依頼者市民の「勘違い」
依頼者・相談者市民の「勘違い」に憤る弁護士の声を、よく耳にするようになりました。それは大きく分ければ二つで、その一つは報酬に関するもの。とりわけ低廉化、無償化に絡む依頼者・市民の「勘違い」をいうものです。
例えば、弁護士側が安く仕事を受けたり、良かれと思ってボランティア的に対応すると、依頼者市民側が増長して、それを当たり前のように対応してくるとか、タダで書式や法的指南を要求してくるとか。弁護士は法的なサービス業でありながら、有償サービスとの境目が根本的に依頼者市民側に十分理解されていないということにもとれます。しっかり値段がついているサービスであるからこそ、市民側も「価値」を認識するのではないか、という声も異口同音に聞かれます。
前回取り上げた、問題となった弁護士ツイートの背景と繋がります(「弁護士ツイート懲戒問題が投げかけたもの」)。
もう一つは、弁護士の仕事・役割そのものに関する「勘違い」を言うものです。例えば、弁護士は何でもできるスーパーマンで依頼者の希望を叶える義務がある「小間使い」だと思っているのではないか、とか、依頼すれば、どんな汚れ仕事でも請け負うと考えている、とか。中には、「依頼者に寄り添う」ということを、依頼者と一緒になって敵対する相手を罵倒、執拗に攻撃してくれる存在と誤解している、といった声もあります。
要は、根本的に弁護士ができること、やるべきことを理解せず、要求のハードルを上げてくる依頼者市民が多い、ということのように取れます。
もちろん、いつの時代にもそうした依頼者市民も、それに嘆息する弁護士もいたとは思いますし、インターネットの登場もあって、弁護士の本音が発信され、よりそれに触れる環境も出来あがったという面はあります。ただ、果たしてそれだけなのでしょうか。
前記依頼者側の「勘違い」そのものに対する弁護士側の言い分は、基本的にもっともだと思います。前記したようにサービス業と括られながら、弁護士が背負う公的な性格によって、事業者としては求めて当然のはずの経済的関係があいまいになったり、さらには本来の仕事の性格や限界を超えて、依頼者側に都合よく要求のハードルを上げる形になっている、といえるかもしれません。
しかし、あえていえば、この「勘違い」の責任が、すべて依頼者・市民側にあると果たしていえるのか、という疑問があります。なぜならば、弁護士も旗を振った司法改革、あるいはそれに臨んだ弁護士(会)側のスタンスには、少なくともこの「勘違い」を増長させる要素があったように思えてならないからです。
弁護士増員政策の先に、「市民のため」に利用しやすくなる存在になることを描き込んだ弁護士会の「改革」の発想は、徹頭徹尾、現に存在する市民の要求にこたえ切れていない自らへの反省に立つ、自己改革を言うものでした。「敷居が高い」存在を改め、より「身近」で「頼りがいのある」存在になり、全国津々浦々に乗り出していく弁護士の姿――。
しかし、今にしてみれば、これを強力にアピールする一方で、その前提となる認識においては、肝心の市民とつながっていなかった。結論から言ってしまえば、前記「勘違い」あるいはその増長は、まさにその現実の裏返しではないか、と思えるのです(「『市民』が求めたわけではないという現実」)。
なぜ、あの時、「改革」の発想の中で、「市民の要求」にこたえるとした弁護士会は、その市民側が潜在的に弁護士におカネを投入する用意があるという前提に立ったのでしょうか。あたかも数さえ増えて、「身近に」弁護士がいてくれれば、いつでもそのサービスに見合った資金を投入できる依頼者市民が全国に沢山(しかも、競争・淘汰を強調していなかった弁護士会の発想からすれば、膨大な勢いで増加する弁護士の生存を揺るがさないほどに)存在しているかのように。
市民側の要求に基づかない、このむしろ、弁護士会側の「勘違い」のまま、増員によって市民の要求にこたえられ存在に弁護士はなるというアピールだけが伝わった。そして実際には、その弁護士会側の覚悟と増員政策という現実によって、無償化・低廉化も、サービス業としての自覚を深めた彼らの「当然の」努力と理解される余地を作ってしまった。さらに経済的な意味で市民の期待を背負う形になった法テラスにあっても、弁護士に求められたのは、皮肉にも、その「当然の」努力だった――。
増員後、多くの弁護士から、肌感覚として、よく聞かれたことですが、弁護士が増えたという現実は、依頼者市民側により安く、よりこちらの要望にこたえる弁護士がどこかにいて、自分たちが主体的にそれを選べるし、辿りつけると考えさせるものになった、と。以前から「青い鳥症候群」のごとく、どこかに自分の無理筋の要求を叶えてくれる弁護士がいると彷徨う市民がいるという話はありましたが、結果としてそういう市民の期待度を上げてしまったのではないか、ということにもなります(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」)。
そして、さらに付け加えれば、こうしたことを念頭に置いていない弁護士会の「改革」の発想は、彼らの想定した「市民の要求」(本当は経済的裏付けが必要でありながら)それに答える、利用者側に耳触りのよい、弁護士の「あるべき論」に基く「役割」は打ち出されながら、前記「勘違い」を生まないための、弁護士業の限界を含めた実態を、この「改革」の中でほとんど市民に伝わる形でアピールされていないようにとれる現実があったことです(「依頼者との関係を変えたもの」)。
つまりは、前記「勘違い」を生まないために、弁護士会は前提的にもっと言っておくべきことがあったのではないでしょうか。
