日弁連「偏向」批判記事が伝えた、もうひとつの現実
4月4日から産経新聞が「戦後72年 弁護士会」という企画記事の連載を始めました。「第1部 政治闘争に走る『法曹』」は同日から8日まで連日、5回の連載で、毎回1面と3面(5回目だけ3面のみ)に分け、それなりのスペースを割いており、この企画に対する、力の入れようがうかがいしれるところです。
この第1部のタイトルを見ただけで、この企画が何を言いたいのか、想像できる方が、少なくとも当ブログをご覧頂いている方のなかには多いのではないか、と思います。毎回、安保法制、集団的自衛権、慰安婦問題、死刑廃止といった問題への日弁連の意見表明にスポットを当て、「政治闘争」「左傾的闘争体質」、あるいはそれが会員の思想・信条を犠牲にしているという強制加入団体としての適格性という観点から、批判的に取り上げた企画です。
産経によれば、第2部の掲載予定やタイトルは未定ということでしたが、第1部最終回の末尾には、「なぜ、こんな偏向がまかり通り、一般感覚とのずれが生じるのだろう。第2部では日弁連や単位弁護士会の組織にひそむ要因を探る」としており、久々の日弁連・弁護士会への大々的な批判キャンペーンが展開されるもようです。
しかし、少なくとも、この第1部でテーマになっている「政治闘争」であるとか、そことつなげた強制加入団体のあり方に対する批判的な論調に対しては、日弁連・弁護士会は基本的に1つのことを繰り返し言い続けるしかないし、そうしなければならない、と考えます。それは要は、人権擁護を使命とする法律専門家集団として「言うべきことは言う」ということです。
ここで間違ってはいけないのは、「政治的なもの」は言わないということではなく、むしろ「政治的であっても言う」ということです。「政治活動である」とか、「特定の政党・政治家の主張と被る」という批判があっても、沈黙しない。そうした批判にその都度、沈黙することの方が、むしろ前記使命からその適格性を問われる団体でなければならないはずなのです。
逆にそこで筋を通せない、あるいは曖昧な姿勢をとれば、前記使命からは、人権擁護を掲げる法律専門家集団としては、資質が問われる。まさにここは絶対に譲ってはいけない生命線だと思います。既に国家秘密法反対運動に関しての司法判断(1992年東京地・高裁)でも認めている、その組織でしか使命を達成できない積極的な存在意義を、会員個人の思想・信条と切り離すという考え方も、逆に言えば、その生命線がぐらつかないもとでこそ、主張されるべきてあり、また、そうでなければ、前記司法判断が立った根拠もぐらつきはじめてしまうとみるべきなのです(「金沢弁護士会、特定秘密法反対活動「自粛」という前例」 「弁護士会が『政治的』であるということ」)。
産経の企画が、こうした日弁連のスタンスに言及していないわけではありません。前記司法判断や、安保関連法案等の活動を問題した会員が起こした訴訟について会員の主張を退けた今年2月の東京地裁判決も引用し、特定の政治上の主義や目的によらない「法理論上の見地」に立っているという日弁連の主張に触れています。しかし、その点は同訴訟を提訴した会員の「法理論に絡めば、どんな政治活動も『何でもあり』なのか」という声を取り上げ、この基本的で本質的な論点をスル―してしまっています。
一方で、このシリーズには、編集者の意図とは必ずしも合致していないかもしれない、ある別の日弁連の現実を伝えている箇所があります。それは、4月5日付けのシリーズ2回目、集団的自衛権行使容認反対、立憲主義の意義確認をうたった2014年5月の日弁連総会決議をめぐる議論に触れた記事のなかにありました。会場から「日本有事」の際に日本がどう行動すべきかをただした会員に対して、回答に立った副会長は「日弁連という団体の性格からして、(見解を)示すべきであるか否かも問題であるところかと思う」「検討することは必要」としながら「今どのように考えるか回答することは適切ではない」とかわした、という話です。
記事は、この時の日弁連執行部の対応への、この会員の次のような考えを伝えています。
「政治も根本は法律で動く以上、法律家集団の意見が政治性を帯びることはある意味当然と考えている。問題は最初から一方向で結論が決まり、議論にならないことだ」
