「改革」のあいまいさと職業モデルの関係
今回の司法改革が、弁護士の「ニーズ」と括られるものの、有償性と無償性を明確に区分してとらえなかったことは、これまでも書いてきたように、「改革」の結果に大きなツケとなって回ってきた、といえます。いうまでもなく、その最も明らかな結果は、あれほど「ある」「眠っている」あるいは「生まれる」とされたニーズも、少なくとも必要とされた大量の弁護士を経済的に支えるほど存在しなかったことです。
そして、市場原理を重んじる「改革」が必然的にたどりつくことが予想され、現にその方向で進んでいる弁護士のビジネス化と、前記結果によって生まれた「生存」のテーマ化によって、弁護士ニーズの有償・無償の区分という問題を、多くの弁護士がいまさらのように気付かされる結果になったのです。
弁護士という仕事が、この区分を明確にしないで済む時代が終わった、「改革」がそれを終わらせたのだ、という捉え方をしている弁護士は、いまや少なくないと思います。「経済的自立論」といわれたような、有償のニーズを弁護士がしっかりと安定的に引き受けることができるからこそ、無償分野を手掛けられた時代が終わった、と。「市民のための『改革』」というであれば、そのことと「改革」の評価を結び付けてとらえる視点は、ひとつあり得るとは思います(「『経済的自立論』の本当の意味」)。
しかし、なぜ、この点があいまいなまま、「改革」が着手されたのか、さらにいえば、弁護士会主導層の姿勢も含め、あいまいにならざるを得ないものを、この仕事が引きずっているのかを突きつめれば、まさにこの仕事が引きずってきた職業モデルというテーマ、あるいは議論に辿りつく、といえます。
これについて、かつて森山文昭弁護士が的確にまとめた論稿を発表していました(「弁護士制度改革と弁護士像――新しい人権モデルの提唱」〈「いま弁護士は、そして明日は?」エディックス〉)。それを参考にさせて頂きながらまとめれば、まず、従来弁護士という仕事には、在野性ということと結び付けてとらえる見方が支配的でした。弁護士は在野法曹であるからこそ、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士法1条の使命を達成できる。明治以来の権力との闘いのなかでその精神が形成され、権力との対抗関係を維持できる立場こそ、弱者・少数者の人権擁護も含め、この仕事の職責を全うできるというものです(「在野モデル」)。
しかし、弁護士の仕事の多様化が進むにつれて、このモデルに対する批判的見解が有力視されるようになってきた。例えば、弁護士業務の大半は対等市民間の紛争解決を目指す一般民事がほとんどで、権力対峙性をはらむ業務は一部であるとか、あらゆる階層の弁護もする業務の非階層性(例えば、公害発生企業のような人権を侵害をした側の弁護も行う)をこのモデルが説明しきれないという指摘です。
そして、このモデルに対するカウンターモデルとして登場したのが、弁護士を政治的に中立な「プロフェッション」であるという捉え方です(「プロフェッションモデル」)。いま、この捉え方は、後述するような採算性を追求するモデルと調和的にとらえている弁護士もいますが、少なくとも当初強調されたのは、公共性であり、それへの奉仕性で、要するに聖職者や医師と並べた扱いだったのです。
当初の司法改革路線も、その中における弁護士改革も、表向きまさにこの描き方が強調されるものだったといえます。司法制度改革審議会意見書の建て前にしても、弁護士会内「改革」主導層から出された「お布施論」にしても、その後の「成仏理論」にしても、ビジネス化という「改革」の行き先が分かっていながら、強調された(「弁護士報酬『お布施』論の役割」 「弁護士『成仏理論』が描き出す未来」)。
その当然の反応として、実は、このモデルはむしろこの「改革」に市場原理、自由競争を被せた側から批判されることになります。弁護士が「プロフェッション」であることを理由に、弁護士業務に自由競争はなじまないとして、業務改革を阻害している、と。弁護士増員、業務広告自由化、外国弁護士の参入、弁護士補助職導入などで、この「プロフェッション性」が弁護士会側の反対論拠となっているという捉え方にもなっています。
正確にはプロフェッション性の否定というのではなく、市場原理、採算性と両立する形が求められたということです。実は、ここ辺りから、この「改革」における弁護士という仕事のあいまいさにつながっていきます。つまり、プロフェッション性をビジネス化に抵抗する理論的支柱とする見方からは、さまざまな解釈が導き出されてくるのです。例えば、森山弁護士も挙げていますが、プロボノの義務化にしても、プロフェッションであればこそ、個々の弁護士業務に公共性が内在しているから義務化に反対という結論も導き出されれば、プロフェッションであればこそ、義務化に応えよ、という論も導かれる。弁護士増員にしても、ビジネス化には反対であっても、プロフェッションの公共性に着目すれば、それに応える数がいる、という論に引きずられることにもなる。