しかしながら、残念なことに、こうした意味での弁護士会の「改革」スタンスが大きく変わったようにはとれません。その意味では、冒頭に書いた依頼者市民の「勘違い」に憤る弁護士たちの声が意味するものを、弁護士会主導層がどこまで理解しているのかも疑問であるといわざるを得なくなるのです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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例えば、弁護士側が安く仕事を受けたり、良かれと思ってボランティア的に対応すると、依頼者市民側が増長して、それを当たり前のように対応してくるとか、タダで書式や法的指南を要求してくるとか。弁護士は法的なサービス業でありながら、有償サービスとの境目が根本的に依頼者市民側に十分理解されていないということにもとれます。しっかり値段がついているサービスであるからこそ、市民側も「価値」を認識するのではないか、という声も異口同音に聞かれます。
前回取り上げた、問題となった弁護士ツイートの背景と繋がります(「弁護士ツイート懲戒問題が投げかけたもの」)。
もう一つは、弁護士の仕事・役割そのものに関する「勘違い」を言うものです。例えば、弁護士は何でもできるスーパーマンで依頼者の希望を叶える義務がある「小間使い」だと思っているのではないか、とか、依頼すれば、どんな汚れ仕事でも請け負うと考えている、とか。中には、「依頼者に寄り添う」ということを、依頼者と一緒になって敵対する相手を罵倒、執拗に攻撃してくれる存在と誤解している、といった声もあります。
要は、根本的に弁護士ができること、やるべきことを理解せず、要求のハードルを上げてくる依頼者市民が多い、ということのように取れます。
もちろん、いつの時代にもそうした依頼者市民も、それに嘆息する弁護士もいたとは思いますし、インターネットの登場もあって、弁護士の本音が発信され、よりそれに触れる環境も出来あがったという面はあります。ただ、果たしてそれだけなのでしょうか。
前記依頼者側の「勘違い」そのものに対する弁護士側の言い分は、基本的にもっともだと思います。前記したようにサービス業と括られながら、弁護士が背負う公的な性格によって、事業者としては求めて当然のはずの経済的関係があいまいになったり、さらには本来の仕事の性格や限界を超えて、依頼者側に都合よく要求のハードルを上げる形になっている、といえるかもしれません。
しかし、あえていえば、この「勘違い」の責任が、すべて依頼者・市民側にあると果たしていえるのか、という疑問があります。なぜならば、弁護士も旗を振った司法改革、あるいはそれに臨んだ弁護士(会)側のスタンスには、少なくともこの「勘違い」を増長させる要素があったように思えてならないからです。
弁護士増員政策の先に、「市民のため」に利用しやすくなる存在になることを描き込んだ弁護士会の「改革」の発想は、徹頭徹尾、現に存在する市民の要求にこたえ切れていない自らへの反省に立つ、自己改革を言うものでした。「敷居が高い」存在を改め、より「身近」で「頼りがいのある」存在になり、全国津々浦々に乗り出していく弁護士の姿――。
しかし、今にしてみれば、これを強力にアピールする一方で、その前提となる認識においては、肝心の市民とつながっていなかった。結論から言ってしまえば、前記「勘違い」あるいはその増長は、まさにその現実の裏返しではないか、と思えるのです(「『市民』が求めたわけではないという現実」)。
なぜ、あの時、「改革」の発想の中で、「市民の要求」にこたえるとした弁護士会は、その市民側が潜在的に弁護士におカネを投入する用意があるという前提に立ったのでしょうか。あたかも数さえ増えて、「身近に」弁護士がいてくれれば、いつでもそのサービスに見合った資金を投入できる依頼者市民が全国に沢山(しかも、競争・淘汰を強調していなかった弁護士会の発想からすれば、膨大な勢いで増加する弁護士の生存を揺るがさないほどに)存在しているかのように。
市民側の要求に基づかない、このむしろ、弁護士会側の「勘違い」のまま、増員によって市民の要求にこたえられ存在に弁護士はなるというアピールだけが伝わった。そして実際には、その弁護士会側の覚悟と増員政策という現実によって、無償化・低廉化も、サービス業としての自覚を深めた彼らの「当然の」努力と理解される余地を作ってしまった。さらに経済的な意味で市民の期待を背負う形になった法テラスにあっても、弁護士に求められたのは、皮肉にも、その「当然の」努力だった――。
増員後、多くの弁護士から、肌感覚として、よく聞かれたことですが、弁護士が増えたという現実は、依頼者市民側により安く、よりこちらの要望にこたえる弁護士がどこかにいて、自分たちが主体的にそれを選べるし、辿りつけると考えさせるものになった、と。以前から「青い鳥症候群」のごとく、どこかに自分の無理筋の要求を叶えてくれる弁護士がいると彷徨う市民がいるという話はありましたが、結果としてそういう市民の期待度を上げてしまったのではないか、ということにもなります(「『望ましくない顧客』を登場させたもの」)。
そして、さらに付け加えれば、こうしたことを念頭に置いていない弁護士会の「改革」の発想は、彼らの想定した「市民の要求」(本当は経済的裏付けが必要でありながら)それに答える、利用者側に耳触りのよい、弁護士の「あるべき論」に基く「役割」は打ち出されながら、前記「勘違い」を生まないための、弁護士業の限界を含めた実態を、この「改革」の中でほとんど市民に伝わる形でアピールされていないようにとれる現実があったことです(「依頼者との関係を変えたもの」)。
つまりは、前記「勘違い」を生まないために、弁護士会は前提的にもっと言っておくべきことがあったのではないでしょうか。
しかしながら、残念なことに、こうした意味での弁護士会の「改革」スタンスが大きく変わったようにはとれません。その意味では、冒頭に書いた依頼者市民の「勘違い」に憤る弁護士たちの声が意味するものを、弁護士会主導層がどこまで理解しているのかも疑問であるといわざるを得なくなるのです。
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