さらに、記事はこの会員と正反対の決議賛成の立場で、「主流派」の集団的自衛権反対を評価しつつ、司法改革では反執行部派である会員が、この時に執行部がまともに答えず採決したことに疑問を持っていることを紹介し、彼の次のような言葉を抜いています。
「日弁連は議論しないといけない。それをしないのは自滅の道だ」
立場が違う2会員は、日弁連が「政治的」なテーマに向き合うことを問題視しているのではなく、むしろこうした問題で会員に対して、きちっと向き合っていない一点では、共通の問題意識と危機感を持っている、という現実を伝えていることになります。
いま、多くの会員が問題視し始めているのは、産経の企画が伝えようとしている、日弁連の活動の政治的な「偏向」よりも、むしろ会員への対応そのものではないのか、と思えます。会内対応の粗雑さ、会内民主主義の劣化といってもいかもしれません。先日の委任状問題が発覚した日弁連臨時総会での対応(「弁護士自治の足を引っ張った日弁連臨時総会」)にもつながりますが、会内の合意形成に対する執行部の姿勢そのものに、共感できない、よそよそしいものを感じる会員の声は強まっています。
それは、さらにいえば、一方で日弁連が旗を振った「改革」のしわ寄せを受けた会員に対して、執行部は一体何をやってくれているのか、あるいはくれるのかを、実感できない。あたかも、そうした会員の状況や認識と、組織として筋を通す対外活動へのコンセンサスは、全く別物として切り離しているような執行部の姿勢が通用しなくなりつつあるという現実があるようにみえます。強制加入・自治への不満は、いまや思想・信条の問題よりも、会費負担や、「改革」が生み出した弁護士過剰と経済激変の現実に対して「会員のため」に何をしているのか、という問題意識にかかわっている、とみるべきです。
「政治的偏向」批判を恐れて、沈黙することも、会内民主主義が粗雑化していくことも、そして「改革」の結果として会員が離反していくことも、いずれも日弁連・弁護士会にとっては「自滅の道」といわなければならないのです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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この第1部のタイトルを見ただけで、この企画が何を言いたいのか、想像できる方が、少なくとも当ブログをご覧頂いている方のなかには多いのではないか、と思います。毎回、安保法制、集団的自衛権、慰安婦問題、死刑廃止といった問題への日弁連の意見表明にスポットを当て、「政治闘争」「左傾的闘争体質」、あるいはそれが会員の思想・信条を犠牲にしているという強制加入団体としての適格性という観点から、批判的に取り上げた企画です。
産経によれば、第2部の掲載予定やタイトルは未定ということでしたが、第1部最終回の末尾には、「なぜ、こんな偏向がまかり通り、一般感覚とのずれが生じるのだろう。第2部では日弁連や単位弁護士会の組織にひそむ要因を探る」としており、久々の日弁連・弁護士会への大々的な批判キャンペーンが展開されるもようです。
しかし、少なくとも、この第1部でテーマになっている「政治闘争」であるとか、そことつなげた強制加入団体のあり方に対する批判的な論調に対しては、日弁連・弁護士会は基本的に1つのことを繰り返し言い続けるしかないし、そうしなければならない、と考えます。それは要は、人権擁護を使命とする法律専門家集団として「言うべきことは言う」ということです。
ここで間違ってはいけないのは、「政治的なもの」は言わないということではなく、むしろ「政治的であっても言う」ということです。「政治活動である」とか、「特定の政党・政治家の主張と被る」という批判があっても、沈黙しない。そうした批判にその都度、沈黙することの方が、むしろ前記使命からその適格性を問われる団体でなければならないはずなのです。
