「市民」が求めたわけではないという現実
かなり以前にも取り上げましたが、司法改革の推進を目的に、2000年に開催された市民集会で、司法制度改革審議会委員を務め、弁護士会内での「改革」を主導した故・中坊公平弁護士が、冒頭のあいさつの中で、次のような極めて印象的な発言をしました。
「この『改革』は、残念ながら市民が下から求めたものではない。ただ、進め方によっては、市民のための『改革』になる」
おそらく「改革」への期待感を盛り上げようとする、この集会の狙い通り、ある種の熱気に包まれていた会場の参加市民たちが、この発言をどう理解していたのかはともかく、この発言は確かにこの「改革」の現実を鋭く言い表していたものでした。
のちに宮本康昭弁護士が、論文「司法制度改革の史的検討序説」で的確に分析したように、経済界が目指した、政治・経済の国際化と規制緩和の中で司法の役割をとらえ、作り変えようとする「規制緩和型司法改革」と、これに対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立することを目指した日弁連・弁護士会が掲げたのが「市民の司法型司法改革」であったという現実。
ただ、それは現に司法の救済を必要としている多くの国民が、それを得られないでいるという前提に、あくまで日弁連・弁護士会が立ったものであり、その解決のため「大きな司法」も、裁判官増員も、「司法官僚制の打破」も、すべて彼らが導き出したもの。大きな市民社会の要求が、彼らを突きあげて、この「改革」を動かしたわけではなく、少なくともこと「市民のため」という目的は、「改革」の流れのなかで、前記の通り、日弁連・弁護士が作り出そうとしたということを意味しています(「『「改革」への期待感』という幻影」 「同床異夢的『改革』の結末」)。
そして、中坊弁護士の前記言葉は、今にしてみれば、その日弁連・弁護士会が現在に至るまで掲げ続けている「市民のための改革」の結果について、別の現実も物語っているようにとれるのです。あくまでこれは前記の通り、日弁連・弁護士会が日本の司法を俯瞰し、導き出した「市民のため」であり、市民、とりわけ多数派市民がこの言葉から連想するものとは必ずしも一致していない、その当然過ぎる理由がここにあるということです。
例えば、おそらく司法にそれまでかかわりがなく、ある日、かかわりを余儀なくされる圧倒的多数といっていい利用者市民が、この言葉のもとに言われる利用しやすい司法というメッセージの先には、おそらくまず二つのことを弁護士に期待してしまうはずです。一つは簡便で的確な弁護士とのマッチング、もう一つは無料、低廉といえるような、その経済的ハードルの低さです。
あの日の会場の熱気のままに、今、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」が、市民の大きな支持のもとに、評価されているようにはとれない現実は、このいかんともしがたい実態と無縁ではないはずなのです。それをどこまで直視ししたのか、そもそもどこまでは直視してもできないことなのか、それもはっきり提示されているわけではないのです。
日弁連が、この旗印のもとに何を目指そうとしたのか――。それを今、辿ろうと思えば、例えば日弁連が1999年に発表した「司法改革実現に向けての基本的提言」にも明確に表れています。
「わが国は、長年にわたって官僚主導により政治、経済、社会が動かされてきた。この体制は、戦後のわが国に目覚ましい経済発展をもたらしたが、その一方で様々な社会的矛盾を生じさせ、これが今日、不透明なルール、不合理な規制、政財官の癒着、情報隠しとなってあらわれ、市民の生活に重大な影響をもたらしている」
「今、わが国では、この体制の転換が求められている。これに応じて、司法のあり方もまた改められなければならない。この改革の基本的枠組みは、『市民による司法』を実現することである。そのために、『市民のための司法制度』の内容を整備し充実させていくことが重要である。『市民のための司法制度』を充実し、司法に市民が参加するという基盤ができるとき、司法ははじめて市民にとって頼りがいのあるものになる。これが『市民の司法』の実現である」
