「給費制」から遠ざかる日弁連
給費制の廃止後の6年間、無給での司法修習を余儀なくされた元修習生(新65期~70期、事実上、現在弁護士)を指す言葉として、業界内ではほぼ定着した「谷間世代」という表現への違和感を指摘する声が、業界内の一部にはずっとあります。端的に言って、この表現は、給付制が給費制の完全復活ととらえられ、両制度は別物で、71期以降についても、まだ問題が残っているということをイメージさせない、という指摘です。
前記したような無給時代を強調するうえで、「谷間」という表現には分かりやすさがあります。また、私も、給付制採用を「事実上」と前置きをして給費制の「復活」と表現しましたが、そこには無給状態が通用しなくなった現実の方を強調する意味合いがありました(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。
言い訳がましくなるかもしれませんが、冒頭の違和感にあるような、前後の両制度が別物で、完全復活ではない、ということを当然の前提としていたつもりですし、私は「谷間」という表現を使う、あるいは給費制を知っている多くの弁護士たちの意識としても、当然でそうであると思っていました。つまり、あくまで新制度は元の地平ではない、と。
それは、給費制の月額20万円が、給付制では13万5000円であるといった、それこそ分かりやすい額の違いがありますが、それだけではなく、言うまでもなく、そもそも支給される意味が違う、ということでもあります。給付制採用は、あくまで志望者減という状況に、無給状態を継続できなくなった、通用しなくなったというだけで、給費制が長く採用されてきた意味が理解されたわけではないのです。
弁護士は国家事務を行うものとして必ず統一的な司法修習を、他の法曹二者とともに受け、対等に国家に養成されるというそもそもの意味と、そのことが弁護士の意識を公益につなぎとめてきた意義。甘い見方だったかもしれませんが、あれだけ給費制復活を求めた側として、回復すべき失地として、この点へのこだわりが、まだ弁護士会内には残っていると思っていました。
事業者として民間にある弁護士の私益性を強調し、裁判官、検察官とはっきりと区別する論調、民間事業者の職業訓練は自弁といった論調の前に、前記したような給費制の本来的な意義への理解は後方に押しやられました。そこには、長年社会に形成されてきた弁護士という仕事のイメージが、その区別する論調を跳ね返すものになっていなかったという面もあったかもしれません。しかし、これを跳ね返した向こうに、本来の回復すべき給費制の地平があるはずでした。
このいわゆる「谷間世代」の救済をめぐる、最近の日弁連内の状況には、その回復すべき給費制の地平から、彼らの意識が、さらに遠く離れてしまったという感を強く持たざるを得ません(弁護士坂野真一の公式ブログ「谷間世代給付金案~続報」「谷間世代給付金案~常議員会で討議の報告」)。会費減額案から20万円給付案へ。そこでは同世代の不平等解消や会として一体性などが取り沙汰され、本質的に国の責任と失策を真正面から問うという話にはならない。しかも、そこを会員が捻出するということの是非へのこだわりは希薄である現実。以前も書いたように、この失策の背景にある司法改革については、日弁連は責任があると思うが、それを認めたうえでの話でももちろんありません(「『谷間世代』救済と志望者処遇の視点」)。
給付制と関連して法務省が出した制度方針の中の「社会還元」に対しても、日弁連の姿勢には危ういものがありましたが(「『給付制』と『社会還元』をめぐる日弁連の印象」)、もはや日弁連自身が強固な「通用しない論」のなかにいて、それを大前提にして、「谷間世代」問題に向き合おうとしているように見えてしまうのです。
以前、「給費制は二度死んだ」と言った小林正啓弁護士の、ブログでの指摘の重みを改めて感じます。
「裁判官・検察官であろうが、弁護士であろうが、『国家事務を行うものである』という点において同一である以上、その育成に等しく国費を投じるべきである、というのが、給費制の精神であった。この精神からは、弁護士の職務は裁判官や検察官と違って公益的ではないとか、弁護士だけが職務以外に社会還元活動をやらなければならないとか、いう結論は絶対に、金輪際出てこないのである」
「もとより私は、給費制復活に費やした日弁連幹部の努力を否定するつもりはない。しかし彼らが、給費制の復活という目先の目標を獲得するために、給費制の精神を自ら放擲したことは、指摘しなければならない。そして、給費制の精神を放擲したことは、統一修習の精神も放擲したことを意味する。同時に、裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだという、弁護士の矜持をも打ち砕いた」(花水木法律事務所のブログ)
この本質論が欠けたところで処遇されなかった「谷間世代」に対して、まさに目先の「救済」を模索しているのが、今の日弁連ではないでしょうか。本来問題は、「救済」ではなく、「清算」である、と言った人がいましたが、初めからそうした発想が出てこないのは、まさにこの現実につながっているととれます。
今の、日弁連は本来の給費制から、遠く離れつつあります。その距離感は統一修習へのこだわりとの間のそれと一致し、まして法曹一元など、もはやさらにそのずっと向こうに離れてしまったと見なければなりません。
