「無償」ニーズという根本課題
司法改革の弁護士増員政策の中で、最もあいまいで、かつ、そのことが同政策失敗に直結したといっていいのは、いうまでもなく、弁護士の需要についての捉え方です。正確にいえば、その需要をどこまで踏み込んでとらえ、その評価を政策決定に反映させたのか、ということです。
これまでも度々書いてきたことですが、改革論議は端的にいってしまえば、弁護士の需要の有償・無償を緻密に区別してとらえていたようにみえません。いわば、それは常に「ある」「なし」の問題で語られたといってもいいようにとれます。たとえ、弁護士の需要が「ある」という評価になったとしても、それが個人事業主である弁護士の、しかも今後、増産するという弁護士が生存できるほどの、採算性の取れる有償のニーズとして存在しているのか、ということが、突っ込んで検討されたようには、どうしてもみえなかったのです。
そして、この政策の結果は、弁護士にとって、この点がを避けられないものだったということを教えるものになったのではないでしょうか。
なぜ、こんなことになっているのか――。あまりにも基本的な視点の欠落だけに、それはいまさらながら、奇妙な気持ちにもなります。こうなった背景には、いくつかの要素があるように思えます。当時の「改革」主導層の中にあった弁護士の経済基盤への過信(「なんとかなる」論)、「二割司法」といった「改革」が描いた司法機能不全論に乗っかった弁護士の公的使命論への傾斜(「なんとかすべき」論)、当時の会外「改革」推進者の弁護士増員必要論に抗せないという妥協論――。
要するに「なんとかしなければならない」「なんとかせよと言われている」需要がある、という認識と、これまでの経済的安定の実績からくる過信が、前記有償・無償ごちゃまぜのままのまま、「なんとかする」方向で増員の駒を進めた結果、ということになります(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」 「『二割司法』の虚実」)。
2012年の段階で、総務省は、「改革」の当初、目標だった司法試験合格年3000人目標の近い将来の達成見込みはなく、増員合格者数を吸収する需要が顕在化しておらず、弁護士の供給過多などの課題を明確に指摘した政策評価と提言を発表し、推進派関係者を驚かせました。
「利用者である国民の立場からすると、上記イでも示したとおり、需要が審議会意見において予見されたほどには拡大・顕在化しておらず、ただちに3000人を達成しなければならないほどの大きな支障は確認されていない。一方、3000 人の目標に達してはいなくとも、現在の需要規模の中、年間 2000 人規模の合格者数が輩出されるようになったことで、新たに、就職難や即独の発生・増加が重要な課題として指摘されている」
年合格3000人は「必要」であり、弁護士の経営についても「大丈夫」と豪語していた「改革」推進派の弁護士たちには、形無しといってもいい現状認識が書かれていました。そして、この中で、いわゆる「潜在的需要」に関連して、こんな報告もなされていました(「『支障ない』と評価された合格3000人未達成」)。
「潜在的需要の発掘に関し、日弁連は個々の弁護士が行うことには限界があり、組織的に行う必要性があるとし、また、ニーズの潜在が経済的な理由である場合は、法律扶助などの公的支援が必要としている」
これを今、読むと、それこそ日弁連主導層は、前記したような発想で「改革」の旗を振りながら、実は核心的なことを認識していたのではないか、という気持ちになります。個々の弁護士に潜在的需要の発掘に限界があるならば、鉱夫を増やして鉱脈を探り当てさせるかのごとき、増員効果への期待そのものがおかしいこと。「潜在が経済的な理由である場合」という仮定に立ってはいるが、もし、それが大きなウエートを占めていたならば、公的な支えがなければ、土台無理ということを見通せるところまできていた、ということです。
「経済的な理由ではない」潜在化というのは、要はアクセスと周知の問題になるはずです。弁護士がいないか、いても気後れして門をたたけない(いわゆる「敷居が高い」論)、あるいは弁護士の使い勝手、いかに役立つかがまだまだ周知されていないという発想。弁護士会がいわゆる弁護士過疎と増員必要論を結び付けてきたことも、なんでもウェルカム的な広報に力を入れてきたことも、その発想が裏打ちしているものです。
しかし、現実は、もはやそこを大きく見積もって「なんとかなる」問題なのか、あるいはどのくらいのものを見積もれるのかという話です。むしろ、大量に潜在化しているという弁護士のニーズがあったとしても、それは「経済的な理由」を抜きに語れる性格のものなのか、という疑問です。
「結局、社会に沢山あるという弁護士のニーズとは、無償か無償に近いものではないのか」
こういう声が最近、弁護士の中から異口同音に聞こえてきます。要は、ただならお願いしたいという程度のニーズではないか、という、増員論からすれば悲観的な見方です。そして、むしろそうしたことを口にし始めた弁護士たちにあるのは、それを相手にしていられない、という方向の問題意識です。
サービス業への自覚を促す結果となった増員政策からすれば、当然に有償サービスの徹底・周知への要求もあります。それ自体が、採算性を犠牲にしても、公益的活動という、あるべき弁護士像であったり、まさに「改革」が生み出す現実を度外視して、単体として必要性が強調された感がある「プロボノ」促進論の方向と、現実的に矛盾するような形にもなっています(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」「弁護士『ボランティア的活動』の未来」)。
「改革」の弁護士の需要に関する、いびつな発想に基づく描き方は、弁護士の経済的状況を変え、資格の経済的価値まで下落させました。しかし、それに止まらず、なにをどこまで弁護士が背負うべき無償性の高い需要であり、それにはどういう前提が必要で、整備されなければならないのか、という論点を、後方に押しやりました。
「経済的な理由」の潜在的需要に対して必要であるとされた公的支援も、そのレベルを問わないのであれば、弁護士も弁護士予備軍も離反するだけです。結局、そのツケは、弁護士の経済事情にだけではなく、本当に救われるべき利用者市民に回って来るといわなければなりません。
