「人権」「反権力」イメージに対する目線の変化
市民の弁護士イメージとして、「人権」とか「反権力」が登場するのは一般的なものであっても、いまやそれを結び付けて語られる多くの場合が、弁護士に対する否定的な文脈である、という現実があります。ネット空間では、それが顕著に表れています。
その傾向をあえて分類するならば、一つには「欺瞞性」の批判。つまり、「人権(派)」や「反権力」を掲げているはずの弁護士が、それに反する立場で活動しているとして批判的に取り上げ、いわばそれらのイメージがお飾りであるというものです。弁護士は他のサービス業同様、結局、経済的目的つまりカネで動いているのに、あたかもこうした目的で動いているように偽っている、というニュアンスが込められたりもしています。
もう一つは、「偏向性」への批判。弁護士が党派性やイデオロギーによって、公正さや法的な正当性よりも、「人権」「反権力」を優先させている、という捉え方で、法的に妥当な紛争解決よりも、政治的にそれらが目的化しているといった批判にとれるものです。いわば法律家である以前に、政治的な活動家であるのだ、と。
もっともかなり以前にも取り上げましたが、こうした傾向は、最近始まったものではありません。ソ連の崩壊、55年体制の終焉、民主党政権の「失敗」などが、前記のような立場に対する、社会の感性や目線を徐々に変えた、という分析もできるかもしれません。
しかも、社会一般のみならず、当の弁護士界内にもそういう傾向が生まれたという見方ができます。前記55年体制の崩壊とともに、弁護士会内の人権派を占めていた、いわゆる革新系の弁護士の発言力が低下したことや、司法改革の路線をめぐり「人権派」が分裂したことなどが影響したという指摘があります。「改革」を契機に、「人権派」が弁護士会内で本道というイメージではなくなり、それまで肩身の狭かった「ブル弁」(ブルジョア弁護士 )が台頭し、企業・渉外弁護士が弁護士の花形のように扱われるようにもなりました。
司法改革に対して、あくまで主体的に関与することを優先させた弁護士会主導層は、いわゆる「オールジャパン」体制に組み込まれていった、権力、体制との位置取りのなかで、逆にこれまで掲げた「人権(派)」や「反権力」の旗が、ぼやけてしまうことに、ほとんど危機感を持っていなかった(あるいは今も持っていない)というべきです(「変化した『人権派』という称号」 「『反権力』が時代遅れ扱いされる先」)。
「改革」が弁護士に対して、多数派市民のニーズと向き合うサービス業としての自覚を求めるものになるほどに、社会的な目線も弁護士の自覚においても、かつて当たり前のように肯定的なイメージとして通用した「人権派」や「反体制」への理解の仕方の根本も変化していったようにもとれます。
さらに現実的なことを言えば、「改革」は弁護士にとって、経済的により厳しい状況を突き付けることになった結果、採算性を生存のために、あるいは「改革」が導いたサービス業として追及することは、もはや当然であるという感覚は弁護士の中に広がり、「人権派」「反体制」というスタンスによそよそしいものを感じる(必ずしも否定的ということではなく)向きは増えたようにとれます。
一方で、サービス業化を導いた「改革」の旗を振りながら、その会活動にあっては、「人権」に対する旧来からのスタンスを維持するようにみえる、強制加入の弁護士会に対しても、弁護士会員がよそよそしさと厳しい目線を向け出すことにもなったといえます。
つまり、ここで何が言いたいかといえば、司法改革とそれに対する弁護士会のスタンスは、おそらく会内で「改革」を主導した方々が予想しない形で、社会においても会内においても、「人権」や「反体制」への目線に少なからず影響したととれるということなのです。
このことは、根源的なテーマを弁護士・会に突き付けているというべきです。それは、社会の少数派にとっての「価値」ということです。弁護士が、刑事裁判において、人権侵害事件、少数者への不当な扱い・弾圧の局面でこそ、理解される「価値」を引き受ける仕事でもあることに変わりはありません。その「価値」は必ずしも社会の多数派に理解されるわけではなく、当事者である少数派になってはじめて理解する「価値」かもしれないのです。
つまり、その観点からみれば、弁護士は場合によっては、冒頭の「欺瞞性」や「偏向性」への批判を乗り越え(つまりサービス業としての経済的自立もあるし、たとえ政治的との批判を浴びようとも)、多数派とは孤立無援の闘いを貫かなければならない。そして、弁護士自治の本質的価値もそのためにあるというべきかもしれない――。
従って、この観点からすれば、そもそも多数派市民の理解には必らずしも立脚できないし、それにすり寄るべきべきでもないはずなのです。「改革」の「バイブル」とされることになる司法制度改革審議会意見書と同じ年に出された、「市民の理解と支持」に立脚する弁護士自治を打ち出した2001年の日弁連総会決議の問題性とつながるテーマです(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」)。
弁護士自治をめぐる意見も同様ですが、社会の少数派にとっての「価値」にこだわる「人権」や「反権力」死守の姿勢に対する冷ややかに聞える弁護士会内の意見の中にも、まさに時代遅れのように言う積極的不要論もあれば、むしろ旧来からのその「価値」を認めながら、この状況では不要論が台頭しても仕方がないというような、消極的不要論といえる声もあります(「『いらない』論の深層」)。
