「町弁」という存在への冷淡さ
司法改革の結果をみてくると、この「改革」にとって、いわゆる町弁(街弁、マチ弁)とは、本当はどういう位置付けの存在だったのか、という思いに度々させられてきました。これまでも指摘してきたことですが、いうまでもなく、弁護士業としては、この「改革」の負の影響を最も受けたのが、この業態であったようにみえるからです(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。
弁護士増員政策の失敗は、明らかに町弁を生きづらい存在にさせ、さらに長年当たり前のようにこの国に定着していたといえる、独立開業型の弁護士の業態を根底からぐらつかせることになりました。そして、いまや旧来の発想で、この業態を目指すのであれば、今まで以上に「起業」の発想とスキルが求められるということも、業界内で盛んに言われるようになっています。
これは、一部メディアにもエリート資格の没落として、度々取り上げられ、その一方で、そのしわ寄せとしての弁護士の不祥事が、エリートのモラルハザードとして社会に注目されることになりました。多発する預かり金着服型の不祥事の多くは、前記「改革」によって経営を直撃された町弁の「悪事」として、社会に伝えられることになりました。
もちろん、どんな理屈を立てても許されることではありませんが、この預かり金着服型の不祥事が、とりわけベテラン層にみられる理由の根底には、かつての町弁の経済的安定の下では、後の報酬で十分補填できた(成功体験も含め)ことによる気の緩みから、目がくらんだという現実があることを、実は多くの同業者が知っています。
現実に堪え切れないほどの倫理感レベルといえば、それまでであり、淘汰されて当然で片付けられることかもしれません。しかし一方で、これもまた、前記負の影響の末端で起きた、町弁の一つの現実として記憶する必要はあります。
司法改革のバイブルである司法制度改革審議会意見書のどこをみても、この町弁への負の影響を懸念したり、それを回避しようとするような発想は見られませんし、まして、その存在をこれからの弁護士のあり方として直接的に軽視しているような論調は、もちろん、どこにも見当たりません。
軽視どころか、同意見書は、弁護士のあり方について、こう言っていました。
「弁護士は、国民の社会生活や企業の経済活動におけるパートナー、公的部門の担い手などとして、一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在となるべく、その資質・能力の向上、国民との豊かなコミュニケーションの確保に努めなければならない」
これを読むと、いつも奇妙な気持ちになるのは、「国民の社会生活」において、「一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在」を弁護士に求めるのであれば、真っ先に保護、あるいは育成されるべきは、これまで主にそれを担ってきた町弁という存在ではないか、という気持ちにさせられるからです。
ひとえに弁護士増員政策の失敗、つまり増員弁護士を吸収し得るほどの、町弁が担う経済的需要が、この国に存在しなかった、そこを見誤ったということで片付ける人もいると思います。それは事実ですが、これまでの弁護士のこの業態の、いわば実績を考えた時、弁護士業に対して、のみならず、その需要の受け皿そのものに対して(代わりの受け皿の現実的な充足度も含め)、あまりにこの「改革」が、町弁の現実に冷淡なように思えるのです。
そして、さらに奇妙な気持ちにさせるのは、この現実を最も理解しているはずの、弁護士会主導層や「改革」推進派が、やはりこのことに冷淡にみえることです。彼らの主張を大きく括ってしまえば、ひたすらこの現実を受けとめて個々の弁護士でなんとかしろ、と言う丸投げ論か、古いスタイルとして訴訟偏重が原因として、それをひたすら批判するか、生存バイアス的に成功例にスポットを当て、「やれている人はいる」論を展開するか、さらにいってしまえば、まるで町弁そのものを、もはや将来性がない古い業態とするかのごとく、組織内弁護士や企業弁護士のニーズと将来性を強調する、いわば「転身論」を持ち出すか――。
長い実績があるはずの町弁という弁護士の業態を、保護・維持しようとするようなベクトルの話が、あまりに聞かれない印象を持ってしまうのです。
最近、こんな弁護士のツイートが、一部業界関係者の間で話題となりました。
「74期修理生歓迎会で司法改革マンセーの超ベテラン弁護士が『今は良い。昔は司法試験に受かっても弁護士になるしかなかったが、今はインハウスや他の職業なれるから、羨ましい』って挨拶してたけど、今の人は『ヤッター、司法試験に受かったし、法曹以外の仕事に就ける!』ってそんな感じ!?」(武本夕香子弁護士のツイート)
「改革脳」とでも言いたくなる、「改革」推進派弁護士の、ある意味、個人的な勘違いとして片付けることもできそうですが、ここにも町弁という業態への前記冷淡さの一端を見る思いがします。冷淡さを支えているものが、こうした「改革脳」であると括ることもできそうですが。
改めて言うまでもなさそうですが、司法試験に合格して、インハウスや他の職業につくことになることを、頭から多様な選択肢が増えた、志望者にとって、よかったことと捉えることには無理があります。「なれる」のでなく、町弁という独立開業型の業態が経済的に苦しく、安定やライフ・ワークバランスを求めるがゆえに、むしろ「ならざるを得ない」事情があるというべきです。
社会の多くの人は、弁護士という仕事に、依然、町弁のような独立資格をイメージしていますし、志望者のなかにも、司法試験後の未来に、そうした自分の姿を思い描いている人が少なからずいるはずです。そこには、この現実との大きな開きが存在しています。
そして、それは前記武本弁護士のツイートに対する、弁護士のコメントの中の表現にもありましたが、独立開業型の喪失という意味においても、弁護士の業態としては、弁護士会主導層や「改革」派の表向きの意に反し、「退化」あるいは「劣化」という言葉がふさわしいという気がしてしまうのです。
