「改革」の無責任性の正体
AIの登場で仕事がなくなるとか、職業そのものが将来消えるといった切り口で、メディアが取り上げる「脅威論」。弁護士という仕事も、ご多分に漏れず、しばしばその対象として取り上げられてきましたが、以前も書いたように、煽り気味とも言われる、そんな取り上げた方がされる一方で、多くの弁護士は今のところ、概ね楽観視している。つまり、いわれるほどの「脅威論」として受けとめていないようにみえる現実があります(「『AI時代』脅威論と弁護士処遇への理解」)。
その理由は、第一に現段階で見通せる弁護士業のテリトリーにかかわるAI活用の影響が、限定的なものにとれるということがあります。多くの関係者も指摘していますが、過払いのような定型型業務と法令・判例などのデータ集積にかかわるものに限定され、それ以外の多くの業務では、複雑な事実関係、情報の集積だけで、一定のロジックを見出せない法的な判断を伴うところでは、当面、AIは弁護士の仕事を脅かさないであろう、ということです(宮野勉弁護士「AIと弁護士」 野口悠紀雄氏「裁判官の仕事はAI向き?」)。
しかし、言うまでないことかもしれませんが、このテーマに対する、個々の弁護士の意識は、別の説明の仕方をした方が、より現実に即しているように思えます。つまり、自分が弁護士であるうちに、この問題が自らの業務に影響を及ぼすか否か。AIの発展はもちろんはっきり見通せないだけに、遠い将来どうなるかはともかく、現役時代の自らの業務にかかわるかどうかが問題であり、表向きはともかく、その余についてはぐっと関心のレベルが下がる――。
宮野弁護士は前記論稿の末尾で、次のように的確に表現しています。
「無責任な言い方をするならば、自分のキャリアのタイムスパンの中で『逃げ切れるか』が当面の大きな課題となりそうだ」
もとより、これが「けしからん」という話ではもちろんありません。プラスにせよ、マイナスにせよ、自らの業務との距離感でこのテーマをみることも、そしてそれを最優先させる結果として、関心が遠のいたとしても、それはある意味、当たり前の話です。時間は有限であり、やるべきこと、考えるべきことは沢山あるはずなのですから。
しかし、目を移して、司法改革をめぐる法曹界周辺のこれまでの議論を見てくると、どうもこの発想が「改革」の建て前に隠れて張り付いているようにもとれるのです。AIと司法改革の問題は、いうまでなく、弁護士(会)にとって、全くコミットの仕方が違うテーマです。片やイノベーションに関わる問題は多くの弁護士が主体的にかかわり得るテーマというより、あくまでそれ次第で社会的に利用されるにしても、利用するにしても、大方受け身にならざるを得ないテーマ。しかし、もう一方は、少なくとも弁護士会が主体的に旗を振り、いまだ積極的にコミットしたはずの人物が沢山会内に存在しているものです。
弁護士の増員政策にしても、法曹養成にしても、将来を見通して繰り出されたはずの「改革」が、その失敗によって、いつのまにか自らへの影響から逆算する発想で、路線が語られるとすれば、どうでしょうか。ここでも何度も書いてきたように、「改革」は当初の予想を外し、成果を出せていない。そして、見直しを迫られた「改革」は、現在、ある種の「後退戦」を強いられている状況ともいえます。しかし、「改革」の見直しが、あくまで法曹界の将来を考えた、有利な「後退戦」ではなく、推進者たち自らへの影響をいかに緩和するかという本音を忍ばせて、語られるのであれば、それは前記AIでの対応への評価とは異なり、大きな無責任の集合体といわなくてはなりません。
弁護士が増え続けようとも、法科大学院が法曹養成の中核として志望者の自由な参入を阻害し続けようとも、前記「後退戦」すら認めず、「まだまだ決着はついていない」「『改革』は間違っていない」と唱え続ける。その無責任性が問われないのは、社会的には大マスコミが延々と旗を振り続けていることと、業界的には、もはや「受け身」に捉えても仕方がない「改革」後に誕生した弁護士たちが、業界内でかなりのウエィトを占めている現実があるからともいえます。
