弁護士ボランティアをめぐる認識
以前、ある市民から、「弁護士は本業をボランティアでもやるのですか」という趣旨のことを聞かれたことがあります。この人の疑問の根っこには、要するに弁護士法が使命として掲げている人権擁護の活動は、まさに弁護士の本来的な業務。一方、ボランティアは一般的なイメージとしても、生活できる経済的な環境が担保されているのが前提で、奉仕の精神で、自発的に出来る限りやればいいものという理解があるのです。
つまり、この疑問の行き着く先は、弁護士ははじめから、その使命を達成するためのボランティア(無償の貢献)が前提とされている仕事なのか、ということになります。職業的なスキルや専門知識を活かしたボランティアとして、「プロボノ」という言葉が言われ出し、しかもそれが弁護士業由来であるという話が伝えられて、むしろそういう捉え方がされてもおかしくない余地は広がったといえるかもしれません。
しかも、そのプロボノについていえば、それを義務化する弁護士会も登場してきました。もはや自発性というボランティアの要件とは矛盾する、この弁護士会の姿勢は、前記市民の理解からすれば、どういうことになるのでしょうか。やはり、使命に照らして本来的業務に当たるものは、採算性を無視してでも、会員に全うさせようとしていると捉えるか、それだけ弁護士は経済的にゆとりがあって、ビジネス偏重をこうやって非採算的な本来的業務に振り向かせようとしていると捉えるのか――。
この市民の素朴な疑問には、ある意味、的を射たところがあると感じました。なぜならば、実際は弁護士によって、ここの認識には微妙にバラツキがあるということもさることながら、こうした疑問を含めて、市民にどう取られるか、ということが、どうも多くの弁護士の関心の外にあるようにみえるからです。しかし、その一方で、この疑問は、今、問題とされている弁護士業の有償・無償性をめぐる利用者の「誤解」にも通底しているようにとれるのです(「依頼者市民の『勘違い』」)。
もっとも、いまや多くの弁護士は、単純に割り切っているだけかもしれません。つまり、基本的に採算性が取れるものだけが本来的業務であって、それ以外は、弁護士会活動を含めて、非採算的な業務は、すべてボランティアということでよし、というものです。逆にいえば、弁護士法が想定し、社会が期待する、公的な性格が及ぶ範疇全体について、個々の弁護士は文字通りのボランティアが意味する「できるだけ」以上は負うことはない、というように。
つまり、冒頭の市民の疑問に返れば、ある人はあくまで「本業」はサービス業として採算性のとれるもので、仮に弁護士の使命につながっても、ボランティア(非採算部門)は「本業」ではない、と言うかもしれないし、ある人は、その使命から弁護士がやるべきという意味では「本業」と括れたとしても、現実的に採算性があるものを優先し、「できるだけ」という意味のボランティア的な取り組みしかできない、と言うかもしれません(「弁護士とボランティアの厄介な関係」)。
ここで問題なのは、やはり弁護士会と司法改革の建て前です。司法改革は、個々の弁護士が採算性の追求を犠牲にしても、より公益性(当然、非採算部門を含む)を追求する存在になることを求めました。それを支える公的資金の導入を全く前提としない、その要求は、当然、かつていわれた「経済的自立論」を維持できる、つまりは、前記犠牲を選択しても、やれる経済的体力を前提としています(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「弁護士のプロボノ活動と『経済的自立論』」)。
この弁護士会的な発想は、実は「改革」以前から、現在に至るまで同じなのかもしれません。ただ、言うまでもなく、「改革」以前は、前提にすべき経済的体力が、会員間におしなべて存在していたため、ボランティアをボランティアとして意識しなくても、「できるだけ」にことさらに拘らなくても、やれていた。やらない人は、あくまでやらなかったにせよ、少なくともやろうとする人が参入のハードルが今より格段に低かった(「『生業』と『ボランティア』というテーマ」)。
不思議なのは、弁護士会主導層は、依然として、その時代の発想のまま、それこそ弁護士の使命から導かれた「べき論」で、会員の参加を求めているようにみえることです(「プロボノ活動」第一東京弁護士会)。増員政策の失敗による、弁護士の経済的環境の激変によって、弁護士の意識も参入の条件も根本的に変わってしまったことを看過する、というか何もなかったかのように通用すると捉えている印象を持ってしまうのです。
公的資金の後ろ盾もなく、かつてのような経済的余裕もない民間事業者である弁護士に、使命から導かれる公益性を求める形。弁護士増員政策が、その余裕を奪ったにもかかわらず、会内には「会主導層は、手掛ける会員がいないならば、なおさらさらに会員を増やすしかない、と言い出しかねない」という懸念の声まで聞こえてきます。
「弁護士の社会的責務を果たすことで、社会の弁護士に対する信頼を高めてくれるものと確信」(前出「プロボノ活動」)していると弁護士会主導層は言いますが、根本的なところで社会と個々の弁護士の間の、現実に立脚した共通認識がどこまで出来ているのか、という気持ちになってくるのです。
弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/6046
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つまり、この疑問の行き着く先は、弁護士ははじめから、その使命を達成するためのボランティア(無償の貢献)が前提とされている仕事なのか、ということになります。職業的なスキルや専門知識を活かしたボランティアとして、「プロボノ」という言葉が言われ出し、しかもそれが弁護士業由来であるという話が伝えられて、むしろそういう捉え方がされてもおかしくない余地は広がったといえるかもしれません。
しかも、そのプロボノについていえば、それを義務化する弁護士会も登場してきました。もはや自発性というボランティアの要件とは矛盾する、この弁護士会の姿勢は、前記市民の理解からすれば、どういうことになるのでしょうか。やはり、使命に照らして本来的業務に当たるものは、採算性を無視してでも、会員に全うさせようとしていると捉えるか、それだけ弁護士は経済的にゆとりがあって、ビジネス偏重をこうやって非採算的な本来的業務に振り向かせようとしていると捉えるのか――。
この市民の素朴な疑問には、ある意味、的を射たところがあると感じました。なぜならば、実際は弁護士によって、ここの認識には微妙にバラツキがあるということもさることながら、こうした疑問を含めて、市民にどう取られるか、ということが、どうも多くの弁護士の関心の外にあるようにみえるからです。しかし、その一方で、この疑問は、今、問題とされている弁護士業の有償・無償性をめぐる利用者の「誤解」にも通底しているようにとれるのです(「依頼者市民の『勘違い』」)。
もっとも、いまや多くの弁護士は、単純に割り切っているだけかもしれません。つまり、基本的に採算性が取れるものだけが本来的業務であって、それ以外は、弁護士会活動を含めて、非採算的な業務は、すべてボランティアということでよし、というものです。逆にいえば、弁護士法が想定し、社会が期待する、公的な性格が及ぶ範疇全体について、個々の弁護士は文字通りのボランティアが意味する「できるだけ」以上は負うことはない、というように。
つまり、冒頭の市民の疑問に返れば、ある人はあくまで「本業」はサービス業として採算性のとれるもので、仮に弁護士の使命につながっても、ボランティア(非採算部門)は「本業」ではない、と言うかもしれないし、ある人は、その使命から弁護士がやるべきという意味では「本業」と括れたとしても、現実的に採算性があるものを優先し、「できるだけ」という意味のボランティア的な取り組みしかできない、と言うかもしれません(「弁護士とボランティアの厄介な関係」)。
ここで問題なのは、やはり弁護士会と司法改革の建て前です。司法改革は、個々の弁護士が採算性の追求を犠牲にしても、より公益性(当然、非採算部門を含む)を追求する存在になることを求めました。それを支える公的資金の導入を全く前提としない、その要求は、当然、かつていわれた「経済的自立論」を維持できる、つまりは、前記犠牲を選択しても、やれる経済的体力を前提としています(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」 「弁護士のプロボノ活動と『経済的自立論』」)。
この弁護士会的な発想は、実は「改革」以前から、現在に至るまで同じなのかもしれません。ただ、言うまでもなく、「改革」以前は、前提にすべき経済的体力が、会員間におしなべて存在していたため、ボランティアをボランティアとして意識しなくても、「できるだけ」にことさらに拘らなくても、やれていた。やらない人は、あくまでやらなかったにせよ、少なくともやろうとする人が参入のハードルが今より格段に低かった(「『生業』と『ボランティア』というテーマ」)。
不思議なのは、弁護士会主導層は、依然として、その時代の発想のまま、それこそ弁護士の使命から導かれた「べき論」で、会員の参加を求めているようにみえることです(「プロボノ活動」第一東京弁護士会)。増員政策の失敗による、弁護士の経済的環境の激変によって、弁護士の意識も参入の条件も根本的に変わってしまったことを看過する、というか何もなかったかのように通用すると捉えている印象を持ってしまうのです。
公的資金の後ろ盾もなく、かつてのような経済的余裕もない民間事業者である弁護士に、使命から導かれる公益性を求める形。弁護士増員政策が、その余裕を奪ったにもかかわらず、会内には「会主導層は、手掛ける会員がいないならば、なおさらさらに会員を増やすしかない、と言い出しかねない」という懸念の声まで聞こえてきます。
「弁護士の社会的責務を果たすことで、社会の弁護士に対する信頼を高めてくれるものと確信」(前出「プロボノ活動」)していると弁護士会主導層は言いますが、根本的なところで社会と個々の弁護士の間の、現実に立脚した共通認識がどこまで出来ているのか、という気持ちになってくるのです。
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