改めてみれば、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」の源流にある発想が、いかに遠大なものであったかを知らされます。「不透明なルール」「不合理な規制」「政財官の癒着」「情報隠し」そして、「体制の転換」。これらのワードににじみ出る問題意識は、当然、理解できることですが、司法改革の射程がそこまで及んでいたことを今も、当時も、どれほどの多数派市民が発想で来たのでしょうか。
弁護士会的目線で見れば、ここに貫かれているのは、ある意味、当然、官僚(的)司法の打破であり、それ即ち、「市民のため」に直結していたというべきです。この提言の中の、前記「全体像」に続く「『市民による司法』制度の実現」にあるように、当時の彼らがその旗のもとに掲げたのが、法曹一元制度と陪審制度の導入であった(むしろ、そうでなければならなかった)ことの必然性が、ここにあったといえます。
もちろん、ここで言いたいのは、彼らの目指した「市民のための改革」の発想が無駄であったとか、意味がなかったということではありません。提言にさらに続いて記載されている整備すべき制度や弁護士の自己改革プログラムの中には、実をとれたものもあります。しかし、法曹一元制度実現は多くの市民が知るまでもなく消え、陪審制度は裁判員制度として市民参加への道は開いたものの、市民が求めたどころか、今もって求めているとは言い難い状況です。裁判員制度が陪審制度への一里塚のように言う人も今はいません。
「市民が要望する良質な法的サービスの提供と法曹一元制度を実施するためには、弁護士の人口が相当数必要」と提言が指摘した弁護士人口の増加は、改めていうまでもなく、数と需要の量的バランスを欠いたため、そもそも成立せず、前記市民側の発想からみても、「市民のため」をどこまで前進させ、今後前進させるのかは不透明です。
法曹一元や陪審制度が消えても、今でも弁護士界の中には「法の支配」や、「市民の司法」といった言葉を使う人は沢山います。しかし、日弁連・弁護士会が目指した「改革」のうち、どれが今でも「市民のために」に相応しい市民目線に合致するもので、どれが当時から「下からの求め」に必ずしも合致しない、忖度によるものであったのか、今、改めて問い直す必要があるように思えます。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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「この『改革』は、残念ながら市民が下から求めたものではない。ただ、進め方によっては、市民のための『改革』になる」
おそらく「改革」への期待感を盛り上げようとする、この集会の狙い通り、ある種の熱気に包まれていた会場の参加市民たちが、この発言をどう理解していたのかはともかく、この発言は確かにこの「改革」の現実を鋭く言い表していたものでした。
のちに宮本康昭弁護士が、論文「司法制度改革の史的検討序説」で的確に分析したように、経済界が目指した、政治・経済の国際化と規制緩和の中で司法の役割をとらえ、作り変えようとする「規制緩和型司法改革」と、これに対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立することを目指した日弁連・弁護士会が掲げたのが「市民の司法型司法改革」であったという現実。
ただ、それは現に司法の救済を必要としている多くの国民が、それを得られないでいるという前提に、あくまで日弁連・弁護士会が立ったものであり、その解決のため「大きな司法」も、裁判官増員も、「司法官僚制の打破」も、すべて彼らが導き出したもの。大きな市民社会の要求が、彼らを突きあげて、この「改革」を動かしたわけではなく、少なくともこと「市民のため」という目的は、「改革」の流れのなかで、前記の通り、日弁連・弁護士が作り出そうとしたということを意味しています(「『「改革」への期待感』という幻影」 「同床異夢的『改革』の結末」)。
そして、中坊弁護士の前記言葉は、今にしてみれば、その日弁連・弁護士会が現在に至るまで掲げ続けている「市民のための改革」の結果について、別の現実も物語っているようにとれるのです。あくまでこれは前記の通り、日弁連・弁護士会が日本の司法を俯瞰し、導き出した「市民のため」であり、市民、とりわけ多数派市民がこの言葉から連想するものとは必ずしも一致していない、その当然過ぎる理由がここにあるということです。
