裁判員制度への弁護士会スタンスと市民の意思
日弁連・弁護士会が掲げる「市民のため」の「改革」の現実は、その当の市民が求めたものではなく、あくまで日弁連・弁護士会が導き出した「市民のため」のものであったということを書きました(「『市民』が求めたわけではないという現実」)。
しかし、このことを思う度に、もし、真摯にこの前提に立つのであれば、もっと日弁連・弁護士会は、この「改革」の結果に謙虚であっていいと思えてしまうのです。本当にこの「改革」が市民の求めるものに合致していた(いる)のか、たとえそれが善意から出たものであったとしても、自分たちの思い込みによって進められたものではなかったのか、という問いかけがあってもいいのではないか、と。実際に「改革」が動き出して、よりそれが鮮明になること、気付かされることがあってもおかしくないはずです。
ところが、弁護士界側には、率直にいって、その姿勢に欠けていると感じることがしばしばあります。あくまで制度そのものの発想は、「市民のため」(になる)、もっと言ってしまえば、冒頭の事実がなかったかのように、いつのまにかあくまで「市民が求めてきた」かのように、思考停止してしまっている。自分たちの当初の発想や方向性が間違っていなかったという前提にしがみつくあまり、その範囲での軌道修正が語られることになる――。
そうなると、根本のところで「市民のため」のボタンの掛け違いが修正されないまま、当然、当の市民も弁護士会の姿勢には、よそよそしいものを感じざるを得ません。「市民、市民という割に・・・」という言葉を護士界の内外で時々耳にするのも、こうした現実と無縁でない気がするのです。
いくつもある司法改革の「メニュー」のなかで、裁判員制度の導入も、その例外ではありません。とりわけ、同制度に関しては、市民が求めるどころか、はじめから市民側の消極姿勢が、際立ってはっきりしていたものでした。それだけに制度ありきの「改革」の発想は、はじめからいかにして市民を動員するか、ということに傾斜していた感がありました。
いまいち一般の話題にはなっていませんが、日弁連は6月17日付けで、久々となる裁判員制度関連の意見書をまとめました。タイトルは「裁判員が主体的、実質的に参加できる裁判員制度にするための意見書」。詳しくは、原文をご覧頂ければと思いますが、この意見書での日弁連の問題意識は、タイトルにある通り、裁判員の「主体的、実質的に参加」という点です。
2001年の司法制度改革審議会が裁判員制度について、「統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却」することを促すために、「広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度」としたことに照らし、その制度趣旨が施行から13年経過しても「十分に実現されているのか」疑問と指摘。
その観点から、①公判前整理手続の主宰者を受訴裁判所の構成員ではない裁判官とすること②裁判長に対し、「事実の認定」、「法令の適用」及び「刑の量定」に関して裁判官と裁判員が対等であることの説明を義務付けること③裁判長に対し、裁判官による「法令の解釈に係る判断」、「訴訟手続に関する判断」及び「その他裁判員の関与する判断以外の判断」の説示を公開法廷で行うことを義務付けること④被告人に不利な判断をする際の評決の要件について、構成裁判官の過半数かつ裁判員の過半数の意見によるものとすること――を提案しています。
法律実務家として、技術的な意味で制度のあり方を考えた時、前記問題意識からこうした提案が導き出されることは理解できなくはありません。ただ、制度を俯瞰してみた場合、「主体的」という言葉がひっかかってしまいます。この制度は、そもそも国民の制度に対する主体性を前提的に捉えているのだろうか、という疑問が拭いされないからです。
日弁連が、それを承知のうえで、論を進めていることを伺わせる下りが意見書にはあります。
「裁判員制度をめぐっては、当連合会が法改正の提言をしてきた様々な制度改革課題があるほか、裁判員候補者の辞退が相当数あることを踏まえて、市民が裁判員の職務を務める上での環境整備を更に進める必要もある。もっとも、裁判員が主体的かつ実質的に関与する制度でなければ、そもそも裁判員制度を実施する意義自体が没却されかねない」
「主体的」というのであれば、最も注目しなければいけないのは、多くの国民に制度が依然、拒否されているという現実であり、施行13年たっても、市民がその意思を維持しているという厳然たる事実のはずです。制度推進論者は、これをあくまで「必要論」としてはとらえず、あくまで解消すべき「負担」の問題として捉えます。あくまで参加する市民の「負担」が問題であって、それを解消すれば、それこそ国民はこの制度を「主体的」に指示する、と。意見書はそのための制度整備は必要としながら、それを飛び越えて、前記技術的な面での主体的関与のための検討の必要性につなげています。
しかし、より本質的に考ええれば、この制度の本当にどこまで感じているのか、自分が被告人だとして本当に職業裁判官よりも無作為抽出の市民に裁かれたいと考えているのか、その制度は建前上でも国民を強制動員してまで必要と考えるのか、そして何よりも、推進者が規定した「裁判員制度を実施する意義自体」への国民の理解・認識は、13年間で本当に浸透したといえるのか――。
「主体的」ということに本当に向き合うのであれば、この問いかけ(あるいは当初から制度導入のために見て見ぬふりをしてきたといっていい)こそが、前提的に行われていいのではないか、という気がしてしまうのです。「民主的」と推進論者が強調する制度の是非や必要性が、なぜか民主的に問われない現実を制度は未だに引きずっているのです。
「制度の本質に切り込むことなく、自ら賛成した制度の倒壊を防ぐ弥縫策の提示にみえる」
この意見書について、裁判員制度の問題性を指摘してきた、ある弁護士はこう語りました。やはり、「市民のため」と銘打ってきた「改革」への、日弁連・弁護士会の現実的なスタンスを、ある意味、象徴しているように思えて来るのです。
裁判員制度の必要性について、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4808
