需要「開拓」と競争・淘汰「効用」論の真実
弁護士の増員必要論を唱える人のなかに、数が需要を創出するということを強く唱える論調が存在してきました。「改革」当初の増員論では、どちらかといえば、多くの潜在需要があり、増やさなければどうにもならないほどの未来もやってくるというニュアンスで、「開拓」の必要が強調されはじめたのは、需要が顕在化しないことが明らかになってからという印象があります。
さらにいえば、ここまで弁護士を増やした結果をみても、増員によって需要が生まれていくという現象が起こらないことは、供給過剰状況が生み出した、現在の弁護士の経済状況をみても、既に実証されているようにとれます。
しかし、そうした現在でも、数を増やすことで、弁護士のいわば創意工夫、努力によって、社会の「声なき声」を汲み上げ、新たな弁護士のビジネスモデルは構築されると強く主張される方もいます(「法曹養成と弁護士をめぐる『認められない』認識」)。
一方で、弁護士の増員論には、競争・淘汰の効用をいう論調が張り付いてきました。沢山の弁護士が競い合うことで、サービスは向上し、低額化も発生するかもしれないし、さらに淘汰によって、全体の質は向上する。有り体にいえば、生き残りをかけて弁護士を競い合わせる、その「効用」をこれまでになく社会は享受できるようになる。そのためにも、増員は必要である、ということになります。
こちらの方も増員政策の結果として、その正しさがいまだ実証されたとはいえず、少なくとも社会がその「効用」を実感しているとはいえない状況にあります。そもそも生き残りをかけた、競い合うという状況が前提の「効用」論だとすれば、これまた多くの潜在需要と必要とされる未来の到来という、「改革」当初の描き方とは、今更ながら違う印象ではあります。ここまでは、これまでもいろいろな形で書いてきたことです。
それをひとまず置くとして、では増員論のなかで前者の「開拓」の効用を唱える人は、後者の競争・淘汰論をどのように、あるいは、どこまで踏まえているとみるべきなのでしょうか。なぜ、そういった疑問を持つかといえば、いうまでもないことかもしれませんが、後者の競争・淘汰を社会全体として有効たらしめるのは、あくまで利用者の適正な選択にかかっているからです。情報の非対称性を超え、利用者が自らの利益のために適正な弁護士を選択し、それに応え得る弁護士だけが、市場に生き残るという形――。
しかも、それは弁護士側の「生き残り」策としていかに効果的で、その工夫によって巧みに行われるかだけではなく、主体的に利用者が適正な選択を行い、いわば適正な弁護士だけを「生き残らせる」ものでなければ、少なくとも前記競争・淘汰論がイメージさせる、社会にとって有り難い、それにはなりません。
結論から言ってしまうと、前記「開拓」の効用論を強調する方々には、その意味では社会全体の利用者と弁護士の関係が目に入っているとは思えない。逆に、こうした「開拓」論の可能性を声高にいう人は、往々にして主体的に選択を確保できる利用者、つまり企業など自らのニーズを確定的に認識し、それに併せて弁護士を選択できる立場、そうした恒常的な弁護士との関係が存在しているか、構築できる立場を前提に語っているようにとれるのです。
そういう立場であれば、前記の論調のように、弁護士から利用者への提案によって、利用者も弁護士にも利をもたらすビジネスモデルが、ある意味、「適正」にできあがるかもしれません。ところが、そもそも主体的に選択することに困難が伴う利用者側は、弁護士の提案が自らに最も妥当で、最大の利益をもたらすかを「適正」に判断できることが担保されていない。あえて嫌な言い方をすれば、弁護士自らの最大利益のために、あるいは「生き残り」のために、「効果的」な弁護士側の提案を、利用者側が自らの利益に照らし、選択したり拒絶したりすることが、本当にできるのか、という話です(「良質化が生まれない弁護士市場のからくり」 「資格の価値と『改革』の描き方」)。
もっとも増員論者が「開拓」論と競争・淘汰論をつなぐ論調には、弁護士の「心得違い」という描き方もあります。つまり、弁護士たちが「開拓」を実行に移せないできたのは、弁護士の数の少なさによるもので、増員によって競争・淘汰に直面させることで、彼らは自らの利益中心の、利用者利益を考慮しない怠慢の心得違いの過去を改めさせ得るのだ、ということです。
