「経済的淘汰」をめぐる「改革」のツケ
あくまで個人の印象としてと断りを付けますが、いわゆる平成の司法改革が走り出したころ、それを推進していた側の、編集委員などを含む大手メディア関係者と、弁護士増員とその先に予想されていた経済的淘汰について話すと、その返答は非常に歯切れが悪かったことを記憶しています。どういうことかというと、彼らの中にも、そういう形で弁護士が追い詰められていくことが、果たして良い結果を生むのかについて、疑問があるようにとれたということです。
それまでの弁護士の経済的環境は恵まれ過ぎ、そこに弁護士は企業努力ならぬ士業努力を怠ってきた、という当時の弁護士も半ば認めてしまっていた見方を、「改革」推進論者は、度々振りかざしました。前記メディア関係者もその例外ではありませんでしたが、その一方で、いわゆる「手弁当」派も含めて、経済的安定が支えていた、弁護士の公的貢献、まさに公務員でない彼らが、公的な分野を支えられてきた現実が、そこにあったことも彼らは知っていたのです。
そこの歯切れが悪いところを、こちらが突っ込むと、返って来るのは、弁護士の心得違いをいうような、前記論調がいう現実が「社会に受け容れられていない」ということを繰り返すか、当初、増員論が拠り所にしていたような、極めて不確かな眠れる弁護士ニーズの存在を掲げるかでした。
もっともこれは弁護士会内の推進論もそうだったといえます。「経済的自立」論は、もはや社会に通用しないし、「二割司法」がいうように、潜在的ニーズは存在するとしていたわけですから。後者を拠り所にすれば、そもそも経済的淘汰の心配は、それほどする必要がない、と考えてしまった(期待した)弁護士も少なくなかったと思います(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士のプロボノ活動と『経済的自立論』」)。
そもそも弁護士会内推進派から出された、一定の事業者性を犠牲にしても公益性の追求を、という「改革」の発想こそ、それでもなんとかなる、というその点についての非常に楽観的な見方に立脚していたのを、むしろ明らかにしているというべきです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
結局、このことが弁護士の在り方を考えるうえで、根本的な問題として、尾を引き、影を落としているように見えるのです、需要に対する「改革」の思惑は外れ、さらにその「改革」によって、弁護士の「心得違い」を改めさせるメリットが、かつての経済的安定性を失わせるデメリットを上回っているといった実感を、社会が感じているようにも、およそとれないからです。
最近もツィッター上での、弁護士のこんなやりとりが目に止まりました。
「弁護士が他士業と決定的に違うのは、他士業が財産の存在を前提とし、それをどうするかを業とするのに対し、弁護士の仕事は『お金がないがどうにかして』の含まれている割合が高いことだと思っています。 金銭解決できる問題でも、お金がないからどうにかして、という問題もそこに含まれるかなと」
「公務員ではないのにそこをどう担っていくのかという問題が、司法改革で完全に置き去りにされてきたことが残念だなと思います。司法改革はむしろ『弁護士の淘汰』つまり経済的淘汰を正当化していますから」(「向原総合法律事務所 弁護士向原」のツイート)
「弁護士は淘汰されないように、お金が儲からない事件をやらなくなってきたように思います。そこは司法改革のときはどう思ってたのかなと考えています。滋賀では時間によっては受ける人がいないということになっているようです。だって法テラス事件儲からないもん」(佐藤正子弁護士のツイート)
「できる」という前提にたった司法改革は、「できない」現実を結果的に切り捨て、その現実をなんとかする策の論議に、延々と踏み込まない結果を生んでいないか――。「改革」論議の、そしてあの日の推進論者の歯切れの悪さのツケのような気がしてなりません。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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それまでの弁護士の経済的環境は恵まれ過ぎ、そこに弁護士は企業努力ならぬ士業努力を怠ってきた、という当時の弁護士も半ば認めてしまっていた見方を、「改革」推進論者は、度々振りかざしました。前記メディア関係者もその例外ではありませんでしたが、その一方で、いわゆる「手弁当」派も含めて、経済的安定が支えていた、弁護士の公的貢献、まさに公務員でない彼らが、公的な分野を支えられてきた現実が、そこにあったことも彼らは知っていたのです。
そこの歯切れが悪いところを、こちらが突っ込むと、返って来るのは、弁護士の心得違いをいうような、前記論調がいう現実が「社会に受け容れられていない」ということを繰り返すか、当初、増員論が拠り所にしていたような、極めて不確かな眠れる弁護士ニーズの存在を掲げるかでした。
もっともこれは弁護士会内の推進論もそうだったといえます。「経済的自立」論は、もはや社会に通用しないし、「二割司法」がいうように、潜在的ニーズは存在するとしていたわけですから。後者を拠り所にすれば、そもそも経済的淘汰の心配は、それほどする必要がない、と考えてしまった(期待した)弁護士も少なくなかったと思います(「『経済的自立論』の本当の意味」 「弁護士のプロボノ活動と『経済的自立論』」)。
そもそも弁護士会内推進派から出された、一定の事業者性を犠牲にしても公益性の追求を、という「改革」の発想こそ、それでもなんとかなる、というその点についての非常に楽観的な見方に立脚していたのを、むしろ明らかにしているというべきです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
結局、このことが弁護士の在り方を考えるうえで、根本的な問題として、尾を引き、影を落としているように見えるのです、需要に対する「改革」の思惑は外れ、さらにその「改革」によって、弁護士の「心得違い」を改めさせるメリットが、かつての経済的安定性を失わせるデメリットを上回っているといった実感を、社会が感じているようにも、およそとれないからです。
最近もツィッター上での、弁護士のこんなやりとりが目に止まりました。
「弁護士が他士業と決定的に違うのは、他士業が財産の存在を前提とし、それをどうするかを業とするのに対し、弁護士の仕事は『お金がないがどうにかして』の含まれている割合が高いことだと思っています。 金銭解決できる問題でも、お金がないからどうにかして、という問題もそこに含まれるかなと」
「公務員ではないのにそこをどう担っていくのかという問題が、司法改革で完全に置き去りにされてきたことが残念だなと思います。司法改革はむしろ『弁護士の淘汰』つまり経済的淘汰を正当化していますから」(「向原総合法律事務所 弁護士向原」のツイート)
「弁護士は淘汰されないように、お金が儲からない事件をやらなくなってきたように思います。そこは司法改革のときはどう思ってたのかなと考えています。滋賀では時間によっては受ける人がいないということになっているようです。だって法テラス事件儲からないもん」(佐藤正子弁護士のツイート)
「できる」という前提にたった司法改革は、「できない」現実を結果的に切り捨て、その現実をなんとかする策の論議に、延々と踏み込まない結果を生んでいないか――。「改革」論議の、そしてあの日の推進論者の歯切れの悪さのツケのような気がしてなりません。
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