森山弁護士は、こうした点を弁護士の「従来の活動の弱点」としていますが、ここをつくのが、結局、ビジネスと割り切る考え方ということでした(「ビジネスモデル」)。有償・無償の区別なくとらえた「プロフェッション性」の捉え方が、どこか弁護士の利己的で保身的なスタンスと結び付けられ、ビジネスと割り切る考え方こそが現代的であるという捉え方のなかで、営利目的を排除して担ってきた、あるいは担うとしてきた部分が、あいまいのまま取り残さる形になったのです(「弁護士『プロフェッション』の行方」 「『生業』と『ボランティア』というテーマ」)。
むしろ、今となってみれば、有償のニーズに対するどんな誤算があったにせよ、弁護士会主導層があいまいさを分かっていながら「改革」に突っ込んだことを批判する見方は会内にもあります。ならばこそ、この部分を問題にすることそのものから、関心が離れつつあることも理解できなくありません。弁護士業務を「ビジネス」と括ることに、かつてほど抵抗がない弁護士は、こうして誕生したのです。そもそもそういうことを考えないで済む、企業内弁護士が人気であるということは、経済的安定志向だけでなく、この意味でも象徴的なものにとれます。
しかし、あえていわなければならないのは、弁護士の「ビジネス化」の景色として映っているものが、弁護士の目と社会の目では違うということです。いまや多くの弁護士からすれば、あるいはこの流れに、「改革」のあいまいさも責任も振り返る価値すらない、必然的なものとして捉えられるかもしれません。しかし、そう社会は割りきれているのでしょうか。
利用者にも分かってもらわねば、ということを昨今強調する弁護士は多くなりましたが、「かつての弁護士とは違います。利用者もビジネスと割りきって下さい」というアピールを積極的にされているわけでもありません。そして、すべて分かった上で、この結果を利用者は有り難い「改革」の成果と受けとめるのでしょうか。この「改革」を社会が望んだと括られることには、やはり違和感があります。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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そして、市場原理を重んじる「改革」が必然的にたどりつくことが予想され、現にその方向で進んでいる弁護士のビジネス化と、前記結果によって生まれた「生存」のテーマ化によって、弁護士ニーズの有償・無償の区分という問題を、多くの弁護士がいまさらのように気付かされる結果になったのです。
弁護士という仕事が、この区分を明確にしないで済む時代が終わった、「改革」がそれを終わらせたのだ、という捉え方をしている弁護士は、いまや少なくないと思います。「経済的自立論」といわれたような、有償のニーズを弁護士がしっかりと安定的に引き受けることができるからこそ、無償分野を手掛けられた時代が終わった、と。「市民のための『改革』」というであれば、そのことと「改革」の評価を結び付けてとらえる視点は、ひとつあり得るとは思います(「『経済的自立論』の本当の意味」)。
しかし、なぜ、この点があいまいなまま、「改革」が着手されたのか、さらにいえば、弁護士会主導層の姿勢も含め、あいまいにならざるを得ないものを、この仕事が引きずっているのかを突きつめれば、まさにこの仕事が引きずってきた職業モデルというテーマ、あるいは議論に辿りつく、といえます。
これについて、かつて森山文昭弁護士が的確にまとめた論稿を発表していました(「弁護士制度改革と弁護士像――新しい人権モデルの提唱」〈「いま弁護士は、そして明日は?」エディックス〉)。それを参考にさせて頂きながらまとめれば、まず、従来弁護士という仕事には、在野性ということと結び付けてとらえる見方が支配的でした。弁護士は在野法曹であるからこそ、基本的人権の擁護と社会正義の実現という弁護士法1条の使命を達成できる。明治以来の権力との闘いのなかでその精神が形成され、権力との対抗関係を維持できる立場こそ、弱者・少数者の人権擁護も含め、この仕事の職責を全うできるというものです(「在野モデル」)。