しかし、仮に過去の弁護士に、「あぐらをかいてきた」といわれるような怠慢の心得違いがあり、それは改められるべきだとしても、前記してきた弁護士と利用者をつなぐ現実的な事情を考えれば、やはり結果は同じで、少なくとも増員必要論者が社会に期待させるような効果は生まれない。故に、社会はそれを実感できない。そして、つまりそれは、結局、前記増員の「効用論」が、実は一部の弁護士と、それと関係する一部利用者を前提に語られているからではないか、というところに行きついてしまうのです。
いまやネット上には、弁護士を含めたさまざまな人たちによる、一般向けに良い弁護士の選び方を指南するサイトが存在し、弁護士を利用したい人は、それを簡単に目にすることもできます。しかし、それらのなかには、それなりに有効なものもないわけではありませんが、その内容は利用者側がもの凄く労力がかかるものが書かれ、現実的にどこまで可能なのかが疑わしかったり、弁護士の態度や対応の悪さなど、当たり前のような問題弁護士回避であったりするものも目立ちます。また、なかには指南ではありながら、法律事務所へ誘導する広告である場合もあります。
積極的にプラスになるというものは、そもそも個別の案件を専門家が分析しなければ指南できない(もちろん弁護士の巧みな誘導を含めて見抜けない)のですから、書きようがないといえばそれまでです。唯一効果がはっきりしているのは、やはり別の同業者に聞くセカンド・オピニオンということになりますが、労力もさることながら、その弁護士の言が信用に足るかどうか見抜けるか、ということでは条件は変わりません。要は利用者は自己防衛のためにも安易に考えるわけにはいかない現実があります。
利用者にとっては、「効果」が当てにならない増員の効用よりも、厳格な資格保証による限りない質の均一化を目指す「改革」の方が、より安心・安全な出会いを期待できるという、動かし難い現実(「弁護士の『品質保証』というテーマ」)があることを、そろそろ増員必要論者は認めるべきだと思います。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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さらにいえば、ここまで弁護士を増やした結果をみても、増員によって需要が生まれていくという現象が起こらないことは、供給過剰状況が生み出した、現在の弁護士の経済状況をみても、既に実証されているようにとれます。
しかし、そうした現在でも、数を増やすことで、弁護士のいわば創意工夫、努力によって、社会の「声なき声」を汲み上げ、新たな弁護士のビジネスモデルは構築されると強く主張される方もいます(「法曹養成と弁護士をめぐる『認められない』認識」)。
一方で、弁護士の増員論には、競争・淘汰の効用をいう論調が張り付いてきました。沢山の弁護士が競い合うことで、サービスは向上し、低額化も発生するかもしれないし、さらに淘汰によって、全体の質は向上する。有り体にいえば、生き残りをかけて弁護士を競い合わせる、その「効用」をこれまでになく社会は享受できるようになる。そのためにも、増員は必要である、ということになります。
こちらの方も増員政策の結果として、その正しさがいまだ実証されたとはいえず、少なくとも社会がその「効用」を実感しているとはいえない状況にあります。そもそも生き残りをかけた、競い合うという状況が前提の「効用」論だとすれば、これまた多くの潜在需要と必要とされる未来の到来という、「改革」当初の描き方とは、今更ながら違う印象ではあります。ここまでは、これまでもいろいろな形で書いてきたことです。
それをひとまず置くとして、では増員論のなかで前者の「開拓」の効用を唱える人は、後者の競争・淘汰論をどのように、あるいは、どこまで踏まえているとみるべきなのでしょうか。なぜ、そういった疑問を持つかといえば、いうまでもないことかもしれませんが、後者の競争・淘汰を社会全体として有効たらしめるのは、あくまで利用者の適正な選択にかかっているからです。情報の非対称性を超え、利用者が自らの利益のために適正な弁護士を選択し、それに応え得る弁護士だけが、市場に生き残るという形――。
