の要である司法試験合格者数の根本的見直しに踏み込まざるを得ない。それが分かっていればこそ、彼らは弁護士に「なんとかしろ」の無理を押しつけているという風にも見えてしまうのです。
さらに無理といえば、公益性を支える存在と位置付けられている法テラスの弁護士に対する低処遇も、前記「改革」にとって都合がいい、「なんとかしろ」論によって、大切にされていない(その価値を正しく評価されていない)ととれてしまう弁護士の現実があります。既に書いた直接的な「改革」の打撃を受けながら、保護や育成という方向が出てこない「改革」の「町弁」への姿勢にも、同様のことが言えます(「『町弁』という存在への冷淡さ」)。
もはや「法曹志望者や司法修習生、そして資格を取得した法曹のことが『大切に思われていない』というのは、司法制度改革の大きな特徴」という弁護士もいます(Schulze BLOG)。このことがどういう意味を持ち、そのしわ寄せが現実的に「改革」前と比較して、どういう形で法曹と利用者に跳ね返って来ているのか――。そういう視点からの、「改革」の再検証と再評価がなされる日はいつか来るのでしょうか。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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それはどういうことかいえば、自らの仕事に対する必要性と、それに見合う扱い、いわば相応に大切にされているのか、ということへの疑念が生まれたことによるものです。
例えば、それは経済的な意味によって生み出されている面は大きいといえます。法曹養成においては、法科大学院制度によって経済的ハードルが上げられるとともに、国が養成しているという形の要であった給費制も廃止された。ここから導かれるものは、国が特別に保護・育成すべき価値がある存在から、自前の経済力でチャレンジできる人間だけ来い、という存在への転落です。
そして、増員政策によっても需要が顕在化せず、経済的な安定が崩れても、そこに特別な保護・援助の手は差し伸べられません。一サービス業として、「なんとかしろ」が基本です。しかも、そのうえで同時に「プロフェッション」として、採算性を犠牲にしても、公益性を追求すべきという存在になることを突き付けられている。「なんとかしろ」と。
「プロフェッション」と「自営業」という位置付けが、「改革」にとって都合良く主張されている、という指摘もあります。前者で公益性を求め、後者で特別扱いがない存在を求める。その無理を成立させるのも、させないのも、弁護士の努力次第、消える者は消えよ、という扱いになります(「中年老い易く猫飼い難し」氏のツイート」)。
弁護士の経済的異変に対して、「それでもやれる」という結論を導き出す「食える、食えない」論争は一部に起きても、それが「食える」かではなく、なぜか「より高く処遇されるべき」という方向にはならない。そこには、経済的に処遇することで、より優秀な人材を確保する発想も、もはや意欲も、この「改革」にはみられないということになってしまいます。
その結果はもちろん、法曹養成そのものに跳ね返りますが、同時に、弁護士にとっては自らの仕事が、もはやそういう存在なのだ、という自覚に繋がらざるを得ないこともあります。
弁護士が増えて、収入が減って、事務所が維持できないという現実が表面化しても、「改革」論議に参加している人間から「知ったことか」と切り捨てられる。さらには、あろうことか同じ弁護士の口からも「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、司法試験合格者の増員が必要」との発言まで飛び出す(「弁護士『保身』批判が覆い隠す現実」 「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。
弁護士増員政策の失敗が、明らかに弁護士の経済的基盤を直撃し、資格の価値にまで影響しても、「改革」によって法曹養成の中核の座についた法科大学院の関係者は、その事実に冷淡であるということが言われてきました。その彼らももちろん無縁でないはずの、修了者の行き先にかかわる資格の価値の下落に対して、あくまで弁護士が「なんとかしろ」と丸投げする。
いろいろな見方ができるかもしれませんが、そこに直視してしまったらば、当然、増員政策の失敗、見直しに踏み込むことになり、制度維持の要である司法試験合格者数の根本的見直しに踏み込まざるを得ない。それが分かっていればこそ、彼らは弁護士に「なんとかしろ」の無理を押しつけているという風にも見えてしまうのです。
さらに無理といえば、公益性を支える存在と位置付けられている法テラスの弁護士に対する低処遇も、前記「改革」にとって都合がいい、「なんとかしろ」論によって、大切にされていない(その価値を正しく評価されていない)ととれてしまう弁護士の現実があります。既に書いた直接的な「改革」の打撃を受けながら、保護や育成という方向が出てこない「改革」の「町弁」への姿勢にも、同様のことが言えます(「『町弁』という存在への冷淡さ」)。
もはや「法曹志望者や司法修習生、そして資格を取得した法曹のことが『大切に思われていない』というのは、司法制度改革の大きな特徴」という弁護士もいます(Schulze BLOG)。このことがどういう意味を持ち、そのしわ寄せが現実的に「改革」前と比較して、どういう形で法曹と利用者に跳ね返って来ているのか――。そういう視点からの、「改革」の再検証と再評価がなされる日はいつか来るのでしょうか。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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