逆にそこで筋を通せない、あるいは曖昧な姿勢をとれば、前記使命からは、人権擁護を掲げる法律専門家集団としては、資質が問われる。まさにここは絶対に譲ってはいけない生命線だと思います。既に国家秘密法反対運動に関しての司法判断(1992年東京地・高裁)でも認めている、その組織でしか使命を達成できない積極的な存在意義を、会員個人の思想・信条と切り離すという考え方も、逆に言えば、その生命線がぐらつかないもとでこそ、主張されるべきてあり、また、そうでなければ、前記司法判断が立った根拠もぐらつきはじめてしまうとみるべきなのです(「金沢弁護士会、特定秘密法反対活動「自粛」という前例」 「弁護士会が『政治的』であるということ」)。
産経の企画が、こうした日弁連のスタンスに言及していないわけではありません。前記司法判断や、安保関連法案等の活動を問題した会員が起こした訴訟について会員の主張を退けた今年2月の東京地裁判決も引用し、特定の政治上の主義や目的によらない「法理論上の見地」に立っているという日弁連の主張に触れています。しかし、その点は同訴訟を提訴した会員の「法理論に絡めば、どんな政治活動も『何でもあり』なのか」という声を取り上げ、この基本的で本質的な論点をスル―してしまっています。
一方で、このシリーズには、編集者の意図とは必ずしも合致していないかもしれない、ある別の日弁連の現実を伝えている箇所があります。それは、4月5日付けのシリーズ2回目、集団的自衛権行使容認反対、立憲主義の意義確認をうたった2014年5月の日弁連総会決議をめぐる議論に触れた記事のなかにありました。会場から「日本有事」の際に日本がどう行動すべきかをただした会員に対して、回答に立った副会長は「日弁連という団体の性格からして、(見解を)示すべきであるか否かも問題であるところかと思う」「検討することは必要」としながら「今どのように考えるか回答することは適切ではない」とかわした、という話です。
記事は、この時の日弁連執行部の対応への、この会員の次のような考えを伝えています。
「政治も根本は法律で動く以上、法律家集団の意見が政治性を帯びることはある意味当然と考えている。問題は最初から一方向で結論が決まり、議論にならないことだ」
さらに、記事はこの会員と正反対の決議賛成の立場で、「主流派」の集団的自衛権反対を評価しつつ、司法改革では反執行部派である会員が、この時に執行部がまともに答えず採決したことに疑問を持っていることを紹介し、彼の次のような言葉を抜いています。
「日弁連は議論しないといけない。それをしないのは自滅の道だ」
立場が違う2会員は、日弁連が「政治的」なテーマに向き合うことを問題視しているのではなく、むしろこうした問題で会員に対して、きちっと向き合っていない一点では、共通の問題意識と危機感を持っている、という現実を伝えていることになります。
いま、多くの会員が問題視し始めているのは、産経の企画が伝えようとしている、日弁連の活動の政治的な「偏向」よりも、むしろ会員への対応そのものではないのか、と思えます。会内対応の粗雑さ、会内民主主義の劣化といってもいかもしれません。先日の委任状問題が発覚した日弁連臨時総会での対応(「弁護士自治の足を引っ張った日弁連臨時総会」)にもつながりますが、会内の合意形成に対する執行部の姿勢そのものに、共感できない、よそよそしいものを感じる会員の声は強まっています。
それは、さらにいえば、一方で日弁連が旗を振った「改革」のしわ寄せを受けた会員に対して、執行部は一体何をやってくれているのか、あるいはくれるのかを、実感できない。あたかも、そうした会員の状況や認識と、組織として筋を通す対外活動へのコンセンサスは、全く別物として切り離しているような執行部の姿勢が通用しなくなりつつあるという現実があるようにみえます。強制加入・自治への不満は、いまや思想・信条の問題よりも、会費負担や、「改革」が生み出した弁護士過剰と経済激変の現実に対して「会員のため」に何をしているのか、という問題意識にかかわっている、とみるべきです。
「政治的偏向」批判を恐れて、沈黙することも、会内民主主義が粗雑化していくことも、そして「改革」の結果として会員が離反していくことも、いずれも日弁連・弁護士会にとっては「自滅の道」といわなければならないのです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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