しかし、弁護士の仕事の多様化が進むにつれて、このモデルに対する批判的見解が有力視されるようになってきた。例えば、弁護士業務の大半は対等市民間の紛争解決を目指す一般民事がほとんどで、権力対峙性をはらむ業務は一部であるとか、あらゆる階層の弁護もする業務の非階層性(例えば、公害発生企業のような人権を侵害をした側の弁護も行う)をこのモデルが説明しきれないという指摘です。
そして、このモデルに対するカウンターモデルとして登場したのが、弁護士を政治的に中立な「プロフェッション」であるという捉え方です(「プロフェッションモデル」)。いま、この捉え方は、後述するような採算性を追求するモデルと調和的にとらえている弁護士もいますが、少なくとも当初強調されたのは、公共性であり、それへの奉仕性で、要するに聖職者や医師と並べた扱いだったのです。
当初の司法改革路線も、その中における弁護士改革も、表向きまさにこの描き方が強調されるものだったといえます。司法制度改革審議会意見書の建て前にしても、弁護士会内「改革」主導層から出された「お布施論」にしても、その後の「成仏理論」にしても、ビジネス化という「改革」の行き先が分かっていながら、強調された(「弁護士報酬『お布施』論の役割」 「弁護士『成仏理論』が描き出す未来」)。
その当然の反応として、実は、このモデルはむしろこの「改革」に市場原理、自由競争を被せた側から批判されることになります。弁護士が「プロフェッション」であることを理由に、弁護士業務に自由競争はなじまないとして、業務改革を阻害している、と。弁護士増員、業務広告自由化、外国弁護士の参入、弁護士補助職導入などで、この「プロフェッション性」が弁護士会側の反対論拠となっているという捉え方にもなっています。
正確にはプロフェッション性の否定というのではなく、市場原理、採算性と両立する形が求められたということです。実は、ここ辺りから、この「改革」における弁護士という仕事のあいまいさにつながっていきます。つまり、プロフェッション性をビジネス化に抵抗する理論的支柱とする見方からは、さまざまな解釈が導き出されてくるのです。例えば、森山弁護士も挙げていますが、プロボノの義務化にしても、プロフェッションであればこそ、個々の弁護士業務に公共性が内在しているから義務化に反対という結論も導き出されれば、プロフェッションであればこそ、義務化に応えよ、という論も導かれる。弁護士増員にしても、ビジネス化には反対であっても、プロフェッションの公共性に着目すれば、それに応える数がいる、という論に引きずられることにもなる。
森山弁護士は、こうした点を弁護士の「従来の活動の弱点」としていますが、ここをつくのが、結局、ビジネスと割り切る考え方ということでした(「ビジネスモデル」)。有償・無償の区別なくとらえた「プロフェッション性」の捉え方が、どこか弁護士の利己的で保身的なスタンスと結び付けられ、ビジネスと割り切る考え方こそが現代的であるという捉え方のなかで、営利目的を排除して担ってきた、あるいは担うとしてきた部分が、あいまいのまま取り残さる形になったのです(「弁護士『プロフェッション』の行方」 「『生業』と『ボランティア』というテーマ」)。
むしろ、今となってみれば、有償のニーズに対するどんな誤算があったにせよ、弁護士会主導層があいまいさを分かっていながら「改革」に突っ込んだことを批判する見方は会内にもあります。ならばこそ、この部分を問題にすることそのものから、関心が離れつつあることも理解できなくありません。弁護士業務を「ビジネス」と括ることに、かつてほど抵抗がない弁護士は、こうして誕生したのです。そもそもそういうことを考えないで済む、企業内弁護士が人気であるということは、経済的安定志向だけでなく、この意味でも象徴的なものにとれます。
しかし、あえていわなければならないのは、弁護士の「ビジネス化」の景色として映っているものが、弁護士の目と社会の目では違うということです。いまや多くの弁護士からすれば、あるいはこの流れに、「改革」のあいまいさも責任も振り返る価値すらない、必然的なものとして捉えられるかもしれません。しかし、そう社会は割りきれているのでしょうか。
利用者にも分かってもらわねば、ということを昨今強調する弁護士は多くなりましたが、「かつての弁護士とは違います。利用者もビジネスと割りきって下さい」というアピールを積極的にされているわけでもありません。そして、すべて分かった上で、この結果を利用者は有り難い「改革」の成果と受けとめるのでしょうか。この「改革」を社会が望んだと括られることには、やはり違和感があります。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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