まず弁護士会主導層は、何がこの変化を生み、その先に何をこの社会と弁護士が完全に失う可能性があるのかを、改めて考える必要があるはずです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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その傾向をあえて分類するならば、一つには「欺瞞性」の批判。つまり、「人権(派)」や「反権力」を掲げているはずの弁護士が、それに反する立場で活動しているとして批判的に取り上げ、いわばそれらのイメージがお飾りであるというものです。弁護士は他のサービス業同様、結局、経済的目的つまりカネで動いているのに、あたかもこうした目的で動いているように偽っている、というニュアンスが込められたりもしています。
もう一つは、「偏向性」への批判。弁護士が党派性やイデオロギーによって、公正さや法的な正当性よりも、「人権」「反権力」を優先させている、という捉え方で、法的に妥当な紛争解決よりも、政治的にそれらが目的化しているといった批判にとれるものです。いわば法律家である以前に、政治的な活動家であるのだ、と。
もっともかなり以前にも取り上げましたが、こうした傾向は、最近始まったものではありません。ソ連の崩壊、55年体制の終焉、民主党政権の「失敗」などが、前記のような立場に対する、社会の感性や目線を徐々に変えた、という分析もできるかもしれません。
しかも、社会一般のみならず、当の弁護士界内にもそういう傾向が生まれたという見方ができます。前記55年体制の崩壊とともに、弁護士会内の人権派を占めていた、いわゆる革新系の弁護士の発言力が低下したことや、司法改革の路線をめぐり「人権派」が分裂したことなどが影響したという指摘があります。「改革」を契機に、「人権派」が弁護士会内で本道というイメージではなくなり、それまで肩身の狭かった「ブル弁」(ブルジョア弁護士 )が台頭し、企業・渉外弁護士が弁護士の花形のように扱われるようにもなりました。
司法改革に対して、あくまで主体的に関与することを優先させた弁護士会主導層は、いわゆる「オールジャパン」体制に組み込まれていった、権力、体制との位置取りのなかで、逆にこれまで掲げた「人権(派)」や「反権力」の旗が、ぼやけてしまうことに、ほとんど危機感を持っていなかった(あるいは今も持っていない)というべきです(「変化した『人権派』という称号」 「『反権力』が時代遅れ扱いされる先」)。
「改革」が弁護士に対して、多数派市民のニーズと向き合うサービス業としての自覚を求めるものになるほどに、社会的な目線も弁護士の自覚においても、かつて当たり前のように肯定的なイメージとして通用した「人権派」や「反体制」への理解の仕方の根本も変化していったようにもとれます。
さらに現実的なことを言えば、「改革」は弁護士にとって、経済的により厳しい状況を突き付けることになった結果、採算性を生存のために、あるいは「改革」が導いたサービス業として追及することは、もはや当然であるという感覚は弁護士の中に広がり、「人権派」「反体制」というスタンスによそよそしいものを感じる(必ずしも否定的ということではなく)向きは増えたようにとれます。
一方で、サービス業化を導いた「改革」の旗を振りながら、その会活動にあっては、「人権」に対する旧来からのスタンスを維持するようにみえる、強制加入の弁護士会に対しても、弁護士会員がよそよそしさと厳しい目線を向け出すことにもなったといえます。
つまり、ここで何が言いたいかといえば、司法改革とそれに対する弁護士会のスタンスは、おそらく会内で「改革」を主導した方々が予想しない形で、社会においても会内においても、「人権」や「反体制」への目線に少なからず影響したととれるということなのです。
このことは、根源的なテーマを弁護士・会に突き付けているというべきです。それは、社会の少数派にとっての「価値」ということです。弁護士が、刑事裁判において、人権侵害事件、少数者への不当な扱い・弾圧の局面でこそ、理解される「価値」を引き受ける仕事でもあることに変わりはありません。その「価値」は必ずしも社会の多数派に理解されるわけではなく、当事者である少数派になってはじめて理解する「価値」かもしれないのです。
つまり、その観点からみれば、弁護士は場合によっては、冒頭の「欺瞞性」や「偏向性」への批判を乗り越え(つまりサービス業としての経済的自立もあるし、たとえ政治的との批判を浴びようとも)、多数派とは孤立無援の闘いを貫かなければならない。そして、弁護士自治の本質的価値もそのためにあるというべきかもしれない――。
従って、この観点からすれば、そもそも多数派市民の理解には必らずしも立脚できないし、それにすり寄るべきべきでもないはずなのです。「改革」の「バイブル」とされることになる司法制度改革審議会意見書と同じ年に出された、「市民の理解と支持」に立脚する弁護士自治を打ち出した2001年の日弁連総会決議の問題性とつながるテーマです(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」)。
弁護士自治をめぐる意見も同様ですが、社会の少数派にとっての「価値」にこだわる「人権」や「反権力」死守の姿勢に対する冷ややかに聞える弁護士会内の意見の中にも、まさに時代遅れのように言う積極的不要論もあれば、むしろ旧来からのその「価値」を認めながら、この状況では不要論が台頭しても仕方がないというような、消極的不要論といえる声もあります(「『いらない』論の深層」)。
まず弁護士会主導層は、何がこの変化を生み、その先に何をこの社会と弁護士が完全に失う可能性があるのかを、改めて考える必要があるはずです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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