地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


これまでも度々書いてきたことですが、改革論議は端的にいってしまえば、弁護士の需要の有償・無償を緻密に区別してとらえていたようにみえません。いわば、それは常に「ある」「なし」の問題で語られたといってもいいようにとれます。たとえ、弁護士の需要が「ある」という評価になったとしても、それが個人事業主である弁護士の、しかも今後、増産するという弁護士が生存できるほどの、採算性の取れる有償のニーズとして存在しているのか、ということが、突っ込んで検討されたようには、どうしてもみえなかったのです。
そして、この政策の結果は、弁護士にとって、この点がを避けられないものだったということを教えるものになったのではないでしょうか。
なぜ、こんなことになっているのか――。あまりにも基本的な視点の欠落だけに、それはいまさらながら、奇妙な気持ちにもなります。こうなった背景には、いくつかの要素があるように思えます。当時の「改革」主導層の中にあった弁護士の経済基盤への過信(「なんとかなる」論)、「二割司法」といった「改革」が描いた司法機能不全論に乗っかった弁護士の公的使命論への傾斜(「なんとかすべき」論)、当時の会外「改革」推進者の弁護士増員必要論に抗せないという妥協論――。
要するに「なんとかしなければならない」「なんとかせよと言われている」需要がある、という認識と、これまでの経済的安定の実績からくる過信が、前記有償・無償ごちゃまぜのままのまま、「なんとかする」方向で増員の駒を進めた結果、ということになります(「日弁連が『3000人』を受け入れた場面」 「『二割司法』の虚実」)。
2012年の段階で、総務省は、「改革」の当初、目標だった司法試験合格年3000人目標の近い将来の達成見込みはなく、増員合格者数を吸収する需要が顕在化しておらず、弁護士の供給過多などの課題を明確に指摘した政策評価と提言を発表し、推進派関係者を驚かせました。
「利用者である国民の立場からすると、上記イでも示したとおり、需要が審議会意見において予見されたほどには拡大・顕在化しておらず、ただちに3000人を達成しなければならないほどの大きな支障は確認されていない。一方、3000 人の目標に達してはいなくとも、現在の需要規模の中、年間 2000 人規模の合格者数が輩出されるようになったことで、新たに、就職難や即独の発生・増加が重要な課題として指摘されている」
年合格3000人は「必要」であり、弁護士の経営についても「大丈夫」と豪語していた「改革」推進派の弁護士たちには、形無しといってもいい現状認識が書かれていました。そして、この中で、いわゆる「潜在的需要」に関連して、こんな報告もなされていました(「『支障ない』と評価された合格3000人未達成」)。
「潜在的需要の発掘に関し、日弁連は個々の弁護士が行うことには限界があり、組織的に行う必要性があるとし、また、ニーズの潜在が経済的な理由である場合は、法律扶助などの公的支援が必要としている」
これを今、読むと、それこそ日弁連主導層は、前記したような発想で「改革」の旗を振りながら、実は核心的なことを認識していたのではないか、という気持ちになります。個々の弁護士に潜在的需要の発掘に限界があるならば、鉱夫を増やして鉱脈を探り当てさせるかのごとき、増員効果への期待そのものがおかしいこと。「潜在が経済的な理由である場合」という仮定に立ってはいるが、もし、それが大きなウエートを占めていたならば、公的な支えがなければ、土台無理ということを見通せるところまできていた、ということです。
「経済的な理由ではない」潜在化というのは、要はアクセスと周知の問題になるはずです。弁護士がいないか、いても気後れして門をたたけない(いわゆる「敷居が高い」論)、あるいは弁護士の使い勝手、いかに役立つかがまだまだ周知されていないという発想。弁護士会がいわゆる弁護士過疎と増員必要論を結び付けてきたことも、なんでもウェルカム的な広報に力を入れてきたことも、その発想が裏打ちしているものです。
しかし、現実は、もはやそこを大きく見積もって「なんとかなる」問題なのか、あるいはどのくらいのものを見積もれるのかという話です。むしろ、大量に潜在化しているという弁護士のニーズがあったとしても、それは「経済的な理由」を抜きに語れる性格のものなのか、という疑問です。
「結局、社会に沢山あるという弁護士のニーズとは、無償か無償に近いものではないのか」
こういう声が最近、弁護士の中から異口同音に聞こえてきます。要は、ただならお願いしたいという程度のニーズではないか、という、増員論からすれば悲観的な見方です。そして、むしろそうしたことを口にし始めた弁護士たちにあるのは、それを相手にしていられない、という方向の問題意識です。
サービス業への自覚を促す結果となった増員政策からすれば、当然に有償サービスの徹底・周知への要求もあります。それ自体が、採算性を犠牲にしても、公益的活動という、あるべき弁護士像であったり、まさに「改革」が生み出す現実を度外視して、単体として必要性が強調された感がある「プロボノ」促進論の方向と、現実的に矛盾するような形にもなっています(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」「弁護士『ボランティア的活動』の未来」)。
「改革」の弁護士の需要に関する、いびつな発想に基づく描き方は、弁護士の経済的状況を変え、資格の経済的価値まで下落させました。しかし、それに止まらず、なにをどこまで弁護士が背負うべき無償性の高い需要であり、それにはどういう前提が必要で、整備されなければならないのか、という論点を、後方に押しやりました。
「経済的な理由」の潜在的需要に対して必要であるとされた公的支援も、そのレベルを問わないのであれば、弁護士も弁護士予備軍も離反するだけです。結局、そのツケは、弁護士の経済事情にだけではなく、本当に救われるべき利用者市民に回って来るといわなければなりません。
地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


スポンサーサイト