弁護士会の会費についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4822
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前記したような無給時代を強調するうえで、「谷間」という表現には分かりやすさがあります。また、私も、給付制採用を「事実上」と前置きをして給費制の「復活」と表現しましたが、そこには無給状態が通用しなくなった現実の方を強調する意味合いがありました(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。
言い訳がましくなるかもしれませんが、冒頭の違和感にあるような、前後の両制度が別物で、完全復活ではない、ということを当然の前提としていたつもりですし、私は「谷間」という表現を使う、あるいは給費制を知っている多くの弁護士たちの意識としても、当然でそうであると思っていました。つまり、あくまで新制度は元の地平ではない、と。
それは、給費制の月額20万円が、給付制では13万5000円であるといった、それこそ分かりやすい額の違いがありますが、それだけではなく、言うまでもなく、そもそも支給される意味が違う、ということでもあります。給付制採用は、あくまで志望者減という状況に、無給状態を継続できなくなった、通用しなくなったというだけで、給費制が長く採用されてきた意味が理解されたわけではないのです。
弁護士は国家事務を行うものとして必ず統一的な司法修習を、他の法曹二者とともに受け、対等に国家に養成されるというそもそもの意味と、そのことが弁護士の意識を公益につなぎとめてきた意義。甘い見方だったかもしれませんが、あれだけ給費制復活を求めた側として、回復すべき失地として、この点へのこだわりが、まだ弁護士会内には残っていると思っていました。
事業者として民間にある弁護士の私益性を強調し、裁判官、検察官とはっきりと区別する論調、民間事業者の職業訓練は自弁といった論調の前に、前記したような給費制の本来的な意義への理解は後方に押しやられました。そこには、長年社会に形成されてきた弁護士という仕事のイメージが、その区別する論調を跳ね返すものになっていなかったという面もあったかもしれません。しかし、これを跳ね返した向こうに、本来の回復すべき給費制の地平があるはずでした。
このいわゆる「谷間世代」の救済をめぐる、最近の日弁連内の状況には、その回復すべき給費制の地平から、彼らの意識が、さらに遠く離れてしまったという感を強く持たざるを得ません(弁護士坂野真一の公式ブログ「谷間世代給付金案~続報」「谷間世代給付金案~常議員会で討議の報告」)。会費減額案から20万円給付案へ。そこでは同世代の不平等解消や会として一体性などが取り沙汰され、本質的に国の責任と失策を真正面から問うという話にはならない。しかも、そこを会員が捻出するということの是非へのこだわりは希薄である現実。以前も書いたように、この失策の背景にある司法改革については、日弁連は責任があると思うが、それを認めたうえでの話でももちろんありません(「『谷間世代』救済と志望者処遇の視点」)。
給付制と関連して法務省が出した制度方針の中の「社会還元」に対しても、日弁連の姿勢には危ういものがありましたが(「『給付制』と『社会還元』をめぐる日弁連の印象」)、もはや日弁連自身が強固な「通用しない論」のなかにいて、それを大前提にして、「谷間世代」問題に向き合おうとしているように見えてしまうのです。
以前、「給費制は二度死んだ」と言った小林正啓弁護士の、ブログでの指摘の重みを改めて感じます。
「裁判官・検察官であろうが、弁護士であろうが、『国家事務を行うものである』という点において同一である以上、その育成に等しく国費を投じるべきである、というのが、給費制の精神であった。この精神からは、弁護士の職務は裁判官や検察官と違って公益的ではないとか、弁護士だけが職務以外に社会還元活動をやらなければならないとか、いう結論は絶対に、金輪際出てこないのである」
「もとより私は、給費制復活に費やした日弁連幹部の努力を否定するつもりはない。しかし彼らが、給費制の復活という目先の目標を獲得するために、給費制の精神を自ら放擲したことは、指摘しなければならない。そして、給費制の精神を放擲したことは、統一修習の精神も放擲したことを意味する。同時に、裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだという、弁護士の矜持をも打ち砕いた」(花水木法律事務所のブログ)
この本質論が欠けたところで処遇されなかった「谷間世代」に対して、まさに目先の「救済」を模索しているのが、今の日弁連ではないでしょうか。本来問題は、「救済」ではなく、「清算」である、と言った人がいましたが、初めからそうした発想が出てこないのは、まさにこの現実につながっているととれます。
今の、日弁連は本来の給費制から、遠く離れつつあります。その距離感は統一修習へのこだわりとの間のそれと一致し、まして法曹一元など、もはやさらにそのずっと向こうに離れてしまったと見なければなりません。
弁護士会の会費についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4822
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