弁護士自治と会務のバランスという問題
弁護士の意識改革の必要性が、今回の司法改革では当初盛んにいわれ、弁護士会内でもそれは大方自省的に受けとめられました。ただ、この20年を振り返れば、結果的に会員弁護士の意識が大きく変わったもののなかには、やはり弁護士会、とりわけ「自治」に対するものを加えざるを得ません。
これはおそらくこの「改革」を推進し、前記意識改革を主体的にとらえた方々にとっては、想像以上に皮肉な副作用であったというべきかもしれません。弁護士が大量に必要になる世界を描き、そのために弁護士がどう変わるべきかということを散々議論して、これまでよりも積極的に市民のために乗り出し、果敢に業務拡大を推し進める。そのための、まさに自省的な意識改革の提唱――。
それが大量の弁護士を支えるほどの経済的ニーズが顕在化せず、その描いた図が破綻した現実は、個々の弁護士の会に対する意識を否応なく変えたようにみえます。強制加入と高い会費が支える「自治」の意味、もっといえば、対外的なものだけでなく、対内的にそれがどういう価値を持つのか、について、シビアな目線を向けるようになった。
あくまで印象として、間違えを恐れずに表現してしまえば、「改革」がもたらした事態によって、これまでになく、あるいは初めて、多くの会員は、この意味での「自治」の存在と価値を再検証し始めたようにさえみえるのです。ところが、ある意味、不思議なことですが、この変化に対して、会主導層の「自治」に対する会員向けのスタンスは、ある意味ほとんど変わっていない。言い方を換えれば、変えなくてもこれまで通り、やっていけるという姿勢にとれるのです(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」 「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」 「『弁護士自治』の落城」)。
2年前に、東京弁護士会の最大会派(派閥)である法友会が採択した「弁護士自治を堅持する宣言」に、このテーマに対する弁護士会の基本的な姿勢や現状認識が現れています。詳しくはお読み頂ければと思いますが、宣言と提案理由に書かれている内容の柱をまとめると以下のようなものになります。
① 弁護士自治は、弁護士の職業としての独立性を制度的に保障し、民事事件と刑事事件とを問わず、弁護士の自主的判断を守護し、日常業務を支える基盤であり、堅持が必要である。
② 弁護士自治は少数者保護を十全ならしめるために欠くことができず、少数者になった場合の市民にとっての、セーフティネットである。
③ 近時、は憲法改正や死刑廃止などの会員間の意見が大きく分かれている問題をめぐり、そのような政治的問題については弁護士会が意見を述べるべきではないという意見もある。また、弁護士業務をビジネスと割り切り、弁護士自治の維持に関する負担を削減しようという意見も見られ、さらに、相次ぐ弁護士不祥事で、弁護士自治を支えるべき市民の信頼が揺らいでいるように見受けられる。
④ 自由で多様な意見交換を通じて堅持すべき弁護士自治の重要性をあらためて認識し、会員に研修や意見交換の機会を提供すると共に、自治を支える
弁護士会内の合意形成に尽力し、不祥事対策に真剣に取り組むことで、弁護士自治が実質的に機能するための活動を行うべき。
これをみると、やはり弁護士会主導層の現在の弁護士自治観も、要するにこういうことなんだろう、という気がしてきます。従来から言われてきた弁護士自治の重要性、価値を繰り返し、現在の自治に対する会員や社会の目線を一応理解しながら、それへの直接的根源的な対策が導かれない。会員への自治の重要性周知、不祥事対策をそれこそ百万遍でも繰り返せばよし、自治堅持にはこれしかないといっているような姿勢です。
その特徴にさらに踏み込めば、前記「改革」の影響・失敗にできるだけ踏み込まないということのようにも取れます。しかし、それだとそもそも弁護士会活動と自治に、現会員の理解を得て、それへの支持を堅持するために新たに何をすべきかというテーマには、延々と辿りつかない。すべては自治の意義への会員理解の問題、自治が揺らぐのはつまるところ会員の理解度、認識不足の問題といっていることになっています。