しかも、それは弁護士側の「生き残り」策としていかに効果的で、その工夫によって巧みに行われるかだけではなく、主体的に利用者が適正な選択を行い、いわば適正な弁護士だけを「生き残らせる」ものでなければ、少なくとも前記競争・淘汰論がイメージさせる、社会にとって有り難い、それにはなりません。
結論から言ってしまうと、前記「開拓」の効用論を強調する方々には、その意味では社会全体の利用者と弁護士の関係が目に入っているとは思えない。逆に、こうした「開拓」論の可能性を声高にいう人は、往々にして主体的に選択を確保できる利用者、つまり企業など自らのニーズを確定的に認識し、それに併せて弁護士を選択できる立場、そうした恒常的な弁護士との関係が存在しているか、構築できる立場を前提に語っているようにとれるのです。
そういう立場であれば、前記の論調のように、弁護士から利用者への提案によって、利用者も弁護士にも利をもたらすビジネスモデルが、ある意味、「適正」にできあがるかもしれません。ところが、そもそも主体的に選択することに困難が伴う利用者側は、弁護士の提案が自らに最も妥当で、最大の利益をもたらすかを「適正」に判断できることが担保されていない。あえて嫌な言い方をすれば、弁護士自らの最大利益のために、あるいは「生き残り」のために、「効果的」な弁護士側の提案を、利用者側が自らの利益に照らし、選択したり拒絶したりすることが、本当にできるのか、という話です(「良質化が生まれない弁護士市場のからくり」 「資格の価値と『改革』の描き方」)。
もっとも増員論者が「開拓」論と競争・淘汰論をつなぐ論調には、弁護士の「心得違い」という描き方もあります。つまり、弁護士たちが「開拓」を実行に移せないできたのは、弁護士の数の少なさによるもので、増員によって競争・淘汰に直面させることで、彼らは自らの利益中心の、利用者利益を考慮しない怠慢の心得違いの過去を改めさせ得るのだ、ということです。
しかし、仮に過去の弁護士に、「あぐらをかいてきた」といわれるような怠慢の心得違いがあり、それは改められるべきだとしても、前記してきた弁護士と利用者をつなぐ現実的な事情を考えれば、やはり結果は同じで、少なくとも増員必要論者が社会に期待させるような効果は生まれない。故に、社会はそれを実感できない。そして、つまりそれは、結局、前記増員の「効用論」が、実は一部の弁護士と、それと関係する一部利用者を前提に語られているからではないか、というところに行きついてしまうのです。
いまやネット上には、弁護士を含めたさまざまな人たちによる、一般向けに良い弁護士の選び方を指南するサイトが存在し、弁護士を利用したい人は、それを簡単に目にすることもできます。しかし、それらのなかには、それなりに有効なものもないわけではありませんが、その内容は利用者側がもの凄く労力がかかるものが書かれ、現実的にどこまで可能なのかが疑わしかったり、弁護士の態度や対応の悪さなど、当たり前のような問題弁護士回避であったりするものも目立ちます。また、なかには指南ではありながら、法律事務所へ誘導する広告である場合もあります。
積極的にプラスになるというものは、そもそも個別の案件を専門家が分析しなければ指南できない(もちろん弁護士の巧みな誘導を含めて見抜けない)のですから、書きようがないといえばそれまでです。唯一効果がはっきりしているのは、やはり別の同業者に聞くセカンド・オピニオンということになりますが、労力もさることながら、その弁護士の言が信用に足るかどうか見抜けるか、ということでは条件は変わりません。要は利用者は自己防衛のためにも安易に考えるわけにはいかない現実があります。
利用者にとっては、「効果」が当てにならない増員の効用よりも、厳格な資格保証による限りない質の均一化を目指す「改革」の方が、より安心・安全な出会いを期待できるという、動かし難い現実(「弁護士の『品質保証』というテーマ」)があることを、そろそろ増員必要論者は認めるべきだと思います。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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