「ネガティブキャンペーン」の正当性をめぐる視点
「改革」がもたらしている経済的環境を含めた弁護士の現実に関する発信に対して、相変わらず「ネガティブキャンペーン」という烙印を押す指摘が聞かれます。かなり以前にも書きましたが、もともと弁護士志望への敬遠傾向につながることを懸念する文脈で語られてきたものでした(「弁護士の『ネガティブキャンペーン』」)。
しかし、以前はどちらかといえば、この指摘は、弁護士の魅力をもっと発信せよ、という発信自体のアンフェアさを問題視することに力点が置かれているようにとれました。ところが、最近は志望者減という、法曹界が現在抱える深刻な問題の主因は、この「ネガティブキャンペーン」である、ととれるような文脈で登場することが多くなったという印象を持ちます。
そもそも明らかに弁護士の経済的価値の下落を生んだ「改革」の現実を伝えることが、事実に反する、あるいはアンフェアに誇張した「ネガティブキャンペーン」といえるものなのか、さらにはそれを発信する行為自体が「ネガティブキャンペーン」と称されるような、妥当性を欠いた不適切な行為なのか、について、突き詰めた議論がなされてきたわけではありません。
弁護士増員政策の需要を見誤った失敗、法科大学院制度の成果や弁護士の現状に見合わない負担といったことを無視して、弁護士の一部やマスコミが「ネガティブ」に業界を描いていなければ、志望者減は今のようになっていないというのは、それだけでいかにも無理がある、と、片付ける人もいるとは思います。
しかし、あえて付け加えれば、今の志望者減という状況に照らすと、この「ネガキャン」批判は、(知ってて言っているのか、知らないのか分かりませんが)前提的な認識に決定的な誤りがあるようにとれます。同批判論者は、必ずといって、この問題で、「食える食えない」論争を取り上げます。つまり、弁護士の一部やメディアがこぞって、弁護士は食えない、食えない資格になったと取り上げた、と。当然、そこには、トーンはさまざまながら、「本当はそんなことはない」「食えている弁護士も沢山いる」「工夫次第では今でも食えている」「今後、まだまだ食える余地がある」というニュアンスの反論がくっついています。
ところが、志望者減につながっている資格の経済的価値の下落とは、おそらくそういうことではなく、少なくともそこに収まる話ではありません。以前も少し書きましたが、端的にいえば、問題は「食えるか食えないか」ではなく、以前のように「恵まれた資格かそうでないか」。つまり、資格そのものが、以前のように時間的経済的コストに見合うほど、「恵まれたもの」ではなくなっていること、そのものが問われている、という否定し難い現実があるです。
そのレベルから考えると、前記列挙した「実は食える」、といった「ネガキャン」批判論の認識そのものが、効果を生まない空虚なものであり、そうしたレベルで語られる資格になったことそのものが、あるいは志望者にとって、当然の敬遠理由につながってもおかしくないことなのです。
こういう言い方をすると、前記批判論の方々の中には、弁護士の職業的魅力からすれば(それがちゃんと伝われば)、ちゃんと「食える」というレベルでも志望する人は沢山いる、というニュアンスの認識を示される人もいます。これ自体、多分にこれまでの人気商売幻想(信仰)に寄りかかった発想ともいえなくありませんが、全面的に否定することもできないかもしれません。
しかし、少なくとも将来的な進路について、いくつもの選択肢がある若い、優秀な志望者予備軍のなかには、やはり自分にふさわしい処遇や経済的な将来性を期待する人がいることは、批判論者の方々も分かっているはずです。法科大学院制度を中核とした新法曹養成の経済的時間的先行投資の重さの、志望者にとっての「価値」は、資格者後のリターンの問題を抜きには語れません。それは、社会人志望者を含めて、彼らにリスクの問題としてのしかかっています。ただ、そこをまるで「元が取れるかどうか」のような、最低ラインの話でするのは間違いです。先行投資をする、リスクをとるだけの、「恵まれた」結果が待っていなければ、やはり結果は変わらないのではないでしょうか。
はなから「そんな人は来なくていい」という捉え方もあるかもしれませんし、現にそういうニュアンスにとれる発言も時々耳にします。ただ、もしそうだとするのであれば、今の志望者減をそこまで深刻にとらえず、より優秀な多くの人材に志望してもらいたいという方向も目指さず、現在のような経済的状況と彼らのいう魅力をフェアに伝え、この負担でもリスクでも、そしてリターンでも、それでも「魅力を感じる人」「チャレンジする人」を待っています、でいくしかないのではないでしょうか。
数を増やして競争・淘汰させるとか、それが良質化や低額化を生むとか、はたまた法科大学院制度維持のために学生を確保したいなどという話は、もちろん一旦棚上げして、この制度とこの現実で、それでもこの世界を目指す人材で、法曹(界)がどうなるのか、を試してみるというのであれば。
「もっともっと志望者から敬遠されなければ、『改革』主導層は分からないのではないか」。こう語る「改革」反対・慎重論者がいます。その意味で、逆に批判者が言うような、「ネガティフキャンペーン」はもっとなされていい、という人もいます。その一方で、最近、志望者減の下げ止まりが見えてきたとか、弁護士の状況にも少しずつ明るい兆しが見えてきているというニュアンスの発言が聞かれます。