不祥事対策が弁護士会として必要であっても、それはいわば被害を防止するための責任の問題であり、それで自治が許容されていくというようなことがいえるのか。「少数者になったときのセーフティネット」という描き方は、弁護士の意識のあり方としては正しくても、それがどのくらい社会に伝わるのか、認知されるのかはまた、別の問題として考えなければならない。弁護士による「弁護士インフラ論」と同じようなものを感じざるを得ません。
最近、ツィッター上で、こんな一文を見かけました。
「高額な会費負担や各種市民様向け会務活動もまた『弁護士自治』の対価なのだとしたら、そこまでして要らないというのが率直な感想。弁護士自治の重要性を理解してないと言われればそれまでですが、その自治は誰のため?会員の経済的利益のために活動しない(むしろ毀損する)業界団体は迷惑です」(カイローヤー)
「弁護士自治崩壊のトリガーは、会員の方を向かない会務活動のために高額の会費を漫然取り続けることによって鬱積する会員の不満に、経済的窮境が重なったときに引かれると思います」(向原総合法律事務所 弁護士向原)
弁護士会主導層に問われているのは、率直にいってバランスの問題なのだと思います。それこそ人権擁護を掲げる専門的職能集団の、その使命からの発言や活動は、仮に「政治的」と烙印を押されようとも(そういう批判にさらされようとも)貫かれなければ、それこそ今度はその存在意義が問われます。「政治的」といわれる度に沈黙する団体ではあってはならない。そして、そうした局面もあると思います。
しかし、それを貫くのであれば、これまで以上に会員と会員利益に向いた活動を弁護士会は示さなければならない、というか、示さなければならなくなった。そのバランス感覚の問題です(「弁護士会が『政治的』であるということ」 「弁護士会費「納得の仕方」から見えてくるもの」 「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」)。
そして、そうした状況を生み出したのは「改革」なのです。それを認めない発想が、結局、弁護士自治をめぐり、これまでになく、より会員を向いた、バランスのとれた姿勢が求められることになった、その現実を認めないことにもつながっている――。弁護士会主導層の姿勢は、そんな風にとれて仕方がありません。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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これはおそらくこの「改革」を推進し、前記意識改革を主体的にとらえた方々にとっては、想像以上に皮肉な副作用であったというべきかもしれません。弁護士が大量に必要になる世界を描き、そのために弁護士がどう変わるべきかということを散々議論して、これまでよりも積極的に市民のために乗り出し、果敢に業務拡大を推し進める。そのための、まさに自省的な意識改革の提唱――。
それが大量の弁護士を支えるほどの経済的ニーズが顕在化せず、その描いた図が破綻した現実は、個々の弁護士の会に対する意識を否応なく変えたようにみえます。強制加入と高い会費が支える「自治」の意味、もっといえば、対外的なものだけでなく、対内的にそれがどういう価値を持つのか、について、シビアな目線を向けるようになった。
あくまで印象として、間違えを恐れずに表現してしまえば、「改革」がもたらした事態によって、これまでになく、あるいは初めて、多くの会員は、この意味での「自治」の存在と価値を再検証し始めたようにさえみえるのです。ところが、ある意味、不思議なことですが、この変化に対して、会主導層の「自治」に対する会員向けのスタンスは、ある意味ほとんど変わっていない。言い方を換えれば、変えなくてもこれまで通り、やっていけるという姿勢にとれるのです(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」 「『弁護士自治』会員不満への向き合い方」 「『弁護士自治』の落城」)。
2年前に、東京弁護士会の最大会派(派閥)である法友会が採択した「弁護士自治を堅持する宣言」に、このテーマに対する弁護士会の基本的な姿勢や現状認識が現れています。詳しくはお読み頂ければと思いますが、宣言と提案理由に書かれている内容の柱をまとめると以下のようなものになります。
① 弁護士自治は、弁護士の職業としての独立性を制度的に保障し、民事事件と刑事事件とを問わず、弁護士の自主的判断を守護し、日常業務を支える基盤であり、堅持が必要である。