例えば、おそらく司法にそれまでかかわりがなく、ある日、かかわりを余儀なくされる圧倒的多数といっていい利用者市民が、この言葉のもとに言われる利用しやすい司法というメッセージの先には、おそらくまず二つのことを弁護士に期待してしまうはずです。一つは簡便で的確な弁護士とのマッチング、もう一つは無料、低廉といえるような、その経済的ハードルの低さです。
あの日の会場の熱気のままに、今、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」が、市民の大きな支持のもとに、評価されているようにはとれない現実は、このいかんともしがたい実態と無縁ではないはずなのです。それをどこまで直視ししたのか、そもそもどこまでは直視してもできないことなのか、それもはっきり提示されているわけではないのです。
日弁連が、この旗印のもとに何を目指そうとしたのか――。それを今、辿ろうと思えば、例えば日弁連が1999年に発表した「司法改革実現に向けての基本的提言」にも明確に表れています。
「わが国は、長年にわたって官僚主導により政治、経済、社会が動かされてきた。この体制は、戦後のわが国に目覚ましい経済発展をもたらしたが、その一方で様々な社会的矛盾を生じさせ、これが今日、不透明なルール、不合理な規制、政財官の癒着、情報隠しとなってあらわれ、市民の生活に重大な影響をもたらしている」
「今、わが国では、この体制の転換が求められている。これに応じて、司法のあり方もまた改められなければならない。この改革の基本的枠組みは、『市民による司法』を実現することである。そのために、『市民のための司法制度』の内容を整備し充実させていくことが重要である。『市民のための司法制度』を充実し、司法に市民が参加するという基盤ができるとき、司法ははじめて市民にとって頼りがいのあるものになる。これが『市民の司法』の実現である」
改めてみれば、日弁連・弁護士会の「市民のための改革」の源流にある発想が、いかに遠大なものであったかを知らされます。「不透明なルール」「不合理な規制」「政財官の癒着」「情報隠し」そして、「体制の転換」。これらのワードににじみ出る問題意識は、当然、理解できることですが、司法改革の射程がそこまで及んでいたことを今も、当時も、どれほどの多数派市民が発想で来たのでしょうか。
弁護士会的目線で見れば、ここに貫かれているのは、ある意味、当然、官僚(的)司法の打破であり、それ即ち、「市民のため」に直結していたというべきです。この提言の中の、前記「全体像」に続く「『市民による司法』制度の実現」にあるように、当時の彼らがその旗のもとに掲げたのが、法曹一元制度と陪審制度の導入であった(むしろ、そうでなければならなかった)ことの必然性が、ここにあったといえます。
もちろん、ここで言いたいのは、彼らの目指した「市民のための改革」の発想が無駄であったとか、意味がなかったということではありません。提言にさらに続いて記載されている整備すべき制度や弁護士の自己改革プログラムの中には、実をとれたものもあります。しかし、法曹一元制度実現は多くの市民が知るまでもなく消え、陪審制度は裁判員制度として市民参加への道は開いたものの、市民が求めたどころか、今もって求めているとは言い難い状況です。裁判員制度が陪審制度への一里塚のように言う人も今はいません。
「市民が要望する良質な法的サービスの提供と法曹一元制度を実施するためには、弁護士の人口が相当数必要」と提言が指摘した弁護士人口の増加は、改めていうまでもなく、数と需要の量的バランスを欠いたため、そもそも成立せず、前記市民側の発想からみても、「市民のため」をどこまで前進させ、今後前進させるのかは不透明です。
法曹一元や陪審制度が消えても、今でも弁護士界の中には「法の支配」や、「市民の司法」といった言葉を使う人は沢山います。しかし、日弁連・弁護士会が目指した「改革」のうち、どれが今でも「市民のために」に相応しい市民目線に合致するもので、どれが当時から「下からの求め」に必ずしも合致しない、忖度によるものであったのか、今、改めて問い直す必要があるように思えます。
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