しかし、「自分のキャリアのタイムスパンの中で『逃げ切れるか』」が課題となっているようにとれる「改革」推進論や推進論者が、今、存在していないでしょうか。ある意味、残念なことではありますが、この視点で見ないことには、この「改革」の無責任性に辿り付けない状況に、ますますなってきているように思えてなりません。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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その理由は、第一に現段階で見通せる弁護士業のテリトリーにかかわるAI活用の影響が、限定的なものにとれるということがあります。多くの関係者も指摘していますが、過払いのような定型型業務と法令・判例などのデータ集積にかかわるものに限定され、それ以外の多くの業務では、複雑な事実関係、情報の集積だけで、一定のロジックを見出せない法的な判断を伴うところでは、当面、AIは弁護士の仕事を脅かさないであろう、ということです(宮野勉弁護士「AIと弁護士」 野口悠紀雄氏「裁判官の仕事はAI向き?」)。
しかし、言うまでないことかもしれませんが、このテーマに対する、個々の弁護士の意識は、別の説明の仕方をした方が、より現実に即しているように思えます。つまり、自分が弁護士であるうちに、この問題が自らの業務に影響を及ぼすか否か。AIの発展はもちろんはっきり見通せないだけに、遠い将来どうなるかはともかく、現役時代の自らの業務にかかわるかどうかが問題であり、表向きはともかく、その余についてはぐっと関心のレベルが下がる――。
宮野弁護士は前記論稿の末尾で、次のように的確に表現しています。
「無責任な言い方をするならば、自分のキャリアのタイムスパンの中で『逃げ切れるか』が当面の大きな課題となりそうだ」
もとより、これが「けしからん」という話ではもちろんありません。プラスにせよ、マイナスにせよ、自らの業務との距離感でこのテーマをみることも、そしてそれを最優先させる結果として、関心が遠のいたとしても、それはある意味、当たり前の話です。時間は有限であり、やるべきこと、考えるべきことは沢山あるはずなのですから。
しかし、目を移して、司法改革をめぐる法曹界周辺のこれまでの議論を見てくると、どうもこの発想が「改革」の建て前に隠れて張り付いているようにもとれるのです。AIと司法改革の問題は、いうまでなく、弁護士(会)にとって、全くコミットの仕方が違うテーマです。片やイノベーションに関わる問題は多くの弁護士が主体的にかかわり得るテーマというより、あくまでそれ次第で社会的に利用されるにしても、利用するにしても、大方受け身にならざるを得ないテーマ。しかし、もう一方は、少なくとも弁護士会が主体的に旗を振り、いまだ積極的にコミットしたはずの人物が沢山会内に存在しているものです。
弁護士の増員政策にしても、法曹養成にしても、将来を見通して繰り出されたはずの「改革」が、その失敗によって、いつのまにか自らへの影響から逆算する発想で、路線が語られるとすれば、どうでしょうか。ここでも何度も書いてきたように、「改革」は当初の予想を外し、成果を出せていない。そして、見直しを迫られた「改革」は、現在、ある種の「後退戦」を強いられている状況ともいえます。しかし、「改革」の見直しが、あくまで法曹界の将来を考えた、有利な「後退戦」ではなく、推進者たち自らへの影響をいかに緩和するかという本音を忍ばせて、語られるのであれば、それは前記AIでの対応への評価とは異なり、大きな無責任の集合体といわなくてはなりません。
弁護士が増え続けようとも、法科大学院が法曹養成の中核として志望者の自由な参入を阻害し続けようとも、前記「後退戦」すら認めず、「まだまだ決着はついていない」「『改革』は間違っていない」と唱え続ける。その無責任性が問われないのは、社会的には大マスコミが延々と旗を振り続けていることと、業界的には、もはや「受け身」に捉えても仕方がない「改革」後に誕生した弁護士たちが、業界内でかなりのウエィトを占めている現実があるからともいえます。
しかし、「自分のキャリアのタイムスパンの中で『逃げ切れるか』」が課題となっているようにとれる「改革」推進論や推進論者が、今、存在していないでしょうか。ある意味、残念なことではありますが、この視点で見ないことには、この「改革」の無責任性に辿り付けない状況に、ますますなってきているように思えてなりません。
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