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しかし、このことを思う度に、もし、真摯にこの前提に立つのであれば、もっと日弁連・弁護士会は、この「改革」の結果に謙虚であっていいと思えてしまうのです。本当にこの「改革」が市民の求めるものに合致していた(いる)のか、たとえそれが善意から出たものであったとしても、自分たちの思い込みによって進められたものではなかったのか、という問いかけがあってもいいのではないか、と。実際に「改革」が動き出して、よりそれが鮮明になること、気付かされることがあってもおかしくないはずです。
ところが、弁護士界側には、率直にいって、その姿勢に欠けていると感じることがしばしばあります。あくまで制度そのものの発想は、「市民のため」(になる)、もっと言ってしまえば、冒頭の事実がなかったかのように、いつのまにかあくまで「市民が求めてきた」かのように、思考停止してしまっている。自分たちの当初の発想や方向性が間違っていなかったという前提にしがみつくあまり、その範囲での軌道修正が語られることになる――。
そうなると、根本のところで「市民のため」のボタンの掛け違いが修正されないまま、当然、当の市民も弁護士会の姿勢には、よそよそしいものを感じざるを得ません。「市民、市民という割に・・・」という言葉を護士界の内外で時々耳にするのも、こうした現実と無縁でない気がするのです。
いくつもある司法改革の「メニュー」のなかで、裁判員制度の導入も、その例外ではありません。とりわけ、同制度に関しては、市民が求めるどころか、はじめから市民側の消極姿勢が、際立ってはっきりしていたものでした。それだけに制度ありきの「改革」の発想は、はじめからいかにして市民を動員するか、ということに傾斜していた感がありました。
いまいち一般の話題にはなっていませんが、日弁連は6月17日付けで、久々となる裁判員制度関連の意見書をまとめました。タイトルは「裁判員が主体的、実質的に参加できる裁判員制度にするための意見書」。詳しくは、原文をご覧頂ければと思いますが、この意見書での日弁連の問題意識は、タイトルにある通り、裁判員の「主体的、実質的に参加」という点です。
2001年の司法制度改革審議会が裁判員制度について、「統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却」することを促すために、「広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度」としたことに照らし、その制度趣旨が施行から13年経過しても「十分に実現されているのか」疑問と指摘。
その観点から、①公判前整理手続の主宰者を受訴裁判所の構成員ではない裁判官とすること②裁判長に対し、「事実の認定」、「法令の適用」及び「刑の量定」に関して裁判官と裁判員が対等であることの説明を義務付けること③裁判長に対し、裁判官による「法令の解釈に係る判断」、「訴訟手続に関する判断」及び「その他裁判員の関与する判断以外の判断」の説示を公開法廷で行うことを義務付けること④被告人に不利な判断をする際の評決の要件について、構成裁判官の過半数かつ裁判員の過半数の意見によるものとすること――を提案しています。
法律実務家として、技術的な意味で制度のあり方を考えた時、前記問題意識からこうした提案が導き出されることは理解できなくはありません。ただ、制度を俯瞰してみた場合、「主体的」という言葉がひっかかってしまいます。この制度は、そもそも国民の制度に対する主体性を前提的に捉えているのだろうか、という疑問が拭いされないからです。
日弁連が、それを承知のうえで、論を進めていることを伺わせる下りが意見書にはあります。
「裁判員制度をめぐっては、当連合会が法改正の提言をしてきた様々な制度改革課題があるほか、裁判員候補者の辞退が相当数あることを踏まえて、市民が裁判員の職務を務める上での環境整備を更に進める必要もある。もっとも、裁判員が主体的かつ実質的に関与する制度でなければ、そもそも裁判員制度を実施する意義自体が没却されかねない」
「主体的」というのであれば、最も注目しなければいけないのは、多くの国民に制度が依然、拒否されているという現実であり、施行13年たっても、市民がその意思を維持しているという厳然たる事実のはずです。制度推進論者は、これをあくまで「必要論」としてはとらえず、あくまで解消すべき「負担」の問題として捉えます。あくまで参加する市民の「負担」が問題であって、それを解消すれば、それこそ国民はこの制度を「主体的」に指示する、と。意見書はそのための制度整備は必要としながら、それを飛び越えて、前記技術的な面での主体的関与のための検討の必要性につなげています。
しかし、より本質的に考ええれば、この制度の本当にどこまで感じているのか、自分が被告人だとして本当に職業裁判官よりも無作為抽出の市民に裁かれたいと考えているのか、その制度は建前上でも国民を強制動員してまで必要と考えるのか、そして何よりも、推進者が規定した「裁判員制度を実施する意義自体」への国民の理解・認識は、13年間で本当に浸透したといえるのか――。
「主体的」ということに本当に向き合うのであれば、この問いかけ(あるいは当初から制度導入のために見て見ぬふりをしてきたといっていい)こそが、前提的に行われていいのではないか、という気がしてしまうのです。「民主的」と推進論者が強調する制度の是非や必要性が、なぜか民主的に問われない現実を制度は未だに引きずっているのです。
「制度の本質に切り込むことなく、自ら賛成した制度の倒壊を防ぐ弥縫策の提示にみえる」
この意見書について、裁判員制度の問題性を指摘してきた、ある弁護士はこう語りました。やはり、「市民のため」と銘打ってきた「改革」への、日弁連・弁護士会の現実的なスタンスを、ある意味、象徴しているように思えて来るのです。
裁判員制度の必要性について、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4808
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