② 弁護士自治は少数者保護を十全ならしめるために欠くことができず、少数者になった場合の市民にとっての、セーフティネットである。
③ 近時、は憲法改正や死刑廃止などの会員間の意見が大きく分かれている問題をめぐり、そのような政治的問題については弁護士会が意見を述べるべきではないという意見もある。また、弁護士業務をビジネスと割り切り、弁護士自治の維持に関する負担を削減しようという意見も見られ、さらに、相次ぐ弁護士不祥事で、弁護士自治を支えるべき市民の信頼が揺らいでいるように見受けられる。
④ 自由で多様な意見交換を通じて堅持すべき弁護士自治の重要性をあらためて認識し、会員に研修や意見交換の機会を提供すると共に、自治を支える
弁護士会内の合意形成に尽力し、不祥事対策に真剣に取り組むことで、弁護士自治が実質的に機能するための活動を行うべき。
これをみると、やはり弁護士会主導層の現在の弁護士自治観も、要するにこういうことなんだろう、という気がしてきます。従来から言われてきた弁護士自治の重要性、価値を繰り返し、現在の自治に対する会員や社会の目線を一応理解しながら、それへの直接的根源的な対策が導かれない。会員への自治の重要性周知、不祥事対策をそれこそ百万遍でも繰り返せばよし、自治堅持にはこれしかないといっているような姿勢です。
その特徴にさらに踏み込めば、前記「改革」の影響・失敗にできるだけ踏み込まないということのようにも取れます。しかし、それだとそもそも弁護士会活動と自治に、現会員の理解を得て、それへの支持を堅持するために新たに何をすべきかというテーマには、延々と辿りつかない。すべては自治の意義への会員理解の問題、自治が揺らぐのはつまるところ会員の理解度、認識不足の問題といっていることになっています。
不祥事対策が弁護士会として必要であっても、それはいわば被害を防止するための責任の問題であり、それで自治が許容されていくというようなことがいえるのか。「少数者になったときのセーフティネット」という描き方は、弁護士の意識のあり方としては正しくても、それがどのくらい社会に伝わるのか、認知されるのかはまた、別の問題として考えなければならない。弁護士による「弁護士インフラ論」と同じようなものを感じざるを得ません。
最近、ツィッター上で、こんな一文を見かけました。
「高額な会費負担や各種市民様向け会務活動もまた『弁護士自治』の対価なのだとしたら、そこまでして要らないというのが率直な感想。弁護士自治の重要性を理解してないと言われればそれまでですが、その自治は誰のため?会員の経済的利益のために活動しない(むしろ毀損する)業界団体は迷惑です」(カイローヤー)
「弁護士自治崩壊のトリガーは、会員の方を向かない会務活動のために高額の会費を漫然取り続けることによって鬱積する会員の不満に、経済的窮境が重なったときに引かれると思います」(向原総合法律事務所 弁護士向原)
弁護士会主導層に問われているのは、率直にいってバランスの問題なのだと思います。それこそ人権擁護を掲げる専門的職能集団の、その使命からの発言や活動は、仮に「政治的」と烙印を押されようとも(そういう批判にさらされようとも)貫かれなければ、それこそ今度はその存在意義が問われます。「政治的」といわれる度に沈黙する団体ではあってはならない。そして、そうした局面もあると思います。
しかし、それを貫くのであれば、これまで以上に会員と会員利益に向いた活動を弁護士会は示さなければならない、というか、示さなければならなくなった。そのバランス感覚の問題です(「弁護士会が『政治的』であるということ」 「弁護士会費「納得の仕方」から見えてくるもの」 「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」)。
そして、そうした状況を生み出したのは「改革」なのです。それを認めない発想が、結局、弁護士自治をめぐり、これまでになく、より会員を向いた、バランスのとれた姿勢が求められることになった、その現実を認めないことにもつながっている――。弁護士会主導層の姿勢は、そんな風にとれて仕方がありません。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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