報酬と弁護士会をめぐる欠落感
弁護士報酬と社会の距離感、さらにはそれをめぐる弁護士と社会の意識格差は、大きく変化してきたといえるのでしょうか。弁護士増員とともに、弁護士自身が競争を意識しはじめ、ネット空間でかつてよりもはるかに自ら情報発信するようになっても、根本のところで変わっていないようにとれるのはなぜでしょうか。
むしろ意識というのであれば、弁護士は、増員政策によって、結果的に生み出されている報酬をめぐる、自らが置かれている状況に、かつてより危機感を抱き、それを社会が十分理解していない現実が存在しているようにもとれます。
振り返れば、司法改革における弁護士報酬についての、弁護士会主導層の受けとめ方は、大きく自由化と透明化・明確化というものでした。会が報酬規定を定めず、個々の弁護士が顧客との信頼関係に基づき、自主的に報酬額を定める。その一方で利用者市民のために、分かりにくいとされる報酬について、より透明化と明確化を進めなければならない――。
改革論調のなかでは、それこそが増員政策とも矛盾ない、むしろ弁護士の進出につながる、それにマッチした発想とされた観がありました。しかし、ここには冒頭に書いたような社会との距離感や意識格差を埋めきれないことにつながる、ある観点の抜け落ちがあったようにとれます。
一つは、弁護士の活用や報酬に対する弁護士会の問題意識が、常に利用者市民の無理解や不安解消に偏り過ぎ、あるいは期待しすぎるということです。どういうことかといえば、市民からみた弁護士の活用可能性や報酬に対する認識を、弁護士側が積極的に解消する努力をすれば、すべてはうまくいくという考え方に偏るということです。
確かに弁護士報酬への不安や不透明感が、利用者市民の弁護士へのアクセスへの阻害要因になっている現実はあるとされています(LIBRA「特集 弁護士報酬を考える」)。ただ、すべてが利用者市民側の認識や無知の問題にはできず、そもそも利用者の経済的負担感そのものをどうするか、という点があります。つまりは、誤解さえ取り除けば、弁護士を利用したい市民は、果たして弁護士が想定するような報酬額を弁護士に投入するのか、その用意があるのか、という問題です。
そして、もう一つの観点は、司法改革の増員政策そのものが、報酬の低廉化への期待をはらんでいることを、弁護士会側がどれだけ意識して、前提的に向き合ったのかという点です。そもそも弁護士業が置かれる多くの局面で、弁護士費用は利用者にとって、よりマイナスになることを防ぐための仕方のない出費であり、積極的な投資と位置づけられない。それだけにより低廉化のインセンティブは働きやすい面があります(ペンたろー@Return_to_Asia)。
そのうえで弁護士が増やされるという状況は、当然、競争の結果いう意味でも、単に増員弁護士の中には、どこかに安く引き受ける人もいるのではないかという捉え方でも、より低廉化への期待を背負ってしまう。そのこと自体を弁護士会がとらえきれていたのか、という話です。
あえて別の言い方をしてしまえば、増員政策の結果によっても、その期待にはこたえきれない、という社会の「誤解」について、(あるいは同政策にそもそも低廉化への意図が内包されていることを認識していながら)、それを解消する積極的な働きかけを、「改革」推進論調のなかではしていないということなのです(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」「弁護士業務への無理解という前提」)。
つまり、この観点の抜け落ちたことが、結局、多くの弁護士が今、より持続可能性ということがら、報酬の現実に対して、危機感を持たなければならない状況を生み出しているようにみえるのです。
いま、3月に開催される日弁連臨時総会で上程される決議案をめぐり、法テラスでの扶助給付化と弁護士報酬の適正化の行方に、会員の注目が集まり始めています。しかし、弁護士の経済的疲弊や、報酬への不満からの法テラス離れの現実がありながら、給付化実現の前に、報酬増額はどこまで強調されるのか、という不安も会内には広がっています。
むしろ「改革」がはらんでいた、弁護士会が十分直視したとはいえない低廉化の要求や期待とは、まさに増額とは逆のベクトルの「適正化」であったことを考えれば、やはり弁護士会がそこを余程意識しなければ、大きな流れを変える方向は生み出せないように思えます。
弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046
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むしろ意識というのであれば、弁護士は、増員政策によって、結果的に生み出されている報酬をめぐる、自らが置かれている状況に、かつてより危機感を抱き、それを社会が十分理解していない現実が存在しているようにもとれます。
振り返れば、司法改革における弁護士報酬についての、弁護士会主導層の受けとめ方は、大きく自由化と透明化・明確化というものでした。会が報酬規定を定めず、個々の弁護士が顧客との信頼関係に基づき、自主的に報酬額を定める。その一方で利用者市民のために、分かりにくいとされる報酬について、より透明化と明確化を進めなければならない――。
改革論調のなかでは、それこそが増員政策とも矛盾ない、むしろ弁護士の進出につながる、それにマッチした発想とされた観がありました。しかし、ここには冒頭に書いたような社会との距離感や意識格差を埋めきれないことにつながる、ある観点の抜け落ちがあったようにとれます。
一つは、弁護士の活用や報酬に対する弁護士会の問題意識が、常に利用者市民の無理解や不安解消に偏り過ぎ、あるいは期待しすぎるということです。どういうことかといえば、市民からみた弁護士の活用可能性や報酬に対する認識を、弁護士側が積極的に解消する努力をすれば、すべてはうまくいくという考え方に偏るということです。
確かに弁護士報酬への不安や不透明感が、利用者市民の弁護士へのアクセスへの阻害要因になっている現実はあるとされています(LIBRA「特集 弁護士報酬を考える」)。ただ、すべてが利用者市民側の認識や無知の問題にはできず、そもそも利用者の経済的負担感そのものをどうするか、という点があります。つまりは、誤解さえ取り除けば、弁護士を利用したい市民は、果たして弁護士が想定するような報酬額を弁護士に投入するのか、その用意があるのか、という問題です。
そして、もう一つの観点は、司法改革の増員政策そのものが、報酬の低廉化への期待をはらんでいることを、弁護士会側がどれだけ意識して、前提的に向き合ったのかという点です。そもそも弁護士業が置かれる多くの局面で、弁護士費用は利用者にとって、よりマイナスになることを防ぐための仕方のない出費であり、積極的な投資と位置づけられない。それだけにより低廉化のインセンティブは働きやすい面があります(ペンたろー@Return_to_Asia)。
そのうえで弁護士が増やされるという状況は、当然、競争の結果いう意味でも、単に増員弁護士の中には、どこかに安く引き受ける人もいるのではないかという捉え方でも、より低廉化への期待を背負ってしまう。そのこと自体を弁護士会がとらえきれていたのか、という話です。
あえて別の言い方をしてしまえば、増員政策の結果によっても、その期待にはこたえきれない、という社会の「誤解」について、(あるいは同政策にそもそも低廉化への意図が内包されていることを認識していながら)、それを解消する積極的な働きかけを、「改革」推進論調のなかではしていないということなのです(「弁護士報酬をめぐる不安感と不信感」「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」「弁護士業務への無理解という前提」)。
つまり、この観点の抜け落ちたことが、結局、多くの弁護士が今、より持続可能性ということがら、報酬の現実に対して、危機感を持たなければならない状況を生み出しているようにみえるのです。
いま、3月に開催される日弁連臨時総会で上程される決議案をめぐり、法テラスでの扶助給付化と弁護士報酬の適正化の行方に、会員の注目が集まり始めています。しかし、弁護士の経済的疲弊や、報酬への不満からの法テラス離れの現実がありながら、給付化実現の前に、報酬増額はどこまで強調されるのか、という不安も会内には広がっています。
むしろ「改革」がはらんでいた、弁護士会が十分直視したとはいえない低廉化の要求や期待とは、まさに増額とは逆のベクトルの「適正化」であったことを考えれば、やはり弁護士会がそこを余程意識しなければ、大きな流れを変える方向は生み出せないように思えます。
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