しかし、志望者予備軍と社会にとって、本当に有り難くないのは、この「ネガティブキャンペーン」か、それとも「ネカティブキャンペーン」へのネカティブキャンペーンなのか、そこは今こそ、しっかりと見定める必要がありそうです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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しかし、以前はどちらかといえば、この指摘は、弁護士の魅力をもっと発信せよ、という発信自体のアンフェアさを問題視することに力点が置かれているようにとれました。ところが、最近は志望者減という、法曹界が現在抱える深刻な問題の主因は、この「ネガティブキャンペーン」である、ととれるような文脈で登場することが多くなったという印象を持ちます。
そもそも明らかに弁護士の経済的価値の下落を生んだ「改革」の現実を伝えることが、事実に反する、あるいはアンフェアに誇張した「ネガティブキャンペーン」といえるものなのか、さらにはそれを発信する行為自体が「ネガティブキャンペーン」と称されるような、妥当性を欠いた不適切な行為なのか、について、突き詰めた議論がなされてきたわけではありません。
弁護士増員政策の需要を見誤った失敗、法科大学院制度の成果や弁護士の現状に見合わない負担といったことを無視して、弁護士の一部やマスコミが「ネガティブ」に業界を描いていなければ、志望者減は今のようになっていないというのは、それだけでいかにも無理がある、と、片付ける人もいるとは思います。
しかし、あえて付け加えれば、今の志望者減という状況に照らすと、この「ネガキャン」批判は、(知ってて言っているのか、知らないのか分かりませんが)前提的な認識に決定的な誤りがあるようにとれます。同批判論者は、必ずといって、この問題で、「食える食えない」論争を取り上げます。つまり、弁護士の一部やメディアがこぞって、弁護士は食えない、食えない資格になったと取り上げた、と。当然、そこには、トーンはさまざまながら、「本当はそんなことはない」「食えている弁護士も沢山いる」「工夫次第では今でも食えている」「今後、まだまだ食える余地がある」というニュアンスの反論がくっついています。
ところが、志望者減につながっている資格の経済的価値の下落とは、おそらくそういうことではなく、少なくともそこに収まる話ではありません。以前も少し書きましたが、端的にいえば、問題は「食えるか食えないか」ではなく、以前のように「恵まれた資格かそうでないか」。つまり、資格そのものが、以前のように時間的経済的コストに見合うほど、「恵まれたもの」ではなくなっていること、そのものが問われている、という否定し難い現実があるです。
そのレベルから考えると、前記列挙した「実は食える」、といった「ネガキャン」批判論の認識そのものが、効果を生まない空虚なものであり、そうしたレベルで語られる資格になったことそのものが、あるいは志望者にとって、当然の敬遠理由につながってもおかしくないことなのです。
こういう言い方をすると、前記批判論の方々の中には、弁護士の職業的魅力からすれば(それがちゃんと伝われば)、ちゃんと「食える」というレベルでも志望する人は沢山いる、というニュアンスの認識を示される人もいます。これ自体、多分にこれまでの人気商売幻想(信仰)に寄りかかった発想ともいえなくありませんが、全面的に否定することもできないかもしれません。
しかし、少なくとも将来的な進路について、いくつもの選択肢がある若い、優秀な志望者予備軍のなかには、やはり自分にふさわしい処遇や経済的な将来性を期待する人がいることは、批判論者の方々も分かっているはずです。法科大学院制度を中核とした新法曹養成の経済的時間的先行投資の重さの、志望者にとっての「価値」は、資格者後のリターンの問題を抜きには語れません。それは、社会人志望者を含めて、彼らにリスクの問題としてのしかかっています。ただ、そこをまるで「元が取れるかどうか」のような、最低ラインの話でするのは間違いです。先行投資をする、リスクをとるだけの、「恵まれた」結果が待っていなければ、やはり結果は変わらないのではないでしょうか。
はなから「そんな人は来なくていい」という捉え方もあるかもしれませんし、現にそういうニュアンスにとれる発言も時々耳にします。ただ、もしそうだとするのであれば、今の志望者減をそこまで深刻にとらえず、より優秀な多くの人材に志望してもらいたいという方向も目指さず、現在のような経済的状況と彼らのいう魅力をフェアに伝え、この負担でもリスクでも、そしてリターンでも、それでも「魅力を感じる人」「チャレンジする人」を待っています、でいくしかないのではないでしょうか。
数を増やして競争・淘汰させるとか、それが良質化や低額化を生むとか、はたまた法科大学院制度維持のために学生を確保したいなどという話は、もちろん一旦棚上げして、この制度とこの現実で、それでもこの世界を目指す人材で、法曹(界)がどうなるのか、を試してみるというのであれば。
「もっともっと志望者から敬遠されなければ、『改革』主導層は分からないのではないか」。こう語る「改革」反対・慎重論者がいます。その意味で、逆に批判者が言うような、「ネガティフキャンペーン」はもっとなされていい、という人もいます。その一方で、最近、志望者減の下げ止まりが見えてきたとか、弁護士の状況にも少しずつ明るい兆しが見えてきているというニュアンスの発言が聞かれます。
しかし、志望者予備軍と社会にとって、本当に有り難くないのは、この「ネガティブキャンペーン」か、それとも「ネカティブキャンペーン」へのネカティブキャンペーンなのか、そこは今こそ、しっかりと見定める必要がありそうです。
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