地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
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弁護士増員政策の失敗は、明らかに町弁を生きづらい存在にさせ、さらに長年当たり前のようにこの国に定着していたといえる、独立開業型の弁護士の業態を根底からぐらつかせることになりました。そして、いまや旧来の発想で、この業態を目指すのであれば、今まで以上に「起業」の発想とスキルが求められるということも、業界内で盛んに言われるようになっています。
これは、一部メディアにもエリート資格の没落として、度々取り上げられ、その一方で、そのしわ寄せとしての弁護士の不祥事が、エリートのモラルハザードとして社会に注目されることになりました。多発する預かり金着服型の不祥事の多くは、前記「改革」によって経営を直撃された町弁の「悪事」として、社会に伝えられることになりました。
もちろん、どんな理屈を立てても許されることではありませんが、この預かり金着服型の不祥事が、とりわけベテラン層にみられる理由の根底には、かつての町弁の経済的安定の下では、後の報酬で十分補填できた(成功体験も含め)ことによる気の緩みから、目がくらんだという現実があることを、実は多くの同業者が知っています。
現実に堪え切れないほどの倫理感レベルといえば、それまでであり、淘汰されて当然で片付けられることかもしれません。しかし一方で、これもまた、前記負の影響の末端で起きた、町弁の一つの現実として記憶する必要はあります。
司法改革のバイブルである司法制度改革審議会意見書のどこをみても、この町弁への負の影響を懸念したり、それを回避しようとするような発想は見られませんし、まして、その存在をこれからの弁護士のあり方として直接的に軽視しているような論調は、もちろん、どこにも見当たりません。
軽視どころか、同意見書は、弁護士のあり方について、こう言っていました。
「弁護士は、国民の社会生活や企業の経済活動におけるパートナー、公的部門の担い手などとして、一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在となるべく、その資質・能力の向上、国民との豊かなコミュニケーションの確保に努めなければならない」
これを読むと、いつも奇妙な気持ちになるのは、「国民の社会生活」において、「一層身近で、親しみやすく、頼りがいのある存在」を弁護士に求めるのであれば、真っ先に保護、あるいは育成されるべきは、これまで主にそれを担ってきた町弁という存在ではないか、という気持ちにさせられるからです。
ひとえに弁護士増員政策の失敗、つまり増員弁護士を吸収し得るほどの、町弁が担う経済的需要が、この国に存在しなかった、そこを見誤ったということで片付ける人もいると思います。それは事実ですが、これまでの弁護士のこの業態の、いわば実績を考えた時、弁護士業に対して、のみならず、その需要の受け皿そのものに対して(代わりの受け皿の現実的な充足度も含め)、あまりにこの「改革」が、町弁の現実に冷淡なように思えるのです。
そして、さらに奇妙な気持ちにさせるのは、この現実を最も理解しているはずの、弁護士会主導層や「改革」推進派が、やはりこのことに冷淡にみえることです。彼らの主張を大きく括ってしまえば、ひたすらこの現実を受けとめて個々の弁護士でなんとかしろ、と言う丸投げ論か、古いスタイルとして訴訟偏重が原因として、それをひたすら批判するか、生存バイアス的に成功例にスポットを当て、「やれている人はいる」論を展開するか、さらにいってしまえば、まるで町弁そのものを、もはや将来性がない古い業態とするかのごとく、組織内弁護士や企業弁護士のニーズと将来性を強調する、いわば「転身論」を持ち出すか――。
長い実績があるはずの町弁という弁護士の業態を、保護・維持しようとするようなベクトルの話が、あまりに聞かれない印象を持ってしまうのです。
最近、こんな弁護士のツイートが、一部業界関係者の間で話題となりました。
「74期修理生歓迎会で司法改革マンセーの超ベテラン弁護士が『今は良い。昔は司法試験に受かっても弁護士になるしかなかったが、今はインハウスや他の職業なれるから、羨ましい』って挨拶してたけど、今の人は『ヤッター、司法試験に受かったし、法曹以外の仕事に就ける!』ってそんな感じ!?」(武本夕香子弁護士のツイート)
「改革脳」とでも言いたくなる、「改革」推進派弁護士の、ある意味、個人的な勘違いとして片付けることもできそうですが、ここにも町弁という業態への前記冷淡さの一端を見る思いがします。冷淡さを支えているものが、こうした「改革脳」であると括ることもできそうですが。
改めて言うまでもなさそうですが、司法試験に合格して、インハウスや他の職業につくことになることを、頭から多様な選択肢が増えた、志望者にとって、よかったことと捉えることには無理があります。「なれる」のでなく、町弁という独立開業型の業態が経済的に苦しく、安定やライフ・ワークバランスを求めるがゆえに、むしろ「ならざるを得ない」事情があるというべきです。
社会の多くの人は、弁護士という仕事に、依然、町弁のような独立資格をイメージしていますし、志望者のなかにも、司法試験後の未来に、そうした自分の姿を思い描いている人が少なからずいるはずです。そこには、この現実との大きな開きが存在しています。
そして、それは前記武本弁護士のツイートに対する、弁護士のコメントの中の表現にもありましたが、独立開業型の喪失という意味においても、弁護士の業態としては、弁護士会主導層や「改革」派の表向きの意に反し、「退化」あるいは「劣化」という言葉がふさわしいという気がしてしまうのです。
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